【感想・ネタバレ】10のストーリー・タイプから学ぶ脚本術のレビュー

あらすじ

シド・フィールドと並び称されるシナリオ理論の立役者、ブレイク・スナイダーの『SAVE THE CATの法則』第二弾!
アメリカで最も売れた脚本術を書き上げた男が、新たに「物語構造の極意」を徹底解説する!

本書ではスナイダーが独自に作り出した10の映画ジャンル(ストーリー・タイプ)ごとにそれぞれの代表的な作品を5本ずつ例にあげ、ヴァリエーションを説明しながら過去の作品が後の作品に生まれ変わるためのつながりを解明した。つまりあらゆるストーリー・タイプの抄録であり、どんな脚本家にとっても史上最強に役立つカンニングペーパーなのである。

著者は成功するための二つの要素を「ジャンル」と「構成」とし、もっとも人気のある10の「ジャンル(ストーリー・タイプ)」の共通点を見つけ出した。その後その共通点を体系化(構成)する方法を見つけ出し、テンプレート化(ブレイク・スナイダー・ビート・シート)したのが本書である。このセットを兼ね備えた脚本こそが、見識眼のあるバイヤーの目に止まり、観客を満足させる黄金の法則なのだ。真似することや形式化への偏見やプライドで読まないのはもったいない。

軽妙な語り口と、業界を知り尽くした人間ならではの鋭い視点によって、ハリウッド映画に隠された「ウケるための脚本の奥義」を伝授。映画の奥深さ、面白さが、脚本という切り口によって見えてくる本書は、映画脚本家を目指す人はもちろん、小説、ゲーム、マンガなど、あらゆるストーリーテリング創作に携わる者にとって必読の一冊である。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

