あらすじ
美術史は、形を作ったり見たりという、生きることそのものの歴史である――。縄文時代から20世紀まで、日本列島に存在した無数の物と文献を素材とし、造形をめぐる人間の営みの歴史を浮かび上がらせる全15章。日本と中国の美術はどのように異なるのか。政治権力はいかにイメージを利用するのか。縄文土器、神護寺薬師如来像、伊藤若冲、草間彌生に通底する造形感覚とは何か。各時代の専門研究を参照して紡ぐ、通史の決定版。
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日本美術史読み始めたけど、白洲正子のエッセイとか日本美術フリークには最高だよな。
★再読
2026/08/26
第1章 形の生命──縄文・弥生時代
一 縄文土器と土偶
二 弥生土器と銅鐸
三 原始の造形が教えてくれること
第2章 権力の形象──古墳時代・飛鳥時代
一 古墳の造形
二 飛鳥時代前期(六世紀中頃─六六三年)
三 飛鳥時代後期(六六三─七一〇年)
第3章 シルクロードの終点にて──奈良時代
一 平城京遷都
二 薬師寺と興福寺
三 東大寺と正倉院
四 唐招提寺
五 古典としての奈良時代
第4章 異形の神のいる場所──平安時代前期
一 一木造の絶頂
二 真言密教美術の開花
三 神像の出現
四 唐様の書画
第5章 浄土の顕現──平安時代中期
一 平明なる意匠
二 平等院鳳凰堂
三 唐絵とやまと絵
四 風流
第6章 装飾への耽溺と離反──平安時代後期
一 院政期の優美と機知
二 新様式の胎動
三 絵巻は語る
第7章 新しい現実感──鎌倉時代
一 覚醒する仏たち──仏教美術の復古と新様
二 王朝追慕──やまと絵と絵巻の展開
三 現実の人間と土地の姿
第8章 描かれた都市──室町時代
一 バサラと唐物数奇
二 装飾の領分、墨色の空間
三 都を描く
四 能面と小袖
第9章 かぶきのデザイン──桃山時代
一 金色/黒色
二 南蛮ファッション
三 〈傾く〉造形
第10章 転形期の精神──江戸時代前期
一 桃山から江戸へ
二 浮世絵の誕生
三 町衆の意匠
四 黄檗宗がもたらしたもの
第11章 市民たちの美的欲望──江戸時代中期
一 長崎からの新風──明清文化の流入
二 十八世紀京都画壇の革新
三 洋風技法の広がり
四 錦絵の展開
第12章 早過ぎた近代──江戸時代後期
一 武士と町人の自己表現
二 十九世紀江戸画壇
三 文化の大衆化と浮世絵・工藝
四 江戸の美術史学
五 幕末の造形
第13章 国家のための美術──明治期
一 江戸の残照
二 博覧会・古美術保護・美術教育
三 写真と油絵
四 日本画と彫刻
五 戦争と歴史の表象
第14章 モダニズムの諸相──大正・昭和期(戦中まで)
一 大正アヴァンギャルド
二 複製技術の時代
三 自由の希求、その敗北
第15章 現代の視覚文化──昭和期(戦後)
一 一九四五年以降、一九五〇年代──敗戦と美術
二 一九六〇年代──近代への反抗
三 一九七〇年代──万博・反万博、漫画表現の深化
四 一九八〇年代──ポストモダン、分身を作る
佐藤 康宏
(さとう やすひろ、1955年1月17日 - )は、日本の美術史学者・東京大学名誉教授。博士(文学)。日本美術史、特に近世絵画史が専門。宮崎県生まれ。1978年東京大学文学部美術史学専修課程卒業、1980年同大学院人文科学研究科修士課程修了、東京国立博物館技官、1981年文化庁文化財保護部美術工芸課技官、1989年同絵画部門文化財調査官、1994年東京大学文学部助教授、2000年同教授。2020年定年退任、名誉教授。日本東洋美術研究誌『國華』編輯委員。2008年から2016年まで放送大学客員教授を兼任。月刊『UP』(東京大学出版会)の439号(2009年5月)から589号(2021年)まで「日本美術史不案内」を連載。文化庁在籍時の1985年、ロサンゼルス・カウンティー美術館で開催された「近世水墨画展」の企画・実施を担当(主担当は宮島新一)。1989年から90年にかけてニューヨークのアジア・ソサエティー美術館とロサンゼルス・カウンティー美術館を巡回した「若冲展」の企画・実施を担当。いずれも英文の研究的カタログを分担執筆している(共著の項を参照)。また、2018年、『國華』130周年と朝日新聞140周年を記念する特別展「名作誕生 つながる日本美術」の企画を担当した。著書のうち以下の4冊については、東京大学のサイトに著者自身による解説が掲載される(英文ページもあり)。
東大在任時
2015年10月20日、放送大学で第一学期単位認定試験に出題した問題の冒頭で、審議中の政治的テーマに関連する記述をした[1]。試験後に受験者の一人から、現政権への批判、審議中の事案への意見は教育者による思想誘導と取られかねない、との疑義を訴えたメールが来たとの連絡を受けた。佐藤は問題文の趣旨に賛成でも反対でも回答に差が出る種類の問題ではないと答え、この疑義を無視した。大学側が「現政権批判は公平性に欠き、単位認定試験のあり方として認められない」などを理由に、学内サイトで試験問題文を公開する際に一部文章の削除を通告した。しかし佐藤は、今回冒頭に記したのは戦前・戦中期の美術について、今に生きる自身の問題として考えてほしいという受験者へのメッセージであり、これは単に警告を呼びかけるに過ぎず、法案への反対や津田青楓のように議会への告発を表明しているわけではないと説明した。[2]。更に試験問題は放送法の適用を受けず、同意なき削除は著作権の侵害であることなどを理由に反論し[3]、2019年度までの契約だった客員教授を2015年度限りで辞めた[4]。2020年3月、『若冲伝』で第70回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞[5][6]。12月、菅義偉内閣による日本学術会議新委員任命拒否の問題に抗議し、「専門家を専門家として尊重しない政府のために働くつもりはない」と説明して、4月から務めていた「登録美術品調査研究協力者会議」の座長を10月に辞任したと自ら記し、新聞でも報じられた[7]。
