あらすじ
お釈迦さまの言葉に最も近い経典といわれるパーリ語の「ダンマパダ」。日本では「法句経」として知られる経典をもとに、スリランカ仏教界の長老が上座仏教のエッセンスを語る。
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Posted by ブクログ
これ分かる。あんまりされたことないけど、アジア人差別にしてもレズビアン差別にしても、怒りになった事ない。そんな事言うやつは可哀想な人しか居なかったもん。いじめもどう考えてもいじめをする方が心に闇抱えてるじゃん。
これ、フェミニストにも思うことなんだけど、フェミニストって、フェミニストしか読まなそうな本ばかり読んでるし、思想に固執した人達ってイメージがあって苦手なんだよね。
アルボムッレ・スマナサーラ
(シンハラ語: අලුබෝමුල්ලේ සුමනසාර Alubomulle Sumanasara、1945年4月 - )は、イギリス領セイロン(現・スリランカ)出身の僧侶[4]。スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老であり[注 1]、スリランカ上座仏教シャム派の日本大サンガ主任長老[注 2]、日本テーラワーダ仏教協会長老[注 3]、スリランカ・キリタラマヤ精舎住職[注 4]。日本において仏教伝道[注 5]、および瞑想指導を行う[13]。『怒らないこと』(サンガ新書)など多数の著書がある[4]。仏教とは今この場で役に立ち、自ら実践し理解する智慧の教えであると説く[1]。1945年4月、イギリス領セイロン(現・スリランカ)のアルボ村に生まれた[7]。名前のアルボムッレは出身地に由来する[14]。13歳で沙弥出家、1965年に具足戒を受けて比丘となった[7]。
スリランカの国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭を執ったのち[15]、1980年に国費留学生として来日し[7]、大阪外国語大学語学コースを経て駒澤大学大学院人文科学研究科仏教学専攻博士後期課程に進学し[16]、駒澤大学教授奈良康明の下[17]、道元の思想を研究した[7]。その後、スリランカと日本両国での活動を経て、1991年に再来日し、上座仏教修道会にて仏教講演や瞑想指導を本格的に開始した[7]。
1994年11月に、初代会長を鈴木一生として、日本テーラワーダ協会(のちの宗教法人日本テーラワーダ仏教協会)を設立し、2001年5月に東京都渋谷区幡ヶ谷にゴータミー精舎幡ヶ谷テーラワーダ仏教センターを開山し、2005年8月にスリランカ上座仏教シャム派総本山アスギリヤ大精舎(英語版)にて日本大サンガ主任長老(ナーヤカ長老)[注 2]に任命された[7][10]。日本テーラワーダ仏教協会の長老(chief adviser)[注 3]、ならびにスリランカのベヤンゴダ町[18] にあるキリタラマヤ精舎住職を務める[注 4]。
日本テーラワーダ仏教協会や朝日カルチャーセンターでの講演、NHK教育テレビこころの時代への出演などを行い、仏教の伝道[注 5]、ならびにヴィパッサナー瞑想の指導に従事する[1]。23万部に達するベストセラーとなった『怒らないこと』(サンガ新書)[5] など100冊以上の著書があり、累計発行部数は100万部を超え[4]、内容としては、ダンマパダ(法句経)などのパーリ語経典の教えを現代向けに応用して話題にした法話集や、ラベリング[注 6]を重視するマハーシ系統のヴィパッサナー瞑想の解説書などがある[20][21]。上座仏教に関して、スマナサーラは、日本の仏教とは共通点も多いが違う点もあり、日本の仏教は釈迦の死後かなりたってから編纂された大乗経典に基づくため、釈迦のアイデアが旨く伝わっていない部分があると述べる[22]。上座仏教は神も信仰も無いことで他の宗教と異なると述べ、仏教は釈迦の「教え」であって「宗教」では無く、論理的で実践的な「心の科学」だと説き[23]、今この場で役に立ち、自ら実践し理解する智慧の教えであると説く[1]。
「怒らないこと」に関しては、「世界」は自分の思い通りには変えられないため、「自分」の方が変われば良いと説く[24]。一切の物事は無常であり、無常が怒りの原因であり、人は怒らずにはいられないと説き[25]、我々は常に変化し、体は苦の感覚で出来ており不変の実体は無いことを説く[12]。人を不幸にしているのは怒り・欲望・執着などであり、理性によって捨て去ることができること、そのために重要なのは怒らないことであること、怒ることは「自分は正しい」という態度であり極限の無知であること、人が怒りを止められないのは自我が強いからであるが、自我とは錯覚に過ぎないことなどを説く[23]。「自分は偉い、自分を認めてくれないといけない」といった自我が怒りの元であり、その状態から逃れるには、怒りがわいたとき「これは怒りの感情だ」と、自分の精神状態を客観視するのが良く、それにより気持ちがよくなり元気になれると説く[26]。
