あらすじ
人間はなぜ「物語」を求めるのか?
すぐれた物語はいかに脳を刺激するのか?
脳科学・心理学の知見を生かせば、ストーリーはもっと魅力的に語れる!
イギリスで大人気のライティング講師が解き明かす、共感を生む創作の秘密
人は物語によって他者とつながり、相互に監視し、ときに対立もしてきました。
物語は、小説や映画にかぎらず、新聞からゲーム、歌、夢の中まで、社会のあらゆるところに存在しています。
「われわれを人間たらしめるのは物語である」「物語はわれわれだ」と著者は言います。
では、物語を求める人間、そして人間が求める物語の本質とは、どのようなものなのでしょうか?
本書は、脳科学・心理学から人間/物語の秘密を解き明かしていく、まったく新しいストーリーテリング論です。
一番の特徴は、プロット重視の従来的な物語理論とは対照的に、キャラクターをストーリーテリングの中心に据えていること。
魅力的なキャラクターを作るうえでカギとなるのは、キャラクターの〈欠点〉。
それも、自分が正しいと思い込んでいる〈信念〉こそが、キャラクターを唯一無二にする欠点なのです。
私たちの知覚や認識をつかさどる脳は、実は不合理な進化を遂げた「信頼できない」存在。
都合のよい事実だけを取り入れ、それに反するものは退けることで、自分をヒーローに仕立て上げてしまいます。
自分が信じるものの致命的なまちがいを認識し、自分を変えようとするのは至難の業。
しかし、それを成し遂げ、「自分は何者なのか?」「何者になるべきか?」という問いに答えを出そうとするキャラクターが、プロットの原動力となります。
本書ではこのように、人間の脳と心に注目して、共感を生む物語のしくみを徹底解剖。
創作の開始時点から使える実践的な付録も収録し、よりよいストーリーテリングの秘密を余すところなく伝授します。
小説や映画にかぎらず、マンガ、ノンフィクション、エッセイ、ゲームや動画の制作からビジネスシーン、そして日常的な雑談まで…… すべての〈物語の語り手〉に読んでほしい一冊です。
著名人からも絶賛の声!
★全世界で15万部突破!/『サンデー・タイムズ』紙ベストセラー
ストーリーテリングを科学的に解き明かす著者のアプローチほどユニークなものはない。経験の程度によらずすべての作家に、作品を深く、より豊かにするための新たな理解を与えてくれるだろう。
──クレイグ・ピアース(脚本家・俳優/『ムーラン・ルージュ』『華麗なるギャツビー』脚本)
本書は、芸術やライティングの科学と同じように、人間の本質についても照らしだしている。すでにもう一度読み直したくてたまらない。
──デビッド・ロブソン(科学ジャーナリスト/『知性の罠:なぜインテリが愚行を犯すのか』著者)
これほどまでに夢中にさせ、いままで読んだもの、書いたものに関する問いを喚起させる本は滅多にない。傑作だ。私は畏敬の念を抱いている。
──アダム・ラザフォード(遺伝学者・サイエンスライター/『遺伝学者、レイシストに反論する』著者)
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
これまでに読んだことのある創作指南本とは異なり、科学的視点がふんだんに取り込まれているため、内容により説得力が感じられた。加えて、そもそもの著者の語り口も読みやすく面白かった。手元に置いて繰り返し読みたい一冊。
Posted by ブクログ
「このゴール(ハッピーエンド)を一緒に実現しに行きませんか?」
目標指向性は、人間のあらゆる衝動の基盤となるメカニズムだ。◀︎ビデオゲームはこの根源的な欲求に直接作用する。
Posted by ブクログ
物語の構造を、かなり掘り下げて教えてくれる。
安易なHow toではなく、深い洞察がある。ただし、咀嚼してテクニックとして落とし込むには、訓練と強い意志が必要だと感じる。使いこなせればストーリーテラーとしてかなり強いと思う。
Posted by ブクログ
本書は、かつて私が様々な著作のために実施したリサーチと、それに基づいておこなったストーリーテリング講座から生まれた、少々変わった本だ。私がストーリーテリングの科学に関心を持ったのは、10年ほど前、自分の2冊目の著書『異端者たち(The Heretics)を書くために、信仰の心理学について調査をしていたときのことだ。当時の私は、知的な人々がいかにして異様な物事を信じるようになってしまうのかを知りたいと思っていた。そして私が見つけた答えは、人が心理学的に健全な場合、展開する人生のプロットの中心にいる自分は道徳的な英雄なのだと、脳がその人に感じさせているということだった。脳が出会ったどんな〝事実〟も、その物語に従う傾向がある。この〝事実〟が人の英雄感覚に迎合するようなものであれば、自分は賢いと思っているような人間でも、あっさりとそれを受け容れてしまうのだ。逆にそうでない〝事実〟なら、人の思考はそれを却下する方法を巧みに見つけ出す。『異端者たち』は、物語を語る脳という考え方に、私が導かれるきっかけとなった。これは、自分自身に対するとらえ方だけでなく、私の世界の見方も変貌させた。