「もうひとつの「深鉢」(図 1- 6)はいまの深鉢と出土地も近く、よく似た造形感覚を持った作者が作ったと思わせる。口縁には大きな四つの把手がつき、その曲線と呼応する曲線でぎゅっと細く絞り込まれた胴の形を持ち、やはり非常に彫塑的なヴォリュームを持つ。胴部には縦方向の直線を並べる単純な文様が施される。ただ動的な口縁部と静的な胴部とが対照され、バランスを生む意匠がすぐれているというだけではない。この深鉢では蛇の意匠が口縁部と胴部をつなぐ。対称的に作られた一組の把手は、頂点に鎌首をもたげた蛇の頭を載せており、その蛇の体は土器の肩のところで一回とぐろを巻き、下半分でもう一度とぐろを巻いて幾何学的な渦巻文を作る。蛇は、強い生命力や豊穣を象徴する動物と考えられたようで、縄文土器の装飾によく用いられたモチーフだった。ここでは具象と抽象というふたつの領域を横断する蛇の姿が、この土器の全体を統一し、そこにマジカルな力を加えているかのようである。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「勝坂式土器の具象文をひとつだけ見る。「顔面把手付深鉢」(図 1- 7)には、半球状に盛り上がり、つり上がった細い目、細い眉とつながる小さな鼻、小さな丸い口を刻む三つの顔が表される。これは出産の情景の表現と解釈される。把手の顔を母親、胴の顔を、いままさに母親の身体から顔を出そうとしている新生児と考えるわけである。それ以外は、粘土紐を貼り付け篦で刻む装飾が施される。具象的な形と抽象的な文様との組み合わせで力強い表現を獲得している点は、前の勝坂式土器と同様である。これと似た顔を表す土器はほかにもある。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「土偶とは別に人物の造形として、「人頭形土製品」(図 1- 9)のようなものもある。縄文時代前期の後半には人の頭の形をこれほど実感を込めて表すことができたのだ、ということを教えてくれる例だ。目を閉じている人の表情は、私たち現代人にとってもリアルで、何か瞑想しているようにも感じられる。技法もおもしろい。これは土の塊から土を削り取って、引き算で形を作ったのではなく、眉も目も鼻も口も、別の粘土の塊や紐を貼り付けて作っている。つまり土器の作り方と同じである。装飾に向かう力と対象をそれらしく再現する力とは、けっして別のものではない。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「縄文時代の土器や土偶は、重要な特質を備える。弥生時代以降の日本は中国大陸・朝鮮半島の文化圏に組み込まれ、桃山時代からはヨーロッパの文化も波及し、海外の情勢が美術の性格を形作っていった。それとは違い、縄文時代の美術は、外国の影響をまったく受けずにこの列島で独自に発生し展開した。また、後の時代には、精巧な美術品の作り手は、ほとんど男性に独占されるようになり、作家として名前を残すのも大部分は男性である。ところが、現代の未接触民族の社会では土器の作り手はたいてい女性なので、縄文土器もおそらく女性が作ったのではないかと考えられている。縄文の呪術的でデモーニッシュな造形は、後の時代の日本美術と無関係のように思えるかもしれない。一般に日本美術は簡素で率直な点に特徴があると考える向きがある。しかし、縄文の造形を作り出した人々の遺伝子が子孫に受け継がれているとしたら、日本美術が縄文的な性格を帯びても不思議ではない。むしろ縄文的なるものこそその本質だと認めるなら、日本美術の主流について見方を改める必要があるだろう(註 6)。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「近畿地方の土器は、弥生時代前期には九州地方の様式に倣っていたが、中期には近畿独自の様式が発達する。細長い頸を持つ「流水文細頸壺形土器」(大阪府柏原市船橋遺跡出土、京都国立博物館)は、酒でも入れて徳利として使うと似合いそうだ。広がってからすぼまる口縁部や胴のふくらみぐあいが、いいバランスの大きさにできている。器面の装飾も見所で、櫛描文といわれる平行線を一度に引く技術でもって細い線がていねいに器全体に刻まれ、いわゆる流水紋などを表している。「簾状文台付水差形土器」(図 1- 15)の形と文様はまたみごとである。木の葉形の透しの入った円筒形の脚台、下脹れの胴、斜めに切った注ぎ口と水平方向に付いた把手まで、むだのない、しかも見て美しいフォルムに貫かれている。口縁部と胴とで文様を変え、直線と折れ線とを交互に繰り返して器面を覆い尽くす櫛描文の繊細さも実にすばらしい。この土器が、文様を器面全体に及ぼしているのは、縄文土器の装飾を思い起こさせる。長い伝統を持つ縄文土器の制作は、特に日本列島の東や北ほど強くその造形感覚を残し、新しい弥生式土器の様式としばしば混ざり合ったと考えられる。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「 東日本の「顔面付壺」(茨城県筑西市女方遺跡出土、東京国立博物館)なども、縄文の伝統の上に生まれたと思わせる。異なるのは、縄文の人体表現がかなり抽象的であったのに対して、こちらがやや実際の人間の顔らしい顔を粘土紐で作っていることである。村の統率者や呪術師のような特別な人が亡くなったとき、その墓に埋められたのがこの種の壺らしいので、ある程度その当事者の顔に似せる意識があったのかもしれない。 弥生時代後期になるとあまり中期ほど魅力的な造形は挙げられない(勾玉や貝を材料にした装身具は省略する)。後期に粗雑な作りの土器が増えるのは、一個一個をていねいに作っていた時代と違い、手慣れた作り手が大量に作るようになったためらしい。中では「朱彩壺」(東京都大田区久ヶ原遺跡、東京国立博物館寄託)などすぐれたものだろう。中期の九州地方の赤く彩られた土器と同様の関東地方の例で、祭祀に用いられたと想像される。興味深いのは、三つの区画の中に表された羽状縄文など、縄文を多用していることである。頸の部分に貼り付けられた釦のような突起も、似たものが縄文土器にあった。ここでも縄文の造形感覚の生き残りが認められる。変わった形のものでは「台付舟形土器」(熊本県城南町宮地遺跡出土、熊本市塚原歴史民俗資料館)が、舟を表しているだけでなく、刻んだ線によって水の流れを表現している。銅鐸などのいわゆる流水文は流水ではないらしいが、これは水の流れをデザインしたものと考えられている。立体と平面の文様とによって水の上を進む舟を表しているわけである。弥生時代の造形の具象性といった特徴がうかがえる。「人面文壺」(愛知県安城市亀塚遺跡出土、安城市歴史博物館)に刻まれた人の顔は素朴だが、刺青をした人の顔らしく描写しようとしている。ほかにも後期の土器には、動物や舟などの絵画が描かれた例がいくつも知られる。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「この章で何よりも理解してほしいのは、人間が生きているところには造形もまた生きているということである。現代社会では、美術を作り出す人とそれを鑑賞する人とは別々になり、多くの人は仕事や勉強の余暇に美術館などに出かけて美術を観る。美術品には値段がつけられて流通し、お金に余裕のある人や博物館などがそれを購入し、所有する。こういう社会に暮らしていると、美術は何だか特別なもの、美術品は贅沢品のように思えてくる。しかし、本来はそうではない。生きることにつきものなのが美術だ。現代の私たちはたとえば漫画を読み、さまざまな広告も含めて写真を目にする。映画やテレビやインターネットの映像を観る。そういったものが私たちにとっては広い意味での美術である。