自身の活動に関しては、釈迦の語った内容を分りやすく話すことを行っており、現実に生きる人々の役に立つことを教えており、現実の日本社会で問題を抱える人に、どんな問題を持っているのか尋ね、それに適した仏教の教えを紹介していると述べる[5]。現代は、釈迦の時代と比べ機械文明が進んだが本質は変わらず、現代人の悩みは、釈迦の教えで全部答えることが出来、来日後約30年経つが、答えられなかった質問はひとつも無いと述べる[5]。日本で活動する理由は、日本人が仏教を何も分っていないと思ったからであり、一方、駒澤大学時代における学生との交流から、日本人は躾がされていて性格的にはしっかりしており、納得のいくことを言われればきちんと実行するので、難しい仏教でも頑張れば出来る人々だと思ったからだと述べる[5]。
著書『怒らないこと』に関しては、本書は「怒りがあってうまくいかない」という相談への答えとして書いており、「怒ってはいけない」ではなく「怒りとは何か」「何で怒るのか」を論理的に分析してみせており、それが分ると自己管理が出来るようになると述べる[5]。日本人は決断や心のコントロールが失われてきていると思うが、仏教を学べば怖くないことが判ると述べ、怒りの問題が最も分りやすく、怒りと戦うと他の弱みは全部消えると述べる[5]。人間は弱いため、厳しく極限的に言う必要があり、それを計算して書いており、言葉が荒っぽい・乱暴だと指摘されるが、それは全部敢えて意図的に入れており、指摘されても「ほら当たったぞ」という感じであり直そうとは思わず、論理的・知識的に本質を批判できないことを知った上で書いていると述べる[5]。
道徳に関しては、仏教では、自分が他人にしてほしくないものが非道徳・してほしいものが道徳であり、一切の生命を慈しむことこそが全ての人間の問題の解決策だと説く[12]。
怒りは、自分も他人も破壊してしまいます。いやなことをされて、「憎しみをもつのは当然だ」といって怒りをいだけば、その怒りによって、さらに自分が苦しくなります。腹を立てたとき、いちばん最初に怒りに汚染されるのは自分自身です。腹を立てて、だれが不幸になるかというと、憎しみに満ちている自分自身なのです。心は汚れ痛んで、悪い報いをまず自分が味わってしまうのです。怒って相手を攻撃しようとしても、相手はそれによって困ることもあるし、まったく困らないこともあるでしょう。しかし、自分が怒りで汚染されることだけはたしかなことです。 あなたが、ある人を憎んでいるとします。しかし、相手はあなたが憎んでいることを知らなければ、相手にとっては、どうってことはないのです。あなたの怒りを知っていても、気にしなければ、それだけのことでしょう。怒るのは、汚物を投げつけるようなものです。投げつけるためには、まず自分がその汚物を手に取らなくてはなりません。自分で自分の手を汚すのです。汚物を投げつけても、相手がひょいとよけたとしたら、汚れるのは自分だけです。さらに、人を憎むと、憎んでいる相手と、いつもいっしょにいることになります。憎んでいる相手が、いつも心のなかにいて、いつも思いだされるからです。だから、ますます苦しむことになります。衣服に一つの小さな汚れがついたとします。その汚れを取るために、あっちこっち拭いて、汚れを広げる必要はありません。それは放っておけばいいのです。 そのように、相手から受けた怨みは放っておけばよいのです。たとえ相手が悪人であっても、みずからが怒りや憎しみをいだいたら、自分自身が損をするだけなのです。自分が怒りで汚れてしまえば、自分も悪人も、もうすでにどこか似ているのです。
「キリスト教の「聖書」にも、こんな話があります。律法学者たちが、イエスの前にある女を連れてやってきました。それは姦通の現場で捕らえた女でした。かれらはイエスに「姦通した女は石で打ち殺せと、律法(神との契約によって、神から下された命令)にある。あなたはどう思うか」と詰め寄ります。イエスは、こう言いました。「あなたたちのなかで罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。すると、一人また一人と立ち去って、その場に残った者はイエスと罪を犯した女だけになりました。そして、イエスは言います。「わたしはあなたを罰しない。帰りなさい。もう、罪を犯してはならない」と。「あの人が悪い」「上司が悪い」「社会が悪い」「政府が悪い」と批判ばかりする人は、「自分だけは悪くない」と思っている人です。自分のことをかえりみずに、他人を責める生き方をしているのです。しかし、よく自分自身を観察してみれば、自分もまた批判する者と同じようなレベルなのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
