【感想・ネタバレ】新しい国へ  美しい国へ 完全版のレビュー

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2013年05月11日

チェック項目20箇所。私は政治家として、大きな挫折を経験した人間であります、そういう人間だからこそ、日本のためにすべてを捧げる覚悟があります。長引く景気低迷、迫りくる外交・安全保障上の危機など、日本を取り巻く環境は、ますます悪化しています、この国をどこに導くべきか――本書において、私なりの考えを述べ...続きを読むたいと思います。時代は変わったが、わたしは政治家を見るとき、こんな見方をしている、それは「闘う政治家」と「闘わない政治家」である、「闘う政治家」とは、ここ一番、国家のため、国民のためとあれば、批判を恐れず行動する政治家のことである、「闘わない政治家」とは、「あなたのいうことは正しい」と同調はするものの、けっして批判の矢面に立とうとしない政治家だ。「リベラル」……ヨーロッパでは、王権に対して、市民が血を流しながら自由の権利を獲得し、民主主義の制度をつくりあげてきた歴史をもつことから、同じ「リベラル」でも、他者の介入を許さないという「個人主義」にちかい意味合いで使われる、これに対して、アメリカにおける「リベラル」は、社会的平等や公正の実現には政府が積極的に介入すべきであると考える、いわゆる「大きな政府」を支持する立場だ。日露戦争……窮乏生活に耐えて戦争に勝ったとき、国民は、ロシアから多額の賠償金の支払いと領土の割譲があるものと信じていたが、ポーツマスの講和会議では一銭の賠償金もとれなかった、このときの日本は、もう破綻寸前で、戦争を継続するのはもはや不可能だった、いや実際のところ、賠償金をとるまでねばり強く交渉する力さえすでになかったのだ。1950年に起きた朝鮮戦争の特需によって、ようやく復興への糸口をつかんだものの、それほど庶民の生活は向上しなかった、自民党が誕生する前年の1954年の東京には、50万人の失業者があふれていた。靖国問題というと、いまでは中国との外交問題であるかのように思われているが、これはそもそもが国内における政教分離の問題であった、いわゆる「津地鎮祭訴訟」の最高裁判決(1977年)で、「社会の慣習にしたがった儀礼が目的ならば宗教的活動とみなされない」という合憲の判断が下されて以来、参拝自体は合憲と解釈されているといってよい。一国の指導者が、その国のために殉じた人びとにたいして、尊崇の念を表すのは、どこに国でもおこなう行為である、また、その国の伝統や文化にのっとった祈り方があるのも、ごく自然のことであろう。「いかなる国民も、国家のために死んだ人びとにたいして、敬意を払う権利と義務がある。もし靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は、米軍の歴史にとって、不名誉きわまる汚点となって残るでしょう。歴史はそのような行為を理解しないに違いない」、この言葉からは、信仰の自由と権利にたいする神父の強い意志が伝わってくる、神父の提言もあって、靖国神社は難を逃れた。「君が代」が天皇制を連想させるという人がいるが、この「君」は、日本国の象徴としての天皇である、日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ、ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか、素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか。そもそも、人間はひとりで生きているわけではないし、ひとりでは生きられない、その人の両親、生まれた土地、その人が育まれた地域のコミュニティ、そして、それらをとりまいている文化や伝統や歴史から、個人を独立させて、切り離すことなどできないのだ。今日の豊かな日本は、彼ら(特攻隊)がささげた尊い命のうえに成り立っている、だが、戦後生まれのわたしたちは、彼らにどうむきあってきただろうか、国家のためにすすんで身を投じた人たちにたいし、尊敬の念をあらわしてきただろうか。1954年、保安隊に代わって自衛隊が発足すると、政府は、「自国に対して武力攻撃が加えられた場合、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない」、さらに、憲法第9条第二項が禁じている「戦力」についても「自衛のための必要最小限度を超えるものであって、それ以下の自衛力は、戦力ではない。したがって自衛隊は違憲ではない」という見解を明らかにする。たとえば日本を攻撃するために、東京湾に、大量破壊兵器を積んだテロリストの工作船がやってきても、向こうから何らかの攻撃がないかぎり、こちらから武力を行使して、相手を排除することはできないのだ、わが国の安全保障と憲法との乖離を解釈でしのぐのは、もはや限界にあることがおわかりだろう。わたしの考える福祉のかたちとは、最低限度の生活はきちんと国が保障したうえで、あとは個人と民間と地方の裁量でつくりあげてもらうというものである、「セーフティネット」と「自己責任」が重視される社会だ。国は、そのときの豊かさに応じた社会保障の仕組みをつくる、血のかよったあたたかい福祉をおこなうのが行政サービスの基本であることはいうまでもないが、身の丈に合わない大盤振る舞いはできないし、また、してはならない、なぜなら、給付の財源は、国民から徴収した税金と保険料だからである。年金というのは、ざっくりいってしまうと、集めたお金を貯めて配るというシステムだ、だから、加入しているみんなが「破綻させない」という意思させもてば、年金は破綻しないのだ、日本人の過半数が「もう年金はやめよう」といわないかぎり、このシステムは継続するのである、そこが、会社経営の破綻とは根本的に違うところだ。じつをいえば、日本の子どもたちの学力の低下については、わたしはそれほど心配していない、もともと高い学力があった国だし、事実いまでも、小学生が九九をそらんじていえるというのは、世界のトップレベルに近い、問題はモラルの低下のほうである、とりわけ気がかりなのは、若者たちが刹那的なことだ、若者が未来を信じなくなれば、社会は活力を失い、秩序はおのずから崩壊していく。教育は学校だけで全うできるものではない、何よりも大切なのは、課程である、だからモラルの回復には時間がかかる、ある世代に成果があらわれたとしても、その世代が親になり、つぎの世代が育つころにならなければ、社会のモラルは回復したことにならないからである。今回の総選挙で自民党は「日本を、取り戻す。」というスローガンを掲げています、これは単に民主党政権から日本を取り戻すという意味ではありません、敢えて言うなら、これは戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦いであります。

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