あらすじ
「どうしておまえだけが、祝福を受けたの」
そう言って僕を痛めつけるねえさんは、
まるでうつくしいまま死んでいる蚕のようでした。
生きるための信仰とは、なにか。
第69回群像新人文学賞受賞作
***
この町で異教の神様を信じることは、
生きながらにして死ぬことと同じだった。
北海道南西部の小さな港町で暮らす姉弟。
ふたりは異端者の子として迫害され、
やがて暴力を伴う依存関係へと陥ってゆく。
そこに救済は、すべてに先立つ愛はあるのか。
装画:山口十和
装幀:六月
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
群像で読んでいるから、単行本における何ページか分からない。そのため、群像版のページを記すと、134,135ページの見開き。この箇所には読む手を止められた。かといって何か言葉にしなければならないような熱烈な感想を抱いたわけではなく、飛び込んできた言葉の重さというか鋭さを受け入れるのに時間がかかったような、そんな感じがした。それは私にとって強い読書体験であって、結果的にこうして文字にまとめているしそうしたいと思ったのだから、一つ前の文の前半が誤りだったのかも知れない。以下は該当箇所。僕がねえさんの魂に触れられないと思った瞬間。僕がほかの誰か、自分以外の誰かに成り代わりたかったのだと思った瞬間。僕が初めて僕という一篇を知った瞬間。僕がこれまで失われてきた僕の切片が無数にあることに気付き、自分が今どこに居るのか分からなくなった瞬間。僕がねえさんの絶対になれないと思った瞬間。そこに書かれた文字にある感情がやけに直接的に飛び込んできた。目を背けたかった事象を思わず見てしまったような、美しいと形容したいが何故か躊躇ってしまうような。凄い。
「わたしね、死について考えなくていい時間が増えるのなら、たとえそれが人為的にもたらされたものであっても、幸福と呼んで差し支えないと思うの」
そう語るねえさんは「痛み」を必要としている。「痛み」はいつだって泣きそうな、どうにかなってしまいそうな思考を、「瞬間そのものに縫い付けてくれる」から。だからこそねえさんは紫蘭のことを嫌う。劇的で悶えるような痛みを感じるため。対する紫蘭はそれを求めている。自身がねえさんの何かになることを。互いに依存している関係であるが、その架け橋が暴力という行為であるのが何よりも儚いというか、苦しみを想起させる。暴力に伴う痛みと屈辱が二人の仲介者となり、二人を助けるのだろう。それを旗から眺める立場にある私達読者は、その行動だけを見るしかない。暴力によって現れる仲介者を実際に感じることなどできやしないし、たとえ感じられたとしても二人と同じ感情を得ることはない。共依存の関係の作品はそこがどうしても魅力に思えてしまう。自信の懐の奥底にある、はっきりと存在を認めたくない嗜好に、刺さってしまうのだろうな。
テクストが持つ熱と迸る力強さは、二人の間にある見えない何かと見える行為がそうさせているのだけど、ここ最近読んだ作品の中では最も大きいように思う。蚕と椿を重ね合わせる描写というのがやはり印象深く、それが効果的であるのは当然であるが、そう思ってしまう語り手の心情というものが、俯瞰した視点を持つ私では完璧に掴みきることができないというのもまた、魅力。(自分だけの蚕であるはずなのに、自分以外の蚕であろうとしているのでは無いか。そもそも蚕では無かったのか、そんなはずはない)
「他人を許せへんちゅうのは緩やかな自殺と一緒や。周りを損なうゆう点では、ただの自殺よりよっぽどたちが悪い」
この台詞には全面的に賛成であり、特に前半部に関しては同様のことを思う。他人を許す権利というのは誰しもが持つべきものであり、その前提が間違っているならば自身の存在もまた許させることがないのだ。他人を許せない人間は、いずれ自身がその他人側へと移行して仕舞うことに気付いていない。他人を許せない人間は他人の姿形を徐々に削り取っていることに気付いていない。しかしながら後半に関しては少し疑問を覚えてしまったのだ。他人を許せない事が周りを損なうという点は大いに理解できるが、ただの自殺が損なわないかというと少し納得がいかない。実際本文中で、ねえさんが自殺未遂に至ったときのことを考えると、決してそういうわけではないと思う。ほかの場合でもそうだろうし、と思ってしまうのはしかし、自分のことしか考えていないのだろうか。
