【感想・ネタバレ】哲学の始め方のレビュー

あらすじ

何を疑い、何を信じるべきか――脳に汗かく哲学体験!

もしすべてが夢だったら? 目の前の相手に「心」はあるのだろうか? 果たして、私たちは何事かを語りえるのか……? 理学部に通う大学生の「ぼく」と、平穏な日常を徹底的に掘り崩す「懐疑論」との戦いがいま始まる。専門用語ゼロ、素手で触れる哲学の本質!

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Posted by ブクログ

本書のような「血の通った哲学書」は珍しい。

「哲学を、お勉強すること」と、「哲学をすること」は、まったく違う。
本書は、「哲学をすること」のおもしろさ、恐ろしさ、そして尊さを、読者に感じさせる良書である。
まさに、題名どおり「哲学の始め方」の本である。

本書は、著者が懐疑論におちいって、実生活がままならなくなった学生時代を振り返りながら、同じ困難を抱えているかもしれない若者たちに向けて書いてある。

望むと望まざるとに関わらず、懐疑論の哲学者になってしまった若者の「相談する相手もいない、哲学的な悩み」に、先輩哲学者としてのアドバイスを送っているのである。

これには、胸を打たれる。
これこそが、まさに本当の哲学入門書なのかもしれない。

わたしは、大量の傍線を引きながら読み、白紙ページのすべてに、著者の主張から派生した着想や、著者の論への反論を書き込んだ。

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懐疑論に、心からどっぷりはまってしまって苦悩した著者の「哲学的な才能」に、わたしは嫉妬してしまうところもあった。

しかし、自己をよく見つめると、たぶん、わたしは、「日常の実感主義」の哲学をしているのだと思った。
「あれも、これも疑える」という方向に思索が進むタイプではなく、「わたしの実存の日常的な実感に即して、世界を分析してみよう」という方向に思索が進むタイプなのだと思った。

とはいえ、著者の懐疑主義の哲学の誠実さと、それによる苦悩には、敬服するほかない。

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山口尚の著作を読むのは、2冊目であるが、この哲学者は、本当に、読者に伝わるように、丁寧にわかりやすく書く人である。

「本節の残りの箇所では〜」
「おさえておくべきは〜」
「ポイントを予告すると〜」
「ーー急いで注意するがーー」

このような、記述を多用することで、読者が迷子にならないようにアテンドしている。

意味のまとまりには、≪≫をつけて、読みやすくしている。

これほど、読者に伝わるように丁寧に書く人も、なかなかいないのではないか。
この文体は、参考にしてみても良いかもしれない。

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本書で取り上げられている6つの懐疑論は、哲学に触れている者にとっては、目新しさがある議題ではない。
むしろ、超定番の議題である。

その、おなじみの議題に対し、著者は、自身の思索のはじまりから、結論まで、その道行きをきちんと段階を示しながら書いている。

哲学者の思索のアプローチを知り、そこから学ぶことができるのだ。

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そして、本書の中核となる「超越論的会話主義」は、著者自身が自負するとおり、なかなかに、おもしろいものである。

わたしは、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの概念を下敷きにすんなり理解し、多くの主張を受け入れることができた。


しかし、反論したい点も多々ある。

「他者との会話としての言葉」が、意味の崩壊を防いで、理性を保たせてくれる。
だから「他者との会話としての言葉」を保つことが、懐疑論の狂気に堕ちないために、肝要なのだ。
全体を通底して語られてきたテーマが、結末において、このようにまとめられている。

これは充分にわかるし、共感もできる。


しかし、いっぽうで、このようなまとめは、頭脳明晰で言語偏重な、著者のような秀才に特有のものではないかと思う。

言語レベルの「意識できる意識」の部分ばかりにフォーカスして、それこそが自分の実存であると思い込んでいるのではないだろうか。
「意識できる意識」の言語を駆使することによって、世界の謎が解けると思い込んでいるのだ。
それでいつも、生活実感ではない方向に言語が滑っていって、懐疑論におちいって、苦しんでいるのだ。

