あらすじ
いじめを苦に自殺したあいつの遺書には、僕の名前が書かれていた。あいつは僕のことを「親友」と呼んでくれた。でも僕は、クラスのいじめをただ黙って見ていただけだったのだ。あいつはどんな思いで命を絶ったのだろう。そして、のこされた家族は、僕のことをゆるしてくれるだろうか。のこされた人々の魂の彷徨を描く長編小説。吉川英治文学賞受賞作。
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吉川英治文学賞受賞作。いじめを苦にして自殺した少年。主人公の少年ユウはさほどその少年とは仲良くなかったのに遺書に親友と書かれてしまって…。息子をいじめで失った両親のやり場のない想いが胸に刺さる。傍観者であることも罪。後半は涙なしには読めない心に残る話。
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人間って、死にたくなるほどつらい目に遭ったときに絶望するのかな。それとも、死にたくなるほどつらい目に遭って、それを誰にも助けてもらえないときに、絶望するのかな
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・テーマ/世界観 ★★★★★
・背景描写 ★★★★★
・キャラクター ★★★★★
・インパクト ★★★★★
・オリジナリティ ★★★★★
・テンポ/構成 ★★★★★
・文章/語彙 ★★★★★
・芸術性 ★★★★
・感動/共感 ★★★★★
・余韻 ★★★★★
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3回は読んだ
中学生の時に読んで感動した。十字架を背負う人たちの物語。いじめを受けた側、傍観した側、いじめをした側、自殺した生徒の親。全ての人たちが背負う重たいものがとても心に刺さった。
重松清は描写がじんと心に残るものが多い。
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中二という多感な時期。いじめというテーマを、残された人達のその後の人生という切り口で、語りかけている本。父親の葛藤に痛ましいほど共感。時間をかけても、大切な子供を失った痛みは癒えることはない。それでも懸命に生き、家族で弱さを支え合い、生きていく。子供は親の鏡。思春期は子育ての山場のひとつだと思う。親としてだけではなく、ひとりの人間として、自身の生き方に否応なく向き合わざるを得ない時期。
人間の感情のややこしさを感動する程、見事に描かれた本。精神的に苦しい時、重松さんの本が読みたくなる。今回も一気読み。心の痛みに寄り添える自分でありたい。
#重松清さん #思春期の子育て #共に生きる
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重松清ワールド全開のお話でした。十字架を背負うというのはこういうことなのですね、と改めて考えさせられました。また主人公の真田くんに、自分を重ねてしまい、自分だったらどうだろうか、と判断を迫られる場面が多々あり、後半に向けてそれが加速していった感じです。いじめは絶対にあってはならないのは、誰しもわかっています。でもなくならないのはなぜか。いけにえということばが自分の胸につよく残りました。
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いじめで自殺した子の遺書に親友として名前が書かれていた少年のお話
以下、公式のあらすじ
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いじめを苦に自殺したあいつの遺書には、僕の名前が書かれていた。あいつは僕のことを「親友」と呼んでくれた。でも僕は、クラスのいじめをただ黙って見ていただけだったのだ。あいつはどんな思いで命を絶ったのだろう。そして、のこされた家族は、僕のことをゆるしてくれるだろうか。のこされた人々の魂の彷徨を描く長編小説。吉川英治文学賞受賞作。
いじめを止めなかった。ただ見ているだけだった。それは、「罪」なのですか――?
