【感想・ネタバレ】江戸の科学者のレビュー

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伊能孝忠、門仲に住んでたらしい。結構知らない人多かったなあ。海外の科学者の話ばかり読んでたから。関孝和とか伊能忠敬とかは知ってたけど。

新戸雅章
1948年、神奈川県生まれ。横浜市立大学文理学部卒。テスラ研究所所長、テスラ記念協会会員。ニコラ・テスラ、チャールズ・バベッジなど、知られざる天才の発掘に情熱を注ぐとともに、その発想を現代にいかす道を探る著作活動を続けている


高橋至時 たかはし よしとき・・・江戸時代後期の天文学者。天文方に任命され、寛政暦への改暦作業において、間重富とともに中心的な役割を果たした。また、伊能忠敬の師としても知られる。子に天文学者で伊能忠敬の没後「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保、天保改暦を主導した渋川景佑がいる。

しづき‐ただお【志筑忠雄】・・・江戸中期の蘭学者。本姓中野。号柳圃。長崎生まれ。オランダ通詞志筑家の養子となり、本木良永に天文学を学ぶ。語学力に優れ、「和蘭詞品考」「助字考」の文法書を著したほか、イギリス人ケールの物理学書を解訳して「暦象新書」三編を著し、地動説、ニュートン力学を紹介した。また、ドイツの医学者ケンペルの「日本誌」中から「鎖国論」を訳出した。宝暦一〇~文化三年(一七六〇‐一八〇六)

橋本宗吉・・・(はしもと そうきち、宝暦13年(1763年) - 天保7年5月1日(1836年6月14日))または橋本 鄭(はしもと てい)[7]は日本の蘭方医、蘭学者である。曇斎(どんさい)、絲漢堂とも号した[8]。医学、天文学、本草学の翻訳を手がけた。また蘭学書を読み解いてエレキテルを自作し、エレキテルおよび数々の実験についての記述を残している。これらの業績より、日本の電気学の学術的研究の祖であるとも評される[5][9][10]。

平賀源内・・・(ひらが げんない、享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日))は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。源内は通称で、元内とも書いた。諱は国倫くにとも[1]、字は子彝しい。数多くの号を使い分け、画号の鳩渓きゅうけい、俳号の李山りざんや、戯作者としては風来山人ふうらいさんじん[1]、浄瑠璃作者としては福内鬼外ふくうちきがい[1] の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人てんじくろうにん、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内ひんかぜにない[2] などといった別名も使っていた。

宇田川榕菴・・・(うだがわ ようあん、1798年4月24日(寛政10年3月9日) - 1846年8月13日(弘化3年6月22日)[1])は、津山藩(岡山県津山市)の藩医で蘭学者。名は榕、緑舫とも号した。宇田川榕庵とも表記される。それまで日本になかった植物学、化学等を初めて書物にして紹介した人物である。元服前の14歳の時、江戸詰めの大垣藩医の家から養子に出され藩医となる。宇田川家は蘭学の名門として知られ、養父である宇田川玄真、また玄真の養父である宇田川玄随、榕菴の養子である宇田川興斎も蘭学者、洋学者として知られる。

司馬江漢・・・(しば こうかん、延享4年〈1747年〉- 文政元年10月21日〈1818年11月19日〉)は、江戸時代の絵師、蘭学者。青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で鈴木 春重(すずき はるしげ)を名乗り、中国(清)より伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画を制作した。さらに版画を生かした刊行物で、世界地図や地動説など西洋の自然科学を紹介した。本名は安藤吉次郎[1]、安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。また、春波楼(しゅんぱろう)[1]、桃言、無言道人、西洋道人と号す。

緒方洪庵・・・(おがた こうあん、文化7年7月14日〈1810年8月13日〉 - 文久3年6月10日〈1863年7月25日〉)は、江戸時代後期の武士(足守藩士)・医師・蘭学者。諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。大阪に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に大きく貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。