私たちの大部分は、それと気づかないまま、目に見えるさまざまなイメージの中につかりきって生きている。縄文人は文字を知らないまま一万年間も土器を作り続けていた。人間にとっては文字を書いたり読んだりすることよりも造形の方がずっと基本的な活動なのである。形を作ったり見たりという生きることそのものの歴史こそが、美術史にほかならない。それはだれにとっても関係のある問題を考えるものだ。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「弥生時代の社会に生じた身分格差は、古墳時代にはさらに拡大し、大きな権力を持つ者に奉仕する造形が発達していった。権力の形象を最もわかりやすく示すのは古墳である。古墳は、墓であることがはっきりわかるような、いわば見せるための墓だった。弥生時代後期後半の二世紀末頃には大型の墳丘墓が各地に築かれていたが、それらはせいぜい長さ八〇メートルくらいで、形もいびつだった。古墳はずっと大規模で、円形・方形の部分とも幾何学的にきちんとした形に整えられている。三世紀半ばには、奈良県桜井市の「箸墓古墳」(図 2- 1)のように長さが約二九〇メートルもある巨大な前方後円墳が造られるようになる。朝鮮半島を通じて中国から導入された先端的な土木技術が用いられたに違いないが、この前方後円墳という、丸と四角を組み合わせて鍵穴のような形に造る形式は、東アジアではほかに韓国南部の栄山江流域にしか見られない(註 1)。円形の墳丘墓の周囲にめぐらされた溝を渡る陸橋部分が発達して方形となり、こういうデザインになったらしい。この形の古墳が各地で造られるのは政治権力の問題として重要である。統一的な形式の古墳を築き、そこに鏡や鉄製品など同じような種類の副葬品を大量に埋納する風習が共有されるありさまは、各地の共同体の権力者たちがひとつのネットワークを作り始めたことを意味する。四世紀にヤマトという王権が権威を確立して以降は、各地で古墳を築くことは、王権からその地の支配者であることの承認を得る儀礼ともなったはずである。またいうまでもなく、巨大な古墳を築くためには多くの労働力を必要とする。権力者とそのために働く多数の民衆という社会構造ができあがっていたことを古墳は物語る。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「中国や朝鮮半島では、墓の内部を飾る壁画の技法はかなり前から発達していた。たとえば高句麗の「黄海南道安岳郡五菊里安岳三号墳壁画」は三五七年の銘文があるもので、その「墓主像」はやや稚拙ながら正面向きの肖像画として描かれている(註 3)。その夫人は斜め向きにとらえられる。こういうふうに人物をしっかりと具象的に描写する絵画は、日本では八世紀初め頃の「高松塚古墳壁画」(図 2- 18)まで現れない。日本の装飾古墳は、まだまだ抽象の世界を繰り広げる。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「朝鮮半島南部の国、百済から日本に公式に仏教が伝わった六世紀中頃を起点として、七一〇年に平城京に都が遷るまでの期間を飛鳥時代と呼ぶ。仏教公伝の年は『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』、『上宮聖徳法王帝説』が五三八年、『日本書紀』が五五二年というが、それぞれ典拠とした史料が異なるためで、どちらが正しいとは決められない(五四〇年代という説などもある)。ともかく六世紀の中頃には百済の聖明王から日本の欽明天皇に仏像や経典が贈られ、仏教がすぐれた教えであることも伝えられたらしい(註 4)。ただし、これ以前にも仏教を信仰する人はいた。北部九州や日本海側の地域で五世紀の中国・朝鮮の仏像が見つかっているし、文献の記録でも五二二年に中国南朝の梁から大和に渡ってきた司馬達止(達等)が仏像を礼拝したという記事もある。この年代が早過ぎるという疑問も出されているが、彼は後述する止利仏師の祖父に当たる人で、仏教導入に熱心な有力者だった蘇我氏のために、仏教の普及に関する仕事で働くことになる(註 5)。この記事をある程度公的なルートで仏教が伝来していたことを示すものと読むこともできそうである。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「仏教は、具体的なヴィジュアル・イメージを持ったものとして、大和盆地の南の端に位置する飛鳥とその周辺に広がっていった。寺が建てられ、寺には仏像が置かれる。寺や仏像はさまざまな工藝品や絵画で飾られもした。いずれも、以前にはなかった新しい形の建築であり、新しい神々の造形だった。お手本や作り手は朝鮮半島から渡って来て、日本でも増えていったと思われる。こうして寺や仏像などが造られたのは、政治的な意味を持つプロパガンダでもあった。飛鳥時代は、日本が東アジアの国際情勢の中に巻き込まれていく時代である。そもそも百済の王が仏像や経典を倭に贈ったのも、当時の朝鮮半島で新羅との抗争を続けていた百済が、倭の軍事援助を期待しての行為だったはずである。六世紀の東アジアで最も重要な事件は、五八九年に隋という帝国が誕生し、二二〇年に後漢が滅びた後の三七〇年にわたる長い分裂が、ようやく統一されたことだった。中国が分裂して抗争に明け暮れていた時期は、朝鮮半島や日本列島が中国の脅威にさらされる危険はなかった。しかし、大陸に強力な中央集権国家が出現したことは、周辺諸国に対外的な緊張を生み出す。倭の王権もこの新しい国際情勢にどう対応するかを迫られた。中国は、分裂と統一の過程で、律令による官僚政治と国家仏教の体制とを整備し、朝鮮半島の国々もそれに倣っていた。したがって、律令制度と仏教を取り入れ、目に見えるかたちで国の文化的なステイタスを上げるのは、国の存亡を賭けた重要な政策だったのである。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「東京国立博物館には法隆寺宝物館という建物があり、一八七八年に法隆寺が皇室に献納した品々が戦後国有となったのを保管している。さまざまな小さな金銅仏がそこに陳列されているさまは壮観である。中からひとつだけ高さ三八・八センチの「菩薩半跏像」(図 2- 13)を挙げる。銘文の干支を六〇六年か一回り後の六六六年とするかは問題だが、どちらにせよ観松院のものより古い様式をもとに作られているのは確かだろう。細く絞り込まれた胴体、頭、両腕、右足との間に生まれるスペースには、二十世紀の彫刻の空間を連想させられるような豊かさがある。肉身の柔らかさを伝える仕上げも上々である。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「 古墳時代の終わり頃から、日本の絵画は中国・朝鮮半島の絵画と同調するようになるが、飛鳥時代の法隆寺に遺る作例や高松塚古墳壁画は、はっきりと日本の絵画が東アジア文化圏に取り込まれていったことを示している。