あらすじ
物体の重なり、色彩の重なり、陰影の重なり、線がもたらす錯覚……。多様な「遠近法」は、私たちに奥深い二次元・三次元の世界を見せてくれる。画家たちは、遠近法を巧みに取り入れることで何を伝えたかったのか。そして私たちの二つの目は、脳は、何を見ているのか? レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』『最後の晩餐』、セザンヌの静物画、アールトの実験住宅、龍安寺の枯山水など数々の芸術作品をとりあげ、その謎に迫る。
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Posted by ブクログ
布施英利さんが、解けない謎が秘められているというのが第一級の芸術の条件の一つって言ってたんだけど、そういう視点で言うと映画マルホランド・ドライブは一級の芸術作品だと思う。芸術的な感性がない人はこの作品は評価出来ないと思う。
エクスアンプロバンスのサントヴィクトワール山行きたい、アアルトの話、
★解けない謎が秘められているというのが第一級の芸術の条件の一つ
E・パノフスキーの『〈象徴(シンボル)形式〉としての遠近法』(木田元・川戸れい子・上村清雄訳、哲学書房、 1993年、のちにちくま学芸文庫)
布施 英利
(ふせ ひでと、1960年4月2日 - )は、日本の芸術学者、美術批評家、解剖学者。東京芸術大学美術学部芸術学科教授。芸術と科学の交差する「美術解剖学」を基盤として[1]、美術や文学の批評、解剖学の著作などの執筆活動を展開している。著書に『脳の中の美術館』(1988年、2025年)、『構図がわかれば絵画がわかる』(2012年)、『人体、5億年の記憶 からだの中の美術館』(2024年)など。群馬県多野郡鬼石町(現在の藤岡市鬼石)生まれ[1]、藤岡市育ち。1979年群馬県立高崎高等学校卒業、1984年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業[1]、1989年同大学院美術研究科博士後期課程修了(美術解剖学専攻)[1]。大学院在学中の1988年9月、28歳で最初の著作『脳の中の美術館』を出版[1]。博士論文「人体解剖図譜の研究」で、学術博士[2]。大学院修了後の1990年より東京大学医学部解剖学教室助手として[1]、養老孟司の下で研究生活に従事[1]。東大助手時代の著書『死体を探せ!』(法蔵館、1993年7月)は、死体ブームと呼ばれた。1995年、批評家・文筆家として独立する[1]。2021年10月より東京芸術大学美術学部教授[3]。長男は美術家の布施琳太郎、次男は音楽家の布施砂丘彦(さくひこ)。
「遠近法の二つ目の手法は、「陰影」です。 デッサンをするときに、モノに陰影をつける。こういう技法があることは、誰でもご存じかと思います。もちろん浮世絵やゴッホの『ひまわり』など、影を描いていない絵もあります。すべての絵画に陰影があるわけではなく、絵画に必須の手法でもありませんが、ともあれ「陰影を描く」という絵画の手法があります。じつはこれも、遠近法の一つです。 陰影を描くことが遠近法になる。これはいったい、どういうことでしょう。二次元の平面に立体的な奥行きを表すための技法が、遠近法です。ふつう遠近法というと、手前の家から、地平線近くにある山までの奥行きがある、などという光景を思い浮かべます。あるいは室内の、手前のテーブルから奥の壁までの空間ということもあるでしょう。しかし何キロとか何メールという長い距離だけでなく、数センチ程度の空間の中にも奥行きはあります。それを画面に描くのも、また遠近法なのです。 再び、セザンヌの『キューピッドの石膏像のある静物』を見てみましょう。ここでは、中央にあるキューピッドの石膏像に注目してみます。この石膏像はセザンヌのアトリエにあったもので、つまりセザンヌは想像でキューピッドを描いたのではなく、これを画架の前に置いて、観察しながら描いたと思われます。この静物画に描かれている通り、おそらくテーブルに置かれ、周囲には果物や皿も配置されていたのでしょう。」
—『遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる (光文社新書)』布施 英利著
「線遠近法は、合理的で科学的なものであるともいえます。ということは、線遠近法の衰退は芸術における科学の衰退の表れだ、とも考えられます。その遠近法が消えたのは、芸術にとって大切なのは合理的・科学的な手法ではなく、もっと何か別のものである、それが始まったのが印象派以降の現代美術へと連なる美術の歴史であった、と。 しかし、そもそも遠近法は、ほんとうに科学的・合理的に完璧で、リアルな世界の空間や奥行きを描くために完成したものだったのか、という疑問も残ります。線遠近法の作図ではすべてを掬いとることができず、もっと別の空間の奥行き、深さ、というものがあったのではないか、と。 絵画に「奥行き」を描くためには、線遠近法はもともと完璧なものではなかったのかもしれません。つまり、印象派以後の絵画が遠近法を捨てたのではなく、線遠近法の限界を超えて、より世界を正しく写す遠近法の世界へと探究を進めたのかもしれません。そこで、そんな線遠近法の限界について考えることから、この章を始めたいと思います。」
—『遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる (光文社新書)』布施 英利著