田中久重・・・(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)11月7日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。

川本幸民・・・(かわもと こうみん、1810年(文化7年) - 1871年7月18日(明治4年6月1日) )は、幕末・明治維新期の医師および蘭学者。名は裕(ゆたか)、号は裕軒(ゆうけん)。父は三田藩侍医の川本周安[1][2]。その業績から、日本化学の祖とも言われる[3][4]。幸民は化学新書をはじめとする科学技術分野の多数の書物を執筆した。専門性を基礎として、白砂糖[注釈 1][5]、マッチ[6][7]、銀板写真[6]の試作をし、日本における技術の発展に貢献した。 幸民は日本で初めてビールを醸造したと推定されている[注釈 2][1][5][3][6]。また当時用いられていた「舎密」の代わりに「化学」という言葉を初めて用いたことでも知られている[13]。

「伊能忠敬を育てた男」高橋至時が生まれたのは明和元年(一七六四年)。父は大坂 定番同心、すなわち町奉行の同心だった。至時は一五歳で父を継ぎ、公務のかたわら 子供の時分から興味のあった数学や暦学の研究に励んだ。その後、麻田離立のもとに 弟子入りした。

大坂に天文暦学の塾「先事館」を開いていた麻田剛立は、わが国天文学の開祖とも 言うべき傑物である。もともと豊後(大分県)柿築藩の藩医で名を綾部妥彰と言った。 幼い頃から星や空に興味を抱いて天文の研究に取り組んだ妥彰は、三〇代後半で研究 に専念するため脱藩を決意した。大坂に出ると名を麻田剛立と改め、町医者を開業し ながら天文研究に励むようになった。

忠雄の科学以外の訳業に日を向けてみると、一番有名なのは、享和元年(一八〇一 年)に刊行したエンゲルベルト・ケンペルの『鎖国論』(一七二七年)の翻訳だろう。 ケンペルはドイツの博物学者・医師で、元禄時代に来日し、二年間にわたって日本 研究に取り組んだ。帰国後、その体験をもとに日本紹介の書『廻国奇観』(一七一二 年)を刊行した。さらにその死後、遺稿を集めて刊行されたのが『日本誌』で、当時 のヨーロッパで広く愛読された。『鎖国論』はその巻末付録として、当時の日本が とっていた外交政策について論じた一文である。 「鎖国」については明治以降、ほぼ一貫して否定的価値観でとらえられてきたた め、ケンペルの書も鎖国批判の書と誤解されがちである。しかしケンペルの論はそれ とは真逆で、鎖国肯定論であり、「鎖国のすすめ」だった。 彼は幕府がとっている鎖国政策は、決して問違っていないとする。その政策は一般 的には好ましくないが、日本の場合は内外の状況から考えて適切な選択だというので ある。
外国との交易には戦争や侵略などの危険がともなう。日本には自立した経済とすぐ れた文化があるのだから、あえてそのような危険を冒す必要はない。これがケンペル の論の骨子である。西洋の植民地主義と日本の事情を知悉するケンペルならではの見 識と言えるだろう。

人と交わるのが苦手な忠雄は生涯長崎を一歩も出ず、家にこもり、名利や栄達を求 めず、文字どおり書に埋もれて蘭学の研究に没頭した。他の学者とほとんど交流をも たなかったため、その名が知られるのは遅かった。

孝和の新しい数学は彼の弟子や理解者からは崇拝されたが、出 る杭は打たれるのたとえもある。その擡を苦々しく思う和算家 たちは、孝和の解法はでたらめで、答えは間違いばかりだと非難 した。また、その業績は中国の数学書の丸写しであり、しかも、 それを他人に知られないよう書籍は焼却してしまったのだと指弾 した。