建築・彫刻・工藝品・書跡についても同様である。そして、権力者のために技術の粋を凝らした美しい品々が作られるようになったのもこの古墳時代・飛鳥時代だった。奈良時代には、それら国際性と権力の表象としての美術という傾向がいっそう強まる。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「 薬師寺金堂の本尊「薬師三尊像」(図 3- 3)は、藤原京で造られたのがこちらに移されたのか、それとも平城京で新しく造られたのか、長い間論争の対象だった。どちらかによって七世紀末から八世紀初めにかけての時期の仏像の様式の考え方が変わってくるので、大きな問題だ。近年は平城遷都後の造像という意見が優勢である。ひとつの理由は、六八五年に完成した興福寺の「仏頭」(図 2- 14)と比較すると、薬師寺の像は鋳造技術に大きな進歩が認められるということである。それでもまだ、六九七年に藤原京の薬師寺金堂で開眼供養されたと『日本書紀』に記される仏像を現在の「薬師三尊像」に当てる説も唱えられる。中国の彫刻と比較した場合、様式的には七世紀後半の作と見ても妥当だという意見もあり、位置づけはなお揺れている。傑出したできばえで、ほかに比較例が乏しいのも位置づけを困難にしている理由である。「薬師如来坐像」の像高は二五四・七センチという堂々たる大きさで、日光・月光の両菩薩は飛鳥時代の仏像のように直立しているのではなく、インドの仏像に由来する唐代彫刻の表現を取り入れて、首と腰を曲げた自然らしい姿で立つ。「薬師三尊像」の均斉の取れたプロポーション、薄い衣の下の肉体の起伏を表現するリアルさ、高い精神性を感じさせる美しさは、明治の岡倉天心(一八六二─一九一三)以来繰り返し賞賛されてきた。しかし、正直にいって整い過ぎていておもしろみがなく、私にはあまり魅力的に思えない。なお、台座の浮彫には四神や葡萄唐草文とともに南方の人種が表されており、中国における異民族のイメージがここに導入され、自らを中華になぞらえる大和政権にとっての〈他者〉なる民の表現となっていると指摘される(註 4)。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「本尊の「不空羂索観音菩薩立像」は、高さが三六二センチもある乾漆像で、柔らかな肉身表現とバランスのよいプロポーションで、三目八臂の異形を堂々たる風格に表す。興福寺の「十大弟子・八部衆立像」(図 3- 5)に較べて、人間の肉体に近い立体表現がされている。ただし、この像は変化観音の一種である。観音菩薩は衆生を救済するために自身の姿をさまざまに変化させるといい、多面多臂の姿をした観音を変化観音と呼ぶ。十一面観音、千手観音、そしてこの不空羂索観音などだ。変化観音に対する信仰が飛鳥時代後期から奈良時代にかけて盛んになったのは、密教が伝わったためである。八〇六年に空海(七七四─八三五)が唐から帰国して日本に伝える体系化された密教は純密と呼ばれるが、それ以前の飛鳥時代・奈良時代でも雑密とか古密教とか呼ばれる密教は伝わっていた(註 7)。仏教の中でも特に密教に期待されたのは現世利益だった。ではこの「不空羂索観音菩薩立像」は何のために造られたのだろうか。現状の光背は本来の位置よりも六〇センチほど低くなっているが、それを復元して考えれば、合掌する手の中の水晶製の宝珠から四方八方に広がる光明がここに造形されている。頭上にいただく宝冠は銀製鍍金で、翡翠・琥珀・水晶・真珠などの多数の宝玉で飾られており、光条をつけて化仏とその背後からも周囲に光線が発せられるさまが表されている。菩薩は身体のすべてから光明を発し、あらゆる仏に届いた光明が再び頂に戻ると『華厳経』の説く表現であり、同時にさまざまに姿を変えて一切のものを悟りへと導くのが観音ゆえ、宝冠には現世の王のイメージが重ねられているとも説かれる。一方、鹿皮を身にまとうのは仙人であることを示し、最高のランクの菩薩までどの段階の相手にも対応した姿らしい。だれよりも聖武自身が盧舎那仏の世界へと導かれることを願って、この観音像は造られたのだろう(註 8)。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「七五六年、聖武天皇の遺愛品が光明皇后によって東大寺の正倉院に収められた。それが現在は宮内庁の管理下にある正倉院宝物の中核を成すコレクションである。種類は多様で、唐代文化の国際性を反映して素材も様式も原産地もさまざまである。魅力的な工藝品も数多いが、日本絵画にとってことに重要なもの若干のみに触れよう(註 12)。『東大寺献物帳』に記録される「鳥毛立女屛風」(図 3- 11)は、およそ七五二年から七五六年の間に日本で制作されたと推定される(註 13)。現在は屛風の形状をしてはいないが、もともとは六曲つまり六枚折りの屛風の六扇分であった。現状では剝落しているが、頭髪や衣服や樹木の部分には、山鳥の羽毛が貼られていた。衣服については、薬師寺の「吉祥天像」(図 3- 12)の華麗な衣装の文様のようなデザインを、種々の色彩の羽毛をモザイクのように貼り混ぜて表現したのではないかという、復元案がある(註 14)。唐代絵画を忠実に模倣したと思われる吉祥天の衣装は、色彩といい文様といい、きわめて手の込んだ装飾が施されている。截金(註 15)も併用したこの美麗なしつらえは、唐代絵画においてどれほど高い水準の装飾的技法がなされていたかを想像させる好例であり、吉祥天は女神ではあるが、実際には唐代の仕女図を手本に描かれたと思わせる。仕女(宮廷に仕える女性)は、いまでいう美人画の主題だった。「鳥毛立女屛風」に類似する樹下美人を描く唐代の作例は複数あるのだが、これを美人画としてのみ見るのは適当でないようだ。樹下美人図の中には韋家墓壁画の「樹下人物図」(図 3- 13)のように、墓の壁画として屛風を描く例もある。こうした壁画を類例として、「鳥毛立女屛風」もまた死後の聖武が天に昇って仙人と化すことを願う造形だと指摘されている。樹木は天界への依代であり、鳥毛が貼られていたのは女たちが空を飛ぶための羽衣を身につけていることを示すと解釈される。主題がそのようなものだとすると、この屛風は、聖武の晩年にその没後を思って準備されたものといえそうだ。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「音楽はただ音のない音色として描かれ、それが遠い彼方の仏の世界へと響いていく。遠くの山には雲が立ち昇り、そこが現世ではない超越的な世界であることを示す。そこから手前の現実世界の方へと鳥(おそらく雁)が飛来するのは、仏が音楽に応答して鳥を遣わした様子だと説かれる。鳥は聖なるものの使いということである。