あらすじ
最高の真理を求めた男たちの熱き闘い!ソクラテス・デカルト・ニーチェ・サルトル……さらなる高みを目指し、知を闘わせてきた三十一人の哲学者たちの論が激突。まさに「史上最強」の哲学入門書!
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Posted by ブクログ
西洋哲学が、平易な言葉で体系的に説明されている。
思想の流れがわかりやすく、入門書として、最適だと感じる。
日常がより面白く見えるポイント
・哲学史上で、絶対的な真理なんて本当にあるの
疑うという思考作用の存在(デカルト)、経験される知覚(ヒューム)、真理は(同じ経験の受け取り方の特有の形式を持った)人間同士の中で規定される(カント)、弁証法で真理に辿り着ける(ヘーゲル)、私にとって真理だと思えることこそが真理、私がそのために生きそのために死ねるそういう真理を見つけることが重要(キルケゴール)、自分自身が真理を作るのだ(サルトル)、到達すべき真理などない、歴史は一方向ではない(レヴィストロース)、理性によって真理に達するという近代哲学は、現代哲学によって批判されている。
プラグマティズム(それはどのように役に立ってるか?という視点に立つ、人を殺しちゃダメなのは何故か?ではなく、人を殺してはダメという決め事は何の役にたつの?)で考える、つまりAを信じることが人間にとって有用であるとしたらAの真偽によらずAは真実である(デューイ)、人が話したものを解釈しても、それは「きっとこういうことだろうという(決して本当かを確かめることができない)個人の解釈に」によって成り立つ。結局我々が到達できるのは、「書かれた文章」「話された言葉」だけであるから、それらの言葉から各人が自分なりの真理を構築していけば良いし、「そもそも各人が自分で構築するものなのだ」という自覚が大事だ。(デリダ)
同時代に物理学の不確定性原理、数学の不完全性定理など、真理に対して今の枠組みでは無理、というのがわかってきてしまった。
このように何か真理っぽいものに辿り着いても、他者(自分の思い通りにならずなんだかよくわからないもの)が現れ、完成を阻む。(レヴィナス)
考えてみれば、宗教も科学も哲学も世界を何らかの形で記述して説明しようという試みの一つであるが、それはある種言葉で囲いを作ることであるから、その囲いの外には何かしらが生まれてしまう。この他者論の立場では、誰にも否定されない絶対的な真理を作ることは無理である。
一方で、他者がいるからこそ、世界は完結せず面白いままである、とも考えられる(もし全部の心理がわかっちゃったらめっちゃつまんないのでは、永遠の停滞と絶望)
筆者の考え:現代における真理とは、「私がどんなに真理を持ち出して正しいと叫んでも、それを否定する他者が必ず存在すること」
デカルトの我思う故に我あり、もまあ一応真実だとすると、世界で確実なのは、「私」と「他者」によって世界が構成されていること。
(個人的には:厳密には私の思考作用と私が他者として認識するまなざしとして仮定される思考作用、みたいな感じかな?)
他者は私にとって意思疎通ができない不愉快な存在であると同時に、「問いかけ」が可能な唯一の存在でもある。「他者」に「真理」を問いかけることにより、新しい可能性、新しい理論を生み出すことができる、だからこそ人は対話をし、この真理を求める気持ちこそが人との対話を生んでいる。
対話を成り立たせる原動力は、真理を求める熱い思い。
真理という幻想は、そのためにこそあり、それこそが真理なのではないだろうか。
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真理の章
・プロタゴラス:人間は万物の尺度である(相対主義)
・ソクラテス:衆愚政治からの脱却。真理への追求。無知の知による真理への情熱。知らないとわかっているからこそ知りたいと願うのではないか。ソクラテスが真理のために毒杯を飲んだのは、真理への情熱を再興させた。
その後キリスト教が西洋を支配する中世時代で、人間は理性だけでは真理に到達できず、到達するには神への信仰が必要、という方向に
ただ、ルネサンス(古代の栄光を取り戻そう運動)や宗教改革により、教会の権威が弱まり、「信仰を重視する時代」から「理性を重視する時代」へ転換していった。
・デカルト:我思う故に我あり
実際は本を読もう。
Posted by ブクログ
たしかに、資本主義のおかげで、僕たちの生活は豊かになった。だが、実のところ、もはや十分に豊かになったといえるのではないだろうか。僕たちの生活を豊かにする技術は飽和したといっていいのではないだろうか。だとすると、僕たちはいったい、何のために労働するんだろう?
