あらすじ
ピレネーの旧家デュ・ラブナン家のイヴォンは、スペイン戦争の際レジスタンスに参加し、失踪する。同家の小作人、ジョゼフ・ラルースはイヴォンと行動を共にするが、単独で帰国後、イヴォンから山を贈与されたと主張し、そこに鉱脈が発見されたため裕福となった。二十年後、死んだはずのイヴォンから手紙が届き、裁きが行なわれるだろうと無気味な予告をしてくる。それが現実となって、ジョゼフの次女オデットの首を切り取られた惨殺死体が発見される……。司法警察のモガール警視の娘ナディアと不思議な日本人青年矢吹駆は真相究明を競い合う。日本の推理文壇に新しい一ページを書き加えた笠井潔の華麗なるデビュー長編。
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Posted by ブクログ
パリで起こる首切り死体から始まった連続殺人事件の謎を解明する話。
謎解きの肝は最後に記すとして、ラストの犯人と探偵役矢吹駆のやりとりが圧巻!
するとこなんだが何を言ってるのかついていけない。人間の死に関する自論展開になっている。
犯人たちが最後死ぬことになったのはやるせない。矢吹駆は犯人たちをそこまで追い込むやり方をとるのは賛同できないが、彼ならやってもおかしくないと思わせるだけの説明は作中されている。そこらへんは上手い。
以下メモ代わり
謎解きの肝となった何故死体の首が切られたか。死体が化粧をしていなかったことをばれないようにするため。
アリバイ作りのために犯人は被害者が化粧をし終わった時間に部屋を訪れたのに、前日飲んだ睡眠薬のせいで被害者はまだ化粧をしていなかった。仕方なく犯人は被害者の首を切り取って外出する準備が終わった形を装った。また犯人は男であったためハンドバックの準備まで思考が至らなかったのも味噌。
Posted by ブクログ
矢吹駆の凄まじいイケメン描写に圧倒され、しばらく読まないだろうと思っていたが、思いきって読むことにした。
やけに小難しく、かなり衒学的な小説だが、読んでみると意外と納得できる部分もある。
追記:犯人やあの人物の正体は、はじめからかなりヒントが出ていたので予想通りだった(特に黒幕はタイトルだけでわかるかも…)。動機はほとんど推理不可能なものだったが。
最後の黒幕との舌戦?や、たまに入る蘊蓄がいかにも文系という感じで笑えるくらいだったが、舞台が外国であることや、矢吹駆が日本語ではない言葉を話しているということでまぁ納得できる。
ナディアが推理を披露して玉砕する点や、殺人の動機が思いもよらないものだった点から、アンチミステリー的な雰囲気を感じた。小説の探偵が語る推理は、本当に正解かどうかなんて誰にもわからないというような。
それにしても、ナディアは今まで私が読んだ小説の中には出てこない強烈なタイプの女の子だった。
思想モデル:永田洋子、マルクス
Posted by ブクログ
オイディプス症候群だけ以前読んでて、本作のこともちらっと書いてあったのでどういう話なのか気になった。
相変わらず哲学の部分が分からなかったけど、オイディプスの時よりは哲学講座がなかった。
ナディアが自己中心的というか、探偵気取りで推理披露してるの若いなと苦笑しました。恥ずかしくないのかなと傍から見てて思いました。
あと、マチルドあんな感じになってしまったのは幼少期の経験からだと思うのですが、その辺を見たかったですね。
でも、このシリーズは哲学的観点(?)から犯人を推理していくから、あまり個人の背景や感情みたいなのには焦点充てないんですかね。。
Posted by ブクログ
すこし縁があって、いつか読もうと思っていたこの本に手を伸ばした。笠井潔の処女作。
ミステリとしての謎解き、雰囲気についてはなるほどこれか、という感じ。ミステリが好きなので、なにかこう「そうそうこれこれ」という懐かしさに浸されながら最後まで読み切れた。
作者が描ききりたかったのは謎の部分よりも殺人の意味、観念、その辺りの議論だったんでしょうかね。
でもやはり、ナディアが聞いた最後のアントワーヌの肉声となったあの言葉は、心にひっかかりますね。
サマー・アポカリプスも読むか悩み中。
Posted by ブクログ
矢吹が作中で語られるとおり、様々な事件は大きく2つに分けられる。「自らの欲を満たすための事件」と「憑かれた観念を正当化するための事件」だ。そして事件の真相は後者である。
思想、政治、宗教。あらゆる「観念による犯罪」は、古今東西、いつでも、どこでも、更に虚実も差別することなく起きている。しかし、「観念」には罪もあれば功もある。観念による「犯罪」をこの世から一掃することは、その観念による「芸術」も一掃することになり、ゆえに、「人間」である限りは観念による犯罪は無くならないと矢吹は言っている。
犯罪者に憑いた観念を、矢吹は「悪魔」と称した。ミステリ好きを公言する者なら、「悪魔」を「憑き物」と言い換える者もいるだろう。憑き物と言えば「憑き物落とし」――そう、古本屋の主、中善寺秋彦である。彼もまた、犯罪者に罪を犯させた「概念」を解体することで、事件を考察している。
だが二人には相違点がある。中善寺の周りには人と物があるのに対し、矢吹の周りには必要最低限の人と物しかない。
事件への一貫した立場も異なる。中善寺は、自分が関わることで起こる悲劇を望まない。だが矢吹は、自分の関心に沿って事件を考察し判断し、事件の方向性によっては、関係者に苦渋の選択をさせる立場に追い込むこともする。
まだ『バイバイ、エンジェル』を読んだだけなので、感想はここで一旦終わらせることとする。私の中ではこの時点で、矢吹は事件を解決する「探偵」ではなく、現象学を実践する者――行動する「哲学者」となっている。ゆえに、あらゆる剰余を纏って日々を暮らしている人間にとって、矢吹駆を真に理解することは難しい。だが、矢吹が論じる「現象学」は、現代にも通ずるであろうとは思う。