あらすじ
ブラジルの病院での意外な出来事をきっかけに、南蛮屏風や江戸・明治期の絵画、昭和の生活写真などを分析し、西洋では珍しい「室内で靴を脱ぐ」という習慣の文化的意味を掘り下げる。霊柩車、桂離宮、美人、京都など独自のテーマと視点に定評のある著者が、「われわれのこだわり」の隠された側面を明らかにする知的冒険の書!
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Posted by ブクログ
日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか
~土足禁止の精神史
著者:井上章一
発行:2026年7月25日
新潮選書
本書によると、自宅で靴を脱ぐのは、日本、韓国・朝鮮、ミャンマー、イラン(ペルシャ)らしい。西洋はもちろん、中国でも自宅室内においては靴など屋外と同じ履物を履いて生活している。タイトルから想像すると、そんな世界中で数少ない生活様式をなぜ日本人がしているのか、という分析本のように思える。しかし、実際はそういう本ではない。それを期待した人には、こんな本いんちきだ、と言いたくなる。
実際、前半近くまで、日本を訪れた西洋人は日本の家屋にどう上がったのか、日本人はどう受けとめたのか、ということばかりを、残された絵や文書記録によって著者が分析している内容である。いんちきだ、と言いたくなる。西洋人が日本に来始めた南蛮時代(16世紀)から江戸終盤ぐらいまでを考察しているが、面白くなくて失望したし、投げ出したくもなった。
前半終わり近くなってくると、明治維新後の話が入ってきて、日本を訪ねてきた西洋人(軍人など)にどう日本人が対処したかということに加え、日本の政治家などが西洋に出かけ、西洋に憧れ、西洋文化や生活様式を取り入れる中で、日本人自身が靴を室内で脱がないという状況も生み出される様子が紹介される。鹿鳴館での様子など、少し面白い現象も読み取れる。
そして、第二次大戦後、占領下でのことにつながっていく。占領軍の人々は、当然、靴のまま畳に上がろうとすることもあるが、意外にもそれはしないように配慮せよという指導があったことも紹介される。一方で、ハイクラスの人たち、とくに政治家では自宅でも靴履きという生活が流行りもする。
なお、日本において西洋化が進み、屋内でも靴を履く生活が伝わると、一部で履物を履くことになる。例えば、廊下では履くが、畳の部屋に入る時はそれを脱ぐ、といった様式である。それがスリッパとして定着する前には、草履だったりする。その当たりも絵画や写真などで読み取っていく。
著者によると、日本、韓国・朝鮮、ミャンマー、イラン以外でも、自宅の室内で靴を脱ぐ生活が広がっているという。
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19世紀の幕末に来日した欧米の外交官はしばしば日本の城館へ靴であがりこんだが、16世紀に来たルイス・フロイスなど宣教師たちは、そういう強い姿勢をとらなかった。
日本人は、玄関から家へあがる時に、草履などをすぐ脱ぐことができるが、ヨーロッパの靴は、靴紐をといたり結んだりするのに時間がかかり煩わしい。だから、老中邸にはスリッパでおもむいた。草履なみの外履きとして利用した。
出島のオランダ人は靴のまま畳を踏むことも、ままあった。畳の上だからといって外履きを嫌悪するような感受性は持ち合わせていなかったが、靴履きで畳の上を歩き回るとすぐ傷むので、スリッパで過ごしたとすればそのせいだろう。彼らは外履きと内履きを強くは区別していなかったから、スリッパも内外兼用の履物だった。
こういうスリッパの利用法は、西洋に源流がある。しばらくの間は西洋式に外履きとしても使ってきた。室内履きに純化させたのは、20世紀後半以後の日本人だと言うしかない。
日本人の食生活にテーブルをもたらしたのは中国人たちである。江戸期の長崎には唐人とよばれた人々が大勢やってきて、その数は出島のオランダ人よりずっと多かった。そして、彼らは中国風の会食をそのまま日本に持ち込んだ。