「ところが、セザンヌの描くサント・ヴィクトワール山は独特です。そこに巨大なかたまりとして存在しているように描かれているのです。たしかに色彩の遠近法も使われ、山は青く(あるいは紫で)、中景は緑、そして手前の土地は赤っぽい色をしています。ここには、色彩の遠近法(これは単眼で見た遠近の世界)があります。しかし、その山の立体感を描く感覚は、どうもそれだけではないのです。 サント・ヴィクトワール山があるプロヴァンス地方は空気が透明で、光も明瞭で、山のかたまりの感じがくっきり見えるという風土がありますが、それにしてもセザンヌの描くサント・ヴィクトワール山は、そのかたまり(と山の重量感)が、こちらにありありと伝わってくる描写がされています。 二つの目と一つの目で見た、両眼視と単眼視というキーワードで語るなら、たいていほかの画家による遠景の山は「単眼視」で見たふうに描かれています。それに対してセザンヌの描く山は、あたかも両眼視で描いたような立体感があるのです。もちろん、巨大で遠くにある山ですから、異なる二つの視点で見て、それを両眼視のように合成する、などという見方は現実にはできません。しかしセザンヌは絵の中で、両眼視で見たような立体感で、サント・ヴィクトワール山を描いているのです。 このような感覚は、いったいどこから出てきたのでしょうか。それを解くヒントの一つが、同じくセザンヌが描いた静物画に隠されています。たとえばテーブルの上の食器とリンゴと布を描いた、こんな静物画を見て下さい。」
—『遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる (光文社新書)』布施 英利著
「 ここで重視したいのは、ピカソが『バイユーのタピスリー』という作品を知っていて、その影響で『戦争と平和』を描いたかどうかということでなく(もしそうであっても、そうでなくても)、ピカソがロマネスク的な手法で自身の絵画を描いていることです。そのピカソは少なくとも、カタルーニャ・ロマネスクに大いに関心をもち、自身の絵画にその影響が認められる、ということです。私は歴史( =美術史)の専門家ではないので、じっさいの歴史的事実がどうであったかより(それは専門の方にお任せして)、そういう比較(ピカソとロマネスク)の視点をもつことで、「絵画というものが、どのように見えてくるか」という問題に興味があります。ピカソのサイドに立てば、ロマネスクという視点を通してピカソの絵がどのように見えるか。ロマネスクのサイドに立てば、ピカソという画家が 20世紀に登場したことで、この古い美術にどのような現代的な光が当てられるか、ということです。」
—『遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる (光文社新書)』布施 英利著
「こちらの新作では、いかにも「二次元の恋」といえるような身体造形による女の子の顔が描かれました。あいそさんの絵は、繊細な線による輪郭や、その輪郭の内と外に塗られる平面の色面がとてもきれいで、二次元のキャラクターの魅力とはこういうものだとあらためて認識させられます。 加えてこの展示では、人の皮膚に、そんな二次元的な絵を描き、それを映像にして、壁に投影しました。絵画では、まだキャンバスという「もの」の存在(つまり三次元世界への存在感)がありましたが、皮膚という二次元の人体に描かれ、しかもそれが映像になって壁という二次元平面に投影されることで、その二次元的な世界観が、より強固に徹底されています。「あなたは、その二次元に何を見るか」と、問いつめられているようでもあります。 このように、古代エジプトから中世、現代まで、遠近法のない絵画、遠近法の空間からは正反対の造形感覚の絵画へと、連綿と続いてきました。 遠近法がなくても、絵画は成立するのです。 しかし、遠近法という見方の軸をもって、それらの「遠近法がない」絵画を見ると、その遠近法のない世界の特徴が、かえってくっきりと見えてもきます。それは遠近法のない絵画ではなく、「遠近法がない」ということが在る絵画なのです。」
—『遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる (光文社新書)』布施 英利著
「 だがよく考えてみれば、ぼくたちが生きている「世界」は、まさにそのようにできているのではないか。世界には、森や海など豊かな自然がある。人間が町や都市をつくる前、世界にはそのような自然が満ちていた。しかし世界は「抽象」でもある。空の果てにある天体の運行、四季のリズム、時間。それを形にしようとすれば、必然的に抽象形態となる。 自然と抽象、その両方がある。『ヴィラ・マイレア』は、まさに世界の宇宙の再現なのだ。美は、こういうところから生まれる。 ぼくはフィンランド滞在中、ヘルシンキのホテルに泊まって、そこを基点に西に東に北へと、アールトの建築への巡礼を続けた。車窓から見える風景は、どこまで行っても森と湖ばかりだ。きれいというよりも、単調ですらある。それにあちこちで岩肌がむき出しになっている。この土地は、硬い岩盤の上に、薄い土の層があり、そこが森になっているようだった。森は、ぎりぎりの条件で生きている。だから、この風土は、ある意味で「荒野」である。 何もない砂漠の景色の中に、古代エジプト人がピラミッドをつくったように、アルヴァ・アールトは森と湖の土地に建築をつくる。ピラミッドが四角錐という抽象形なのに対し、アールトの家も、その基本形は抽象だ。アールトは、まるでピラミッドのように、北の国の「荒野」に家を建てた。ぼくは列車での長旅で、窓の外を眺めながら、そんなことを考えていた。」