自ら命を絶った少年。のこされた人々の魂の彷徨を描く長編小説。
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誰に自分を重ねるかによって感想は異なってしまう
いじめられていたフジシュンだとしたら、そんな決断をする前に相談する事もできただろうにと思うし
主人公のユウだとしたら、同じ小学校で中学でも同じクラスだからといって親友として遺書に名前が書かれてあったら困惑する
哀れとも思うし、なんでそんな事を書いたんだと憤るかもしれない
でも、私だったら暫くしたら何もなかったかのように流す気がする
一番のとばっちりはサユ
勝手に好きになって、誕生日にいきなり電話してきて、それで来訪を断ったら自殺って
本人はそのつもりはないのかもしれないし、そこまで頭が回らないくらい追い詰められていたのだろうけど、サユの立場からしたら嫌がらせみたいなものだよな
フジシュンの父親が今の自分にとって近い立場なのかもしれないけど
この人もあまり共感できないかな
息子は自殺ではあるけれど、実質的に殺された、見殺しにされたとか思ってそう
でも、その怒りは筋違いなように思う
いじめられたのは息子であって、その復讐する権利は本人にしかない
親だからといって、いじめの首謀者や、助けなかった周囲に対して何かしていいわけではないんだよね
被害者の親だからといって許されることって実は少ないと思うよ
個人的な意見としては、いじめで自殺なんて愚かだと思う
そうなる前に周囲に相談できるような雰囲気を整えて、もし相談してくれたら解決に向けて動くのが親の役目だと思う
この作中で、親は我が子がいじめられている事に気づいていなかったのかが疑問
家にピザやら何やらが勝手に届けられるというわかりやすい被害があるんだから、それとなく察していてもいいと思う
そんな、自分たちの過失を無視して周囲に攻撃的になるのは、どうしても同意できないな
まずは自らの至らなさを恥じるべきだと思うよ
確か、甲本ヒロトが言ってたと思うんだけど
学校なんてものは、電車で同じ車両に乗っていただけの集まりだと
それだけの共通点で、友達だの仲良くだのとかなれなくてもいいと
その理屈でいうと、この作品の傍観者も別に悪いことはしてないと思う
ナイフ持って暴れる乗客がいたとして、襲われている人を助けずに遠巻きに観ているだけの行為を批難する気にはならない
助けに入ったりする人がいたらそれは勇敢な行為として称賛こそしてもいいけど、その他の傍観者を批判するのは筋違いでしょうに
「いけにえ」という言葉
誰かが生贄になることで、他に危害が加わらない状況
「何故助けない?」と、綺麗事は簡単に言えるだろうけど
前述の通り、もしナイフ持って暴れてる人が現れたら逃げるのは間違った選択ではないよ
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ひとを責める言葉にはニ種類ある、と教えてくれたのは本多さんだった。
ナイフの言葉。
十字架の言葉。
p.78
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ユウやサユは別に十字架を背負う必要はないと思う
真面目な二人だからこそこんな結末になったわけだけれどもね
まぁ、サユのような生き方ができればそれはそれで本人は納得できるのかもしれない
一番嫌悪感を懐いたのはマスコミの二人
事件との関わり方は違えど、十字架を周囲の人に背負わせようとするのは違うよなぁ
じゃあお前らは何を背負うんだ?と問い詰めたくなる
社会正義を気取って、関係ない輩が関係者をかき乱すんじゃねぇという怒りを感じる
あと、「絶望するのはいつか?」という問い
私の体験談として、とても辛い境遇になったとして
本当に絶望するのは、その状況が自分で良くする事もできず、良くなる見込みもなく、誰かに頼る事もできなくなった時
なので、「希望が絶たれたとき」が本当の絶望するときだ
それまで、この人に頼れば何とかしてくれると思っていたところに、いざ弱音を吐いたのに手を取ってくれなかったのはとても辛かったなぁ……
酷いいじめと言えば、地元でのいじめマット死事件を思い出す
