【感想・ネタバレ】呪いの言葉の解きかたのレビュー

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Posted by ブクログ

ネタバレ

「嫌なら辞めればいい」と言われたことがある。典型的な呪いの言葉。
「この仕事を選んだのは私、辞めずにいるのも私がそれを選んでいる、だから文句を言わずに働くしかない」本気でそう思っていた。
本当は働くものを追い詰めている側に問題があるのに、それには全く気づかなかった。まんまと相手の土俵に乗り、「文句」を言う自分の側に問題があるかのように相手が設定した思考の枠組みに縛られていた。

この本は、私自身の思考と行動が「呪いの言葉」に支配され、がんじがらめになっているにもかかわらず、そのことに全く気づいていないことに気づかせてくれた。ホント、自分のことながら呆れて笑えた。

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2021年05月12日

Posted by ブクログ

ネタバレ

働き方、ジェンダー、政治などの言説でよく目にする呪いの言葉の解き方。ジェンダー意識が高くて、政治に関心を持つ女だと、よく言われてきた言葉が数々乗っててあーわかる〜ってなっていたし、そるらにどう対処していけばよいのかが書いてあって心は少し軽くなった。知り合いのスピーチが乗っていたり、呪いの言葉に対する灯火の言葉って表現が素敵だなって思ったりした。私も灯火のを投げかけられるような人になりたい。

以下読書メモ
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・職場の労働者のモデルは「ケアレス・マン」だと語る。「ケアレス・マン」とは、杉浦浩美が『働く女性とマタニティ・ハラスメント』(天月書店、二〇〇九年)のなかで使っている言葉で、他人のケアに責任を持つことなど想定外であるような労働者という意味だと浅倉は語る。さらに浅倉は、男性は、自分が誰かのケアをしていないだけでなく、自分のケアを誰かにしてもらっている存在なのだと語る。妻が育児や介護を担っていれば、夫である男性は、それらのケア労働から解放される。さらに妻が料理を作り、掃除をし、洗濯をし、アイロンをかけ、日常のこまごまとしたタスクもこなしてくれれば、夫である男性は、みずからの時間を最大限企業のために捧げることができる。

・第一に、働きかたが「ケアレス・マン」レベルに達していない労働者を排除してしまう。女性に限らない。病気や障害のある労働者、妊娠・出産する労働者、家族のケア責任を抱える労働者、そういった労働者が「二流労働者」と評価されてしまう。第二に、ケア労働は生物としての人間にとって不可欠な労働であるにもかかわらず、それが女性に不均衡に押しつけられることによって、女性の労働する権利(有償労働の権利)が侵害されている。そのなかで社会の持続可能性が損なわれている。第三に、労働者自身が、健康を維持し、市民的活動に参加する時間を奪われる。そのうえで浅倉は、「ケア労働」を、誰かに押しつけられるものではなく、社会にとって重要な労働だと位置づける。そして、「ケア時間」「教育時間」「社会的時間」のそれぞれが人間にとって必要な時間なのであり、それらの時間を確保するためにも、有償労働に取られる時間は制限されなければいけないと語る。

・「ケアレス・マン」の話というのは、それら必要な時間を奪われている人たちです。「ケアレス・マン」はいくら会社のなかで評価され、高い賃金を得たとしても、人間としてはかなり鬱めで不幸な存在であるのではないでしょうが。

・「溜め」は、外界からの衝撃を吸収してくれるクッション(緩衝材)の役割を果たすとともに、そこからエネルギーを汲み出す諸力の源泉となると湯浅は語る。

・お金はその溜めの代表だが、他にも有形・無形の様々なものが、溜めの機能を有している。湯浅によれば、頼れる家族・親族・友人がいるというのは、人間関係の"溜め"だ。自分に自信がある、何かをできると思える、自分を大切にできるというのは、精神的な"溜め"だ。
湯浅は貧困状態に至る背景には「五重の排除」がある、と語る。
第一に、教育課程からの排除。この背後にはすでに親世代の貧困がある。
第二に、企業福祉からの排除。雇用機会が得られないこと、あるいは雇用されていても食べていけない状態に陥っていること。低賃金、不安定雇用、雇用保険・社会保険からの排除、福利厚生からの排除、労働組合からの排除など。
第三に、家族福祉からの排除。親や子どもに頼れないこと。
第四に、公的福祉からの排除。生活保護行政が窓口で追い返す「水際作戦」を取っている現状が批判されている。
そして、第五に、自分自身からの排除。第一から第四の排除を受け、しかもそれが自己責任論によって「あなたのせい」と片付けられ、さらに自分自身がそれを内面化して「自分のせい」と捉えてしまう場合、人は自分の尊厳を守れずに、自分自身を大切に思えない状態にまで追い込まれると湯浅は語る。

