あらすじ
衝撃の読書体験! SNS、ネットで話題沸騰!! 2019年 第17回 開高健ノンフィクション賞受賞作。「2020年Yahoo!ニュース 本屋大賞 ノンフィクション本大賞」「第19回 新潮ドキュメント賞」「第42回 講談社 本田靖春ノンフィクション賞」「第51回 大宅壮一ノンフィクション賞」各賞ノミネート!
犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」。性暴力に苦しんだ経験を持つ著者は、彼らと寝食をともにしながら、人間にとって愛とは何か、暴力とは何か、考察を重ねる。そして、戸惑いつつ、希望のかけらを見出していく──。
【開高賞選考委員、驚愕!】
・「秘境」ともいうべき動物との性愛を通じて、暴力なきコミュニケーションの可能性を追い求めようとする著者の真摯な熱情には脱帽せざるをえなかった。――姜尚中氏
・この作品を読み始めたとき、私はまず「おぞましさ」で逃げ出したくなる思いだった。しかし読み進めるにしたがって、その反応こそがダイバーシティの対極にある「偏見、差別」であることに気づいた。――田中優子氏
・ドイツの「ズー」=動物性愛者たちに出会い、驚き、惑いながらも、次第に癒やされていく過程を描いたノンフィクションは、衝撃でもあり、また禁忌を破壊するひとつの文学でもある。――藤沢周氏
・人によっては「#Me Too」の「先」の世界の感性があると受け取るのではないか。この作品を世間がどのように受容するのか、楽しみである。――茂木健一郎氏
・多くのファクトに翻弄された。こんな読書体験は久しぶりだ。――森達也氏
(選評より・五十音順)
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Posted by ブクログ
うーん面白かった。セックスやセクシュアリティについて考えていたことと交差して、思考が刺激され続けた。これはおすすめ。
人間のセクシュアリティやセックスに善悪はつけようがない、と私は思っている。人々が求めるセックスの背景には、さまざまな欲求がうごめいている。…考えるべきは、人間の本能的な部分が社会とのかかわりのなかでどのようにして齟齬をきたすかということ、また、社会の一部分であるはずの私自身が、なぜ特定の性的実践を受け入れられないのかということだ(p.29)
…相手のパーソナリティは自分がいて初めて引き出されるし、自分のパーソナリティもまた、同じように相手がいるからこそ成り立つ。つまり、パーソナリティとは揺らぎがある可変的なものだ。相互関係のなかで生まれ、発見され、楽しまれ、味わわれ、理解されるもの。…背景にともに過ごした時間、すなわち私的な歴史があって、その文脈のなかで想起されるものが、パーソナリティではないだろうか。…人間同士の関係であってもキャラクターとは異なるパーソナリティが生じていることに気付かされる。誰かにとって、ある誰かが特別なのは、共有した時間から生まれるその人独特のパーソナリティに魅了されるからだ。それが揺らぎ続け、生まれ続けるからこそ、私たちはその誰かともっと長い時間を過ごしたくなる。そして同時に、その人といる間に創発され続ける自分自身のパーソナリティにも惹かれる。(p.65)
セックスを誘導することはすなわち動物をセックス・トイのように扱うことであって、それはズーとして許されない行為だと彼らは考えている。そんなことをすれば、動物との対等性が一瞬にして崩れ去るからでもあるのだろう。
…「そうだね、僕たちは対等だった。お互いにセックスをしたいと思った。YESとNOを互いに表明し、受け入れ合うことができた。そういう意味でその犬と僕は対等だったよ」(p.91-92)
果たしてセックスに誘導することはトイのように扱うことと同義なのだろうか?それはグレーな境界線がある話なのだと思う。人間も同じではないか、誘導と誘惑、誘惑に乗ることは何が異なり、それは対等性の観点から問題があることなのか、私はどのような関係においても、対等なんていうものは幻想なのではないかと思ってしまう。それが与え与えられることが入り組み合うことでプラマイ均衡することはあるかもしれないにせよ。
性という生に欠くべからざる要素をも含めてパートナーを受け止めたい、とズーたちは言う。(p.97)
対等性とは、相手の生命やそこに含まれるすべての問題を自分と同じように尊重することにほかならない。対等性は、動物や子どもを性的対象と想定する性行為のみに問われるのではなく、大人同士のセックスでも必要とされるものだ。(p.104)
アクティブ・パートの男性は語りづらい。なぜならば、挿入するという行為に伴う自発性が、動物を傷つけることと同義と捉えられやすいから。パートナーが馬であればその可能性は低いから話しやすいという考察、なるほどだった。(p.158)
パッシブ・パートの人々がセックスに置いて得る最大の喜びは、支配者側の立場から降りる喜びだ。そのときにこそ、彼らが追求するパートナーとの対等性が瞬間的に叶えられる。
しかし皮肉なことに、パッシブ・パートが、性も含めてパートナーの存在を丸ごと受け入れる素晴らしさを満面の笑で語ることができるのも、性的ケアの側面を強調できるのも、彼らが自分のペニスの挿入を避けて、暴力性を回避しているからだ。彼らはペニスの暴力性から解放されることで、まるで自分自身もまったく暴力的でないかのように語ることができる。