〝相棒愛〟のストーリーにはさまざまなバリエーションがある。〝ボーイ・ミーツ・ガール〟の昔ながらの恋愛結婚話でも、悪党を追う警官二人組でも、ただつるんでいるのが好きなまぬけな二人組でも、同じ力学が適用できる。こうしたローレル&ハーディ(訳注・サイレンからトーキーの時代にかけて活躍したアメリカのお笑いコンビ。数多くの映画を残し、二本でも〝極楽コンビ〟の名で親しまれた)、ブッチ&サンダース(訳注・映画『明日に向かって撃て』の主人公の強盗コンビ。ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが演じた)、警官相棒映画のすべての表層の下に、『赤ちゃん教育』(38)、『パットとマイク』(52、劇場未公開)、『トゥー・ウィークス・ノーティス』(02)と同じ要素がある。唯一ちがうのは、後半の例では相棒の一方にはY染色体が欠けているということだけだ。確かにこうした映画の多くの核心にはセックスがあるけれども、それよりもむしろ、相棒とは離れているより一緒にいるのがいいということを徐々に理解していく〝完成〟についての物語なのだ。そして、あまりに多くの映画が〝ラブ・ストーリー〟を含んでいるために我々はしばしば混同してしまうが、真の〝相棒愛〟映画とはメイン・ストーリーにおいて、一方がいないと人生がつまらなくなってしまう、二人の個人を描くものだ。
『名犬ラッシー 家路』(43)や『エア・バディ』(97、劇場未公開)、『ワイルド・ブラック/少年の黒い馬』(79)のような、〝ペット愛〟寓話、『ユー・ガット・メール』(98)、『恋人たちの予感』(89)のような〝ロマコメ愛〟、『リーサル・ウェポン』(87)や『ラッシュ・アワー』(98)のような〝職業愛〟、『タイタニック』や『風と共に去りぬ』(39)のような〝禁断愛〟、さらにはアニメーションのおとぎ話、『美女と野獣』でさえ、こうしたストーリーに共通しているのは誰もが共感できる教訓――私の人生は他者を知ることで変わった、なのだ。
〈相愛〉映画は範囲が広すぎて扱いにくく思えるが、三つのシンプルな構成要素で成り立っている。1〝不完全な主人公〟、2彼/彼女が人生を完全なものにするために必要な〝片割れ〟、3二人を引き離している〝複雑な事情〟――実はその力こそが二人を結び付けているのだけれど。
 ダニー・グローヴァ―が『リーサル・ウェポン』の〝不完全な主人公〟であると、私にはわかっている。なぜって? おそらく誰もがメル・ギブソンこそがこの映画のスターだと思うだろうけど、これはダニーについての映画だからだ。私が思い出すのは映画の冒頭のシーンだ。ダニーの誕生日で、彼はバスタブの中に座り、白髪のことや間近に迫った警官からの引退、ありがちな更年期の疲労で憂鬱になっている。愛する妻や家族、あるいは仕事からは得られない助けを必要としている男が、ここにいる。ダニーには彼を生き返らせてくれる、何か別のものが必要だ。
 彼にはメル・ギブソンが必要なのだ。
 バスタブのダニー(まあ、そんなに長くそこにいたわけではないのだが)を思い浮かべれば、〈相愛〉の主人公の多くのスターディング・ポイントを大まかにつかんだといえる。『レインマン』(88)のヒップでクールで如才ないトム・クルーズは、フェラーリのインポーターとしてのゲームでは、トップにいるかもしれないが、彼の魂の明細書には何かが欠けている。同様に『タイタニック』でケイト・ウィンスレットが登場したときも、彼女は希望も解決策もないまま、母とフィアンセに束縛されている。『恋人たちの予感』のビリー・クリスタルも似たようなものだ。ビリーは自分と女性との関係が薄っぺらなことに気づいていないかもしれないが、我々はわかっているし、サリーことメグ・ライアンもそうだ。彼女がビリー扮するハリー(訳注・原題は『When Harry Met Sally……』)を直す、真の彼の姿を取り戻させる。そう、トムやケイトやビリーが体験する冒険はエキサイティングだし、友だちにその映画を薦めるときには、アクションやおもしろいシーンを挙げてみせるだろ。しかし、こうしたストーリーが〝語って〟いるのは、特別な他者によってのみ直すことのできる不完全な主人公であり、主人公はその他者を得られなければ〝死ぬ〟しかないのだ。いろいろクールなシーンはあっても、そここそが我々の〈つかみ(フック)〉だ。
 それはすべての〝ラヴ〟ストーリーが我々に教えてくれることなのだ。
 それではその他者とは誰だろう? 確率から言うと、〝片割れ〟はユニークで……しばしば奇妙であることが多い。『赤ちゃん教育』のキャサリン・ヘップバーンや『レインマン』おダスティン・ホフマン、『リーサル・ウェポン』のメル・ギブソン、ブラックと呼ばれる馬やラッシーという名の犬を思い浮かべてほしい。彼らはバスタブに座る者を生ぬるい沈滞から揺さぶり起こす、触媒となるキャラクターなのだ。
 典型的な触媒キャラクターは、自身はさほど変わらず、他者の変化に影響を及ぼす。その完璧な例が『レインマン』のダスティン・ホフマンで、役柄の設定上、変わることができない。これは〈相愛〉の方程式の片側は助けを必要としていないという意味でも、二人が結末で見出す人生に順応するために、なんの進歩もいらないという意味でもない。ただ、両方のキャラクターが変わって成長するなら、その映画は両手打ちと呼ばれ、相棒のそれぞれにセット・アップがあり、結末があることになる。『トゥー・ウィークス・ノーティス』のように、相棒それぞれの登場のセット・アップ、そしてそれぞれの問題に、枚数を割かなくてはならない。この映画では頭がよくてファニーなサンドラ・ブロックが反資本主義の弁護士に扮し、彼女が救おうとしているまさにそのビルを破壊しようとするきざな男、ヒュー・グラントと出会う。二人が一緒になりたいと思うなら、それぞれが思い切り大きく一歩を踏み出さなくてはならないことが、観客には即座にわかるのだ。
 では、二人がそうするのを妨げているのは何なのか? たいていの〈相愛〉もの、ことに〝ロマコメ(ロマンティック・コメデイ)〟の表面をこそげ落として〝複雑な事情〟をあらわにしてみると、ばかげていると言いたくなるようなことが多い。『10日間で男を上手にフル方法』(03)を見ていると、「マシュー、いいかげんにしろよ」とスクリーンに向かって叫びたくなる。「君はケイトを愛しているんだ、さっさと賭けのことを彼女に話せよ!」。しかし、脚本家はどんな手を使ってでも、恋人たちを離ればなれにしておかなくてはならない。『めぐり逢えたら』(93)の地理的な距離、それぞれの道徳観があまりに違うので、恋に落ちるには個々の中核をなす信念が変わらなくてはならないという状況(『トゥー・ウィークス・ノーティス』)、そして、『タイタニック』のゆっくりと沈んで行く船。だが皮肉なことに、こうした事情こそが実は二人を結びつけているのだ。
 複雑な事情にもう一人別の人物が関わってくることもある。このような三手打ちには『ヒズ・ガール・フライデー』(40)、『ブリジット・ジョーンズの日記』(01)、『メラニーは行く!』(02)などの〝三角関係〟映画の多くがそうであるように、間違った相手の下を去って正しい相手の下へ向かう物語がある。さらには、『夫以外の選択肢』(04、劇場未公開)や。『クローサー』(04)、この二作と比べると確実にもっと楽しい『恋人たちの予感』などの、二組のカップルを解剖する四手打ちなんてものまであるが、たいていの〈相愛〉ものでは特別な他者が全てだ。
 あらゆるストーリーがそうなのだが、〈相愛〉のエッセンスは詰まるところ対立であり、このジャンルの場合は、自分に必要な〝その人〟を見つけたことに気づいていない二人のあいだに起こる。〈相愛〉を書くときには、必ず問題のカップルをスターティング・ラインからずっと遡ったところへ連れていくこと。二人が出会った瞬間から互いに憎み合わないことには、どこへも行きつけない。君だって観客に劣らず二人を応援しているとしても、二人をできる限り引き離したところから始めて、できる限り多くの対立を盛り込むのだ。
 そして、もう一つちょっとした秘訣がある。多くのロマンスにおいてほとんどの時間、普通は女性の方が真実の愛を知っていて、男性はまるでわかっていない。大きく成長しなくてはならないのも彼の方だ。事実、スクリューボール・タイプのロマコメの多くがそういう話だ。『赤ちゃん教育』の最初から、キャサリン・ヘップバーンはケイリー・グラントこそその人だと知っていて、すべてのプロット――ベイビーという名の豹、コネティカットへの旅ケーリーの後援者の家に投げられた石――が、彼もそれに気づくまでの彼女の時間稼ぎを描いている。君がどんな状況を思いつこうと、それは必ず以下にあてはまる。相手と一緒になるためには、誰かが変わらなくてはならず、そしてたいていの場合、紳士諸君、それは我々なのですぞ!

