【感想・ネタバレ】最高の映画を書くためにあなたが解決しなくてはならないことのレビュー

あらすじ

世界で最も読まれているシド・フィールドの脚本術シリーズ最新刊、待望の邦訳!

映画脚本だけでなく、テレビドラマ、演劇、マンガ、アニメ、小説、二次創作など、"物語"を書くすべての人がぶつかる問題を明確にして、具体例から解決に導く究極の指南書が登場!!

「行き詰まったとき、
にっちもさっちも行かなくて投げ出したくなったときに、
この本は役に立つ。
プロの脚本家のための教則本。」
———山田洋次(映画監督)推薦!

「始めはゆっくりとペースを溜めておきラストは一気呵成クライマックスへと傾れ込み、お客の喝采を呼び込む。
この僕もいつもそのように演出しているから、大いなる共感をもって読み進んだ。」
———大林宣彦(映画作家)推薦!

世界22ヶ国語で翻訳され、全米400以上の学校でテキストとして採用されている 『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』、著者のシド・フィールドが世界中で開催したワークショップをもとに作られた実践書 『素晴らしい映画を書くためにあなたに必要なワークブック シド・フィールドの脚本術2』 を経て、問題を自分で認識し、自分で解決するための方法を学ぶ第3弾待望の刊行です。

映画のシナリオ創作術として、1979年に著者によって理論化された「三幕構成」をもとに、往年の名作『パルプ・フィクション』『ショーシャンクの空に』『テルマ&ルイーズ』『羊たちの沈黙』『クリムゾン・タイド』を徹底的に紐解くことで、そこに共通する問題解決法を抽出し伝授します。完成された映像作品から遡り、どのように脚本で表現されているか、クオリティを高めるために何をどうすべきかを具体的に学ぶことができますので、できればこの5作品は観てから読むと、効果絶大です!

「書くことは書き直すこと」という古いことわざの通り、本書は物語を創作するすべての人の作品を「名作」にするためのズバリ道標となるでしょう。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

 脚本に問題があると単純に思ってしまうと、パニックになることがある。それは非常に恐ろしい経験だ。私は世界中で脚本セミナーやワークショップを行ってきたが、どこに行っても同じことを耳にする。脚本家たちは、「構成が機能していない」「キャラクターが弱い」「、または「台詞がフラット」と言う。
 でも、私は彼らに言う。「大丈夫。必ず解決する」
 彼らは私がからかっていると思って笑う。でも私は冗談を言っているのではない。
 ほとんどの脚本家にとって恐ろしいのは、脚本に問題があるかないかではなく、問題点の本質が何であるかを知らないことだと思う。彼らはそれを明確にすることも説明することもできない。それは、曖昧な違和感、不明な不満、わだかまり、のどの棘としてのみ存在する。
 受講生は、そこに問題があることを感じた。ただ、それが何であるか分からなかった。問題解決の技術は、そういうはっきりしない感情を認識して、問題の原因解明に導くガイドにすることを意味する。問題解決の技術は、〝認識の芸術〟だ。

 脚本を書くことは、非常に特殊で要求の厳しい芸術であり、シーン、シークエンス、またはキャラクターのいずれかが機能しない場合、ページ全体に長い影を落とす。それは後になって本格的な問題に発展する種になる。そのため、これらの症状が発生したときには、それをキャッチしてメモすることが重要だ。
 問題があると感じるのに、それを説明したりできない場合、それを修正するすべはない。それは自然の法則だ。何が問題かわからないままでは、修正はできない。