現世はけわしい断崖で、仏の世界に近づくために善き行ないを積まなければならない厳しい過程を表す。なお、「騎象奏楽図」がこのように仏の世界と現世とを連続させ対照しているのだとしたら、また鎌倉時代の大画面の仏教説話画や室町時代から江戸時代初めにかけての風俗画の原型が、唐の時代の山水画の構造にあったことを示唆するようでもある。それらは後章の話題にしよう。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「奈良時代に宮廷や官営の大寺院の絵画制作を担当した機構は、中務省に置かれた画工司である。『令義解』によれば、事務官三人のほかに技術者として画師四人、画部六十人、使部十六人、直丁ひとりが所属した。画師たちは、建築装飾、仏像の彩色、工藝品のデザインから地図の作成まで多様な仕事をしていた(註 19)。少なくとも奈良・平安時代には、実用的な地図の制作も絵師の仕事に含まれていた。奈良時代の東大寺における田地の開墾の様子を表した絵図が、正倉院などに伝わっている。七五六年の「東大寺山堺四至図」(図 3- 17)はその一例で、寺領を図示するのを目的とした地図だが、素朴な筆致で描かれた山川・樹石は、実際の地形の再現と思われる。観念的な山水を描くのではなく、日本の特定の場所をそれらしく写し取ろうとする最初の試みとして、このような絵図には注目すべきである。絵図そのものは、もちろん、ある土地に関する情報をわかりやすく構造化する使命を持つので、四周の山が頂を別々の方向に向けるといった約束に従っている。自然景観が一体となって自分がそこに包まれるかのような空間のイリュージョンを観る者にもたらすものではない。描写技法の発達には限界があったが、それでも後の時代の風景描写に至るまで、絵図との関わりが深いものはいろいろある。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「一般的に木彫の仏像が成立した重要な原因のひとつと考えられるのは、〈檀像〉という概念である。檀像とは香木の白檀で作られた仏像を意味する。これは仏像の起源を語る伝説に由来するもので、古代インドの優塡王が最初に釈迦の像を造ったとき、最上の香木である栴檀を用いたという。栴檀は中国では白檀と表記され、両者は同じものを指す。檀像はできるだけ仏像の全身を一材から彫り出そうとして、顔の一部を除いてはあまり彩色を施さずに、素地の木目の美しさと緻密な彫技を見せるものが多い。唐からもたらされた法隆寺の「観音菩薩立像(九面観音)」(図 3- 21)をその典型的な例として示すことができる。この像は白檀で造られているが、唐代には十一面観音信仰に伴い、白檀が求めて得られない状況においては代わりに「栢木」で像を造ってもよいと説く経典の注釈書(『十一面神呪心経義疏』)が現れた。中国の栢とはヒノキ科の樹木に榧も含めた総称と考えられる。というのは、この代用材の認識を日本にもたらしたと推測される鑑眞が関与した唐招提寺講堂の木彫群が、ほとんど榧で造られているからだ(註 23)。鑑眞と彼が連れて来た中国の工人たちは、日本の樹木のうち榧が用材として適していると見たわけだが、その選択の背後には中国において同様の用材を使用していた習慣があっただろう。また、中国では栢には魔除けの効能があると信じられていたから、榧で仏像を造ることは白檀の代用という以上の積極的な意義を有していたという指摘もある。邪気を払う効能を有する木材であるがゆえに、それで造った仏像はなおいっそう清浄なものと見なされるということである。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「山には神が宿るという信仰が古くからあり、神や仏を求める宗教者は、俗世間を離れ、山に入って修行することを繰り返してきた。山の霊気に触れ、また、前章で木彫の発生に関して述べたように、神や仏の宿る霊木に接することが、山林で修行する者たちの精神を高めたのだろう。そういう山と木と仏とが交差する場所に、一体の仏像が立つ。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「ところが、形の遊び、抽象的な美しさと見える前面の衣文の中で、胸の袈裟の折り返しの部分だけがほかと違って不規則な波形を示す。衣の裾も不規則な形でめくれ上がり、裾の先だけが何かの動きを示すようである。体側部と後背部を見るなら、ちぐはぐさの感じはさらに強まる。左側面に掛かる袈裟の襞は、前面の襞と違って深く大きな波として彫り出される。裾の処理も含めて鑿さばきはみごとで、強くうねる衣の重量感と実在感とを作り出す。一方、背面はほぼ右半身にほとんど襞が刻まれない、平坦なゆるい曲面で、左側面のにぎにぎしい技巧とは際立って対照的である。ある部分には現実的と見える造形がこらされ、それと隣り合う部分はその現実感を無効にするかのようなおよそ異なる造形で表される。肉身に見た、互いに反発する複数の要素を併存させているありさまが、衣にも一貫している。古典的な均衡の取れた美しさとは違う何ものかを求める傾向が神護寺像には顕著であり、このような特徴はまさに一木造の木彫像であるからこそはっきりと表現される。一本の木という連続した材質の中で、あるところでは肉体や衣の実在感を強く表し、別のところでは木材そのものの物質感を表に出すという彫り分けをしているから、この像の奇妙にアンバランスな、それでいて迫力に富んだ複雑な相貌が作られている。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「人間の姿をそれらしく写すよりも何らかの霊性の表現に傾いているらしいこの像の雰囲気は、像に期待された役割が何だったかという問題と関わる(註 5)。それは一種の神仏習合であり、素材のレヴェルでの神と仏の交錯にも由来するだろう。奈良時代の末には、神々の住まう聖なる山の中に分け入って修行をした僧侶たちが大勢いた。彼ら山林修行者を浄行僧という。彼らは木に仏の姿を刻んだり(立木仏)、木を用いて仏像を彫ったりした。もちろん、木が手近な素材だったからでもあるが、前章の最後に述べた霊木崇拝にもよる。浄行僧たちの霊木崇拝を、専門の仏師がその感性の中に共有することで、神護寺の「薬師如来立像」は成立したのではないか。唐招提寺講堂の木彫群の先端的な様式を受け入れつつ、そこに土着の感性をもたらした理由のひとつは、山の中の木に神の現れを見る信仰であったと思われる。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「新しい京の都では奈良の仏教を厳しく規制する一方、新しい仏教が支持された。密教である。密教は、インド仏教の最後にヒンドゥー教と混じり合って形成された特異な一派だった。従来の仏教は、すべての存在は固定的な実体性を持たず、因果に応じて移り変わっていくと説く。