伝統的なアプローチ(例:ジョーゼフ・キャンベルの〝原質神話〟)の問題点は、構造に目を奪われがちなところだと私は考えている。なぜそうなるかはわかりやすい。〝唯一の真の物語〟、すなわち、どんな物語も評価できる究極の完璧なプロット構造の探究になってしまうからだ。それに、さまざまな動きに切り分けることもなしに、その構造を説明するのは非常に難しい。
現代の物語では、素っ気ない感触を生んでしまう構造を強調しすぎるあまり、損なわれる部分が大きいのではないだろうか。フォーカスを当てるべきはプロットではなく、登場人物ではないかと思う。われわれが自然な興味を抱くのは、出来事ではなく人間に対してだ。欠点もあるが魅力的で、その人のために応援し、泣き、クッションに頭突きしたくなるような
特定の個人に対してだ。プロットの表面上の出来事ももちろん重要だし、構造は機能的で規律あるものとして存在しなければならない。しかしそれは、あくまでキャストを支えるためのものだ。
因果関係は脳の自然な言語である。脳はそのようにして世界を理解し、説明する。心を惹きつける物語は、因果関係の連鎖によって構成されている。読むのが止まらなくなるようなベストセラー小説や大ヒット映画の脚本の秘訣は、ひとつの事象が次の事象を直接的に導き、たえず前進する点にある。2005年、ピューリッツァー賞受賞歴のある劇作家のデイヴィッド・マメットは、『ザ・ユニット 米軍極秘部隊』というTVドラマの製作総指揮を務めていた。因果関係のないシーン――ただ説明的な情報を伝えるためだけのシーンなど――を書いてくる脚本家たちにいらだちを募らせたマメットは、怒りを込めたすべて大文字の連絡メモを回覧し、それがネット上にも流失した。「プロットを前進させず、独自で機能することもないシーン(ドラマとして見て、それ単体で価値があるわけでもないシーン)は、不要なものか、正しく書かれていないかのどちらかだ」と彼は書いている。「どんなときも、この不可侵のルールから始めてほしい――シーンは物語的に展開しなければならない。主人公が問題を抱えるところから始まり、挫折するか、別の方法に気づくことで、クライマックスに達しなければならない」
因果関係のないシーンは退屈になりがちだが、問題はそれだけではない。因果関係があまりにゆるいプロットは、脳の言語に沿っていないので、混乱を招く危険がある。『プラダを着た悪魔』の脚本家・アライン・ブロッシュ・マッケンナが指摘しているのもそういうことだ。「すべてのシーンのあいだにあってほしいのは〝なぜなら〟であり、〝そしてそれから〟ではない」。脳は〝そしてそれから〟が苦手だ。まず何かが起き、そのあと駐車場で人が刺されるのを目撃したばかりの女性が現れ、1977年の乳幼児洋品店マザーケアにネズミが出てきて、幽霊に取りつかれた梨の果樹園で船乗りのはやし歌を歌う老人が登場となれば、この脚本家は観客に多くを求めすぎている。
ただ、意図的なケースもある。商業的な物語と文学的な物語の語り口の本質的なちがいは、この因果関係の使い方にある。大衆向けの物語における変化は迅速かつ明確で、理解もたやすいが、高尚な文学における変化はゆるやかで曖昧なことが多く、読む側にも多大な労力が求められる。読者は自分であれこれ考え、つながりを解読しなければならない。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて――スワン家の方へ』などの小説は、当てもなく徘徊するような展開で知られており、たとえばサンザシの花の描写は1000語をゆうに超える言葉で綴られる(その半分ぐらいのところで、ひとりの登場人物が語り手に「あなたはサンザシがお好きですね」と語りかける)。デイヴィッド・リンチの実験的な映画がしばしば〝夢のようだ〟と評されるのは、夢と同じで、作品に因果関係のロジックが不足していることが多いからだ。
優れた物語とは人間性の探求であり、未知の精神へのスリリングな旅路でもある。ドラマの表面で起きる出来事よりも、むしろそれと格闘しなければならない登場人物達の方にこそ、物語の本質がある。物語の始まりでわれわれが出会う登場人物達は、決してパーフェクトではない。登場人物に対するわれわれの好奇心をかき立て、彼らの戦いをドラマティックたらしめるのは、彼らの偉業でもなければ、その魅力的な笑顔でもない。彼らの欠点なのだ。