 だから問題は何か? 機能していないと思われるページを読み、問題を取り出したり、明確にできるかどうかを確認しなさい。たぶん、あなたの物語は一定方向のアクションに沿うのではなく、一度にあちらこちらの方向に行ってしまう。あるいはあまりにも多くのことが主人公に起こっている。主人公のパートナーについてもっと説明した方がいいと思い、パートナーに関するいくつかのシーンを書きすぎると、ストーリーの邪魔になるサブプロットを作成してしまう。また、悪い男が〝悪者〟であることを示したくて、彼がどれほど悪いかを示すシーンを追加し続けてしまう。
 それは『ダイ・ハード3』で起きたことだ。ストーリーを〝埋める〟には簡単な方法だが、邪魔になるだけだ。他の登場人物に多くの時間を費やすことで、最終的に主人公を失うことになり、あなたのストーリーはおそらく同時にいくつかの方向に行ってしまう。致命的な問題は、主人公にフォーカスできなくなることだ。すると、あなたの物語が誰についての話なのかまったく分からなくなる。

 問題点を探すことができるものは、プロット(筋立て)、キャラクター(登場人物)、構成の三つだけだ。
 これら三つの中にだけ、問題は存在する。ストーリー全体はこれら三つに分解でき、問題解決プロセスの中心つまり手段になる。脚本の問題(脚本が長すぎて語り過ぎ、アクションが多すぎて十分なキャラクターが足りない、キャラクターが多すぎてアクションが足りないなど)を見ると、問題が何であれ、すべてがプロット、キャラクター、あるいは構成に起因する。

 原則として、問題の原因を見つけるには、1ページ目、最初の一文字目から検索し始める必要がある。これを行い、素材を分析すると、いくつかのことに気づく。たとえば、登場人物が多すぎたり、主人公が誰なのか、誰の物語かがわからない。脚本が語り過ぎで、視覚的なイメージよりも台詞や説明でアクションを進めているように感じる。あるいは、これまたよくあることだが、物語の焦点が途切れ途切れで、ずさんで、支離滅裂なので、何の話かわからない。
 もう一度見てみると、情報が多すぎて、物語が非常に速く動き、何が起きているのか意味不明になっていることに気づくだろう。
 以上のすべての要素は、物語の相当早い段階で情報過多になっている兆候だ。多すぎると早すぎてしまう。その結果、キャラクターへの十分な掘り下げや洞察がなく、物語の中で十分な葛藤やドラマが生まれない。そしてこれは間違いなく問題だ。
 ある問題の原因や源を探したい場合は、ほとんどの場合、第一幕、より具体的には、脚本の最初の10ページに見つけることができる。
 良い脚本は、1ページ目、一文字目から設定されている。第一幕は、オープニングシーンから始まり、プロットポイントⅠまで続く劇的なアクションのユニットだ。これは、状況設定と呼ばれる劇的な文脈と一緒に示される。なぜなら、物語のすべての要素、登場人物、劇的な前提と状況、これらの間の関係は、この特定の劇的なアクションのユニット内で確立されなければならないからだ。
 第一幕は、物語のすべての要素を慎重に統合し、設定しなければならないアクションのユニットだ。一連のアクションにおけるすべてのすべての事件や出来事は、第一幕の終わりにある、物語の真の始まりとなるプロットポイントⅠへと直接導かれなければならない。
 脚本が正しく設定されていないと、ストーリーラインにキャラクターや出来事を追加し続けて、より速く動くようにする傾向がある。すると、物語は、本質と奥行の層を突き抜けることなく、アクションの表面を上滑りし、陳腐で、嘘っぽくありきたりな感じになってしまう。
 なぜこれが起こるのか? 多くの作家が十分な準備なしで脚本にアプローチしているようだ。彼らは、脚本を書き始めたくてたまらないので、アクションとキャラクターの関係を探求し、開発する時間を取らない。だから、彼らは実に小さな情報の核から、第一幕の道筋を決めてしまう。彼らの時間の大部分は、ストーリーが何であり、次に何が起こるかを理解しようとするのに費やされる。だから、彼らは第一幕でできる限り多くのストーリーポイントを捨てて、ストーリーが現れてくれることを願う。
 それでは上手くいかない。種子は植えられても、必要な栽培、水分補給、栄養が与えられていない。作家は最初の10ページで自分の物語を語るが、その後見失い、次に何をすべきか分からなくなる。
 脚本作成プロセスには準備とリサーチが不可欠だ。誰が主人公なのか、何がドラマ上の前提か――何の話なのか――そして何がドラマ上の状況か――アクションを取り巻く状況、これらを理解し、しっかりと明確にするのは脚本家の仕事なのだ。物語を十分に理解していなかったり、必要なリサーチを行うのに十分な時間をかけていなかったりすると、ストーリーをうまく機能させたいがために、多くの出来事や事件を挿入するリスクを犯す。そうすると、脈絡のない物語になる。ことはまったくうまく運ばないものだ。
 ストーリーラインが薄すぎて、もっと多くの〝プロット〟を見つける必要があるため、時に問題が発生することがある。しかし、解決しようとして、より興味深い事件や登場人物を作成して脚本に挿入するのは違う。さらに多くの〝出来事〟を起こしたり、さらに多くの障害に直面させることは、問題を拡大させる以外の何ものでもない。
 この問題は、多くの場合、テンポが良く挑発的なスタートで脚本を始めたいとする作家の衝動に起因することが多い。読み手や観客の関心を引くためのページが10ページしかない場合、ストーリーは読み手の興味をより集めようとする傾向がある。そして、多くの場合、それは劇的なアクションのたった10ページのユニットに、登場人物たち、彼らの障害、および他の人物との関係をすべて盛り込んでしまう。
 それは多すぎるし早すぎる。過ぎたるは及ばざるが如しだ。