世界の本質を自我や絶対性のない「空」ととらえ、現実を否定する思想といえる。それが密教では、大日如来こそが宇宙の最高絶対の存在であると考え、瞑想の中でこの大日如来と一体化することで自我も絶対性を獲得すると説く。精神や存在の現実のありようを肯定する思想である。さらには獲得した力で現実を操作できるというところまで密教の現世的な性格は及んでいて、これが天皇や貴族たちから支持を受けた理由だった。八〇四年の遣唐使の船で唐に渡って密教を学んだ最澄(七六六─八二二)と空海(前章)が、帰国後それぞれ天台宗と真言宗を開いた。最澄とその弟子圓仁(七九四─八六四)・圓珍(八一四─八九一)によって伝えられた天台密教の美術、空海によってもたらされた真言密教の美術のうち、遺品が多く残る後者について述べる(註 7)。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「唐に渡った空海は、八〇五年、惠果和尚から真言密教を伝授されるとともに、日本に帰る際、両界曼荼羅、真言五祖像などの絵画、密教の経典や法具を与えられた。密教の教えは非常に難解なので、絵で具体的に示さなければ伝えるのがむつかしい、という配慮による。絵画は唐の宮廷画家李眞ら十余名に描かせたものだったと記録される。このうち「真言五祖像」五幅はきわめて傷みが激しいが、東寺に現存する。真言密教を伝えたインドと中国の五人の祖師を描くものである。比較的保存状態のよい「不空像」(図 4- 7)は、細く均一な太さの線と微妙な暈取りで像主をリアルに写し出しており、唐の肖像画の水準の高さを伝える。空海が持ち帰った両界曼荼羅が破損したので、八二一年、それを新調し、併せて「龍猛像」(図 4- 8)と「龍智像」の二幅を作って「真言七祖像」とした。いずれも「真言五祖像」のうちの二幅を手本に描いているが、比較すると原本の厳しいリアリズムは薄まって、描線はおだやかになり、華やかな色彩が目立つ。中国絵画の模倣から出発した日本絵画がどういう特徴を持つように変わるか。それを示す早い時代の実例となっている。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「密教の絵画は修法のために用いられる。掛幅の形式は奈良時代までにもあったが、密教とともに、ある場を意味づけるための機能に適した掛幅の仏教絵画が普及した。曼荼羅、すなわち主尊を中心にしてその周囲にさまざまな尊像を整然と配置する図もそうであり、両界曼荼羅は大日如来を中心とした宇宙の模式図のようなものである。だが、空海がもたらした両界曼荼羅も八二一年にそれを写したものも、ともに失われた。いま残る最も古い両界曼荼羅図は、神護寺に伝わる「高雄曼荼羅」(図 4- 9)と呼ばれるものである。縦横それぞれ四メートルほどの大きさで、八二九年から八三三年頃、空海が神護寺に建てた灌頂堂に掛けるために作らせたと考えられている。帰国した空海が高野山よりも先に活動の拠点としたのは高雄山寺(註 5に記したように、後に神護寺となる)であった。彩色されていた原本を赤紫の綾に金銀泥で写していて、これ自体かなり傷んでいるが、きわめて巧みな線描の技術を見ることができる。奈良時代に正倉院宝物の金銀泥絵を描いていたような画工が動員されたのかもしれない(註 8)。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「東大寺の僧奝然(九三八─一〇一六)が北宋に入り、九八五年に「釈迦如来立像」(図 5- 1)を現地の工人に造らせ、翌々年にこれを日本にもたらしたのは、象徴的なできごとである(註 2)。その様式が日本の仏像に大きな影響を及ぼすのは十二世紀後半になってからだが、光背に流動的な雲の文様を表す意匠は、一〇五三年に完成した平等院鳳凰堂の「阿弥陀如来坐像」(図 5- 10)の光背へと展開することが指摘されている(註 3)。定朝(?─一〇五七)が造った阿弥陀は、部分的に北宋の様式を選択して取り入れているわけである。一方で、清凉寺にもたらされた釈迦像は、奈良の大安寺にあった飛鳥時代後期の釈迦如来坐像(現存しない)という由緒ある釈迦像を見なおすきっかけになったようだ。九九一年、定朝の師である仏師康尚は、その像を模刻して河原院の像を造った。定朝もまた大安寺の像を模刻した。北宋の仏像が日本の古い時代の仏像を意識させたというこの例は、当時の新たな中国文化受容のありさまを物語る。以下、平等院鳳凰堂というモニュメントを中心に、その前後の柔和な表現に傾いていった造形の様子を見よう。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「子島曼荼羅といわれる十一世紀初めの「両界曼荼羅図」(子島寺)は、紺綾地に金銀泥で描かれている。尊像が細身の姿になっているのは、「釈迦如来立像」(図 5- 1)の胎内に納入された北宋の版画の尊像の姿態と類似し、新しい図像の選択を思わせる。九世紀前半の「高雄曼荼羅」(図 4- 9)と較べたらもちろん、九五一年の醍醐寺五重塔の壁画と較べても、細密で平面的な装飾性が増している。十一世紀前半に、これまで見たような傾向に則り、最もすぐれたイメージを作り出した仏画は、青蓮院の「不動明王二童子像」(図 5- 5)、俗に青不動と呼ばれる傑作である。中心となる不動、ふたりの童子は三角形を成す安定感のよい構図にまとめられ、のびやかな描線、不動が坐す岩などの立体感の適切な表現、金銀泥を交えた配色の適切さもバランスが取れている。異形を強調しない不動明王の顔の特徴は、同聚院の彫刻(図 5- 4)と同類といえるかもしれない。不動の背中で燃えさかる火炎の描写がまた実にみごとである。朱と丹という二種類の赤色を交互に塗り、炎の先は墨でぼかしている。水墨画が発達した唐末・五代には、火や水といった不定形の対象を巧みに描いた画家たちがいたことが記録される。炎の揺らめきを自然らしくとらえ、墨のぼかしも用いながら描写したこの火炎は、そういう中国絵画の動向に対する日本の早い段階での反応と見ることができそうだ(註 9)。炎としてリアルであり、しかも迦楼羅という神鳥の姿を七羽、ダブル・イメージで表してもいる。これほどに洗練された仏画が作られた次の段階に、平等院鳳凰堂が姿を現す。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「子島曼荼羅といわれる十一世紀初めの「両界曼荼羅図」(子島寺)は、紺綾地に金銀泥で描かれている。尊像が細身の姿になっているのは、「釈迦如来立像」(図 5- 1)の胎内に納入された北宋の版画の尊像の姿態と類似し、新しい図像の選択を思わせる。九世紀前半の「高雄曼荼羅」(図 4- 9)と較べたらもちろん、九五一年の醍醐寺五重塔の壁画と較べても、細密で平面的な装飾性が増している。十一世紀前半に、これまで見たような傾向に則り、最もすぐれたイメージを作り出した仏画は、青蓮院の「不動明王二童子像」(図 5- 5)、俗に青不動と呼ばれる傑作である。