隣の学校区だったけど、被害者は1学年下の子
被害者の兄が1学年上で、進学した高校が同じだった
うちの中学の学年の先生の奥さんが被害者の担任教師だったり
直接的には関係ないけど、若干の繋がりがある感じ
当時は学校もいじめには神経質になったけど
決していじめはなくなってなかったような気がする
自分たちのやってるのは、いじめではないとか、あそこまで酷くはないという言い訳をしていたのではなかろうか
あの事件は、起こったその事も酷いけど
その理由や、その後の周囲の反応、刑事民事の裁判の結果、賠償金の未回収とかも含めて、田舎特有のいやらしさ前回の展開だからなぁ
山形のイメージって、あの事件でかなり悪くなったと思う
Posted by ブクログ
ひとを責める言葉には二種類ある。
“ナイフの言葉” と “十字架の言葉”。
“ナイフの言葉”は胸に突き刺さる。刺された時にいちばん痛いのは刺された瞬間。
“十字架の言葉”は背負わなくちゃいけない。それを背負ったまま ずうっと歩く。どんどん重くなってきても降ろすことなんてできないし 足を止めることもできない。生きている限り その言葉を背負いつづけなきゃいけない ─。
中学二年の九月四日 同じクラスの藤井俊介(フジシュン)が自殺した。原因は
いじめだった。 彼は遺書を残した。
そこには四人の名前があった。
親友になってくれてありがとう。と書かれた僕(真田 裕)。いじめたグループの中心にいた三島武大と根本晋哉。
そして ごめんなさい。誕生日おめでとうございます。と書かれた小川小百合。
四人は一方的にフジシュンの思いを背負わされたままその後の人生をあゆむことになった。
重いテーマだった…。最初そこには ずっと悲しみとともに誰かの怒りがあった。
なのに物語の最後にあったのは経過した時間とそれに比例して染み込んでいった静かな深い悲しみ。そしてフジシュンに対する残された者の背負った思いだった。
立場のちがいをこえて 苦しい思いを長い年月 共有してきた人たちの労りや気づかいに少し救われる。
しみじみと涙が出た。
Posted by ブクログ
いじめによって自殺に追い込まれたフジシュンという中学二年生が最後に書いた遺書には、親友として「僕」の名前が書かれていた。しかし実際には「僕」は親友だとは思っていなかった。それどころかいじめを見て見ぬふりをして彼を死なせてしまった傍観者であった。というところから始まる話。フジシュンの遺族と彼の遺書に名前の書かれた者たちが彼の死をめぐってそれぞれに十字架を背負っていく。
とても苦しく考えさせられる話であった。特に遺族の気持ちを考えるとたまらなかった。私も若くして病気で兄を亡くしているから、子を亡くした両親の気持ちを痛いほど想像させられたし、当時の表情もありありと蘇ってくる。重松さんの書く遺族の心情は、輪切りにした心の断面を見せられているかのようにリアルでビビッドだ。人の親になることが怖くなったほどだ。覚悟と責任を持たないと親にはなれない。
いじめ、そして自殺は単に被害者、加害者だけでなく、残された遺族、いじめの傍観者、学校はもちろん、マスコミを通して多くの人にしがらみを与える。いじめについては私にも背負っていかないといけない十字架がある。忘れて過ごすことはあるが消えることはない。これからもその十字架を含め様々な苦しみを抱えながらも生きていくのだろう。
田原さんの人間味があって遠慮のない感じが好きだ。彼は「僕」を含めたクラスの傍観者にとって、実はとても大きい存在だったのではないか。
Posted by ブクログ
重松先生の作品は高校生の頃によく読んでいたのですが、やはり面白いです。学生時代の言葉遣いというか、思考回路というか、とにかく子どもの頃特有の言動の表現方法がすごくうまいな……と思っていましたが、大人になった今さらにその生々しさを感じました。
お話も面白いです。私の学生時代ではいじめをする、される、傍観するといった経験はありませんでした。ですが、きっとどこかであるんだろうなというようなあくまでも他人事になってしまう私達にまるで訴えかけるような……。実際に重松先生自身が息子さんをいじめで亡くしてしまった方にインタビューをしたときに生まれたストーリーであったようで、最後のあとがきが1番染みました。