 視点は葛藤を引き起こす。
『クリムゾン・タイド』の脚本全体は、2人の世界観を中心に構成されている。物語の中で、ロシアの反乱軍がミサイル基地を占拠し、核弾頭を搭載したアメリカの潜水艦アラバマが送られる。〝先制攻撃〟で戦争を開始するか、または発射される可能性のあるロシアのミサイルに対する報復か。
 ジーン・ハックマン演ずる艦長は、「戦争は政治の延長である」と信じており、たとえそれが核による大虐殺を意味するとしても、指令に従うのが彼の義務なのだ。一方、デンゼル・ワシントン演ずる副艦長は、核兵器のせいで、戦争は時代遅れで古臭い考えだと信じている。戦争の目的は勝つことであり、双方が核兵器を発射すれば、敗者だけであり、〝勝者〟は存在しない。戦争はもはや実行可能な選択肢ではない。
 アラバマがロシアの反乱軍に対する先制攻撃を開始する緊急指令を受けた、まさにその時だ。武器を発射する準備をしていると、新たな緊急指令が受信中に中断してしまう。指令は何と言っているのか? 彼らは最初の指令に従い続け、最初の攻撃を開始する必要があるのか? それとも、最初の指令を確認または拒否するために発射を遅らせるか?
 これら二つの異なる視点、信念は、脚本を転がす葛藤を生む。古典的なヘンリー・ジェームズによれば、どちらの視点も登場人物の枠組みの中にある。正解・不正解も、善・悪もない。偉大なドイツの哲学者ヘーゲルは、悲劇の本質は、〝正解〟対〝不正解〟、または〝悪〟対〝善〟の対立ではなく、双方が正解であることから生じるものだと主張した。そしてこの物語は、〝正解〟対〝正解〟の対立になるという論理的な結論に達する。
『クリムゾン・タイド』の登場人物2人ともが、内なる真実を知覚する感覚から行動する。艦長は、最初の指令に従うべきだと主張する。副艦長は、完全に受信されていなくても二番目の指令は最初の指令を覆すものだから、先生ミサイルを発射する前に確認すべきだと主張する。彼らの行動は、彼らの視点、彼らの世界観によって決定されるので、いずれが正解でも不正解でもない。

