あらすじ
2026年W杯が開催される。緊迫した東アジア情勢を受けて、サッカースタジアムでの「旭日旗問題」が政治問題として語られることになるかもしれない。 依然としてFIFA(国際サッカー連盟)は、スタジアムでの旭日旗の掲揚を対戦国によって禁止しており、今大会でも同様の措置に出ることが予想されている。 なぜサッカースタジアムで旭日旗は禁止されたのか?
そこには、日本人と中韓のみならず東南アジア諸国の「対日感情」のギャップが存在していた。アジアサッカー連盟や関係者などへの取材を通じて明らかになったことをまとめるとともに、旭日旗がなぜアジアでタブーになっているのかを、アジア各地の戦争の記録のルポと、さらに歴史的な大東亜共栄圏の問題と重ねて検証しながら解説する。
旭日旗問題の源流を広くアジアに探り、遠くインドのインパールから、ミャンマーを超えて、タイそしてマレーシア、シンガポールへ。民主運動に揺れる激動の香港、そして中国、韓国へ。その謎を探ることは、「大東亜共栄圏」が掲げた理念が歴史の中でどのように揺れ動き、そして新しい解釈を生み出してきているのかを探ることでもあった。
2016年に『サッカーと愛国』でミズノスポーツライター賞優秀賞・サッカー本大賞優秀賞を受賞した著者が、揺れ動くアジアのナショナリズムとリベラリズムの葛藤を、旭日旗を通して確かめていくノンフィクション作品。
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Posted by ブクログ
「旭日旗の意匠は日章旗(日の丸)同様、太陽を象っており、大漁旗や出産・節句の祝い旗等、日本国内で現在までも広く使用されているものであり、特定の政治的・差別的主張である等の指摘は当たらない。政府として、韓国を含め国際社会に向けて、旭日旗の掲示が政治的宣伝にならないという考えを累次の機会に説明しており、今後ともそうした説明を継続していきたいと考えている。」
これは外務省のホームページに掲載されている「我が国の基本的立場(2021年5月18日加藤官房長官記者会見午前(抜粋))」を引用している。これを見た率直な感想を言うなら、アジアの各国から軍国主義の象徴と見られている「旭日旗」について、本音では大きく非難されるべき歴史を背負っていることを判りながらも、苦しい言い訳をしている様に聴こえてくる。戦争との関係性を否定する(薄める)ために、敢えて対極にある平和的なイメージや、戦争以前から(何も、戦時に使い始めたものでなく)伝統的に使われていた(だから、あれこれ言うんじゃないよ)事を言おうとしていて、何か呆れたと言うのか諦めたというのか、やるせない気持ちになってくる。今時サッカーの国際試合で、中々旭日旗の応援フラッグをはためかせるサポーターもいないだろうが、そんな事をすればスタジアムから摘み出されるだけでなく、その映像は瞬時に世界中に拡散される。これはAFC(Asian Football Confederation:アジアサッカー連盟)による禁止事項に該当する。
本書はそうしたアジア各地で批判の的とされる旭日旗について、戦後80年が経過した今、アジアの人々がそれに対してどの様な感情を持っているか、そしてその様な考え方に至った過去の歴史や事件について振り返っていく内容となっている。その取材先はアジア各地に及び、韓国、台湾、インドネシア、フィリピン、ミャンマー(かつてねビルマ)など太平洋戦争で日本軍が蹂躙し、数々の非道を行なってきた地である。そう書くだけで愛国主義者や右よりの人々からはクレームをいただきそうではあるが、私も比較的強い方の愛国者である事は間違いない。そうした地域ではかつて住民を重労働に使役し、不穏分子とあらば裁判なく殺害し、女性であれば強姦し、食料を奪い家に火をつける。この様なことが行われていた。戦時だから仕方ない、誰が敵か味方が見分けがつかない中では仕方ない、精神的に異常を来しているからやむを得ないなど、冒頭記載した様な「言い訳」的な声が至る所から聞こえてきそうだが、自分が、自分の家族や友人がその様な犯罪的行為で命を失っても、同じことが言えるのかは謎だ。勿論私には復讐心しか生まれないだろう。例え月日がそれを記憶の彼方に追いやろうとしても、その映像や話を聞けば思い出してしまうだろう。旭日旗は我々加害者側には絶対に理解できない、被害者の記憶を呼び覚ますスイッチの様な役割がある。同じ様な事はナチスドイツのハーケンクロイツ(ドイツ語で「鉤十字(かぎじゅうじ)」を意味する)にもあるが、これはドイツ他各国で、公共の場での掲揚は法律で禁止されている。
本書は取材で各地を訪れ、そこに住む人々との会話の中に、現代にまで続き、そして残る、悲しみ、怒り、恐怖といった負の感情を浮き彫りにしていく。サッカースタジアムでこれを見たら、大凡政治的な意味合いを持つ事は誰でも理解する。それでもなおそれを用いるものは、スポーツを政治的な意図に利用しようとする以外には考えられない。本来なら別の形や方法で自身の主張や考え方を表明できるにもかかわらず、そうしない。能力の問題なのか短絡的かは分からないが(どちらにしても、賢明・クレバーな頭とは思えない)、相手が嫌がる事はしない、という基本的な事にも考えが至らない点で、単なる恥晒しになるのも覚悟のうちなのだと思う。高市総理は靖国参拝を控えた。理解し難い行動をとらなくて良かったと思う今日この頃である。そして同じ日本人の中に敢えて、強いて恐ろしく身勝手な行動をする人間がいる事を、悲しく思うだけでなく、淋しさを感じてしまうのである。