「スリランカでは、在家の方がわたしたち僧侶を礼拝します。その姿を見ると、出家と在家では、大きな差があると思うかもしれません。でも、日本の人が思うほどに、在家と出家の差はないのです。わたしの子どものころは、在家のおばあちゃんたちがわたしたちを叱って、立派な僧侶になるように教えてくれました。そのおばあちゃんたちは、わたしたちの振舞いに間違いがあれば、今でもわたしたち僧侶を叱りつけたりします。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
「人は、自分の欲も怒りも可愛いものです。自分には正当な理由があって怒っているのだと正当化さえします。人にとって怒りと欲は、自分の心に咲いた花のようなものです。しかし、いつまでももちつづけるのではなく、それは捨てたほうが安全なのです。わたしたちは、怒りと欲によって心身が消耗しています。怒りは余計なのです。 いつも「戦わなくてはいけない」「負けるものか」という気持ちでいる人がいます。どんな話をしても否定的な意見ばかり述べ、いつも相手を批判しています。ふとしたことばにも怒気が含まれ、つねに周囲に威圧感を与え、恐怖感をまき散らします。だから人と無用な争いを起こすのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
「よく食べすぎる人がいますが、ストレスがたまってイライラするから、それを解消しようとして無意識に食べてしまうのです。ゆっくり時間をかけて食べると、体に必要なものが入っただけで満足感が得られるようになります。やせすぎの人も太りすぎの人も、ちょうどよい状態になっていきます。こうして体自体が必要としているものがわかってくると、不必要なものは自然に食べたくなくなります。ですから「わたしは菜食主義で肉は絶対に食べない」などと思う必要はありません。主義に固執しているとそれがストレスになって、頑固で落ち着きがなくなってしまうからです。頭では菜食でいこうと思っていても、心は肉や魚を欲しているので、無意識にストレスがたまってしまうのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
「この食事の瞑想をしてみると、今まで発見できなかった味がわかってきます。ご飯だけでも、噛むたびに味が変わっていきます。高級グルメをさがし求めなくても、ニンジンをそのまま食べてみれば、びっくりするほど美味しく感じられるでしょう。野菜そのものの味がして、とても美味しいのです。野菜の青臭さとか、苦みとか、素材そのものの本来の味を味わってみてください。ゆっくりと丁寧に食事をしていると、最初はいらだちがでてくるかもしれません。しかし、それでも実践してみるのです。それができるようになれば、人生のいらだちまでもが解消されてゆきます。このような日常の些細なことから落ち着きを体得していけば、いつでも人生を落ち着いたものとすることができるのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
わたしたちは、「ないもの」を「ある」と思い、「あるもの」を「ない」と思っています。価値があるものを価値がないとして、価値がないものを価値があるとしています。 経典にはこういう話があります。生まれつき目の見えない人がいました。ある男が、その人にとても醜い汚れたボロの服を差しだして、こう言いました。 「この服は世界でもっとも美しい服です。高価なもので、大切に使わなくてはいけません。生命をなくしても、この服だけはなくしてはいけませんよ。それくらい価値があるのです」 かれはその話を信じて、その服をいつも大切に着ていました。あるとき、かれの姿に哀れみを感じた医者に助けられ、かれの目は見えるようになりました。目が見えたら、自分が世界一美しいと思って着ていた服は、汚れた粗末なものだったということがわかりました。かれはなんの未練もなく、その服を脱ぎ捨てました。
わたしたちの人生もまたかれと同じです。ボロの服を身にまとい、それを美しい服だと思い込んで暮らしているのです。その服が意味するものは、まさしく「自我」です。自我があるために、わたしたちは自己と他人を区別して、自分を大きく見せようと競争します。それが争いの原因になるのです。 自我が消えてしまえば、相手が自分よりも劣るとか、立派だとか区別して競うことはなくなって、心は穏やかになるのです。自我がなくなるといっても、あったものがなくなるわけではないのです。じつは、もともと自我というものはなかったのです。自我の働きは、「自分がもっとも大切で偉いのだ」という思い込みです。そこが問題なのです。
「「わたしはすばらしい」と思っていると、人間というものは、どんどんと傲慢になってしまいます。自我をだしたとたん、心の成長が止まるのです。それを恐れて出家のあいだでは、このような儀式を行なうのです。たとえばわたしなど、こうして袈裟を着て人前で説法などをしますと、さも立派な坊さんのように勘違いされることもありますが、日常生活の至るところで、自我がでてきます。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