この物語は、奇しくもなのか運命だったのか、共依存となっている姉弟の話。私が思うに、共依存の関係というのは永続的なものではなく、いつか解消される運命にある。共依存関係を危険であり、両者互いに滅ぼしかねないものとして扱うのは間違っていないと思う。しかしながら、本当に危険なのはその解消間際あるいはその後だろう。完全に依存を立ち切れない。断ち切っても尚、立ちはだかるいくつもの困難への対処方法が分からない。苦しみや慈しみを自身の背骨として暮らしてきた人にとっては、非常にむつかしいものになると思う。
非常に美しかった。最近、私が小説を読むことから離れてしまっていた事が大きな原因ではあるが、久々に心に響く作品に出会えた。引き裂かれてしまいそうな心理描写と、情景。あるいは仰々しい比喩や子供らしからぬ難しい言動。どの要素においても私好みで、とてもいい読書になった。本作品を読もうとしたきっかけが、群像2026年10月号に掲載されていた作者自身のエッセイで、読んだ後すぐ、この方の作品を読んでみたいと心から思った。私に寄り添ってくれる作品を提供してくれるだろう、とそんな予感がしたのです。
Posted by ブクログ
装丁とタイトルに惹かれたら、群像新人文学賞の受賞作とのことで読んでみた。
なんと言えばいいのか、、、
とても奥深い作品だった。これが新人?どれだけ沢山の文学を読み込み、繊細な心で作品と向き合っているのだろう、と驚かされる。しかも20代前半の女性。作品の前に、作者がこれまで触れてきたものを知りたい!それくらい、作品から作者の内面が静かに滲み出る本だった。
北海道の田舎町で、過酷な家庭環境の中、中学生の姉弟が二人暮らしでギリギリの生活を送っている。摂食障害の姉は死に近づくことで生を感じ、弟は蚕のように一人では生きていけない弱い姉を通して生を感じる。母親がキリスト教に傾倒し、信仰のために家族を捨てて行ったことで、子どもたちは母への愛憎と宗教への嫌悪を抱えながら、共依存して生きていく。
姉が高校進学を機に離れて暮らし始め、姉は下宿先で、弟は友人との共同生活で、それぞれ新しい歳上の友人たちと出会う。
狭窄した世界から旅立ち、初めて家族を通さず個としての自分を認めてもらい、自我を持っていく。嫌悪していた宗教にも、教会に通うことで、母親が信仰したキリスト教ではなく、自分が信仰したいキリスト教を見つけていく、そんな作品でした。
とにかく文体が素晴らしかった!
初めて知る言葉、回りくどくないのに重厚に伝わる言葉選びが本当に見事で、文章のひとつひとつが心に残った。純文学のため難しいように思えるけれど、ゆっくり反芻しながら読むとちゃんと理解できる。
それぞれの生きる苦しさ、尊さ、弱さ、「一人では生きていけない」というメッセージを感じた。
旧約聖書には、神はアダムの肋骨からイブを作ったと記されている。
いろいろな解釈があるけれど、私はここに「人は一人で生きていけないから、もう一人の人間が必要」という意味を見ている。
この作品でも、姉の肋骨が光っている描写があった。肋骨が浮き彫りになるほど痩せこけた姉の肋骨に触れ、その後共依存の二人が離れ、それぞれが生きるきっかけとなる人たちと出会っていくのかな、と思った。
全編通して、キリスト教にまつわる描写が散りばめられていた様に感じた。
もう一度、じっくりと読み返してみたい。
本当に素晴らしい作品でした!
Posted by ブクログ
静かに甘く死へと誘う時間の中で、痛みと苦しみを用いて互いの輪郭を保つ、母に残された姉と弟による標本のように切り取られ止まった時間。そして他者の傷越しに自分の痛みを眼差す回復の物語。
Posted by ブクログ
主人公の姉弟の弟視点で物語が展開される 出てくる登場人物が揃い揃ってかなり深いレベルで自身の哲学的思考があって、特に学生の登場人物に対してはその歳でそこまで熟考して自分の思想を内面がすることが出来るものかなあ、と読みながら少し疑問に思った ただ閉鎖的で都市部から外れた田舎且つ現代の日本とはあまり似つかわしくない町民が同一の宗教を信仰する排他的な異環境で学生時代を過ごしたならそのような思考プロセスになるのかなとも感じた 主人公2人の置かれた境遇はとても良いものとは言えないが、周りの人間には恵まれていて救いようのない物語ではない
澱のような耽溺な依存と暴力というよりは、学生らしい軽やかで献身的な暴力と依存の物語だった
ハピエンだし、ひどく桎梏的な物語でもないので比較的読みやすい本だと思った
個人的には三人称視点で、もう少し凄惨な暴力と依存のメリバを期待していた