文化の多くがその人のモデルに組み込まれ、神経領域が調整され特化されるのは、生まれてから7年のあいだとされる。西洋の子どもたちは、約2500年前の古代ギリシャで生じた個人主義文化の中で育つ。個人主義者は個人の自由を崇拝し、世界は個々の断片や部分から構成されていると認識する傾向がある。これが一連の特殊な価値観を生み出し、われわれが語る物語にも強い影響を与えている。個人主義は古代ギリシャの地形的背景から生まれた思考様式だと考える心理学者もいる。古代ギリシャは岩が多く起伏のある海岸沿いの土地で、農業などの大規模な集団活動には適していなかった。生きるためには、なんらかの商売、つまり皮なめし、狩猟採集、オリーブオイル生産、漁業など、小さな事業を営む必要があった。古代ギリシャにおいて世界をコントロールするには、自立するのが最善策だったのだ。
個人の自立が成功の鍵となれば、万能の人間になることが文化的理想となる。古代ギリシャ人は個人の栄光や完成や名声を求めた。個と個の伝説的競争の場であるオリンピア祭典競技を考えだし、50年にわたって民主主義を実践した。自己への固執が強くなるあまり、厄介な自己愛の権化であるナルキッソスの物語で、その危うさを警告せざるを得なくなるほどだった。個人という概念が己の力の中心に置かれ、暴君や運命や神々の気まぐれの奴隷にされることなく、自分の望む人生を自由に選べるという考え方は革命的だった。心理学者のヴィクター・ストレッチャー教授は、この概念が「因果関係についての人々の考え方を変え、西洋文明の先駆けとなった」と述べている。
この、押しが強く自由を愛する自己を、東洋で生まれた自己と比較してみよう。古代中国のうねるように広がる肥沃な土地は、大規模な集団活動にはうってつけだった。生きるためには、広い範囲にまたがって小麦や米を育てる共同体の一員になるか、大掛かりな灌漑事業に関わるかだった。こうした場所で世界をコントロールするには、個人よりも集団の成功を確保することが最善の方法だったのだ。つまりは、つねにおとなしくして、チームプレーヤーに徹することが求められる。こうした集団的なコントロール理論は、集団的な理想の自己につながっていった。『論語』の中で、孔子は「優れた人」とは「自分を誇らず」、むしろ「徳を隠す」ことを好む人であると言ったとされている。こうした人間は「友好的な和を育み」「平衡と調和の状態を完全な形で存在させる」のだと。7000キロも離れた場所に出現した押しの強い西洋人と比べると、まったく異なる理想像だ。
古代ギリシャ人にとって、コントロールの主役は個人だった。古代中国人にとっては集団だった。ギリシャ人にとっての現実は。個々の断片や部分で構成されていた。中国人の現実は、相互に結びついた力の場だ。このような現実体験のちがいから、異なる物語形式も生まれている。ギリシャ神話は通常、アリストテレスが言うところの「始まり、中間、終わり」(危機、闘争、解決と表現した方が適切かもしれない)の3幕構成になっている。ひとりの英雄が恐ろしい怪物と戦い、宝物を手にして帰還するという物語が多い。
これは個人主義のプロパガンダであり、ひとりの勇敢な人間がすべてを変えることができるという考えを発信しているとも言える。このような物語のアウトラインは、西洋の子どもたちの自己の芽生えに、驚くほど早くから影響を与える。自分で作った物語を語るよう研究者に求められたアメリカ人の3歳の女の子は、危機、闘争、解決という流れの物語を完璧に紡いでみせたという。「バットマンがママから離れました。ママは「戻ってきなさい、戻ってきなさい」と言いました。バットマンは迷子になり、ママはバットマンを見つけることができません。バットマンはこんなふうに走って家まで帰りました。バットマンはマフィンを食べ、ママのひざに座りました。それからバットマンは休みました」
古代中国の物語はこんなふうではない。他者中心の世界であるがゆえに、中国には2000年にもわたって自伝というものが事実上存在しなかった。ようやく自伝が出てくるようになっても、主人公の声や意見は人生の物語から削られているのが普通で、主人公は自身の人生の中心ではなく、傍観者の立ち位置に置かれた。東洋の小説は、因果関係という単純なパターンをたどるよりも、芥川龍之介の『薮の中』のような形をとることが多かった。この作品では、殺人事件にまつわる出来事が、複数の目撃者――木こり、僧、放免(下級刑吏)、老女、容疑者、被害者の妻、そして被害者の言葉を伝える霊媒師――の視点から語られる。どの証言も相互になんらかの矛盾があり、読者は彼らの目的を自分で解明しなければならない。
心理学者のキム・ウイチョル教授は、こうした物語では「答えが示されることは決してない。結末もない。めでたしめでたしともならない。読者は疑問とともに取り残され、自分自身で答えを出さなければならない。それが物語の醍醐味だ」と述べている。東洋の物語で個人にフォーカスが当たる場合、主人公のステータスは適度に集団を優先する形で得られる傾向がある。「西洋では、主人公が悪と戦い、真実が勝利をおさめ、愛がすべてに打ち勝つ」とキムは言う。「アジアでは、自己犠牲を払う人が英雄になり、英雄は家族、共同体、国のことを大切にする」
<中略>
