あらすじ
悲劇はシベリアだけではなかったーー。
第二次世界大戦後、多くの日本人がモンゴルへ抑留されたことはほとんど知られていない。
その数、約1万4000人。軍人のみならず、数合わせのために無差別に連行された民間人が「日本人狩り」の犠牲となった。
食糧も防寒具もなく、零下数十度にもなる極寒の地で、過酷な労働をかせられた抑留者たちは、感染症や凍死、銃殺などで次々と命を落としていく。自ら命を絶った者も少なくなかった。
戦後の日本政府は、ソ連と異なり、モンゴルの抑留者について実態解明を怠ってきた。モンゴル政府から提供された名簿を30年にわたり棚ざらしにしていた事実もわかっている。
元新聞記者の著者は、在職中に知ったモンゴル抑留を退職後も追いかけ続け、埋もれている歴史を明らかにしてきた。
モンゴル公文書館などから死亡記録を発掘し、そこに書かれた犠牲者の遺族を探しあてて死亡記録を届け、時にはモンゴル諜報庁にまで乗り込む。
日本政府をも知らない資料を基に厚労省にかけあい、腰の重い官僚たちを動かしたこともある。
知られざる抑留の実態を記す貴重な書。
【目次】
はじめに モンゴルのKGBへの挑戦
第一章 置き去りにされてきた抑留者
第二章 2つの戦争が抑留の起こりだった
第三章 民間人が無差別に拉致された「日本人狩り」
第四章 食糧も防寒服も寝具も何もない「絶望の国」へ
第五章 当局に迎合した抑留者、抵抗した抑留者
第六章 死亡記録から見える「さまざまな死」
第七章 突然の一斉帰還命令と残留させられた抑留者たち
第八章 抑留問題に向き合ってこなかった日本外交
最終章 「歴史の扉」は開いたのか
おわりに 近くて遠い国
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
モンゴル抑留を知りたくて読書。
恐ろしいくらい不勉強で無知だったことを実感させられた1冊。
近現代のモンゴルの歴史を、自分はまるで知らなかった…。
本書を読みながら、内モンゴルと外モンゴルの分離の歴史や、なぜチベット仏教がモンゴルで普及したのか、中国やソ連との関係性、戦後の日蒙国交樹立とその背景、その後、1992年に社会主義を捨てて民主主義国家へ生まれ変わった現在までの歴史を調べつつ読み進めた。
著者の執念を感じる。その源泉は、日本政府に対する怒りや嘆きが行動へと転化されたもののようにも思える。
「おわりに」で説明されているように、僕のモンゴルに対する認識も、ハングリー精神あふれる力士と広大な草原の遊牧民というイメージだった。
2023年に初めて訪れ、ウランバートル市内はかなり歩き回って探索したつもりだったが、このモンゴル抑留の歴史を踏まえた上で、また訪れてみたい。
モンゴルも含めたソ連抑留(「シベリア抑留」は正しい表現ではないと著者は指摘)全体で、抑留された民間人の割合は1%とされるのに対し、モンゴルだけに限定すると10%と10倍に跳ね上がる。その理由は、人数確保のためにソ連軍による「日本人狩り」が無差別に実施されたからだ。
この問題について、モンゴル側はあくまでソ連が主体であり、自国は追従する立場だったため「自分たちに非はない」という認識を持っているのではないか、と読みながら感じてしまう。
日本政府がモンゴル抑留問題を棚上げに近い状態にして国交樹立を優先し、多額の資金援助を行い、1992年以降もODAで支援を続けてきた背景についても詳しく解説されている。
日本を取り巻く地政学的な要因から、モンゴルと融和的な外交を展開することが日本の国益になると判断したのだろう。
本書をきっかけに、日本人がただモンゴル政府を批判するだけでなく、より多くの人がモンゴル抑留問題に関心を持ち、自分たちの日本政府を突き動かしていくことを願う。
2025年の天皇皇后両陛下によるモンゴル訪問時、日本人死亡者慰霊碑へ供花されたニュースは報道で知っていた。
しかし、確かに目立たぬよう、問題の焦点から外されていたような印象も受ける。