 登場人物が語りすぎだと感じたり、会話が具体的すぎたり、直接的すぎたり、登場人物にメリハリがなく単調で、素材にキレがなく退屈な場合にアプローチする方法がいくつかある。
 一つずつ確認して行こう。脚本にキレがないと思われる場合は何ができるか? 台本が過度の台詞でちまちまとしていないか? 事件や出来事の展開に時間がかかりすぎていないか? 説明がくどすぎて物語の流れをたどるのが難しくないか? これらはすべてキレのない書き方をしている徴候だ。あなたは何ができるか?
 まず、書き方を変更する。完璧で文学的な文章を書こうとしていないことだ。短く記述的な一節、多分一単語の文章に焦点を当てることだ。そこで単語は、読み手に彩とユーモアを強調するために使われる。シェーン・ブラック(とりわけ『リーサル・ウェポン』、『ロング・キス・グッドナイト』)は、彼の作品にダイナミックで想像力豊かな文章を使用している。例えば、車が、他の車の間をすり抜け、歩行者を蹴散らして歩道を走り抜けるカーチェイス・シークエンスでは、車どうしが擦れ合う。そして、彼がそれを記述する方法は、短く、視覚的で、簡潔だ。「車のペンキを塗りなおせ」。それは追跡のスリルを伝える素晴らしい方法だ。

 脚本を読んだり、映画を見たりするとき、私は、今では構成にはさして注意を払わない。素材をサッと流す程度だ。脚本や映画が正しくないと感じる場合や、何らかの問題があると思われるような場合には、素材を調べて構造的に分析する。私は、ストーリーラインの特定のリズムで構造を認識できる。
 私は常々、脚本家の仕事は、読み手にページをめくり続けさせることだと思っている。なので、行き詰って読み続けられなくなった場合、それは構造的に何か間違っている可能性がある。ストーリーラインをたどることができない場合、彷徨っていたり、何かが欠落しているように見えたり、あまりにも多くのことが起こっているか、あまりにも多くの登場人物がいる場合、ヤマ場が何もない場合、それは何かが間違っている徴候だ。それはまさに構成パーツに分解すべきときだ。

 緊張感を保ち、読み手にページをめくり続けさせるために、ゆっくり入って早く切り上げる。それが脚本だ。
 シーンに入るポイントに注意を払わないと、脚本がたるんだり、長すぎたりして、緊張感やサスペンス感が失われる可能性がある。その場合、機能しない脚本に打ちのめされるだろう。これは、さして珍しいことではない。私は非常に長い脚本を何度も受け取ったが、優に150ページを超え、素材を調べてまず気になるのは、通常、脚本家があまりにも早くシーンを始めたため、「元気? また会えて嬉しいよ。座らない? どうしたの?」といったような、無駄な会話で埋めなければならなかったことだ。
 いつ、どこで、シーンに入るかは、脚本の特定の瞬間を構造化するために設定する際の中心的な問題だ。そのためには、一定の質問を自問すべきだ。シーンの目的は? なぜそこか? それは物語を前に転がすのか? それは登場人物に関する情報を明らかにするのか? それは説明やトランジション(推移)の必然性によって動くのか? これらの質問に対する回答をあなたができずして、誰ができるのか?

 皆の提案に従えば、提案に従うだけ、それはもはやあなたの脚本ではない。その時点で、それは誰の脚本でもない。
 変更後の脚本は、あなたの最初の意図からずっと遠いところに行ってしまい、それはあなたの脚本でも彼らのものでもない。彼らの提案が正しいと感じ、間違いないと思う場合は、それらを使用しなさい。しかし、彼らが間違っていると思い、彼らの提案があなたの物語に機能しないと思った場合は、使用してはいけない。機能するかしないか、いずれであれそれは本当に単純だ。少なくとも理論的には。

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2024年10月28日

Posted by ブクログ

シーンが物語を前進させる
主人公についての情報を明らかにする
ストーリーと登場人物についてのこれら2つの要素は、あらゆるシーンで視覚的に提供されるべき

whyではなく、whatで始まる自由エッセイを書く
what(何が)という言葉で始めることは、具体的な回答をもたらす
何が問題と思うか?

問題点があるのは、プロット(筋立て)、キャラクター、構成の3つだけ

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2020年01月31日

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