西洋の人々は、個人の戦いと勝利の物語を神経モデルの領域に取り込んで楽しもうとするのに対し、東洋の人々は、調和を求める物語に喜びを感じる。
こうした物語の形式は、各文化における変化のとらえ方のちがいを反映している。西洋人にとっての現実とは、個々の断片や部分から構成されたものだ。予期せぬ変化の脅威が迫ってくると、西洋人は現実の断片や部分と戦ってそれらを服従させ、再コントロールしようとする傾向がある。東洋人にとって、現実とは相互に関連した力が存在する場だ。予期せぬ変化がやってくると、混乱した力を調和させて共存させるにはどうすればいいかを知ることで、コントロールを取り戻そうとする傾向がある。両者に共通するのは、物語が持つもっとも深い目的だ。物語はコントロールのための教訓を教えてくれるのである。
神経生物学者のブルース・ウェクスラー教授は、このことを次のように説明する。「いったん[脳の]内部構造が確立されると、内部と外部の関係が逆転する。環境からの試練に直面した個人は、環境によって内部構造を形成するのではなく、すでに確立された内部構造を維持しようと行動し、構造を変化させることを困難で苦痛だと感じるようになる」。人はこうした試練に対し、歪んだ思考、議論、攻撃で対処しようとする。ウェクスラーも言うように、「人は構造と矛盾する情報を無視したり、忘れたり、信用に値しないと積極的に決めつけたりする」
欠点のある世界モデルを守るため、脳が巧妙なバイアスという武器を使うこともある。新しい事実や意見に出会った人間は、すぐさまそれを鑑定する。自分の現実モデルと一致すれば、脳が潜在意識において〝イエス〟という感覚を与える。一致しなければ〝ノー〟だ。こうした感情的な反応は、意識的な論理判断のプロセスの前に起きる。これが人に強い影響を与える。通常、人が何かを信じるかどうか決めるとき、公平な立場から証拠を探したりはしない。むしろ、モデルが瞬時に下した決定を裏づける理由を探す。〝直感〟を裏づけるそこそこ妥当な証拠が見つかりさえすれば「うん、道理にかなっているな」と考える。そしてそこで考えるのをやめる。いわば〝理にかなったら思考停止ルール〟である。
このように自分を欺くとき、人間の脳内報酬系は急激に快感に達するだけでなく、この一方的な裏づけとなる情報の探索は質が高く徹底したものだったとみずからを納得させてもいる。このプロセスは実に巧妙だ。なぜなら、モデルが示したものに相反する証拠を、単に無視したり忘れたりするというだけのことではないからだ(そうするケースもあるが)。反対の立場にある専門家の権威を怪しげな論法で否定したり、専門家の証言を切りとって都合よく強調したり退けたり、専門家の主張にほんのわずかな欠陥に固執し、それを使って主張のすべてを否定しようとしたりする。正しさに対する認知的幻想を解消するのに、知性はあまり役に立たない。賢い人ほど自分が正しいことを、〝証明〟するのが巧いが、自分のまちがいを見抜くのはさほど得意ではない。
心理的に正常な人間は誰でも、自分がヒーローだと考えている。道徳的優越感とは、「独自の強さと浸透性のあるポジティブな幻影の形式」だと考えられている。「ポジティブな道徳的セルフイメージ」の維持は、心理的にも社会的にも利益をもたらすだけでなく、実際に身体の健康も改善することがわかっている。殺人犯やDV加害者でさえ、自分には道徳的正当性があると考え、しばしば自分を耐えがたい虐待の犠牲者だと見なす傾向がある。ある研究で囚人の英雄製造機バイアスを調べたところ、全般に一般人と同様だった。囚人たちは、親切心や道徳心などのさまざまな向社会的特性において、自分は平均を超えていると考えていた。例外は遵法精神のみだった。彼らは重大な法律違反を犯して刑務所に収監され、服役しているにもかかわらず、自分たちの遵法精神は平均程度だとしぶしぶ認めたのである。
英雄製造機の妄想は、数えきれないほどの悲惨さや凶暴さや死をもたらしてもいる。毛沢東やスターリンやポルポトは自分が正しいと信じていたし、ヒトラーが銃で自殺する前に遺した最後の言葉は、「私がドイツや中央ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させたことで、世界は永遠に国家社会主義に感謝するだろう」だった。実際、最下級のナチ党員でさえ、自分たちのおこないが道徳的に正しい理由を、脳が自動的に生みだしていた。ホロコーストの初期段階において、ユダヤ人を絶滅するために動員されたのは、普通の中年のドイツ人たちだ。35歳のある金属工は、次のように回想する。「母親が子供の手を引いて歩いていた。私の隣人が母親を射殺し、そして私は、母親なしではその子もどうせ生きていけないだろと自分に言い聞かせ、子どもを撃った。要するに、母親がいないと生きていけない子どもを解放してやることで、自分の良心をなぐさめられると思ったのだ」
