【感想・ネタバレ】文学のプログラムのレビュー

あらすじ

<書くこと>でいかに<戦争>と拮抗しうるのか――。小林秀雄、坂口安吾、保田與重郎の戦時下における著述を丹念に辿ることで、時局に追従する言説と彼らとの距離を明らかにし、保田の『万葉集の精神』を起点に、日本文を成立せしめた「訓読」というプログラムの分析へと遡行する。気鋭の批評家による<日本イデオロギー>の根底を撃つ画期的試み。群像新人文学賞受賞作を収めた第1評論集。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

日本語の構造  -2010.04.27記

「本当に語る人間のためには、<音読み>は<訓読み>を注釈するのに十分です。お互いを結びつけているベンチは、それらが焼きたてのゴーフルのように新鮮なまま出てくるところをみると、実はそれらが作り上げている人びとの仕合わせなのです。
どこの国にしても、それが方言でもなければ、自分の国語のなかで支那語を話すなどという幸運はもちませんし、なによりも-もっと強調すべき点ですが-、それが断え間なく思考から、つまり無意識から言葉=パロールへの距離を蝕知可能にするほど未知の国語から文字を借用したなどということはないのです。」-J.ラカン「エクリ」

<音読み>が<訓読み>を注釈するのに十分であるというのはどういうことか。
「よむ」という言葉が話されるとき、読や詠、あるいは数.節.誦.訓という漢字を適宜、注釈しているということである。この注釈のため「読む」と「詠む」は、読という字と詠という字が異なるのと同じくらい異なる二つの言葉として了解される。
日本語においては、<文字-音読み>が<話し言葉-訓読み>の直下で機能し、これを注釈しているのである。もちろん、話し手はそれを意識していない。その意味で、この注釈の機能は無意識のうちに成されていると言ってよい。
次に、「どこの国にしても、‥」以下の一文から読取らねばならないのは、すなわち、日本語が中国語という未知の国語から文字を借用し、日本語固有の音声と外来の文字とを圧着したということは、<音読みによる訓読みの注釈>を可能にしているのみならず、「無意識から言葉-パロールへの距離を蝕知可能に」もしているということである。外国から文字を借用したからこそ、日本語は音声言語の直下において文字言語を注釈的に機能させうるのだが、この機能により日本語においては無意識から話し言葉への距離が蝕知可能となるのである。
ここでラカンは、あえていえば、<日本語の構造そのものが、すでに精神分析的なのだ>と言っているにひとしいのだ。

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2022年10月11日

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