た。その理由は、公理から説き起こして、抽象的な思考を厳密に進めるという思考ス タイルが、日本人には適さないからだと言われてきた。また日本ではソロバンが発達 し、計算に重きが置かれたため、数学が理論的に発展しなかったという説もあった。 しかしこれらの議論は偏っているのみならず、前提からして間違っている。 日本には関孝和も、建部賢弘もいた。ほかにも優れた和算家を輩出した。江戸期に は庶民のための数学入門書がベストセラーになり、全国に数学塾が開かれ、西洋とほ ぼ同等の記号による数学が隆盛をきわめた。 日本人は決して数学が嫌いなわけでも、数学的思考が苦手なわけでもなかったので ある。むしろ世界的に見れば、インド人やアラブ人に劣らず数学好きな国民だった。 こうした認識は、今後の数学教育を考えるうえでも大きなヒントになるのではないだ ろうか。

「非常の人」、源内をあらわすにこれほどふさわしい呼び名はなかっただろう。 博物学者であり、鉱山技師であり、電気学者、化学者、起業家、イベントプラン ナー、技術コンサルタントであり、日本最初の西洋画家であり、ベストセラー小説 『風流志遣報伝』や人気戯作『秘霊矢日渡』の作者であり、「本日型の日」で知られる日本最初のコピーライターでもあった。

私生活では生涯妻をとらなかった。当代一の文化人で、人気者。肖像画を見るかぎ り、顔立ちも悪くない。とくれば、女性が放っておかないはずだが、なぜ独り身を通 したのか。理由ははっきりしないが、一説には男色家だったからだという。男色を提 供する陰間紫屋のガイドブック『男色細見』などを著わしていることや、歌舞伎役者 を愛人にしたのがその証拠とされている。そう言えば同じ独身者のレオナルド・ダ・ヴィンチにも男色家説があり、その性癖 と創造性が結びつけられて論じられることがよくある。さては源内先生も、と言いた いところだが、その詮索は本書の任ではないだろう。

「なに、わからない世間が悪いのさ」 そう信じて不思議でない才能であり、活躍ぶりだった。しかしエレキテルの製作を手伝っていた者を偽造で訴えだしたあたりから、時代の寵児もどうも世の中とかみ合わなくなってきた。 やることなすことボタンの掛け違え。それを見て、一時はあれほどもてはやしていた世問も、大風呂敷、山師とそ しる始末。さすがの源内も己の才能に対する満々たる自信と現実の落差に苛立つことが増えていった。それに例用 「仕官御構」がきいて、仕官もかなわない身では、金銭的な苦労も多かった。 彼の人生の不幸な結末も、そんな鬱積が引き金になったのだろうか。 常に新奇なものを求めて、日本全国をかけめぐった時代の寵児を、天は畳の上で死なせてはくれなかった。

安永八年(一七七九年)一一月、源内は奉行所に白ら出頭し、驚くべき申し立てを行った。酒の上のあやまちから 人を斬り殺したというのである。この頃の源内は、江戸で知らない者がないほどの有名人だった。その名士が引き起 こした殺人事件は、江戸市中を騒然とさせた。 この大事件の詳細については、斬った相手も、動機にも不明な点が多い。 ある資料によれば、斬ったのはさる大名の庭に関する普請を請け負った町人だという。町人から相談を受けた源内 は、自分なら費用を大幅に圧縮できると豪語し、その話し合いのために役人も交えて源内宅で酒宴をもうけた。 町人と源内は最後まで飲み明かし、泥酔してそのまま寝てしまった。翌朝、設計や見積りの書類がないのに気づいた源内が、町人に盗みの嫌疑をかけ、口論の末、かっとなって斬りかかったというのである。 今のところこれが有力視されているが、異なる資料もあって、それ以上くわしいことはわかっていない。 白首から一カ月後、源内は小伝馬町の牢内で獄中死した。死因についても不明の点が多い。牢内で患った破傷風に よる病死という説が有力だが、絶食して餓死したとかの説もあって定まっていない。いずれにしても、鬼面人を驚か す非常の人は、最期まで世間を驚かせ続けて世を去ったのだった。