電車が混んでいれば、「もうちょっと奥へ詰めてくれれば楽に立てるのに」と思ったり、地下鉄の出口を間違えたら、「わたしはなんてバカなんだろう。出口の名前を覚えておけばよかった。それにしても地下鉄の会社は、どうして看板にちゃんと書いておかないんだ」などと思うわけです。人間というものは、そんな程度なのです。「わたしは、ろくでもない。大したことはない。よく間違いをする」ということを、よく知っておくことが大切なのです。
「成長は自分では気がつかないものです。ちょうど植物の成長のようなものです。種から花が咲くまで、瞬間瞬間にはわかりませんが、確実に花は咲いていくのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
仏教では、この「自我」こそが、苦しみを生むおおもとになると説いています。そこをもう少し、詳しく見ていきましょう。 「かれがわたしに挨拶をしなかった」という場合、たんに「挨拶をしなかった」というだけのことです。ところが、「わたしはかれの上司だ。だからかれはわたしに挨拶をするべきなのに、挨拶しなかった。けしからん」ということになりますと、そこに苦しみが生じます。それは「わたし」という思いが、争いをつくってしまうわけです。ですから安らぎを得る道は、この「わたし」という思いを捨てることにあります。 わたしたちの心は、外からさまざまな情報が入ることによって、瞬間瞬間に動きだします。外からの情報が入る窓口は、眼・耳・鼻・舌・身・意と六つあります。目には色、耳には音、鼻には香り、舌には味、体には熱さとか硬さなどの感触、頭にはいろいろな概念が入ってきます。情報に触れたときに、わたしたちは、そこにさまざな価値判断を入れてしまうのです。
たとえば、音が耳から入ります。それは、たんなる音です。しかし、わたしたちは、「心地よい」とか「耳障り」だとか、主観的な価値判断を入れます。そうしてそこから、「わたしをいじめている。非難している」とか「仕返しをしなくては」というふうに、妄想がふくらんでいくのです。それが煩悩の働きです。 この煩悩の働きを断つには、外からの情報を得たとき、「ただ音だけ。ただ色が見えただけ」と観ていくのです。そこに「わたし」というものを入れないのです。
一切の事物に、「わたし」というものを入れない。それが、煩悩の働きを断ち、明らかな智慧を生むことになるのです。心を清らかにするには、特別な山中で修行する必要はありません。歩いていても、料理をしていても、電車に乗っていても、いつでもどこでもできることなのです。とかく、わたしたちの心は、ちょっとしたことで感動したり、悲しくなったり、暗くなったりしてしまいます。それは自動的な反応であったり、他人や外部から操られているようなものです。それは、不安定な浮わついた心です。
「わたしたちは、人の過失を指摘するのが大好きです。それは他人の過失を指摘することで、「自分は正しい」と思いたいからです。「あの人は嘘つきだ」というとき、「自分はあの人と違って正直者だ」と思うのです。自分をだまして、気分よく生きているわけです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
立派なかぶりものにだまされてはいけません。大会社の社長とか、一流大学の教授と名乗ると立派な人格者と思われます。しかし、それらは所詮はかぶりもので、中身は普通の人間かもしれません。宗教の世界でも、立派な法衣を着ていて、あたかも聖者のように振舞っていても、ほんとうの姿は違うということがよくあります。人間に必要なことは、外のかぶりものではなく内の心の清らかさです。心の清らかさとは、嫉妬・憎しみ・怒り・貪りなどで心が汚れていないことです。仏教では「捨てろ、捨てろ」と言います。それは「一切のかぶりものを取りなさい」ということなのです。
「自分は愚かだということに気がついている人は、日々学びます。その人は、けっして愚かではありません。 愚かな者は、自分にありもしない尊敬を得ようと願う。 修行僧らのあいだでは高い地位を望み、僧院にあっては支配権を望む。(七三) 愚か者の特徴は、自分が賢者に見られたいということです。そういう人にかぎって有名な先生につこうとします。偉い先生のそばにいることをありがたがるのです。「」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
「「自分はなにも知らない」として学びつづける人は、かならず花が咲きます。人はいつ学ぶのが終わるかというと、それは死ぬ瞬間です。「学ぶのは死ぬまで。教えてもらうのは死ぬまで」。インドにはそういうことわざがあります。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
