【感想・ネタバレ】撰銭とビタ一文の戦国史のレビュー

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Posted by ブクログ

まず目を引くのは前書きにもある「予定調和的な歴史観は廃するべきである」という主張である、呉座勇一『一揆の原理』でも、戦後の日本史学界がややもすると進歩史観的な見方から脱することができず、歴史を特定のイデオロギーから捉えることが多かった反省が述べられていたが、貨幣研究においてもそのような傾向はあるらしい。

江戸時代の三貨制度を知っている時代の人間からすると、金/銀/銭の交換比率を定め、高額~少額取引に柔軟に対応した銭制度を用意するというグランドデザインを持って時の支配者は銭制度を設計したように見えるが、実際にはその時の課題にある意味で場当たり的に対応したことの積み重ねが結果的に三貨制度を生み出していることを筆者は示している。

中央銀行が貨幣の流通量を管理する現代からは想像もつかないが、銭の由来は様々であった。統制されていないゆえに、銭の供給量は需要に対して多かったり、少なかったりする。中世~近世日本において基本的に銭は需要過多で、現物が少ないことに対応するために様々な施策が民間と法律のレベルで行われていた。

中近世の日本において、基本的に銭は1枚1文として扱われたが、15C後半になると「相手が貨幣として利用することを期待できない」銭を弾く行為、つまり撰銭が増える。これは通過供給量が閾値を下回ったからだと推測される。

その一方で通過供給量が少ないため、なんとか悪銭(ここでいう「悪」は甚だしいの意)でも使うために一定割合までの混入を許す組成主義や、少額取引では一文以下の価値で取引する慣行、つまり銭の階層化が生まれた。

戦国大名では大内氏が最初に撰銭令を出しているが、これは
- 交易のために納税の時のみ基準銭の比率を高める。立法者の財政需要に対応するもの。
- 通過供給量の減少により商人が納入を控えることで米不足となり米価が高騰するので非基準銭の購買力を保障する
- 債務者の保護
という特徴を持っており、戦国大名の撰銭令はこの要素を多かれ少なかれ持っている。撰銭例で非基準銭を許容することで返って基準銭の使い控えを招き、悪貨が良貨を駆逐するリスクを許容するほどに通過供給量が少なくなっていたと推測される。

当時の戦争では銭がなにかと必要で、足利義晴に銭を送った畠山氏は派兵せずとも褒められている。これには「御恩と奉公」の関係性から石高制への移行の萌芽が見られるというのが面白い。しかも、この移行は現状を追認していった結果なのだ。

中世~近世を貨幣という観点から眺めることで、石高制への移行という意識の変化まで見えてくるというのは非常に面白かった。

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2021年02月21日

Posted by ブクログ

『通貨の日本史』(中公新書)の筆者による銭(銅銭)に関する歴史書。中世から近世にかけて、常に日本では庶民にとって必要な少額貨幣である銭が不足しており、宋や明からの銭の輸入でも賄いきれなかった。それを補うために模造銭が大量に作られ、また銭不足ゆえに割符と祠堂銭預状といった紙媒体の通貨の出現や掛け取引といった信用取引が成立した。

売買や納税などで銭を受け渡すときに、特定の銭を排除したり、受け取りを拒む行為である撰銭が十五世紀後半から頻発しており、旧銭(宋銭)は人々に受け入れられたが、新銭(明銭)は嫌われた。また銭の好みに地域差があり、九州では洪武通宝が好まれて、永楽通宝は、畿内では嫌われ、畿内を挟む両側で好まれて、特に関東では永楽通宝は基準銭の二倍の価値があった。

「十五世紀、室町幕府によって銭が大量に輸入された」という教科書のイメージは間違いで、倭寇による密貿易や日明貿易を含めても、貨幣需要に対して輸入した銭の量は不足していたらしい。

