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Posted by ブクログ
プロデューサーの鈴木敏夫と、龍雲寺住職-細川晋輔、円覚寺派管長-横田南嶺、作家であり僧の玄侑宗久和尚との対談集。ジブリから入るとわかりやすい。
モロがアシタカに問う「お前にサンを救えるか」
アシタカ「わからぬ」「だが、共に生きることはできる」。
まさに高僧達磨の「不識(ふしき)」。わからない、でも幸せを祈って生きていくことはできるというのが仏教の根底にある教え。
「不立文字(ふりゅうもんじ)」。
言葉ではなく、間。 ハウル
坐禅は何かを得るというよりも捨てる場。少し立ち止まり自分に向ける時間。『魔女の宅急便』のキキも寝込んで仕事できない時間があったからこそ、また空を飛べるようになった。そして、黒猫ジジはキキ自身。まだ自己を確立していないキキが自分になったからジジは話す必要がなくなった。
「壺中日月長(こちゅうじつげつながし)」。
時間を超越した悟りの境地(壺から出てきたら成長していた) 。千と千尋、トトロ
「柳は緑、花は紅くれない」
(見たもの聞いたものを、そのまま受け止める心。私たちも所詮、自然の一部でしかなく、身構える必要などない) 。レッドタートル
「苦」
足下に咲いているユキノシタ。
(思うようにいかない)風立ちぬ
Posted by ブクログ
仏教の教えには、生きづらい現代社会に癒しの効果がある。この本を読んで救われる気持ちになった。
強調されるワードは『過去や未来に囚われず今を生きる』ということ。
鈴木氏がエピローグで書いていたように「禅とは何か?」の答えがこの本の中にある。これから禅を学んでみたいと、まず手に取る本としては大正解だった。
●ゲド戦記の裏話
●コラムの中で鈴木氏の死生観が語られていて興味深かった
●荘子の100分名著のテキスト読んでみたい
Posted by ブクログ
ジブリのプロデューサーの鈴木さんと禅僧の対談。
ジブリ映画を契機に禅の話がとても分かりやすく語られる。禅の言葉と、ジブリ作品の中で描かれた禅的なものが語られていて、とても興味深い。
今、目の前のことに集中すること、足るを知ること(すなわち、不要なものはすてること)の大切さを改めて学ぶ。理想の自分にとらわれると、現実の自分がみじめになってしまう。だから、今、目の前の事に集中することが大切ということ。
そして、本来無一物。全ては縁によって成り立っているので、自分一人でゴールまで行くのではなく誰かにバトンを渡すというスタンスでいればよいという言葉に感銘を受ける。なんでも、一人で全てやろうと思わなくてもよいし、それは思い上がりだと知る。この本来無一物という言葉が、小説宮本武蔵にも出ていると言われており、再読しようかと思った。
「両行」:対立するもの両方をそのまま生かしておくと、必ず何かがうまれてくる、という考え方が説明されていて、救いを感じる。これは、平川克己の「21世紀の楕円幻想論」での語られた貨幣経済と贈与・全体給付の対のバランスをとるということの基本になるという気がした。
また、怒りもエネルギーの源だから、完全に捨て去るのではなく、怒りをどの程度自分の心に残すかがカギであるという禅僧の言葉には、驚いた。
そして、禅のすべては「着て」「食べて」「出して」「寝る」。ああ、その通りだという横田南嶺老子の言葉は平明で、そこに集約して考えれば、迷いがなくなるような気がした。
しかしながら、荘子の一節で「一切をあるがままに受け入れるところに真の自由がある」というのは、とてもとてもたどり着ける気がしなかった。
とにかく学び、気づきの多い一冊。何度でも読み返そうと思う。
心に残ったのが次の言葉たち。
・即今目前
・放下著
→いろいろと放り出して、目の前のことに集中せよ
・前後際断
→過去も未来もどんどん捨てろ