 シドニー・ポラック監督のこの性転換コメデイ(『トッツィー』)で、ダスティン・ホフマンが彼の女の分身になりきりすぎて、ちょっと気味の悪い瞬間がある。自分の〝女性的な側面を探求する〟域を超えて、彼は別の存在の霊媒となっているのだ。最初のほうのシーンで、失業中の俳優、マイケル・ドロシーに扮したダスティン・ホフマンは、テリー・ガーの衣装をあててみて、鏡の中で〝ドロシー〟になる。たちまちのうちに、彼は変身したのだ。例によって、変装こそ〝覆面バカ〟ストーリーの主題であり、〈バカ勝〉テンプレートでは衣装、偽りの身分、性の仮面が鍵となる。しかし、他の〝男が女装する〟コメディから、この作品は傑出している。なぜか?
 ドロシーがリアルだからだ。そして、作品のメッセージも。この映画に関して語り草になっているのは、台本作りの過程で泥沼に陥り、脚本家が何人も変わって、最後にやっとラリー・ゲルバートが実際何に〝ついて〟の映画なのかに思い至ったという経緯だ。そう、設定はおもしろいし、筋も通っているが、『トッツィー』のテーマがはっきりして初めて、ストーリーが生きたのだ。これは〝女性になったことでよりよい人間になった〟男についての物語であり、そこがはっきりしたことで、変化の軌道も、構成要素も、仕掛けもジョークも、ぴたりと定位置にはまった。これはつかみはばっちりでも、何も言うべきことのないストーリーテラーに対する一つの教訓だ。君のストーリーが必ず何かを〈語っている〉ようにすること。実際に誰がホフマンにハイヒールをはかせたのかは、神と全米脚本家協会仲裁委員会のみぞ知るだが……その結果、魔法が生み出された。

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2025年04月07日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ダメ翻訳で悪名たかきフィルムアート社の本。誤植、誤訳は当たり前にある。
……あったので、出版社の時点で星1つ減じた。
DUDE!に『デゥード』なんて読みをあてるとかどこの国の人が翻訳担当したんでしょうか。

注:DUDE!はデュード!と読みます。
「 なんてこった!ケニーが殺されちゃった!」
で有名なアニメ、サウスパーク参照のこと。

タイトル通り、10のストーリー・タイプに映画を分けて、ストーリー解説を行った本である。
巻末の用語集を読んでから、本編を読むと頭に入りやすい。

本編ではストーリー解説を行ってるだけであり、脚本のノウハウとかそういうのは全くない。強いて言えば、巻末の用語集がノウハウというか、Tipsに該当する。

なので、創作に役立てようと思って読むと肩透かしを食らう。
また、ストーリータイプの分別についても疑問な作品名が挙げられていたりするため、どちらかといえば楽屋オチ的ユーモアのある読み物と考えて読むと良い。
ストーリー解説は、役名ではなく役者名で行っている。400字詰め原稿用紙3枚程度に収まるネタバレあり概略。

こういうタイプの本は珍しいが、だからといって目の色変えて探し出して読むほどすごい!というほどでもなかったので、星3つとした。

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2021年12月23日

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