登場人物が確信している自分の正しさや優位性こそが、彼らに恐るべき力を与える。優れた物語はしばしば、主人公と敵それぞれの英雄製造機が生みだした、相反する物語の衝突から形作られる。どちらの道徳的現実認識も、本人にとってはまったくの真実でしかないのだが、おたがいにどうしようもなく対照的だ。これらが、死ぬまで戦うしかない神経世界同士となっていくのだ。
急展開、チェイス、爆発など、表面的な出来事が物語の要点だと考えるのはたやすい。われわれは登場人物の目を通して物語を体験しているため、登場人物と同様に、スリリングで変化に満ちた劇的なエピソードに気をとられてしまいがちだ。しかし、そうした出来事は、特定の人物に起きるのでなければ意味がない。サメのいる水槽も、そこに007が落ちなければ意味がない。ジェームズ・ボンドのシリーズのような大衆向けの物語でさえ、鍵は登場人物が握っている。これらの物語が人の心をつかむのは、飛び交う銃弾や高速のスキーチェイスのおかげだけでなく、この特定の人物が、こうした特定の経歴、こんな長所とこんな短所を抱えながら、どう窮地を抜け出すのかを知りたくなるからだ。登場人物達は通常、自分を成長させ、新しいことに挑戦し、前例のない努力をすることによって――つまり変化することによってのみ、そこから抜け出すことができる。同様に警察ドラマは、情報のギャップが満載された、死体にまつわるシンプルなミステリーのように感じられるかもしれないが、そこで語られる物語は、さまざまな容疑者の動機、すなわち、つねに興味深い人間の行動の〝なぜ〟を中心に展開することが多い。
私は長年、欲望や中毒と闘ってきた。中年になっても食べ物との戦いは続いている。肉体の完璧さや若さに執着する文化にどっぷりと浸かり、私の中にもそれが根づいているため、18歳のころの腹に戻すなどと言う無理難題に、いまだに精力を傾けてしまう自分がいる。そして、このうんざりするような自分との戦いを続けるうち、私は自分というものが、つねに流動的であることに気づいた。
大量のローストディナー[イギリスで日曜に食べる、ロースト肉などの伝統的な食事]を食べた翌日の月曜の朝、私は節制の軍師と化して、断固たる決意で厳格に、ビクトリア朝時代の価値観を体現する。食器棚もきれいにし、生活を整える。だが、水曜の午後5時ごろには、節制の軍師は姿を消している。その代わりに、ちょっとした腹のたるみを40代の男が気にするなんて情けないとおもっている、おまぬけ太郎が立っている。今週がどんな1週間だったかを考えれば、ちょっとしたご褒美ぐらいいいんじゃないか? そもそもロックフォールチーズを1口食べただけで自分を責めるなんて、何様のつもりなんだ? なんてつまらない、なんて見栄っ張りな、なんてビクトリア朝的なやつなんだよ! やがて私は、自制心とは実のところ、意志の力の問題ではないと考えるようになった。問題は、絶対に健康でいようと決めている人間も、ハッピーでいようと決めている人間も含め、異なる目標や価値観を持つさまざまな人々が自分の中に生きているということにあるのだと。
世の中のあらゆるものにモデルがあるのと同様に、われわれの頭の中には、つねに自分の人間像をコントロールしようと闘う、さまざまな自己が支配的になる。そのときどきの異なる環境下で、さまざまなバージョンが支配的になる。支配的になった自己は、脳の語り手の役割を引き継ぎ、情熱的に、説得力を持って自己主張をおこない、そしてたいていは勝利する。人の意識下のレベルでは小さな自己たちの民主主義暴動が起きていて、神経学者のデイビッド・イーグルマン教授によれば、小さな自己たちは支配権をめぐる「慢性的な闘いに巻き込まれている」。人の行動は「単なる闘いの最終結果」にすぎない。作り話をする脳の語り手は、その間ずっと「論理パターンを縫い合わせて日常生活を形作るために、昼夜を問わず働いている。何が起きたのか、自分の役割はなんだったのかを説明するために」。イーグルマンによれば、作り話は「人の脳が従事する重要な仕事のひとつだ。脳は、多様な側面を持つ民主主義的な行動を理にかなったものにするために、ただ一心に働いている」
ストーリーテリングの喜びが生みだす原始的な社会感情は、道徳的な怒りだけではない。進化心理学者は、人間には生来の野心が2つあると主張する。ひとつは、人と仲良くして好かれ、部族の一員として利己できでない人物と見なされること。もうひとつは、人より先に進みトップに立つことだ。人間には、つながりたい、支配したいという衝動がある。もちろん、これらの衝動は相容れないことも多い。人と仲良くし、なおかつ人より先に進みたいという欲求は、不誠実さ、偽善、裏切り、そしてマキャベリ的策略が生まれる原因のようにも見える。これが、人間の性質や、それを語る物語の核心にある葛藤だ。