だが、性暴力の本質がペニスそのものにあるわけがない。短絡的にペニスに暴力性を見出していては、セックスから暴力の可能性を取り去ることはできない。…性暴力の本質はもっと別のところにあり、それは性別や性器の形状とは根本的に無関係なはずだ(p.162)
言葉での合意さえあれば性暴力ではないと、いったいなぜ言えるだろうか。言葉を使う私たちは、言葉を重視すればするほどきっと罠にハマる。言葉は、身体からも精神からも離れたところにあるものだ。それは便利な道具だが、私たち自身のすべての瞬間を表現しきれない。言葉が織りなす粗い編み目から抜け落ちるものは、あまりにも多い。(p.174)
人間は動物との間に設けてきた境界を隔てて、「人」というカテゴリーを生きている。人間と動物のセックスは、その境界を撹乱する。ズーたちが提起しているのは、セックスとはなにかという問いだけではなく、人間とはなにかという問いでもある。(p.194)
セックスの本能が先にあってセクシュアリティが発生するとは限らない。セクシュアリティを考えるとき、セックスとセクシュアリティの位置を逆転させることも可能だ。「このようなセクシュアリティのために、このようなセックスを選び取る」と宣言してもよいのだ。(p.242)
※セクシュアリティを「セックスにまつわるあらゆること」と定義した上で。
ある人にとってズーとは、身近な動物をまるごと受け止めながら、共に生きるための新たな方法であり、ある人にとっては愛すべき恋人や犬を受容する方法であり、またある人にとっては政治活動であもある。(p.244)
彼らは真剣だった。セックスや愛を通して、望む生き方について彼らは語っていた。
ズーたちのセックスは、それ自体が目的ではなく、パートナーとの関係のなかで対等性を叶えるための方法にもなっている。…セックスが、人間と動物の対等性を一瞬でも叶える力を持つなどとは思ってもみなかった。永久に体現できないかもしれないとも思える対等性を、ズーたちはセックスの瞬間に手にしている。
あるいはそれは、夢かもしれない。だが、なんていい夢なんだろうと私は羨んでさえいる。彼らはその瞬間に愛とセックスを一致させる。支配する側から、そのときばかりは降りることが許される。愛する相手を「丸ごと受け入れる」喜びを得ながら、ズーたちは種の違いを乗り越え、パートナーとの対等性を叶えようとする。(p.255)
Posted by ブクログ
すごく良い本だった。
自らの性経験から入り調査経緯を順々に綴っていくので、だらだらした書き方と感じた。が、結果として不可欠な要素になった。このような経験をした筆者だからこそ、そう感じたしそんな考察になったのだと分かる。
「獣姦って何」「どんな人たちがするの」という当たり前の疑問。そこから、「性を知らぬ子どもの立ち位置」「主人とペット」「言葉を介さぬコミュニケーション」等の周辺事情へ目を向ける。更には「人間にとっての性行為とは愛とは」と進む。
斬新な切り口で、親密な関係性の築き方選び方について、真摯に見つめた一冊だと思う。
Posted by ブクログ
多様性という言葉が広く認識されるようになった昨今、その多様性がどれほどの幅をもってしてそう呼ばれるのか考えさせられました。私はズーフィリアという言葉を著書にて初めて知り、性愛の対象が言語能力の無い動物であるということに非常に驚きました。ゼータの人々の言う「動物が誘ってくる」という言葉への疑念はありつつも、否定も出来ないなと思いました。ノンフィクションならではの臨場感をひしひしと感じました。
Posted by ブクログ
愛ってなんなのか、より一層わからなくなる本だった。私は動物と触れ合う機会はあまりないので、完全に他人事として、興味深く読んだけれど。
めっちゃ面白かったし、未知との遭遇だったけれど、これはもう生理的に無理という人もいるだろうなと思う。
Posted by ブクログ
性や生に対する個々の考え方は十人十色で、国の文化や歴史、法律などが密接に関わっていて、ズーの知識への入り口がひらけた気がした。
でもパーソナリティを大切にすることや、お互いに愛を感じること、そして時には苦悩があることは、どんな性的指向でも何かを愛する限り変わらないことだと感じる。
マイノリティでもマジョリティでもさほど変わらない気がしてきた。
暴力性という視点は参考になった。
Posted by ブクログ
著者の経験から、動物性愛者というセクシュアルマイノリティを紐解いている。この本では動物性愛者をズーと呼んでいる。ズーであることを「動物の生を、性の側面も含めてまること受け止めること」と著者の調査や経験からまとめている。動物と対等な関係の先に、愛があり、性がある。当たり前のことなのにそれが全く議論されていない。偏見や偏った知識で批判することは簡単だ。しかし、著者やズーの人達のように、色んな考え方を独自の方法で理解しようと努め、行動することが大事だ。これには大きなエネルギーを要することがこの本から伝わってくる。そして、自分のアイデンティティ、セクシュアリティ、人間とは何かということを考えていく先には、自分が居心地が良く堂々と生きられる世界が待っているのではないかと感じた。ただ、私も完全にこのズーのことを理解できたとは思えない。理解しようとする姿勢が大事だと思う。疑問が良い意味で残る本だった。