物語は、『いじめを傍観していた』ことが罪なのか、というところが軸になっていますが難しい問題ですね。答えはないし、人によって変わるし、話の中でもそれを決めつけるわけでもないし。結局課題なんですね。
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いじめにより自殺してしまったクラスメイトを、見殺しにしてしまった男の子のお話。
ものすごく心に迫るものがあり、あとがきを含めた400ページを一日で読み切りました。
あと、区切って、気持ちを整理して読むのは違う気がして…
たぶん、自分を含めて、誰しもに心当たりがある、もしくは起こりうる内容なんじゃないかなって思います。
色々と思うところはありましたが、私個人としては、
フジシュンのお母さんが闘病の末亡くなった後、お母さんの遺影がフジシュンと一緒に撮った頃のもので、「結局、その頃の幸せを超えることがないまま、お母さんの人生は終わった。」という文章を見て、なんともいえない苦しい気持ちになりました。
その幸せな写真を撮った時は、お母さんはこれから子供の成長を見守り、もっと笑顔で生きていく瞬間などを当たり前に想像していたはずでした。
それがいじめで自殺してしまい(そのいじめに子供が苦しんでいたことに気づけなかったことも無念でならないと思う)、その幸せを超えることが無いまま、お母さんが亡くなってしまったことを想像して、たまらない気持ちでいっぱいでした。
誰もこんな思いをしてはいけないと思う。
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母親と祖母としての視点て読み始めた為フジシュンのお父さんの気持ちが痛いほど感じ、何でクラスの皆んなは見てない振りを続けたのか?虐めた子供も悪いけど知らないふりをしたクラスメートも同罪だと私は思う。最悪の事態になっても、クラスメートは何処か他人事として捉えて主人公も私から見たら同罪であった。でも小百合ちゃんは違う。何故フジシュンは小百合ちゃんの名前を遺書に書いたのか?好きな人の誕生日に死ぬなんて絶対やってはいけない事だと思う。彼女の人生が180度違う物になったと言うことは否めない。結局名前を書かれた4人は十字架を背負って生きていくことになる。主人公は自ら十字架を背負う事を選び、フジシュンを忘れる事無く人生を歩み父となり自分の子供の心配をする事となり「あのひと」の気持ちを知る事になるのだろうか?【森の墓地】Yahooで見たら登録第一号の世界遺産でシンプルな十字架がフジシュンの死ぬほど辛い気持ちと相反していた。残された物は生きる理由を作り歩き出すしか無いのだ。
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重松さんの『かあちゃん』が大好きなのだが、『かあちゃん』に出てくる母親の罪の背負い方と、今回の主人公とさゆの罪の背負い方。少し形は違うけど、残されたものの人生って、その人が死んで終わりじゃなくて、始まりなんだなと感じた。時間が忘れさせるものと思っていたが、そうは簡単にいかないんだろう。特に、さゆにとっては誕生日たまらないものだっただろうな。主人公の奥さんが言っていた「親友って書かれるなんてすごいじゃん」ってはたから見れば言いがちだけど、そこでまた背負うものがあるんだなと初めて知らされた。とにかく濃ゆかった。一部の人は除くけど、悪い人なんていないのに、なぜこうもみんな幸せになれないんだろう。
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男子大学生と男子高校生の父親、50歳で読んだので、あのひとの気持ちを想像しながらの読本となった。何が正解かはわからないが、登場人物の気持ちを考える行為が大切と思う。
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描写うますぎえ、登場人物の気持ちが伝わって来すぎて、とてももやもや(良い意味で)した。
十字架を無理やり背負わされていた主人公が、いつの間にか自分の希望で十字架を背負っていた。これは成長なんだろうな。