自己の心の動きを、きちんと見つめてみれば、思索中に、アイディアが言葉として生まれてくる瞬間に、なんの論理性も因果性もないことは、明白である。
理屈もないままに、突然、無意識から浮かんできて、「意識できる意識」のレベルでは、言葉という形を取っているだけである。

この無意識の側のほうを、自己の本体だと考えればよいのである。
自己の心をよく見つめてみれば、実際にそうなのだから。

たぶん、この指摘は、著者もわかっていることなのだろう。
本書で引用されている、中島敦『文字禍』において、「人間は言語によって、強さと健やかさを喪失した」とされている。
これこそ、まさに、著者が懐疑論の悪夢におちいった理由なのではないのか。

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わたしの哲学的な興味の本丸は、自由意志である。
これについて考えているうちに、自分の心を見つめる癖がついた。

そうすると、言語化可能なものなど、わずかな表層に過ぎないということが、わかってきた。

わたしは、本書を本屋で手に取って、パラパラとページをめくり、それぞれ数行読んで、「わぁ、おもしろそう」と思った。
その時に、本書に、あるイメージを抱いていた。

家に帰って、読んでいる途中、そのイメージとは、離れた内容なのだと気づいた。
離れているが、それはそれで「おもしろいなぁ」と、本屋とは違うイメージを形成しながら読み進めた。

そして、「おもしろかったなぁ」と、読み終わってしまったことの寂しさを少し抱えながら、本を閉じて表紙をボンヤリながめると、本屋で手に取った時とは、まったく違う、本書に対する「何か」が心にあらわれていることに気づいた。

その「何か」には、名詞がない。
そのことに、驚かされる。

ここまで、仮に用いた、イメージという名詞では陳腐すぎる。
むりやり言葉にすれば、「匂い」とかになるのだろうが、まったく的を射ていない。
形がないことが、似ているだけだからだ。

わたしの心にあらわれるのは、本に言葉で書いてあることや、それへの感想だけではない。
表紙の色や、紙の触り心地などまで加えた「何か」が、あらわれるのだ。

言語化できることなんて、わずかな表層に過ぎない。
その言語の力だけで、探究をすると、そこには理屈しかない。
理屈は屁理屈を生むことができ、なんでもかんでも、懐疑することができてしまう。
懐疑論とは、要するに、ただ、これだけのことなのではないか。

言語化不可能なもの、それこそが、唯一無二の自己であり、それこそが、人間の本懐ではなかろうか。

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まとめると以下である。

著者は、独語が懐疑論へ堕ちるトリガーだとし、会話がセーフティーネットだとしている。
どちらにせよ、言葉に着目し、重心を置いている。

それに対し、わたしは、言語化できない部分こそが、実存であり、人間の本懐なのではないかと言いたい。

そのうえで、懐疑論を思索するのならば、それは、楽しいものであるはずだ。

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大学の先生が書いたものに、ど素人がツッコミを入れることができるのが、哲学の楽しくて、おもしろいところである。
科学、数学、社会学、政治学、歴史学、民俗学…などでは、到底できないことなのだ。

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2026年10月01日

Posted by ブクログ

人間の思考は、会話を前提にしている。自分なりに咀嚼すると、鏡のようなもの。
鏡に自分が映っていることで、自分の姿・存在を確認できる。鏡に何も映っていないなら、自分は幽霊かなにかになってしまう。
鏡は映るのは自分だけど、会話は他人とでないと成立しないのが、厄介で面白いところ。
会話が成立することで、実在や心などを相互承認して、懐疑論から脱出できる。会話が成立しないなら、つまり自分と相手のどちらか一方でも誠実に返答しないなら、相互承認が成り立たない。実在を疑い、懐疑論から抜け出せない。
懐疑論にハマること自体は健全だけど、相手にまともに取り合ってほしいなら、まずは自分がまともに回答することから。
とすると、「聞く技術 聞いてもらう技術」とつながるところがあるかも。
自分用の宿題が2つ。
①陰謀論にハマった人達は、お互いには誠実な会話が成立していて、正気を確認し合っているが、外から見れば狂っている。エコーチェンバーから脱出するには、誠実な会話以外にも必要なものがあるらしい。
②AIと会話できるなら、AIとも心や自由などを相互承認できる、といえるのか?

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2026年09月11日

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