漂流民となった大黒屋光太夫は1792年に帰国できた。オホーツクから根室に送り届けたのは、ロシアのラックスマンだった。エカテリーナ二世から託され、日本との通商交渉も命じられていた。一行は根室側の要請に従わず、畳に座った日本人の前で椅子を持ち出し、そこへ腰かけた。靴もそのままはき続け、土足で床に上がったようである。
1811年、松前藩警備部隊は、択捉島などで測量にあたっていたロシア人を捕縛。ディアナ号船長のゴロウニンらであった。ディアナ号に残された部下のリコルドは日本側と交渉、その際、松前奉行に接見するとき、土足で家にはいるのはこの上なく失礼だから靴下だけで入るように言われる。それに対して彼は、正装帯剣でしかも靴なしなどとは承知できない。西洋では靴をはかずに他所へ行のは失礼どころか、この上もない不名誉なことだよ」と手記に書いている。
ペリー来航に遅れること1月、1853年8月に長崎についたロシアの使節、プチャーチン一行は、事前に接見の礼法を調整しあうなかで、長崎奉行の役人は土足での室内接見を嫌がった。そこで、薄手の麻やキャラコで短靴を縫って、日本室に入る際、靴の上にかぶせることを考えついた。オーバー・シューズ案をひねり出したのだった。
日米和親条約が結ばれた2年4ヶ月後、日米修好通商条約締結のため、ハリスは1857年12月7日に江戸城を訪れた。老中首座の堀田正睦(まさよし)と会うため。場内の廊下や畳の上を進んだ。奉行や大目付は長袴、ハリスらは西洋史的な儀礼に則って靴をはいた。駕籠から出ると、ハリスの「靴持」は新しい、汚れることのないエナメルの革靴を差し出した。ハリスはそれを穿いた(靴を幕府側が用意したのかヘアス側が用意したのかは不明)。
同じころ、イギリスのオールコック(駐日総領事)が外交活動。1860年8月に、将軍家茂と体面。靴は上履きの室内用だった。清潔な畳に泥をつけるのはよくない、オールコックは気づいていた。しかし、将軍と靴も履かずに体面するような見苦しいまねはしたくない、という判断だった。
19世紀後半、西洋人が日本の旅館に食事などで上がるとき、土足のままではだめだとたしなめられた。外交官にも、日本人の屋敷や城を訪問することは、ままあったが、その場合は、たいてい履物のあつかいをめぐり事前に交渉を重ねている。でかけるのは、概ね荘吾におりあいをつけてからであった。玄関でトラブルが発生することはあまりなかっただろう。ただ、公的な外交の場たりえない宿では、いざこざも頻発したにちがいない。
1947年11月11日に撮影されたシャウプ夫人とその接収住宅の写真には、畳の部屋、床の間の地板の上に靴のまま立っているシャウプ夫人が写っている。シャウプ勧告(税制)で有名なカール・シャウプは夫。
ボブ・ホープは1950年10月に来日した際、招かれた東京浜町の「御半」という量定に靴を履いたまま畳の部屋に飛び込んだ。その瞬間をとらえた写真が『サン写真新聞』の一面に大きく報じられた。迎えた芸妓たちは彼の足許を見て口あんぐり。
1932年5月、東京で兄のシドニー・チャップリンと歌舞伎を観劇したチャールズ・チャップリンは、楽屋を訪れて中村吉右衛門(初代)と写真を撮っている。畳敷、シドニーははいていたくつを脱いでいない。チャールズは足許が十分に写っていなくて不明。2人は、自分たちの履物を事前にぬごうとしたが、劇場と吉右衛門がそれをおしとどめたらしい。気にするな、くつのまま上がってくれ、と。
「戦争花嫁」とは、日本に駐留するアメリカ軍の軍人や軍関係者と結婚した女性。本国へ帰る夫とともに渡米する。アサヒカメラ増刊号(1980年12月号)は、渡米した日本女性の現状(1980年)を伝える特集号。アメリカ流にあわせ、土足を家のなかでも受け入れたケースが結構あるが、この特集号でも、ミサコ・ゴーディーやミツコ・ローリーの場合が紹介されているが、革靴を屋内でもはいている。ただ、どちらも、フォーマルな外履きにはなっていない。つっかけ、あるいはサンダル履きで写真におさまっている。彼女たちは家庭内での靴履きを受容したが、室内履きは軽装ですませている。