—『遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる (光文社新書)』布施 英利著
「 ぼくは、それまで、アールト建築の天窓の光を、一つのデザインとしてしか考えていなかった。しかし光は、人間が生きていくうえで必要なものなのだ。 光が必要なのは、病院だけではない。人を幸福にしてくれるのは光なのだ。人を安らかにしてくれるのは空間なのだ。建築家は、神にかわって、人間のための光と空間をつくってくれる。 旅の間、あるいは旅を終えて、ぼくはなぜか「建築家になりたい」と思っていた。小学生が、将来、サッカー選手になりたいとか、宇宙飛行士になりたいと思うように「建築家になりたい」という思いに包まれていた。もちろん、「いまさら」ではある。しかし「なりたい」という気持ちがわいたのは、まぎれもない事実だ。 ぼくは芸術の力に包まれていた。」
—『遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる (光文社新書)』布施 英利著
「ここで私が思い出すのが、セザンヌの、こんな言葉だ。セザンヌは、晩年、知人のジョアシャン・ガスケにこんなことを言っている。ガスケは、そのセザンヌの言葉を書き残した。「芸術は自然と平行する一つの調和である」 この言葉は、すべての芸術に当てはまるだろうが、それはまた建築家アルヴァ・アールトの作品にも当てはまるものだ。いや、これはまるで、アールトの芸術を語った言葉のようでもある。アールトの建築の屋根は、坂という自然の傾きと平行している一つの調和である。」
—『遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる (光文社新書)』布施 英利著
「龍安寺の枯山水は、謎に満ちた庭だ。庭に置かれた 15の岩が、一つの視点からすべてを見るように配置されていないとか、黄金比にそった構図の石の配置になっているとか、そもそも作者は誰なのかなど、尽きぬ謎がある。第一級のすぐれた芸術作品というのは、どれも謎に満ちていて、『モナ・リザ』の微笑みもそうだし、美術館に便器を展示しただけのマルセル・デュシャンの『泉』にも、解き尽くすことのできない謎がある。解けない謎が秘められているというのが第一級の芸術の条件の一つなら、龍安寺の枯山水も、そういう芸術作品ということができるだろう。」
—『遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる (光文社新書)』布施 英利著
「いよいよこの遠近法の本も、まとめの考察へと入っていくことになる。そこで、遠近法に関する本を読んでみることにする。 遠近法というテーマについてのバイブルのような存在といえば、 E・パノフスキーの『〈象徴(シンボル)形式〉としての遠近法』(木田元・川戸れい子・上村清雄訳、哲学書房、 1993年、のちにちくま学芸文庫)だ。ここでは、パノフスキーがその本で書いたことを要約・引用しながら、遠近法についてさらに考えていくことにしたい。 まず確認したいのは、パノフスキーは、「遠近法を駆使した美術だけが優れた美術である、とは考えていない」ということだ。パノフスキーはこう書く。」
—『遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる (光文社新書)』布施 英利著
「遠近法が駆使できたからといって、必ずしも、すばらしい絵画が描けるわけではないし、遠近法など知らなくても、人の心を揺さぶる絵画を描くこともできる。パノフスキーは、そう考える。彼は遠近法の本を書いたが、それは別に遠近法礼賛でもないし、遠近法崇拝の美学の表明でもなかった。 では、それにもかかわらず、なぜパノフスキーは遠近法の本を書いたのか。それは、本のタイトルも語っている通りで、遠近法は美術における一つの「象徴(シンボル)形式」だと考えたからだ。「個々の芸術上の時代や地域が遠近法を有するかどうかということだけではなく、それがいかなる遠近法を有するかということが、これらの時代や地域にとって本質的な重要性をもつ」(同、 27ページ) つまり、遠近法という視点を切り口にして美術作品を見ていけば、美術が見える、というわけだ。遠近法がわかれば、絵画がわかるのである。」
—『遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる (光文社新書)』布施 英利著
「しかしセザンヌの絵では、歪んだ形をある角度から見ると、その歪みが補正され、セザンヌは形態を正確に描いていた! と発見できて驚きますが、じつはそれはセザンヌ鑑賞の出発点にすぎません。そのような歪みの手法に気づいたとき、画面を右から、上からと見て、そこに現れる世界の、現実感の強さに魅了されるのです。そういう手法によって、現実的な光景が現れ、私たちは絵に描かれたものを正しく見て、そしてようやく、そのときから鑑賞の愉しみが始まるのです。 そこから、絵画とは何か? 見るとは何か? 世界とは何か? という問いかけも始まります。ネタバレとちがって、セザンヌの絵画は何度見ても飽きませんし、見るほどに味わい深くなるのです。 ともあれセザンヌの絵は、前から、横から、上から見ます。そのとき、絵の表現効果は増します。」
—『遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる (光文社新書)』布施 英利著