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自殺が起きたクラスの描写は、実際の出来事を見ているかのようにリアルで生々しい。いじめた人と傍観者たちの様子には、胸糞悪さと憎しみを抱きながらも、当事者でない私に責める権利はあるのかと躊躇させられる。
周りの人たちは時が過ぎると共に少しずつ忘れてしまう。でも遺族は決して忘れない。忘れられるわけがない。フジシュンの存在が忘れられてしまうこと、なかったことにされてしまうことが遺族にとってどれだけ辛く悲しく苦しいものであるかは想像に難くない。しかし、時間にしか解決できない昂った感情が最後に垣間見えた気がした。
どうしようもない怒りを主人公に振り翳してしまうフジシュンの弟や「あのひと」には、同情しながらも痛々しさを覚える。しかし、その痛々しさをも飲み込んで、遺族の思いを受け止めて、「たまたま選ばれた」ことを同じくするフジシュンと自分を重ねることから逃げず、自らで十字架を背負うことを選択した主人公の強さには、尊敬の念を抱くばかりだった。
クラスの奴らを全員殺してやりたいと思うほど苦しんだ「あのひと」が、憎む気持ちも恨む気持ちもないが許す気持ちもない、と最後に抱いた感情は、残酷で切実でありながらも、最後に残った人生の沈殿物のようなものを見た気がした。
それぞれが言葉にならない思いを抱えながら、それでも生きていこうとする姿は、激しく、儚く、逞しかった。
見て見ぬふりは人殺しになってしまうかもしれないということと、自分の過ちや罪を忘れないように努めなければならないという二つが読後に強く残った。
傑作。
Posted by ブクログ
「いじめ」をテーマにした小説はいくつかあるけど、いじめで亡くなった人の周囲の話は初めてだった。
大切な人が亡くなるのは、大きな出来事で衝撃が大きいものだけど、事故死や病死、自然死で亡くなった人と比べて「自死」を選んだ人の周囲は非常に苦しむんだなと読んで感じた。
「あの時話を聞いてあげられたら」「何かアクション出せば」と何か救えることは無かったかと永遠に考える分、苦しみは続くと思う。
「死人に口なし」を良いように、周囲の人が色々言うことが人間の有り様だな。
Posted by ブクログ
いろいろ考えさせられました。
いじめ、自殺がストーリーの中に出てくるので、当然暗い話なのですが、自殺したことが意図せず好きな人を長期間苦しめ、その人がずっと十字架を背負うのは辛すぎる。いじめは絶対だめだけど、自殺もだめだと改めて思った。逃げ出したほうが良いときもあるけど、自殺以外の方法もある。そんなことを考える余裕もないのかもしれないけれど。
Posted by ブクログ
イジメた人間も、
傍観した者も、
救えなかった家族も、
誰もが重い十字架を背負う。
いじめた側はもちろん、
傍観者だって時間と共に忘れるし、
下手したら正当化しようとするかもしれない。
でも、家族は、家族であるが故に、
忘れることができない。
家族みんなが重い十字架を背負い、
足枷で繋がれている状態なのかもしれない。
残されたものは、それぞれの立場で自分自身と向き合い続けることしかできない。
Posted by ブクログ
『人は、死にたくなるほど辛い思いをした時、それとも死にたくなるほど辛い思いをした時に誰も助けてもらえない時、どちらで絶望を感じるのか』(省略)
読んだ直後は即後者を選んだ。
あと一歩前に出たら空(くう)、なんなら崖の淵に足半分出ちゃってる様な、少しでも重心をずらしてしまったら終わるそんな状況を想像したから。
でもこの状況の時にはもう既に虚無かとも思い直した。やっぱり分からない。
『寂しさは、両方で分かち合うものではない。自分は寂しがっていても相手も同じように寂しがってるとは限らない片思いみたいに。相手がそばにいないから寂しいのではなく、そばにいない相手が自分が思うほどに自分のことを思ってくれていないんじゃないかと寂しい。その寂しさが寂しい。』(省略)
が1番好き。本当にそうだと思う。しっくりきた。
涙が溢れ出る程の感動というより、じわじわとしんしんと感情が積もる感じでした
Posted by ブクログ
あのひとのことをどう呼べばいい?