人より先に進むとは、すなわち地位(ステータス)を得ることである、その欲求は人類普遍のものだ。ブライアン・ボイド教授は、「人間はおのずから貪欲に地位を求める。誰もが、たとえ無意識であれ、つねに仲間に感銘を与えることで自分の地位を上げようとし、そして当然のことながら、無意識であれ地位にもとづいて他者を評価している」と述べている。われわれには地位が必要なのだ。研究によれば、人々の「主観的な幸福感、自尊心、そして精神的・身体的健康は、他者に認められた地位のレベルに左右されている」。人は自分の地位を管理するため、「広範な目標志向の活動に従事する」。つまり、人生における崇高な計画や探求の根底には、抑えきれない地位への渇望が潜んでいるということだ。
<中略>
地位に執着する動物はほかにもたくさんいるとはいえ、人間が地位に特別な関心を持つのは、そのヒエラルキーが静的ではなく流動的だからだ。人間は、ボノボと並んで最も人類に近いとされるチンパンジーと、この点で共通している。この類似を見るかぎり、人類とチンパンジーが共有するどの習慣も同じ祖先までさかのぼると見られ、両者が分岐したのはおそらく500万年前から700万年前と推測されている。チンパンジーのアルファオス(群れのリーダー)の寿命は、長くても約4~5年だ。地位は生存に関わる重要なもの(チンパンジーと人間のどちらにとっても、より良い食べ物、より良い交配の機会、より安全な睡眠場所などの利益につながるもの)であり、誰の地位もつねに変動的なので、つねに強い執着の的となっている。この地位の流動性こそが人間ドラマの本質だ。ここから、忠誠と裏切り、野心と絶望、愛の成就と喪失、策略と陰謀、脅迫や暗殺や戦争といった物語が次々生みだされる。
外界の現実がついに否定できないものとなると、リア王の内にある世界モデルは砕け散る。彼の自己全体が崩壊する。環境をうまく操るには命令を出せばいいというのが、彼のコントロール理論だった。そしてこれは、まちがっていたとわかればあっさり捨てられるような、単なる愚かな考えではなかった。この理論が、リア王が現実として体験する世界そのものであり、彼の知覚の構造そのものを形成していた。彼は、これが真実だということを示す証拠をあらゆるところに見いだし、反証となるものは見下して否定してきた。それが脳の働きというものだ。こうしたことが高度な心理学研究で理解されているからこそ、この戯曲には真実味とドラマ性があることがわかる。人間は、欠陥のある考えを、サイズの合わないズボンのように簡単に捨てることができない。〝現実〟がまちがっていることを確信するには、圧倒的な証拠が必要なのだ。何かがおかしいとようやく気づいたとしても、これらの信念を打ち砕くことは、自分自身を打ち砕くことを意味する。そしてまさにそれが、成功をおさめた物語の多くで起きていることなのだ。
われわれはみな、無数の教訓的な物語によって、静かに、同時にコントロールされている。人間が進化させた特有な性質のひとつとして、複数の集団に同時に属する方法を考える能力というものがある。「人はみな複数の内集団に属している」と、レナード・ムロディナウ教授は述べている。「そのため、人の自己認識は状況によって変化する。同じ人間がその時々に応じて、女性になったり、役員になったり、ディズニーの従業員、ブラジル人、母親になったりする。どれになるかは、どれが妥当か、もしくはそのときどれになれば快適かによる。
こうした集団や、そこでどうふるまって人脈と地位を獲得するかという物語が、所属する人々のアイデンティティの一部を形成する。自分がどの〝仲間集団〟に所属するかを決めるのは、主に思春期、つまり〝自己の壮大な物語〟を組み立てている時期だ。人は自分と似た精神モデルを持つ人々、つまり似た性格や興味の対象を持ち、自分と同じように世界を認識している相手を求める。思春期後期には、多くの人が左か右かといった政治的イデオロギー――すなわち、感情や本能、形成されかけている疑念など、人々の無意識の背景に適合し、それを理にかなったものにしてくれる、部族的で支配的な物語――を選択する。これが突然に、明晰さや使命、正義、救いの感覚を与えてくれる。このとき、まるで真実の啓示に遭遇し、目を開かれたように感じることがある。しかし実際にはその逆だ。部族的な物語は、人々の目をくらませる。せいぜい真実の半分くらいしか見せてくれない。
<中略>
双方の物語の狡猾な点は、どちらも部分的な真実しか語っていないということだ。資本主義は解放という面も持つが、搾取的でもある。どんな複雑な体制もそうだが、資本主義にもその効果と代償があり、良いところも悪いところもある。ただ、部族の物語に沿って考えるということは、道徳面では満足しきれない複雑な点を排除するということでもある。物語を語る脳は、混沌とした現実を単純な因果関係の物語に変換し、バイアスのかかったモデルと、そこから生まれる本能や感情が、高潔で正しいものだと保証する。そうすることで、対立する部族を悪役に仕立て上げようとするのだ。
