【感想・ネタバレ】レヴィナス 「顔」と形而上学のはざまでのレビュー

あらすじ

本書は、近年ますます注目されるフランスのユダヤ系哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906-95年)の思想を正面から考察し、批判的に継承することを企てた意欲作である。
著者自身が「愚直にレヴィナスの中心的問題の批判的論究を試みた」と言うとおり、本書でなされているのはレヴィナスの2冊の主著『全体性と無限』(1961年)と『存在とは別様に、あるいは存在することの彼方へ』(『存在の彼方へ』)(1974年)を丹念に読み解き、その考察を厳密に検討する、という当たり前の営為である。そこで問われるのは「他者が「絶対の他」であると共に私に対し無制限に責任を求めるものだというが、それは具体的にはどういうことを意味しており、またそれが事象において確認できるものか」、そして「彼のこのような極端な責任理解が、レヴィナス個人の倫理的立場の表明にとどまらず、われわれの倫理の分析としてどういう意味をもつのか」、「彼が力点を置く言語の問題において現れる他者と無制限の責任を求める他者との間に矛盾はないのか」という本質的な点にほかならない。
第一の主著『全体性と無限』を厳しく批判する論文「暴力と形而上学」(1964年)を発表したジャック・デリダ(1930-2004年)の議論をも検討しつつ、「他者」をいかにして言語化するか、という問題をめぐって第二の主著『存在の彼方へ』への転回がなされた意味は何かが考察される。第一の主著に胚胎していた問題を、第二の主著は克服しえたのか――著者は、レヴィナスが十分に突きつめずに終わった問題を「ケア」の理論を用いて発展させ、批判的な継承を試みる。この企てを通じて、レヴィナスの思想は今日を生きる私たちにとって生きた意味をもつようになる。
本書の原本が刊行されてから現在までの20年間に、レヴィナスの主要著作はほぼすべて日本語訳され、『全体性と無限』についても新訳がなされるようになった。進展する研究状況の中でも、本書は常に参照されるべき準拠点として、すでに「古典」の地位を確立したと言える。学術文庫として生まれ変わったことで、本書は輝きを放ち続けることだろう。

[本書の内容]
第I部 「顔」と形而上学──『全体性と無限』
第一章 「顔」──輪郭の描写
第二章 「選 び」
第三章 「同」と「他」
第四章 デリダの批判──「暴力と形而上学」
第五章 「教え」──倫理と学
第六章 「他」の言表──デリダの批判再び

第II部 方法の先鋭化──『存在の彼方へ』
第七章 「他」を語ることの困難──『存在の彼方へ』に向けて
第八章 絶対他把握の方法的問題
第九章 「感受性」と「語ること」
第十章 「顔」から「正義」へ
第十一章 レヴィナスへの批判と顔の倫理学の可能性

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Posted by ブクログ

ネタバレ

著者は「強迫」の概念を失敗とみなしていたけれど、僕としては形而上学的倫理と道徳的倫理に乖離があるのは当然で強迫の概念も形而上学的倫理にだけ適用する分には有効なんじゃないかと思った。
形而上学の範囲では、私は、一人の他者と対峙するとき、エレメントに対する感受性の層で、痕跡としての顔を介して選びを受け完全に受動的に強迫的に応答責任を果たす。そこに第三者が介入すると複数の他者に対して同時に責任を履行する必要が生じ、絶対的他性を持つ他者を他から同へと還元して複数他者への責任を公平に分配する正義への飛躍が生じる。この飛躍は個人の主観および一人の他者との間主観から客観性や知への飛躍に通ずる。
ハイデガーが、現存在が存在の機制の中心に座して対象を道具として目的を以て利用することで意味付与を行い主観的世界を構築するとし、存在を第一原理に置いたのに対し、レヴィナスは、私と他者の非対称的な倫理を第一原理として、倫理のうえに対象化および存在が現出するとした。
実践的な道徳的倫理の範囲では、飛躍後の客観性や理性の層が現場であり、受動性の極である強迫はもはや問題とならない。ここでは、他者の狭義の対象化は避けられず、他者の他者性をいかに保って接するかという実践が問題となる。顔を介して他者を受容し、原理的な正義より隣人との関係を尊重し、その個別の特殊な倫理を守るために普遍的正義を更新し続ける、顔と正義の緊張関係に基づく倫理が望まれる。

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2025年09月14日

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