中心となる不動、ふたりの童子は三角形を成す安定感のよい構図にまとめられ、のびやかな描線、不動が坐す岩などの立体感の適切な表現、金銀泥を交えた配色の適切さもバランスが取れている。異形を強調しない不動明王の顔の特徴は、同聚院の彫刻(図 5- 4)と同類といえるかもしれない。不動の背中で燃えさかる火炎の描写がまた実にみごとである。朱と丹という二種類の赤色を交互に塗り、炎の先は墨でぼかしている。水墨画が発達した唐末・五代には、火や水といった不定形の対象を巧みに描いた画家たちがいたことが記録される。炎の揺らめきを自然らしくとらえ、墨のぼかしも用いながら描写したこの火炎は、そういう中国絵画の動向に対する日本の早い段階での反応と見ることができそうだ(註 9)。炎としてリアルであり、しかも迦楼羅という神鳥の姿を七羽、ダブル・イメージで表してもいる。これほどに洗練された仏画が作られた次の段階に、平等院鳳凰堂が姿を現す。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「平安時代の貴族たちは、建築に関する知識を持ち、大工を指導するのが普通だった。平等院鳳凰堂の設計も、藤原頼通自身の発案によるのだろう。頼通は、平等院に先立ち、自分の邸宅である高陽院を建てていたが、そこでは寝殿の四周を池が巡り、正門に仏寺のような楼門を建てるなど、単に寝殿造の住宅ではない新奇な要素を導入していた。その構想がより大規模に展開したのが平等院鳳凰堂であるともいえる。ただし、この阿弥陀堂の建築意匠の壮麗さに比して、安置される阿弥陀如来像がただ一体であるという点は、またしても九体もの大きな阿弥陀像を並べた法成寺とは対照的である。鳳凰堂で唯一実質的な内部空間を持つのは「阿弥陀如来坐像」の置かれる中堂だが、そこだけを較べると法成寺の阿弥陀堂の三分の一以下の大きさに過ぎないささやかな規模の阿弥陀堂である。ただ多くのお堂や仏を造りさえすればよいというのではない頼通の美意識は、その内部にも一貫している。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「やまと絵に類比すべきものとして、和様の書にもここで触れておく。一世紀以来日本人が書いてきた文字は漢字であり、奈良時代や平安前期の名筆も、この時代の三跡と称される小野道風(八九四─九六六)、藤原佐理(九四四─九九八)、藤原行成(前出)らも漢字を美しく書いた。ただし、均斉の取れた端正な字形を貴ぶ漢字の書法は、工藝品の意匠と同様に時代とともに変化している。一方、九世紀後半には漢字をもとに作られた仮名が用いられ始めていたことが、京都の貴族の邸宅跡から出土した土器の例などでわかる。十世紀には和歌とともに仮名が普及して三跡もそれを手掛け、彼らの活躍に伴い漢字とは異なる仮名の書法が発達したと考えられる。「高野切」(五島美術館など)と呼ばれる断簡は、『古今和歌集』の写本のうちまとまって遺る現存最古のもので、十一世紀半ばの書写とされる。文字の形態を柔らかく曲線的に整えるとともに大小や筆致の強弱の変化をつけ、文字どうしを連続させてリズムを作り出す書き方は、このような例に見ることができる。こうした書法が平安時代中期に頂点を極め、次の時代にはさらに別種の洗練を加えた。また、この時期には北宋から輸入された美しい文様を摺り出す唐紙が、書の料紙(文字を書し画を描くためにあつらえられた紙)として用いられたことも注目される。「和漢朗詠抄巻下残巻」(太田切、静嘉堂文庫美術館)や「寸松庵色紙」(五島美術館)などの例がある(註 23)。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「前章で、貴族たちの絵画についての考えを知ることができる詩や文章に触れた。その続きとして、十一世紀初めの『源氏物語』のうち「帚木」の巻には、重要な絵画論が含まれている。作中人物の左馬頭は、人が見ることのできない蓬萊山や異国の獣、鬼などを描くよりも、日常見慣れた景色や風物を描く方が画家の技量の優劣を明らかにすると述べる。ここで紫式部は、『韓非子』に原型がある素朴な意味での写実主義を、平安時代中期の世俗画の様式の動向とも関連づけて消化した的確な議論を展開している(註 25)。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「前の項目で言及した『大鏡』は、花山天皇の御所の造り様、蒔絵の調度、装束のみごとさなどを賞賛して、「此の花山院は、風流者にさへおはしましけるこそ」と記した。風流者とは美的生活者とか藝術愛好者といった意味のようである。風流という言葉は、奈良時代から見られるが、平安時代中期以降、文献に頻出する。意味としては、たとえば庭園のような人工的な造形物の美に関連して、広く用いられるようになる。作り物や飾り、美麗な装束そのもの、あるいはそれらに意匠を凝らすこと、それらを用いる趣向などを風流という。『栄花物語』は、藤原道長が建てた法成寺の一〇二三年における万燈会(行燈を灯して供養する法会)の様子を記述している。池の廻りには、金・銀・瑠璃などで作られた人工の樹木が植えられ、それらに金銀の網をかけて火を灯したという。ほかにも水車や孔雀、鸚鵡、迦陵頻伽の形をした行燈を作り、池には人工の蓮を浮かべて火を灯し、鴛鴦、鴨、水鳥などの形の行燈もあった。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「定朝が平等院鳳凰堂の「阿弥陀如来坐像」(図 5- 10)を造った後、十一世紀末からはそれを模倣する作風の仏像が一般的になった。社会現象としては興味深いが、その中に美的な感銘を与えてくれる仏像は少ない。十二世紀の仏像では、量感や動勢といった彫刻らしい表現よりも表面の装飾に技巧を凝らした作例が注意を引く。一一〇三年に造られた「薬師如来坐像」(図 6- 8)はその早い例で、像の高さが一一・二センチというとても小さな像である(註 11)。空海がもたらしたという檀像に倣って新たに造りなおしたらしいが、薬師如来の柔和な丸顔、そして袈裟から光背・台座に至るまで華麗な切金で飾られているところに、当時の趣味が認められる。造ったのは圓勢・長圓の親子で、圓勢は定朝の孫弟子に当たる。「圓」という字が名前につく彼らは、圓派という京都仏師の系譜を形成する。白河、堀川、鳥羽といった院たち、天皇たちの時代には、きわめて大量の仏像が制作される。その制作の中心になったのが圓派仏師だった。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「浄瑠璃寺は京都府の南の端、奈良との県境に近い、南山城と呼ばれる地域にある。華奢な姿をした美しい三重塔(図 6- 9)は、京都の一乗大宮にあった三重塔を一一七八年に解体して移築したと記録され、塔はそれ以前の十二世紀前半の建築と考えられる。