あらすじ
●コメ作りを前提とした農業では、日本に未来はない
高齢農家が引退し、耕作放棄が急増する。このあまりに聞き慣れた危機が、本当に目の前にせまってきた。かつて先人たちが懸命の努力できりひらいた田畑が、荒れた原野にもどろうとしている。
危機の根底に、兼業農家が中心の農業システムと、かれらがつくってきた日本の主食のコメがある。兼業モデルは、農業の経営と技術の進歩をはばんだという見方がある。
これは、ある意味正しい。だが、会社や役場でもらう給与も合わせれば、かれらはそれなりに豊かで、高度成長期に都市と農村が分裂するのをふせいだ。兼業モデルは、日本社会の安定装置だったと言っていい。 だが同時に、それは「壊れたシステム」でもあった。
利益が出ているのかどうかをかえりみず、採算無視でコメをつくる。この奇妙な仕組みが、需給ギャップを取り返しのつかない水準まで深刻にし、コメを中心とする日本の農業をピンチにおとしいれた。すさまじい勢いで加速する高齢農家の脱落は、新しい経営の拡大を上回り、だれも耕すものがいない農業の「空白地帯」を日本中に生む。
一方、農政はまるで思考停止のように、コメにこだわり続ける。日本人がコメを食べなくなったと知ると、こんどは家畜が食べるコメを農家につくらせる。だが、これは補助金がなければ成り立つ可能性がゼロの「官製作物」だ。危機的状況にある財政に、補助金で農家を支える余裕はない。
兼業だらけの農業システムはなぜ誕生し、どうして滅び去ろうとしているのか。目がくらむような米価の下落にあらがい、生きのこることができるのは、どんな経営なのか。そしてどうすれば、農地の荒廃をふせぎ、将来の世代に手渡すことができるのか。日本経済新聞編集委員が徹底的な現場取材と農政改革の分析に基づいて明らかにする。
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Posted by ブクログ
この分野の関係者でないとわかりにくいかもしれないが、マニアックかつ幅広に書かれているところがすごい。
独立系の記者みたいな感じさえする。
そして、あくまで食えるか食えないか(生計を支えるもの/経営として成り立つか)という切り口で書いているところもすごい。
兼業農家のバッファー吸収の在り方(農業リスクを会社員収入でカバー)
従業員を雇用し続けるために、収益性の薄れるコメを一部辞めてトマトハウスを作ったJAおばこ、
農産物と工業製品の契約の違い。
農業に欠けているのが、消費者の求めるものを敏感に察知するマーケティング力とできたものを効率的に消費者に届けるシステム。
農協による市場出荷は、大量の(あまり特色では差がでない)ものを安定的に捌くには効率的なシステムだった。食料不足の時には機能したが、供給過剰になると、消費者と生産者の関係を分断するという難点の方が大きくなった。
既存の農業経営にとって変わろうとするのではなく、農業を理解し、仕入れと販売の両面で競争力を高めようとする流通企業の参入。
これを読んですごく感じたのは、表面的な世間で言われることが問題なのではない。何が問題なのか、よく考えてみることだ。例えば、企業が農地の所有権を取得できないことが問題とはほとんど誰も考えていない。
「企業」ではなく「農家」に土地所有権を限定していたからと言って、農業がうまくいっていたわけではない。
―”正しいのは、「農家はもうかりにくい」という点だけだ。赤字になれば農家も企業も撤退する。農家が赤字でも頑張れたのは、兼業というシステムがあったから。
農業界が企業による農地の取得を拒み続ける心理の背景は、「よそもの」をいやがるムラの論理。いったん、相手がまじめに農業をやることがわかれば、村の態度は一変する。農地は、どんどん集まるようになる。
昔は合理的であった制度が、今の社会条件下でも合理的であり続けるのか。北村先生が、人間ドッグならぬ法律ドッグに!と書いていたのを思い出した^^;
だから制度は改正する。
農地の転用期待なんかも、昔はあったが、今はだいぶ薄れてきたのかな。
時代は刻一刻と変わっていく。その中で、以前は無理だったこともできることがあるかも知れない。
自分で、問題の構造的理解を深め、時代背景を追いたいと思うようになった。