映画「溺れる女」(2017年、イタリア・スペイン合作)では、同性愛女性のマルタとハルは、城館のなかを裸足で歩いた。だが、両者の仲を裂こうとする闖入者は、家の中へ外履きのまま入っていく。靴を脱いだ暮らしは夢のような生活を象徴する。一方、土足でのそれは、西洋における現実を指し示す。映画の製作者は、はっきり意識してそう描いた。
中国でも近年は様子が変わりだした。20世紀の末ごろから、家では靴を脱ぐ人が増えている。大都市で暮らす一部のマンション住民から始まった。都市部に関するかぎり、今ではそちらの方が多くなっている。状況は欧米ともつうじあう。グローバルな現象なのである。
百貨店が土足受け入れを始めたが、三越は長い間抵抗しつづけた。外履きの客に商品を売るいとなみは、露天商や夜店のそれを思い起こさせた。由緒ある老舗は、店を道ばたのそれなみにしてしまうふんぎりがなかなかつかない。三越も、1914年まで抗いつづけた。
土足厳禁の施設は、下駄箱を設けないと履物が処理しきれない。公共性のもとめられる場では、土足を許容したほうが入室しやすくなる。靴のあふれる状態を解消しうる。三越も、この問題で根を上げたのだろう。店舗を大きくし、商品数を増やせば、来店客がいやおうなく増え、下足番の人員も補充しなければならない。収納スペースも拡張を強いられる。
井上靖「しろばんば」という自伝的小説にそえられた、洋画家・小磯良平の挿絵では、鉄道の座席仲の郎女性だけが、下駄を床におき、脚をたたみながら座っている。1910年代の伊豆辺りが舞台になった小説。
かつて「お座敷列車」と呼ばれた車両が東北地方で運行された。1960年から。そのさきがけは、名古屋鉄道の「お座敷温泉列車」で、1932年から名古屋と下呂間に通された温泉への直行便だった。車内の半分が畳敷きになっていた。
敗戦後、都市部のあちこちで、路上に靴磨きが出現した。道ばたへ座り込むその姿を写真(1948年ごろ)で見ると、女性の磨き手はたいてい頭巾を被っている。足許を見ると、彼らの多くは履物を脱いでいる。低姿勢であることをしめす記号的な構えだったのだろう。
幣原喜重郎は英米との協調を重んじた。幣原外交とはやされたが、軍部や右翼から非難された(満州事変後に外相辞任)。彼は畳の上で靴を履いていた。そこには西洋的な椅子も用意。
平沼騏一郎は、法務官僚として頭角を現し、1923年に司法大臣に。右翼団体をひきいた国粋主義者。1939年に総理職をつとめ、同年1月に組閣を命じられた彼は、皇居の親任式へ向かうため家を出るさいに、自分で靴を履くところが移された写真がある。玄関のたたきではなく、和室で足先を通している。絨毯こそ敷いてあるが。国粋主義者の彼が、生活面では日本の習慣にそむいていた。その点では、英米協調路線の幣原ともつうじあう。思想信条の違いをこえるエリートの文化が、往時はあった。
五・一五事件(1932年)では、官邸の日本間、応接用の和室で犬養毅が銃撃された。将校たちはそこへ土足で上がり込んだが、余裕をみせるためだろうか、靴ぐらいは脱げと犬養は言ったらしい。だが、有無を言わさず、彼らは引き金を引いた。
1868年、日本は政体を改めた。1880年には今のイランへ外交使節を派遣。当時のガジャール朝ペルシアへ、通商の許可をとりつけるため吉田正春らを送り込んでいる。一行は王宮へ出向いたが、ペルシア側は邸内へは靴を脱いでから入れと要請した。だが、日本側は拒絶。国王の前へも、靴を履いたまま進んでいった。自分たちは礼装でここへ来ている。靴をとってしまえば、その正しい姿が保てない、だから靴ははき続ける、と。十数年前までは欧米から同じことを強要されてきた。kンドは、日本がそれをペルシアにおしつけている。日本外交が急速に西洋化したこと物語る。
ときおり宮内庁から提供される天皇家の家庭生活に関する写真をみると、ロイヤル・ファミリーの日常生活は、屋内までふくめて靴と共にある。その点では、大帝国時代の旧華族らと、生活感を分かち合う。
ストリーキングの写真が3枚。
1974年3月15日、六本木。走っているのは欧米系男性、全裸だが靴を履いている。靴下も脱いでいない。本当の意味で全裸ではない。
1970年9月、名古屋市中区。日本人の青年たち。靴も靴下もつけていない。
1981年春、原宿。日本人女性。全裸、裸足。