江漢の洋風画への関心は、蘭学への情熱と重なっていた。西洋の知識を吸収してい くうちに、ますます洋風画の魅力に惹かれた江漢は、ついに自ら腐食銅版画(エッチン グ)の製作に着手することにした。

酒づくりには化学知識の結品という側面がある。酵母、酵素、アルコール、発酵技 術⋯⋯。幸民のチャレンジにはこうしたビールに対する化学的興味に加えて、未知の 酒を試したいという酒好きの性もあったかもしれない。数カ月かけてようやく醸造に 成功した幸民は、蘭学者を招いて盛大な試飲会を開催したというわけである。 西洋の酒をつくって皆で飲む。それはまさに西洋を飲みほす洋学者の気概を示すよ うだった。この試醸によって幸民はビール醸造の始祖という栄誉も担うことになっ その化学知識を活かして、彼がもうひとつ挑んだのが写真術である。 一八三九年、フランスの画家ルイ・ジャック・ダゲールは保存可能な写真を発明 し、「ダゲレオタイプ」と名づけた。これが写真術の始まりとされている。

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2023年10月17日

Posted by ブクログ

11人の科学者について書かれている。知っていたのは、高橋至時、関孝和、平賀源内、緒方洪庵の4人だけ。


江戸時代に、あれだけのことを成していたとは、とても驚きました。現代に比べれば、情報はかなり少なかったのに。

彼らの情熱、探究心、諦めない心等そういったものもあると思うが、やはり天賦の才能が凡人とは違ったのではないかと思う。

あと感じたのは、人との出会い、本の効力。

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2018年10月08日

Posted by ブクログ

江戸時代の偉大な日本人科学者たち11人を紹介する一冊。本書は11人それぞれが短くまとめられていて読みやすく、入門書的な一冊と言えるでしょう。江戸時代も長崎を窓として中国・西洋の書物が日本に紹介されており、それらを読み解きかつ試し、独自に科学技術を育んでいたで人びとたちの努力があってこそ、明治維新とその後の日本があったということです。全然知らなかった読者には、こんな人びとがいたという知識を得るのには充分な一冊だと思いますが、細かいことはよく分からないし、紹介される人が生き生きと描かれているわけでもない。物足りなければ、広瀬隆の「文明開化は長崎から」を読むのをお薦めします。と言うより、本書を読んで「文明開化は長崎から」を読む方がよいでしょう。後者をいきなり読むのはしんどいので。

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2018年07月17日

Posted by ブクログ

ネタバレ

<目次>
まえがき
第1章  究理の学へ
第2章  江戸科学のスーパースター
第3章  過渡期の異才たち
第4章  明治科学をつくった人々

<内容>
江戸時代の科学者の苦労とその偉業を読みやすい文章で紹介したもの。もとは学研の「大人の科学.net」連載の記事が元だそう。杉田玄白や平賀源内など有名人もいますが、宇田川榕庵や川本幸民、国友一貫斎など、まずは知らない人も。学校で教える際にもあまり出てこないが、重要な努力や橋渡しをしていたことがわかります。文化史は教えにくいのですが、この辺からまた詳細に伝えられたら、と思います。

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2018年04月30日

Posted by ブクログ

ネタバレ

明治以降の発展は江戸時代の科学力に由来するところが大きかったと理解できる一冊。授業や講義では習わなかった人達も出ています。新しい理論を考え出したというより、やっぱり技術的に優れた人が今の日本につながっていると思う。

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2019年07月26日

Posted by ブクログ

伊能忠敬や平賀源内、関孝和を知っている程度。
実録読み物として面白かったけど、時々挿入される妙な小説風描写がいらん。
小説家になりたいのかな?
はっきり言いましょう。無理です。

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2018年07月10日

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