・小説 宮本武蔵の中で、「本来無一物」という言葉が出ているということ。本来無一物とは、自分は何も持っていない、全ての縁によって成り立っていること。「金も名誉もすべて手放せ」と言っているのではなく、自分が無一物であることを認識すると、悩みも自分の影法師である、と。
Posted by ブクログ
言わずと知れた、スタジオジブリの名プロデューサー鈴木敏夫氏と三人の禅僧による禅問答。
何故ジブリと禅?と不思議に思って読むと、ジブリと禅との数々の共通点に驚かされる。
鈴木氏によるジブリ作品や宮崎駿監督に関するエピソード、仕事との向き合い方・生き方等々、感心したり感動したりの連続で付箋紙張りまくりとなった。
●宮崎監督の作る映画は人の弱さをちゃんと認めている。認めた上で、弱い子もやりようによっては元気になる、そういう映画。
●過去や未來にとらわれず、今この瞬間に集中する。今目の前のことをちゃんとする。
●「この世の中、捨てたもんじゃないよ」というのがジブリの基本姿勢。だから、先のことばかり考えずに今のことをちゃんとやるべし。
●亡くなった人と再び逢えるかどうかはわからない。しかし共に生きることはできる。「不識」、つまりわからないことこそが人生だ。
●坐禅は何かを得るというより捨てる場。ちょっと立ち止まって自分にベクトルを向ける時間。
『魔女の宅急便』のキキも風邪をひいて寝込む時間があったから、また空を飛べるようになった。自分なりの答えが出てきたのだ。
●キキにとって黒猫ジジは自分自身。まだ自己を確立していないキキが自分になったからジジは話す必要がなくなった。
●「一日暮らし」どんなつらいこともその日一日だと思えば耐えられるし、どんな楽しいこともその日一日だと思えば浮かれることはない。
●宮崎監督は「今、ここ」の人。「今、ここ」への集中力が半端ない。
●現実の壁に突き当たり、思うようにならず、もう一度やり直す。誰でもその繰り返し。
●好きな人とは思うようにいなかないからいい。そこに美がある。
●宮崎監督と鈴木さんとの共通項は過去の話をしないこと。いつも「今、ここ」。そして互いを尊敬していない。
●ジブリ作品は「何が起こるかわからない。それでも行く」
●夫婦で問題が生じるのは、必ず「向き合おう」とするところから。向き合うとたいがい相手の欠陥しか見えない。
●「老いの熟成」年をとれば肉体的には衰えるけれど精神は自由になる。
●慣れを手放す。
●色気をほんのちょっと持つ、枯れない年寄りになる。
77歳(2018年3月現在)になった宮崎監督は未だに成長を続けているという。
強靭な精神力をいつまでも失わず、熟成し続けて新たな作品を生み出してほしい。
Posted by ブクログ
この本を案内しようとと思ったのは表紙をスキャナーで写真にとってみると、手抜きの構成のようなんだけれど、これが結構面白い。たった、それだけ。
鈴木敏夫という人は、知る人ぞ知る「スタジオジブリ」のプロデューサー。宮崎駿や高畑勲の仕事を支えている人。もともとは徳間書房の編集者だったらしい。その鈴木敏夫が三人の僧侶と出会う。
ぼくは、基本、この手の学者やタレント、経営者の人生論系の本は読まない。だって、めんどくさいじゃないか。世間では、本屋の棚を見る限り氾濫していて、よく読まれているらしい。この本も、そういうめんどくさい系の一つであることは間違いないが、ジブリの鈴木敏夫という名前に惹かれた。
読みはじめると、宮崎駿が準備している作品が、ここ数年、社会現象化しているあの「君たちはどう生きるか」だという。
「プロデューサが参禅のおしゃべりで、監督は超流行りの人生論かよ。やれやれ・・・。うーん、引退宣言の後はそうきますか?」
ジブリの、宮崎駿や高畑勲のアニメーションは「風の谷のナウシカ」以来ずーっと、我が家では流行っていて、そういえば、ドアを開けて入ってくると暗いだけの玄関の壁ではナウシカとオームのチビが散歩している。「ナウシカ」はジブリ以前の作品で、「天空の城ラピュタ」から「トトロ」がスタジオ・ジブリの仕事の始まり。
今は30歳をはるかに超えている、ヤサイクンやサカナクンたちが小学生だった。みんなでトトロの歌を歌っていた。