ものがあふれ、生活必需品を自動的に生産できるシステムすらつくり出せるはずの知恵を持った人類は、なぜ毎日、「お金がない」と言い続けながら、人生を労働に費やし続けているのだろう。僕たちは、働くために生まれてきたのだろうか。
そもそも、最初は、自分たちの生活を豊かにするために、資本主義経済をつくり出したはずなのに、いつの間にか、そのシステムを維持するためだけに、過剰な労働を強いられている。それは主従関係がいつの間にか逆転した状況といえるだろう。
そして、インターネットが普及し、ネット上で安価に娯楽を得ることができるようになった今、はっきり言ってそれほどお金を稼ぐ必要もなくなりつつある。
「大きな家に住んで、いい服を着て、いい車に乗って、街に繰り出して遊んだり、遠くに旅行に行くこと」、それがかつての贅沢の仕方であり、出かけるたびにお金がかかる(消費する)から、がんばって稼ぐ必要があった。だが、いまや家でパソコンの前で、インターネットをしたり、ネットゲームで遊んだりするだけでいくらでも時間が潰せる時代なのだ。テレビ、ネット、ゲーム、動画サイト、匿名掲示板……、それらはとても安価な娯楽である。田舎の小さな部屋にパソコンとネット回線さえあればいい。月に何日かバイトするだけで、十分に娯楽を楽しむことができるだろう。
さぁ、そうなったら、誰が一生懸命働くだろうか。ますます、一生懸命働く意義などなくなってくる。だが、みんなが一生懸命働いて成長し続けていかないと、資本主義は崩壊してしまうのだ。
かつては、地位のない庶民でも「成り上がれる」「贅沢できる」という欲望が資本主義を維持する原動力となっていた。だが、今の世の中は、そんなに苦労してまで欲しいものなどどこにもない。もはや、経済的成功に対する欲望は薄れてしまったのだ。
だからこそ、「働きたくない」「働いたら負けだと思う」という人種ーーニートたちが出てきても、何もおかしくはないのである。
今、世間ではまったく働かないニートが社会問題になっていたり、生きるために必要な分しかバイトで稼がないという人種も増えつつある。それは決して、若者たちが堕落したわけでも、親のしつけが悪いわけでもない。彼らは、資本主義社会の成長が飽和状態に達したため「労働の価値を見失った」という新しい「歴史的な問題」に直面した世代の人類、新しい血族であり、のちに何百年後かの人間が、僕たちの時代を歴史として見た場合、「そりゃあ、そういうやつも出てくるに決まってるよ(笑)」と評するであろう、歴史的に必然の人種なのだ。
そんな時代に生きる僕たちは、労働の価値を見直すという歴史の転換期にきているのである。
ニーチェは、このような、決して現実世界では勝つことのできない弱者(ユダヤ人)が精神世界での復讐のためにつくり出した新しい価値観を僧侶的・道徳的価値観と名づけた。そして、このユダヤ人の「僧侶的・道徳的価値観」は、イエス・キリストによって引き継がれ、ユダヤ教という「現実的な復讐を望む宗教」から飛び出し、キリスト教というまったく新しい宗教を生み出す。その宗教の教祖であるイエス・キリストは、まさにその「僧侶的・道徳的価値観」の申し子であり、その価値観を体現するような人間であった。そして、最終的には、彼はその価値観に殉じて、無抵抗のまま捕らえられ、裸で十字架に磔にされたあげく槍を突き刺されて殺されてしまう。
まさにその瞬間である! 彼の身体に槍が突き刺さったその瞬間、「かつて善だったものが悪となり、かつて悪だったものが善となる」という価値観の大逆転が起こる。すなわち、ワシやタカなどの強い猛禽類は「悪しき」もの、人畜無害な弱い子羊は「善い」ものとしてみなされるような価値の転倒。それが、彼の死後、人類史においてはっきりと目に見える形で現れていくのである。そして、そのキリスト教(新しい価値観)が、さまざまな国家の国教となって西洋世界の支配に成功することで、この逆転した価値観が世界中にどんどん広まっていき、ついには古代の価値観を押しのけ、スタンダードなものとして人類に定着してしまった、そうニーチェは言うのである。
また、ニーチェは、この新しい価値観が「人類の本来の生を押し殺している」とも主張している。なぜなら、本来の自然な価値観とは、「強いことは素晴らしい」と言う素直でまっとうなものであるからだ。それがいつの間にか、「弱いことは素晴らし。力はないけど、優しいよ」と言う価値観にすりかわってしまい、人間たちは、弱者であることを恥じることもなく、他者からどんなに酷い仕打ちを受けても、怒らずニコニコと振る舞う人を「善い人間」だと思うようになってしまったのである。だが……、そんな生き方が、人間本来の生であるはずがない!