決めかねている。
あのひとは気づいているだろうか。出会ってから二十年が過ぎて、言葉を交わしたことは何度もあったのに、僕はまだ一度もあのひとに呼びかけていない。
おじさんー。
藤井さんー。
フジシュンのお父さんー。
どれもだめだった。小学生の頃から顔見知りだったフジシュンのお母さんのことは「おばさん」と呼べるのに、フジシュンが死んでから出会ったあのひとを「おじさん」とはどうしても呼べなかった。
あのひとだってそうだ。僕はずっと名前を呼んでもらえなかった。
僕があのひとに語りかけて、あのひとが僕に語りかける。でも、僕たちの言葉にはずっと宛名がなかった。ぽつりと漏らしたつぶやきが、頼りなげに揺れながら、漂いながら、かろうじて相手の耳に届く、そんな対話を僕たちは何年も何年もつづけてきたのだ。
僕の二十年間の物語も、ひとりごとをつぶやくように語られるだろう。
あのひとに届いてほしい、と祈っている。
ひとを責める言葉には二種類ある、と教えてくれたのは本多さんだった。
ナイフの言葉。
十字架の言葉。
「その違い、真田くんにはわかる?」
大学進学で上京する少し前に訊かれた。僕は十八歳になっていて、本多さんは三十歳だった。
答えられずにいる僕に、本多さんは「言葉で説明できないだけで、ほんとうはもう身に染みてわかってると思うけどね」と言って、話をつづけた。
「ナイフの言葉は、胸に突き刺さるよ」
「…はい」
「痛いよね、すごく。なかなか立ち直れなかったり、そのまま致命傷になることだってあるかもしれない」
でも、と本多さんは言う。「ナイフで刺されたときにいちばん痛いのは、刺された瞬間なの」
十字架の言葉は違う。
「十字架の言葉は、背負わなくちゃいけないの。それを背負ったまま、ずうっと歩くの。どんどん重くなってきても、降ろすことなんてできないし、足を止めることもできない。歩いてるかぎり、ってことは、生きてるかぎり、その言葉を背負いつづけなきゃいけないわけ」
どっちがいい?とは訊かれなかった。
訊かれたとしても、それは僕が選べるものではないはずだから。
代わりに、本多さんは「どっちだと思う?」と訊いてきた。「あなたはナイフで刺された?それとも、十字架を背負った?」僕は黙ったままだった。
しばらく間をおいて、本多さんは「そう、正解」と言った。
「お母さん、本多さんに言ってたんだって。たった十四年しかない人生って、ほんとうにむなしい、って。思い出話があっという間に終わっちゃうのが、悲しい、って」わかるような気がする。
「あとね、お母さん、こんなことも言ってたって。十四年間生きてきた俊介の思い出
十四年間かけてしゃべらないといけないのに、それができないのが情けなくて…なんで、ぜんぶ覚えててあげなかったんだろう、って…」そんなの無理に決まってるじゃないか、と思わず言いかけたが、口をつぐんだ。おはさんのその気持ちも、まったくわからないというわけではなかったから。
考えてみれば、藤井くん以外のみんなは、ずっと生きてて、毎日毎日、思い出が増えてるんだよね。真田くんも、わたしも、これからずーっと、新しい思い出が増えていくんだよね」
すでにフジシュンが死んだあとの思い出もたくさんある。つまらないことだったが、あいつは修学旅行にも行けなかったんだなあ、と不意に思った。あいつのできなかったことを僕たちはこれからどんどん体験して、あいつが見られなかったものをたくさん見て…そうだ、あいつは校舎の三階からの景色すら見ることができなかったんだと、また不意に思った。
「真田くん、背が伸びたでしょ」
「うん…」
「わたしも、部活を引退したから、もうちょっと髪を伸ばそうと思ってる。高校生になったら制服も変わるし、友だちとか、趣味とか、世界がぜんぶ変わると思う。そういうのって、お母さんは見たくないよね…」本多さんは、こんなことも中川さんに言っていた。
亡くなったわが子のぶんも友だちには幸せになってほしい」というのは、嘘だ。
「嘘っていうか、いくら頭ではそう思ってても、本音の本音は違うんだって。それはそうだよね、自分の子が死んじゃったあとは、誰がどうなろうと関係ないし、逆に、みんな幸せになってるのに、なんでウチの子だけ死んじゃったんだ、とか…思うよ、わたしだって」