「他人の幸せを願うことは、自分の心を喜ばせることになります。そして相手の心も喜びます。人の心が喜べば、同じ波動が自分に返ってくるのです。 人を祝福するとき、お互いがいい気分になります。祝福するほうも気持ちがいいし、されるほうも気持ちがいい。ともに喜び合えるのです。それが慈悲の働きなのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
慈悲の瞑想とは、どんなときにも心のなかで「すべての生命が幸福でありますように」と念じていくものです。まず「自分の幸せ」、つぎに「親しい人の幸せ」、そして「親しくない人の幸せ」「嫌いな人の幸せ」「自分を嫌っている人の幸せ」、最後に「生きとし生けるものすべての幸せ」を念じるのです。そして、できるだけ怒らないようにしていかなければなりません。ひとたび怒ったならば、慈悲の心はたちまち消えてしまいます。 「わたしを嫌っている人も幸せでありますように」「わたしが嫌いな人も幸せでありますように」と念ずるときには、やはり腹が立ったりするかもしれませんが、がまんして念じるのです。するとそのうちに、「あの人も、この人も幸せであってほしい」という気持ちになってきます。「みんなが幸せであってほしい。どうして、あの人たちは苦しんでいるのだろう」と、他人にたいする心の視野が広くなってくるのです。慈悲の瞑想が深まっていきますと、親しい人の幸せを念ずるときには、どんどん人数がふえていきます。
「犬に吠えられて怖くなった子どもは、どんな犬を見ても怖くなってしまいます。おいしい食べ物は、たびたび食べたくなります。小さいころ、本を読んで感動したら読書家になります。ちょっとしたことでも怒る癖がついたら、さまざまなところで人間関係の問題を起こして苦労することになります。いったん悪い癖がついたら、どんどんそれが強化されていくので、不幸になってしまいます。よい癖をつけた人びとは幸福になっていきます。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
お釈迦さまのことを「如来」といいます。如来の徳の一つは、かならずみずから実践したことを人びとに語っていることです。みずから実践していないことを語ることはないのです。お釈迦さまを模範とするのであれば、わたしたちも他人に言うばかりではなくて、みずから実践しなくてはなりません。自分の子どもにたいしても、だれにたいしてもそうです。 生きるということは、たいへん苦しいことです。逆境に遭うと、悲しみにおちいってしまうこともあるでしょう。でも、お釈迦さまのことを念ずると、自分に負けてはいけないという気持ちになります。
一般的には、勉強すれば頭がよくなると思われています。しかし、現代人は情報や知識を詰め込むだけですから、かえって頭が悪くなっています。なんのために知識や情報を蓄えるのか、ということを考えずに詰め込んでいるからです。それでは、結局のところ、なにもわかっていない。だからといって、「なにも知らない」とも言えないのです。頭のなかはなんの役にも立たない知識が雑然としているだけなのに、「知っている」と思っているわけです。余計な知識によって、ものごとを明晰に見ることができなくなっているのに……。
「智慧があるということは、「明晰である」ということです。特別に「なにかがある」ことではありません。じつは「特別になにもない」ことなのです。「心のなかになんの価値判断もない」ことです。ある価値判断や、特定の主義とか考えを強くもっていると、それにあてはまるものしか見えません。あるいは、なにかの知識にしがみついていると、それで頭がいっぱいになりますから、他のものが入らなくなってしまいます。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
インドの人びとにとって、花はとても大切なものです。花はご飯を食べる行為と同じように、日常生活でとても重要な役割をもっています。たんなる鑑賞のためだけではなく、神さまに捧げたり、体の健康のためにも使われるからです。 花は見た目の美しさとともに、香りが大切にされます。ジャスミンの花などはとても香りがよいので、さまざまな儀式にも使われます。また、体の調子が悪いときには体に花をつけて治したりもします。悪いエネルギーを体から外に出すために、花をお茶にしたり、ベッドに敷いたりするのです。 たとえば、ジャスミンの花でつくったレイを首にかけると目の疲れが取れます。また花の香りは心身をリラックスさせます。柔らかい自然な香りは、心を穏やかにさせ、怒りを鎮めます。 そのように、花の美しさは香りと結びつくことで、心身を癒してくれるのです。もしも、美しい花が、美しいだけでよければ造花でもよいことになります。 同じように、どんなに美しいことばでも、どんなにすばらしい真理のことばにしても、日常生活の中で役立てることができなければ、それは香りがない花のようなものです。