しかし、この非自然的な価値観は、キリスト教を通じ、一〇〇〇年以上もの時間をかけて、ゆっくりと人類を洗脳していった。そして、いまや自然ではない価値観の方が、常識となっているのである。
実際、僕たちだってそうじゃないだろうか? たとえば、誰かが、こう言ったとする。
「僕は、金と権力が欲しいです」
どう思うだろう? 世間的な印象としては「なんて嫌らしい人なんだ」と思うのではないだろうか? 意地汚い。おこがましい。欲望まみれの俗的な人。たいていの場合、そう言う発言をする人にはそんな印象がついてまわる。
でも、よくよく考えて見てほしい。いったい、この発言のどこに問題があるのだろう?
金と権力。それは明らかに生を充実させる要素である。大望があり、野心があり、一度しかない人生を激しく燃やして生きたいと願うならば、むしろ「金と権力」を求めるべきである。少なくとも「悪い」という発想はありえないはずだ。
実際の話、「金も権力もない人生」と「金も権力もある人生」、どっちかを選べるとしたら、普通に後者を選ぶはずである。でも、後者を目指すと公言すると、途端にみんな嫌な顔をする。
その理由は明白である。ほとんどの人々が、それらを得ることができないからだ。それは、人々のコンプレックスを刺激する。
先に見たように、かつて古代においては、「金と権力を得ること」は善いことであった。そんなことは自然で当たり前のことである。だって、あった方が人生が充実するのだから、当然である。そして、それを得るために、努力すると宣言するのであれば、拍手喝采、素晴らしい、ぜひがんばりたまえ、である。
だが……、どんなにがんばっても「金と権力」を得られない人たち、それを得る自信がない人たちだっている。彼らはどうすればいいのだろう? 彼らは、自分たちの、惨めな敗北者としての人生を受け入れるしかないのであろうか? いやいや、彼らは、こう言うのだ。
「金や権力を得たからって、幸せになれるとは限らないじゃないか……。むしろ面倒なことになるからいらないよ」
「学歴があるからって善い人とは限らないよね」
「一流企業に入ったって、このご時世だもの、倒産するかもしれないよ」
彼らは「イソップ童話」でいうところの「取れないブドウをすっぱいと言ったキツネ」と同じである。そのキツネは、ホントウはブドウが欲しくてたまらなかった。実際にブドウが食べられたとしたら間違いなく食べた。しかし、ブドウは食べられない高さのところにあったため、彼は自分の都合で、ブドウの「価値」を落としめる。
「ふん、あのブドウはすっぱいに違いない。ああ、食べなくてよかった」
このキツネが、まっすぐに自分を生きていないことは明らかである。そして、そのうち、同じようなキツネが集まってきて、「ブドウをほしがらないことは善いことだ!」という道徳や教義を打ち立て始める。彼らは、ずっと心の中で取れないブドウへの「恨み(ルサンチマン)」を抱きながら、ブドウを欲しがらない無欲な自分を誇りに思うのだ。そして、もしそこに、がんばって飛び上がり、うまいことブドウを手に入れたキツネを見たら、彼らは「なんて意地汚い」と見下し、「別にブドウだけが人生じゃないのに、あんなに必死になっちゃってさ(笑)。自分なら、そんなものを欲しがったりしないね(笑)」という歪んだ価値観を持ち出して内面的に勝利することで、恨みを晴らし自分をなぐさめるのである。