池をはさんで阿弥陀仏のいる本堂と向かい合うように建てられており、極楽浄土を思わせる浄土式庭園は、平安時代中期の法成寺や平等院に連なるものである。本堂の造立時期については見解が分かれているが、ひとつの説は一一〇七年に建てられ一一五七年に現在の地に移築されたという。九体の阿弥陀如来像を横一列に並べる九体阿弥陀堂は院政期に平安京周辺に盛んに造られたと記録されるが、浄瑠璃寺のものは平安時代に遡る唯一の遺構である。「四天王立像」(浄瑠璃寺)は、本堂には大き過ぎるようで、本来は別の場所にあったと考えられる。華麗な彩色・切金もよく残り、仏画を手掛けた絵仏師による質の高い仕事をうかがわせる。四体のうち毘沙門天像はほかの三体と作風が異なるとして、これのみをやや早い時期の作と見る意見がある(註 13)。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「十二世紀には仏像についてもそれを美的に鑑賞した評語がいくつも存在する(註 16)。たとえば、学者の大江親通(?─一一五一)が一一〇六年と一一四〇年に奈良の七大寺を巡礼した体験に基づいて書いた見聞記『七大寺巡礼私記』の序は、「堂舎仏像の好麗なるを拝見せんが為に」京都をはじめ各地の寺を訪ねたことを述べる。「抑も堂社仏像の好麗なるは人心に任せて好悪有り、今記す所は唯だ愚眼の及ぶ所に勅むのみ」──建築や仏像の良し悪しには人により好き嫌いがあり、ここに記すのはあくまでも自分の見たもの自分の好みのものをまとめたのだという。建物や仏の美しさを愛でる心は、けっして近代に始まるのではない。彼は奈良の寺院や仏像を古典として振り返る京都の人のひとりでもあった、ということも注意しておこう。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「代々の室町将軍の邸宅には襖絵など障壁画が描かれた。「伝足利義政像」(東京国立博物館)の背後の襖絵には水墨の山水人物画が描かれている。義政の肖像を描いたのは土佐光信(一四六二─一五二〇頃活躍)のようなやまと絵の画家だったろうが、画中画として背後の水墨画も巧みに写している。自然の中で悠々自適に過ごす高士という、いかにも中国の知識人が好むような主題を、漢画の技法で描いている。将軍邸の障壁画を描いた画家は周文、狩野正信(一四三四─一五三〇)、土佐光信などであり、残っていれば当代を代表する大画面絵画だったろう。しかし、画題は記録されるが、現物は消耗品としてすべて失われた(註 14)。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「前代に幕府が置かれ建長寺をはじめとする禅寺が開かれた鎌倉は、関東における水墨画制作の中心となった。建長寺の書記だった賢江祥啓(一四七八─一五二三頃活躍)は、上洛して藝阿彌に画を学び、藝阿彌は「観瀑図」(根津美術館、一四八〇年)を餞別として描き与えた。夏珪の様式で描かれたこの画の構成、モチーフ、色感を祥啓「山水図」(根津美術館)は確かに受け継いでおり、祥啓によって中央の様式が関東へもたらされたことを示している(註 22)。式部輝忠は祥啓や狩野元信の影響を受け、「山水図」(サンフランシスコ・アジア美術館)の屛風などに独特の執拗な描写を見せる。一方、関東の地で雪舟に私淑したのが画僧雪村(一四九二?─一五七七以降?)である。ただ、実際の雪舟画との類似は少なく、常陸から小田原・鎌倉へ遍歴する過程で見ることのできた日本と中国の絵画を参考に、個性的な作風を作り上げたらしい(註 23)。「風濤図」(野村美術館)、「呂洞賓図」(大和文華館)など、山水・人物・花鳥いずれを描いてもダイナミックな運動感に富む形態となるのが特徴で、しばしばユーモラスな表現を交える。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「海北友松(一五三三─一六一五)と狩野山樂(一五五九─一六三五)は、ともに近江の武将の家に生まれ、職業画家となった。永徳様式の感化を強く受けており、山樂には特にそれが顕著である。友松の建仁寺障壁画と「花卉図」(妙心寺)の屛風、山樂の「松鷹図」(大覚寺正寝殿)と「牡丹図」(大覚寺宸殿)などを挙げれば、両者もやはり墨と金というふたつのメディアで豪壮な絵画を描いたといえる。ただ、梁楷、玉澗ら南宋の画家を憧憬していたらしい友松が華麗な孔雀を墨で描き、金地着色の屛風にも水墨画的な筆致を見せ、山樂が金屛風に水墨で山水を描くなど、色と墨との交錯する世界にまでふたりは進んでいる。山樂が見せるやまと絵への興味はまた永徳の長男狩野光信(一五六五─一六〇八)のものでもあり、それは「四季花木図」(園城寺勧学院、一六〇〇年)の優美さへの志向に生かされた(註 14)。造形の好みは変わりつつあった。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「若冲は京都錦小路の青物問屋の長男に生まれたが、絵画と禅に傾倒し、四十歳以前に家業を弟に譲って画業に専念した(註 11)。狩野派の画法にあき足りず、京都の古寺に伝わる宋・元・明の中国画を模写した後に実物写生を絶対視するに至ったという。背景には、時代の実証主義精神の高まりもあるが、彼が観察し描いた鶏は、園藝植物のように鑑賞目的の美しさを備えた種類のものであり、しかも孔雀や鳳凰といった伝統の素材の堂々たる風格に擬して、芝居がかったポーズと形態の誇張を与えた。鶴亭の着色画や水墨画の刺激も受けて、特異なデフォルメによって幻想的・表現的な作品を生んだ点が高く評価される。詩僧大典と親交があったほか、賣茶翁や黄檗僧たちとも交わった。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「俗事を嫌って若いときに隠棲もしたという若冲の逸話や生家のあった青物市場をめぐる抗争は、商品経済の発達が、都市の商人や生活者たちに不安をもたらしたことを想像させる。商品の流通が加速し、人を裕福にも破滅にも導く状況は、かつてない種類のストレスを強いる。そのとき花鳥画や山水画は、そういう文化の生み出す緊張を中和してくれる、自然の代用品となり得た。イメージの中で自然を過剰に回復するかのような「動植綵絵」は、そんな心理的補償の機能を果たした可能性があろう。」
—『日本美術史 (角川ソフィア文庫)』佐藤 康宏著
「酒井抱一(一七六一─一八二八)は、姫路藩主の孫として江戸に生まれたが、俳諧をはじめ、大田南畝の誘いで狂歌、歌川豊春の指導で浮世絵と、諸藝に耽り、出家までして風流三昧の生活を送る(註 10)。若冲の拓版画『玄圃瑤華』(一七六八年刊)の図様を「絵手鑑」(静嘉堂文庫美術館)に翻案するなど、広く京都画壇に眼を向けたが、当時人気のあった光琳画への親炙を特に強めた。