・ 社会を変えていくのは数ではない。一人です。

・では、日本には(なぜ)、デモが少ないのか。なぜ、それが変なことだと思われているのか。それは、国民主権を、自分の力で、闘争によって獲得したのではないからです。日本人は戦後、国民主権を得ました。しかし、それは敗戦によるものであり、事実上、占領軍によるものです。自分で得たのではなく、他人に与えられたものです。これを自分自身のものにするためにどうすればよいのか。デモをすること、です。私が受けるもう一つの質問は、デモ以外にも手段があるのではないか、というものです。確かに、デモ以外にも手段があります。そもそも選挙がある。その他、さまざまな手段がある。しかし、デモが根本的です。デモがあるかぎり、その他の方法も有効である。デモがなければ、それらは機能しません。今までと同じことになる。

・主権を手放してしまったら、選挙は政権にお墨付きを与える形式でしかなくなる。政権が暴走しても、止められなくなる。おかしいことにはおかしいと言い、あるべき社会を求める、そのための発言と行動をみずからがおこない続ける、それが国民主権ということなのだ。

・専門家としての責任においてデータを集め、分析と検証を経て、積極的にその知見を表明し、世論の深化や社会の問題解決に寄与することは、研究者たるものの責任です。その責任を十全に果たすために、適切な反証なく圧力によって研究者のデータや言論をねじふせるようなことがあれば、断じてそれを許してはなりません。世論に多様性がなくなれば、働く現場は疲労困憊し、格差はいっそう拡がり、日本社会は硬直して出口を失うでしょう。柔軟性をもって意見をかわし、より良い方法を探ることこそ、いま喫緊に必要なことです。「自由を生き抜く実践知」を憲章に掲げる本学は、在学する学生・院生、本学で働く教職員の、積極的な社会的関与と貢献を評価し、守り、支援します。互いの自由を認めあい、十全に貢献をなしうる闊達な言論・表現空間を、これからもつくり続けます。今後、全国の研究者、大学人の言論が萎縮する可能性を憂慮し、本学の研究者に起きていることを座視せず、総長としての考えをここに表明いたします。

・わかりやすく言えば「ほめて育てる」だ。「ほめる」は「叱る」と対比的に語られがちだけれど、むしろ「ほめこと)」と「期待をかけること」の区別が大事。人を動かす言葉を持っている人は、期待があってもその期待については自制して語らずにおける人であり、一方で肯定的に認める言葉については積極的に送り届けられる人なのだと思った次第。肯定的に認めるとは、その人の「今」を評価すること。期待をかけるとは、その人の「今」の、「その先」を評価すること。

・ 前の究極の幸せは四つです。人に愛されること、人に褒められること、人に必要とされること、そして人の役に立つことです。四つの幸せのうち、愛さなの三つは『働く』ことで得られる。だから障害がある人たちが働こうとするのは、幸せを求める人間としての証しなのです。

・「やりがい搾取」とは、教育社会学者の本田由紀が「軋む社会』(双風食 二0〇八年) で名づけた言葉だ(同書の表現では、「〈やりがい〉の搾取」。労働者が自発的に「自己実現」に邁進していて、じつは彼らをその方向に巧妙にいざなう仕組みが、働かせる側によって仕事のなかに組み込まれている、そういう構造を指した言葉だ。安定雇用の保障や高賃金などの対価なしに労働者から高水準のエネルギー・能力・時間を動員したい、そのために、働かせる側が巧妙に労働者を巻き込む仕組みが、「やりがい搾取」だ。

・私たちは、言葉を通じてものを考え、状況を認識し、自分の気持ちを把握する。言葉によって、私たちの思考は、行動は、縛られもするし、支えられもする。

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2021年05月05日

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