だが、ニーチェは、こういった歪んだ人生を、ただの欺瞞に過ぎないと断言する。ホントウは、彼らだって、ブドウを得るために、必死になって飛び上がってもよかったのだ。自分の限界を超えて闘ってもよかったのだ。だが、それをしない。失敗が怖いからだ。自信がないからだ。飛び上がって取れないところを他者に見られるのが恥ずかしいからだ。彼らは、惨めな敗北者になることが耐えられない。だから、彼らはブドウが欲しいという気持ちから目を背け、「無欲は素晴らしい」という価値観にすがりつく。
しかしもちろん、そんなものは、決して自然本来の生ではない。人生には、成し遂げるべきことがある。戦ってでも勝ち取るべきものがある。もし、勝ち取るために高い障害があるとしたら、それを乗り越える力を得るために努力すればいい。敵がいるのならば、敵を撃ち倒し、己の意を貫く強さを手に入れればいい。
だが、価値観が転倒した世の中では、「道徳」が「宗教」が「教育」が、無害で無欲で謙虚な人間であることを強制してくる。弱者であることを賛美してくるような綺麗事の数々。しかし、それらは、すべて弱者のルサンチマン(恨み)にすぎない。だって、その綺麗事を言っているやつらだって、もし、手にとどくところにそれがあったなら、間違いなく手に入れていたからだ。
彼らは、それを手に入れられない弱者であるからこそ、弱者である状態を惨めに思わないように、弱者であることに価値を見いだす幻想をつくり出しているだけなのである。
こうした、非自然的な幻想。弱者救済システム。それこそが、「信仰」や「道徳」の正体なのだとニーチェは考えたのである。
もちろん、このような背神的、反道徳的な彼の考えが、世間一般に受け入れられるはずもなかった。二四歳で大学教授にまで登り詰めた天才ニーチェは、誰にも理解されることなく、大学を飛び出し、哲学者として野にくだる。そして、先に述べたような本を書き始め、最後には発狂して、その人生を終えるのであった。
手軽な哲学史大全。
2024年12月読了。
前々から積ん読状態だったものから手を付けた。哲学自体は好きで、大学時代も講義を採っていたが、何せ古代から現代まで数多の星のごとく《哲学者が居るため》、フォローしきれずに終わってしまった記憶が強かった。
その後、社会人と成ってからもチョコチョコ読もうとするのだが、古代から現代までは果てしなく遠く、いつも『近代の途中』で断念していた。「哲学史大全」の様なものは沢山出版されているが、どうしてもカタログ的で喰い足りない印象に成り、遠ざかってしまってからもう数十年…。
五十路を過ぎて《これが最後のチャンス》とばかりに本書を購入したが、中々手に付けられず月日は流れ…、先日ふと思うことがあり『やはり死ぬまでにはキチンと概観だけでも理解しなくては』と思い読み始めた。
読みやすさ、ポイントの付き方、前後の哲学との繋がりや相関関係が、見事なまでに《要を得て簡潔に》書かれているため、本当に楽しい時間を過ごしながら読破した。この《読みやすさ》に特化した本は、市場には余るほど溢れているが、著者の『前後関係をハッキリさせること』『その人の主張のポイントを(例え本当は複数の主張が有っても)出来るだけ少なく簡潔に纏めること』に非常に力を注いでいる為、読者が《置いていかれない》工夫がされている点も非常に高く評価したい。
哲学は底の無い井戸のようなもの、これをスタートに現代哲学を新たな気持ちで勉強し直そうと決意した。そんな事を考えさせてくれた著者に対して、本当に厚く感謝したい。
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