信長の永楽貨幣法、秀吉の通貨政策を経て、江戸幕府が慶長貨幣法の制定、寛永通宝の登場で金貨・銀貨・銅銭のいわゆる三貨制度が成立する。現代の視点だと「為政者が庶民のために通貨制度を整えた」と思われがちだが、寛永通宝の発行は、参勤交代のために必要な少額貨幣の不足を緩めて銭相場を安定させる交通政策の一環だった。わかりやすく説明すると、出発先で銭をじゃらじゃら持っても不便で嵩張るので、出発時には高額貨幣を持って、それを道中で銭へと交換していた。そのための交換比率としての慶長貨幣法と両替のための寛永通宝だったとか。ちなみに寛永通宝は幕末まで元号が変わっても作り続けられていた。

秀吉政権、江戸幕府共に高額の売買や支払等のために、金貨・銀貨といった高額貨幣を優先して発行し、庶民が使う少額貨幣の銭の発行は後回しだった。そもそも秀吉政権は銭を発行してなかったりする。江戸幕府成立後も民間では銭は不足気味で、だからこそ領国貨幣やその後の藩札が発行された。

といった内容が書かれている。貨幣史の本は読んだのは初めてだが、とても楽しく読んだ。いい本です。お薦め。

評点: 8.5点 / 10点

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2019年03月26日

Posted by ブクログ

ネタバレ

「平清盛の頃から、銭を中国から輸入した」
「銭形平次が寛永通宝を投げてた」:銭形平次
「織田信長は永楽通宝の旗を掲げていた」
「秀吉の大きな、大きすぎる大判」
「仕事人に依頼する時の小判」:必殺仕事人

このくらいの基礎知識(知識?で読み始めたのだが、文体も読みやすく、とても興味深く読めた。

しかし、貨幣(特に少額貨幣)について、権力が自分で発効する気が長らく無かったという驚き。中国から輸入していたけれど、貨幣経済の発達と、輸入の途絶から銭が不足してきたなら、自分で発行すれば良いのに?ってついつい思うのだが、権力者的には特に自分(と、その権力基盤)に関係なかったのね。
信長の「永楽通宝」の旗印も、「永楽」の文字に興味があっただけなのでは?ってのは、ちょっとショックであるw

銭が不足し、権力は何もしないので、民間が(多種多様な銭について)価値基準を定めたり、交換レートを定めたり、足りないから自分で作ったり(私鋳銭)しだした事を、権力が否定(しようと)したり、追認したり。
「天下人」にとっても、興味/政策の対象は、恩賞として関係のある高額貨幣だけであり、結局、家光の代まで少額貨幣の発行には至らなかったという驚き。
(それも、参勤交代から必要になった側面が大きい)
「三貨制度」とは…

そして、明治政府も高額貨幣から制定した。対外的に必要になる高額貨幣が優先されたのは、信長・秀吉・家康の時と同じなんだなと。その意味では、彼等「天下人」が取り立てて経済に疎かった訳でもなさそうである。
「円・銭・厘」の制度制定後も、交換レートを定めて江戸時代に通用した全ての貨幣が使われ、その使用が完全に終わったのは、昭和28年という…

「貨幣」というものについて、ただ、権力が上から定めたのでは無く、民間の慣行を権力が追認してきた麺が大きいというのは、とてもおもしろく感じた。

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2019年01月14日

Posted by ブクログ

中世から近世への移行期を舞台に、貨幣、主に銭がどのように使われ、また為政者に影響を及ぼしてきたかを追う内容。通貨統合にいたる紆余曲折を見る事で、単線的な歴史ではない社会経済のダイナミズムが感じられて面白かった。

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2024年01月30日

Posted by ブクログ

中国(宋・明)から輸入した銭貨やその日本での模造銭が雑多に存在する中世において、発展する経済に見合わないほど銭が不足する中で庶民は銭を質により階層化させたりして独自の運用してきたことに対して、大名のような権力者は後手に回ってそれを追認する事しかしなかった。江戸幕府の金・銀・銭貨による三貨制度に収斂したのもそんな追認の帰結に過ぎない。

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2020年11月07日

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