あるこう あるこう わたしはげんき♪♪
あるくのだいすき♪♪
これって人生論じゃないよね。でもまあ、徘徊ソングなわけで、「君たちはどう生きるか」、まあ、宮崎駿がどう描くか、やっぱり興味はあるけど。
さて、その鈴木君が禅宗のお坊さんと会ってしゃべる。黙って座禅を組めばいいようなものだが、それでは本にならないからおしゃべりをすることになる。登場するお坊さん、どなたの名前も知らないなと思っていると、最後の一人は玄侑宗久、芥川賞作家である。そこにこんな会話がある。
鈴木:高畑さん、宮さん、この二人を見ていて、年齢を重ねて も、二人共いまだに映画を作りたい。ぼくの想像では、た ぶん死ぬまで「枯れる」なんて考えない人たちだと思うん ですよ。ギンギラギンのまま。
玄侑:なるほど。禅で言う「枯れる」とは、どちらかというと 「余白の美」に近いと思います。(略)特に高畑監督は映画の 中で余白とか、虚の部分を重視されていますよね。
鈴木:していますね。単純に絵だって、年を重ねてからの作品 には必ず余白があります。
玄侑:だから、作品の中で枯れておられるんじゃないですか? 高畑監督の「かぐや姫の物語」なんてまさにそうだとおもい ます。あの、月から使者が迎えに来るラストの光景と音楽は ちょっと忘れられないですね。
鈴木:仏教の来迎図ががモデルです。高畑さんは、来迎図の菩 薩たちが持っている楽器全部調べて、それぞれの音色を再現 して演奏してもらった。最後の曲はそういう曲ですね。
宮崎駿の引退宣言については「問答後談」のなかでこんなことを書いている。
《宮崎駿は「今、ここ」の人である。加藤周一さんに倣うなら、明日は明日の風が吹くし、昨日のことは水に流す人だ。(略)だから、引退宣言を繰り返してきた。
あまり知られていない話を披露するなら「風の谷のナウシカを作った直後にも「二度と監督はやらない」と宣言した。質の向上のために仲間たちに罵声を浴びせなくてはいけないのが監督の役割。「もう友人はなくしたくない」が、その理由だった。
あれはもう三年以上前になる。盛大な引退記者会見を開いた。それを再び、去年放送のHKスペシャルでひっくり返した。監督への復帰宣言だった。まさに「終わらない人宮崎駿」である。
「これまで等身大の自分をさらけ出した作品は作ってこなかった。最後はそれをやりたい」
宮さんとしてはやり残したことがあると言い出した。おいおい、これまでだった、十二分に自分をさらけ出していると言いたかったが、ぼくは失笑をこらえつつ同意した。
―略―
で、問題はこの先だ。宮さんは、この正月で満七十六歳になった。宮崎家は親戚を含めて八十歳を越えた人は皆無らしい。去年の秋、長兄が七十七歳で亡くなり、宮さんのお父さんは享年七十九歳だった。
「作っている途中で死ぬかもしれない」
その気持ちが彼を駆り立てる。ぼくの老後の楽しみはどこへ行ってしまうのか。しようがない。宮さんと共に生きてきた人生だ。協力せねばと覚悟した。》
高畑勲は、この本が編集されている最中、2018年四月五日に亡くなった。
宮崎駿は、新作アニメに没頭しているらしい。三月二十一にに書かれたプロローグに、三年がかりで出来上がった絵コンテに対する鈴木敏夫の批判と宮崎駿の反応が書かれている。
「‥・・・詰め込み過ぎですね」
「自信作です」
「要素はいずれも面白い。しかし、お客さんが置いてけぼりを食らう」
一か月半の後、新しい絵コンテが完成し、それを読み終えた鈴木は、その時の心境をこう書いている。
《目の前の宮さんは、天才以外の何物でもなかった。七十七歳にして成長を続ける、この老監督のどこにそんなエネルギーが残っていたのか、ぼくは、宮さんのその強靭な精神力に対して恐れおののいた。》
読み終えて、プロローグに戻ってみる。宮崎駿の新作を心待ちにする気分になる。今度こそ、最後の作品になるかもしれないんだから。
それにしても、表紙の写真の僧と鈴木敏夫の配置、やっぱり、かなり工夫されているようだ。