「おまえらにとっては、たまたま同じクラスになっただけのどうでもいい存在でも、親にとっては…すべてなんだよ、取り替えが利かないんだよ、俊介の代わりはどこにもいないんだよ、その俊介を…おまえらは見殺しにしたんだ…」
「寂しさってのは、両方で分かち合うものじゃないんだ。自分は寂しがってても向こうはそうでもなかったり、その逆のパターンだったり…。片思いみたいなものだよ。だから、寂しいっていうのは、相手がそばにいないのが寂しいんじゃなくて、なんていうか、そばにいない相手が、自分が思うほどには自分のことを思ってくれてないんじゃないか、っていうのが寂しいっていうか…その寂しさが寂しいっていうか」
「親は、学校で起きたことをこの目で見るわけにはいかないんだよ。だからじるしかないんだ。ウチの子は元気でやってる、毎日を幸せに過ごしてる…。だから親はみんな子どもに訊くんだ。学校どうだ?毎日楽しいか?って」
僕も子どもの頃は、親父やおふくろにしょっちゅう、うっとうしいほど訊かれた。
「考えてみろ、子どものほうは親には訊かないんだよ。お父さん、会社どう?お母さん、毎日楽しい?そんなことを訊く子どもはどこにもいないし、子どもにそんなことを訊かせちゃだめだろ、親としても」「はい.....」
「心配するのは、親の仕事だ。でも、子どもをじるのも親の仕事だ。だったら、子どもが、学校は毎日楽しいよ、って言ったら信じるしかないだろ」でも、ほんとうはそうではなかったのだとわかったらー。
それがわかったときには、もうすべて手遅れだったらー。
Posted by ブクログ
共感するのは難しかった。どこかでは現実にありそうな話だけど、自分に置き換えては考えにくい話だなと思った。中学生から大人になって考えや振る舞いが大人になってく感じは面白かった。
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登場人物のリアルな感情の揺れ・移り変わりに、読み終わったその後ももやもやが残り続けた。
いじめはどんな時代でも許されることではないが、簡単に解決できるものでもない。
「傍観者もいじめている側」と言われるが、そうだと思う反面、果たして自分が凄惨ないじめに遭遇した時に、立ち向かえるのだろうか。いじめられるのが私じゃなくてよかったと思うのだろうか。
幸いなことに、これまでいじめといういじめに遭遇したことがないので想像し難い。
と、書こうと思ったが、果たしてそれは私が知らなかった、気がつかなかっただけではなかろうか。
そして、大人でもきっといじめる人はいじめるから、その時に私は動けるのだろうか。
考えたらキリがないが、考え続けなければいけないことだと思う。
そして、些細ないじめにも気づくこと。一生懸命考えて、その時の自分の最善策を探してみること。いじめられる側でも見ている側でも一人で抱え込まないこと。行動する勇気を持つこと。
このことを心がけて生きていきたい。
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自殺した子供の遺族の気持ちはわかった。家族って深いものなのかなとも思った。でも読んで人生にプラスになる感じはなかった。そんなに心は揺さぶられなかった。
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クラスでいじめが起こり、級友が死んだ。主人公はいじめを静観していたのに彼の遺書には親友として主人公の名前が残されていた。主人公はこの事件を背負い大人になっていく。いじめとその後を描いた物語。
自分だったらどうしたかな、と何度も読みながら考えた。決して綺麗事ではなく、でも人間の優しい部分も見えるお話。自殺は多くの人を巻き込み、思い悩ませ、束縛するものだと感じた。
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いじめ、自殺。被害者と加害者、いじめを傍観していたクラスメイト、我が子を失ったご両親…。重くて苦しいテーマの作品で、ページを進めながら、どう気持ちをコントロールすればいいのか分からなかった。大人になること、時間が解決してくれること、もちろんそんなことはあると思うけれど…変わることと忘れないでいることは、いつも紙一重で、大人になったからこそ、長い年月が過ぎたからこそ、気付くこともあるんだと思う。