ジョーゼフ・キャンベルは、人間の〝真の〟姿を描写する唯一の方法はその欠点を描くことだと言っているが、それが正しいとすれば、物語作家はあなたをどう描くだろう? あなたのアイデンティティを形成する信念、つまり、あなたが固執し、あなたを定義づけ、あなたにしばしば害をもたらすまちがった信念とはなんだろうか? 執事スティーブンス(※映画『日の名残り』)にとってそれは感情の抑制だったが、あなたにとってはなんだろう? おそらく即座に答えられる質問ではないだろう。こうした欠点が有害だということが、本人には見えていないことも多いからだ。欠点は、コントロールされた幻影的現実を構成する要素の一部だ。さらに悪いことに、人がそれだと気づいても、狡猾な英雄製造機としての脳は、それを欠点ではなく美徳であるかのように見せかける。われわれは、自分の欠点を擁護しようと奮闘する。
私の欠点は、ほかの人間は危険だという根源的な信念ではないかと思っている。安全を保つにはできるだけ人を避けるべきだというのが、私のコントロール理論だ。年を重ねて社交術が向上すると、人前で正しくふるまうため、仮面みたいにかぶって見せられる何種類かの自己を揃えておくようになった。一方で、私はより深く自分の中に引きこもるようにもなった。私のずる賢い脳は、いまの場所まで自分を導いてきた判断力は賢明なものだったとささやいてくれる。妻や犬たちとともに田舎に隠遁し、平和な暮らしを送るのはすばらしいことだ。〝地獄とは他人だ。そうだろう?〟
だが、たまに確信が持てなくなる。30代のころはときおり友人が欲しいと思うこともあったが、いざ友人作りの機会が訪れると尻込みしてしまう。いまはもう欲しいとも思わない。周囲の世界が静かになるにつれ、心地よい孤独と苦々しい寂しさは、同じ顔の別々の表情だと思うようになった。両者は一瞬にして入れ替わる。自分がどんどん変わり者になっていくのを感じる。郵便配達員や散歩で出会う人々の、警戒するような目つきにそれを感じる。妻と私が年老いて、子もなく孤立してしまうかもしれないのは不安だ。だが、じゃあどうすればいい? 私の神経モデルは何十年もかけて、この方向性でみずからを組織化してきた。それを解体し、基盤となっていた欠陥のある中心的信念を変えるには、とにかく劇的な何かが起きる必要がある。
英雄は無私無欲だ。英雄は勇敢だ。英雄は地位を得る。だが、物語においても人生においても、英雄にはさらに、まだわれわれが検証していない究極の不可欠な資質がある。それは人間最古のもっとも根源的な衝動であり、おそらくその起源は、人類が単細胞生物だった時代にまでさかのぼる。人間は目標に向かうようにできている。何かを求め、それを手に入れるために努力する。予期せぬ変化がやってきたとき、人はただ寝床に戻って、すべてが消え去るのを待ったりはしない。いや、少しのあいだはそうするかもしれない。それでもいつかは立ち上がる。変化に立ち向かう。そして闘う。19世紀の批評家のフェルディナン・ブリュンティエールは、これが物語における唯一の不可侵なルールだと考えていた。「私たちが演劇に求めるのは、目標に向かって奮闘する意志のスペクタクルである」。成功する物語と成功する人生の根本にあるのは、周囲で噴出する混沌に、人が受け身で耐えるということではない。出来事は人に挑んでくる。出来事が欲望を生む。欲望が人を行動に駆り立てる。そうやって、変化が人間を物語の冒険に誘い込み、着火点がプロットを生みだす。
主人公が不合理に陥るポイントを見つけるには、何を神聖視しているかを考えてみる必要がある。人が神聖だと思っているものは、たいていの場合、その人のことを明確にしてくれる。これが登場人物の真実を解き明かす秘訣だと私は思っている。誰かのことを考えるとき――たとえば、その人はどんな人物かと訊ねられたりしたとき――おそらく最初に浮かぶのは、その人が何を神聖なる信念としているかだ。その人のことを赤の他人に説明するときも、それを説明するはずだ。そして、神聖なる信念が「はびこる不合理性」の源であるがゆえに、おそらくは、みじめさ、あやまち、苦悩の原因もそこにあるということになる。これが物語の題材であり、まさに書き手が追い求めているものだ。
つまり、架空の人物の〝神聖なる欠点〟とは、彼らが神聖なものと見なしている、彼らの壊れた部分なのだ。『日の名残り』の執事スティーブンスは、感情を抑制したイギリス人の品格という概念を神聖視していた。第1幕は、まさにそれをめぐって話が展開する。『市民ケーン』の序盤では、チャールズ・フォスター・ケーンが、〝庶民〟のために戦う無私の闘志たる自分、という考えを神聖視する。この誤った信念が、彼のその後の旅路を牽引することになる。同様に、『アラビアのロレンス』の序盤のシーンでは、T・E・ロレンスが、自分は〝非凡〟な人間だという考えを神聖視してしまうさまが描かれる。そこから観客は、この不合理な信念が招く忘れられない結末へと引きずり込まれていく。
