【感想・ネタバレ】信長になれなかった男たち 戦国武将外伝のレビュー

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Posted by ブクログ

日本史は好きで多くの武将について読んできたと思いますが、最近になって有名な武将として記録されるまでには至らないけれども、大名としてかなり活躍したであろう人達にも興味を持つようになりました。

このような部分の研究も進み、それを本にしてくれる、この本の著者(安部氏)のような方が出てきてくれて本当に嬉しいです。なんだか、このような活動は学会では功績としては認められないようですね。

今までの価値観にとらわれない人が登場してきたというのも私にとっては嬉しい限りです。本を買うことしか当面はできませんが、応援したく思います。

以下は気になったポイントです。

・越前敦賀は、南北朝時代には新田義貞が足利軍と、戦国時代には朝倉義景が信長軍と、家の存亡をかけて戦った場所である。金ヶ崎宮は金ヶ崎城のふもとにあり、足利軍との戦いでなくなった尊良(たかなが)親王、恒良(つねなが)親王を祭神としている(p30)

・信長は、副将軍や領国には見向きもせずに、南蛮貿易の拠点である堺、琵琶湖水運の要地である大津を支配下においた。次の狙いは、日本海海運の要所である敦賀であった、三国湊には多くの外国船が来航していた(p32)

・勝頼はなぜ無謀な突撃をしたのか、あたりの地形を見ることでわかる。寒狭川は岩場が多く淵が深い、川沿いの道も細く険しい、もしここを通って信濃へ退却しようとすれば織田勢に追撃されて壊滅的な打撃を受けるから(p41)

・信長が馬防柵と鉄砲によって長篠の戦いに勝ったとされるが、それ以上に重要なのは決戦の直前まで兵力を隠し、本願寺との戦いに手を取られている信長には3万もの兵を出せるはずがないと勝頼に思いこませたことである(p41)

・京極家と六角家は、佐々木家から分家した間柄なので、両家力を合わせて近江をしないしていく体制をとった。なので、当初は浅井久政は、朝倉家(京極家に従属)とは距離を置いて、南近江の六角義賢に従属していた(p56)

・織田信長は18歳のとき、大うつけ、と呼ばれる不良少年になった。その原因は、父信秀が倒れ、織田家の実権が末森城にいる母土田御前や弟信勝(信行)に握られたから、それまでは馬を朝夕稽古、水練も行っていた(p63)

・歴史に残した大名はほんの一握りのスーパースター、例えば20万石の大名は年収200億円の収入ある土地を管理しているので大企業と同じである(p86)

・豊臣秀長が100万石の威信をかけて築いた大和郡山城は、近鉄郡山駅の北に位置している、この設計をしたのが秀長の重臣である、藤堂高虎である、その後を継いだのが、秀保(秀吉の姉の子、後に秀長の婿養子)(p95,108)

・秀吉は、秀次を高野山へ追放、切腹、しかも妻妾・子供達を三条河原で処刑した、これを聞いた高虎は、豊臣政権との決別を決意し、秀長と親しかった徳川家康と意を通じた(p108)

・13代将軍足利義輝が頼りにしたのは六角だけではなく、能登の畠山、越前の朝倉、若狭の武田、美濃の土岐をいう守護大名であった。計画を立てているさなか、義輝の父義晴が急逝して喪に服す必要があった(p132)

・都を追われた義輝は、鯖街道の要所朽木(くつき)の朽木氏の庇護を受け、武田・朝倉・長尾(越後)の支援を受けていた一方で、三好長慶(阿波、淡路、摂津、和泉)を領国として、瀬戸内海・太平洋の流通をおさえていた。この両者は、日本海と瀬戸内海という二つの流通圏を握った者たちの主導権争いであった(p137)

・武田信玄が日本海に出ることは、鉄砲を生産したり実戦で用いたりするための物資を輸入するという軍事目的もあった、戦国大名が戦いを繰り返したのは、領国よりも流通ルートの支配権を得るためであった(p145,147)

・室町幕府のもとでは、足利一門である斯波、細川、畠山、今川、や源頼朝以来の名門である、伊達・武田・島津などの守護大名家(土地・領民の支配)が、朝廷や寺社(商業・流通)と共存しながら領国を治めてきた。農本主義から商業主義の社会になると、商人や流通業者と結びついた在地の武士たちが経済力を持つようになった(p148)

・大内家は南北朝時代から、現在の山口・広島・島根・福岡県にまたがる所領を有した大大名で、西国一の太守と称された、その力の源は、朝鮮・中国との交易であった(p208)

・種子島に鉄砲が伝わる二年も前に、松浦氏は平戸に王直を招いて来航を促している。ポルトガル人は偶然に漂流したのではなく、東南アジアから五島に向かう王直の船に便乗した(p217)

・客を招いて宴会するときは、家の男共が座敷に出て給仕をする、女性は台所で料理をするだけで決して客の前には出ない、これは平安時代からのもてなし方、主人が走り回って方々から佳肴をあつめるので馳走という(p229)

・江戸時代に書かれた史書には多くの誤りがある、それは江戸幕府が鎖国政策、身分差別政策、儒教教育、朝廷封じ込め政策のために、歴史観まで捻じ曲げられたから(p233)

2019年4月30日

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2019年04月30日

Posted by ブクログ

エッセイ&簡単な戦国武将解説書。戦国時代を経済面から捉えると時代がよく分かるという作者の主張がよく伝わる。タイトルは少し誇張しすぎな感じはあるが…特に蒲生氏郷の項目は、同武将を作者の作品で好きになったのもあり、とても気に入った。

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2019年07月13日

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