これらはどれも、登場人物達の神経的な現実モデルに組み込まれた、誤った概念だ。彼らはそれを乗り越えようと苦闘した。自分が何者かを自分で定義した。プロットの重要なポイントは、この神聖な概念を試し、くり返し検証し、最終的に打ち砕くことにあった。それが物語の目的であり、だからこそこれらの作品は人の心を奪ったのだ。
物語の中で、主人公が自分の傷の起源をほかの登場人物に明かしたり、回想したりすることで、主人公への洞察が急に深まるというのはよくある。こうした場面を必ず含める必要はないが、傷の起源となった瞬間を書き手が理解しておくことは大事だと私は考える。そのためには、欠点につながった傷がいつ生まれたか、正確に知る作業が必要だ。登場人物が誤った考えにいたる場面を書き出してみてほしい。その場にいる登場人物、背景、台詞などを、徹底的に書き出してほしい。
傷ついた瞬間を何もかも想像してみることで、登場人物は書き手の心の中で命を得る。ためらいがちな最初の呼吸音が聞こえてくるかのようだ。クリシェを超えはじめるのはここからだ。場面のすべてを思い描こうとすると、具体的に考えざるを得なくなるので、単に「父親に殴られた」「母親に愛されなかった」といった話ではなくなる。それは具体的な結果をもたらした、実際の詳細な出来事となるはずだ。
必ずしも明白なトラウマ事象である必要はない。『日の名残り』の執事スティーブンスは、父親が異様なまでの感情抑制力を発揮した話を聞き、インスピレーションを得た。『ゴーン・ガール』のエイミー・ダンは、両親が書いた人気の児童書「アメージング・エイミー」がきっかけで、「私が完璧で素晴らしい人間に見えるときだけ、人は私を愛してくれる」と信じるようになった(小説の中には具体的な出来事は書かれていないが)。とはいえ、もちろんそれが苦痛の瞬間だったということもあるだろう。前述のように、人類は部族的な進化を遂げているため、疎外されたり屈辱を受けたりした経験は、非常に大きな傷となる。ひょっとすると、傷の起源は、そうした感情が強力に感じられた瞬間にあるのかもしれない。
傷の起源の場面がわかれば、その人の欠点もさらに正確に特定することができる。その出来事により、その人物は果たして何を信じさせられることになったのか? どんな有害な考えが生まれたのか? それを概念化する方法はいろいろあるが、本質的には、彼らの神聖なる欠点とは、自分自身について、そして、人間社会の仕組みについての誤解であるはずだ。次にあげるような言葉を使って説明できるものとして考えてみるといい。
・私が安全なのは……のときだけだ。
・人々は、私が……のときだけ私を愛してくれる。
・誰にも知られてはならない私の秘密は……。
・人生で一番大事なことは、私が……。
・ほかの人々のひどいところは……。
あるいは、これらのバリエーションでもいい。重要なポイントは、それが具体的なあやまちであり、いずれ他者とのかかわりに深刻な影響を及ぼすということだ。この神聖なる信念こそが、欠点のある登場人物の成長の種子となる。そして、物語の始まりとなる予期せぬ変化の瞬間に、なぜこの人物がこれほど独特の反応をすることになるのか、その究極の説明にもなる。
Posted by ブクログ
物語の構成を科学的な視点でまとめている本を、Xで話題になっていたため購入。ただ、読んでみた感想としては、元々自分が持っていた感性や考え方を大きく超えるような新しい発見は少なく、「期待しすぎたかな」と感じた。
しかし、この本を読んで改めて強く思ったことがある。
「この人物は何者なのか?」
それを追いかける行為は、いつの間にか「自分には変わる勇気があるのか?」という、自分自身への挑戦に変化する。
物語は、私たちに「自分がどれだけ間違っているか」を優しく、時には容赦なく教えてくれる。そして、自分の欠点と真正面から向き合い、成長していく過程を、登場人物を通じて体験させてくれる。
葛藤しているのは、自分だけではない。
作品を通じて、登場人物と一緒に悩み、一緒に変わり、一緒に英雄になっていく。そんな体験ができるからこそ、私はこれからも物語に触れ続ける。
Posted by ブクログ
はじめに言葉ありきと聖書には書かれているそうですが、本当ははじめに物語ありきだったとということかもしれません。
この本に書かれているように人間の本能が物語を求めているのだとしたら頭の中にある噂話(ゴシップ)を伝えるために言葉が生まれて進化したのだと思いました。
往年の小説や映画を例に解説してくれているのですが、いかんせん古い作品が多く読んでも観てもいないものばかりであまり腑に落ちる感じにはなりませんでした(泣)
冒頭にスターウォーズを例に出してきたときは期待したのですが、その後はほとんど知らない作品ばかりでした。
ということで今から本書を読まれる方は出来たら下記の作品を観てからがよいかもしれません。
特に作者は「市民ケーン」がお気に入りのようです(笑)
【作品名】
市民ケーン
日の名残り
アラビアのロレンス
ゴーンガール
ダンサーインザダーク