また、現代のモンゴル人がノモンハン事件を「日本と戦争したハルハ河戦争」と学び、「日本の侵略を退けた」と認識していることにも驚かされた。
日本の近現代史において、多くの日本人はノモンハン事件を「日本とソ連との国境紛争」と理解していると思う。
この点も含め、相手国の視点や異なる立場からの近現代史をもっと丁寧に学ぶ必要があると痛感した。
読書時間:約2時間15分
Posted by ブクログ
シベリア抑留と異なりあまり知られぬモンゴル抑留。ソ連、中国のみに挟まれたモンゴル。日本との国交樹立、戦時賠償の問題などから対ソ、ロシアより状況は厳しい。また民間人の抑留者が多い。軍人と異なり恩給もなく戦後の遺族は相当に苦労したことだろう。
遺された遺族に命の記録を届け続ける筆者。モンゴルの公文書の開示、日本国内でも個人情報保護の問題がありなかなか進まない。
そんな実態を世に知らしめる貴重な一冊。戦後はとっくに終わっているようで実は終わっていない。
Posted by ブクログ
モンゴル抑留
見捨てられた死者たち
著者:井手裕彦(ひろひこ)
発行:2026年6月10日
角川新書
「シベリア抑留」はソ連がつけた正式な呼称ではなく、日本人が戦後に生み出した造語だという。「シベリア抑留」では日本政府推計で57万5000人の日本兵らが抑留されたが、その中にはモンゴルに抑留した人1万4000人がいる。そのうち、1700人もの抑留者が死亡(著者はもっと多いと考えて居る)、死亡率はシベリア抑留全体で9.6%なのに対し、モンゴル抑留者は12.1%と高い。
清朝からの独立、世界で2つめの社会主義国家建設へと向かう中、若いモンゴル国家には多くの抑留者を抱えこむ力はなく、日本人にはあまりに厳しい気候条件もあった。そして、若い国家建設のために過酷な労働を強いられたことも大きい。
モンゴルには、ソ連によって連行された。モンゴルが労働を目的にした捕虜が必要だったためである。もちろん、これは国際法違反である。しかも、2万人を連れていくべく〝約束〟をしていたが、日本軍が一足先に移動していて、兵士の数が圧倒的に少なかったため、ソ連は満州国に侵攻して「日本人狩り」をした。民間人が多くそこに含まれた。これも戦争犯罪、重大な国際法違反である。
そんな実態があるにもかかわらず、モンゴル抑留については殆ど知られていない。そんな言葉すら聞いたことがないという人の方が多いかもしれない。さらに、日本政府自体が、これまでシベリア抑留についてまともに解決しようとしてこなかった。
著者は2020年に読売新聞を退社しているが、その後も私費を投じて知られざる抑留を負い続けている。モンゴル諜報庁に直接掛け合うなど、危険を承知で抑留した人、その死亡情報などに関する情報公開を求めている。
著者がモンゴルで得た情報(公式情報)をつきつけても、知らなかった日本政府、あるいは知らなかったふりをしているのかもしれない。2026年になってやっと動き出したものすらあるという。
もちろん、遺族も自らの父親や祖父が死んでいることを知らない。著者が探し当てて訪ねて、そこで初めて知った人も多い。
日本政府の単なる怠慢か?どうもそれだけではないようである。そこには、日本が認めたくない戦争責任にもつながる事情、戦争に関する賠償問題なども裏にあるのではないかと、この本で著者は臭わせている。
「日本人狩り」にあってモンゴルに連れて行かれ、過酷な労働や病気で死んだ人たち。実に酷い話である。その実態を解明し、我々はもっと知っていくべきである。
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【はじめに】
第2次大戦後に日本人が抑留されたのはソ連だけでなく、モンゴルにも1万4000人が連行され、1700人が死亡している(著者は1700人台半ばから後半だと考えている)。その歴史は埋もれたままになっている。
2017年10月、著者が、満洲からのモンゴルへの移送途中に死亡した記録がモンゴル国防軍中央文書館に残っていることを厚労省に報告した際、厚生労働省はそれまで1度もモンゴルへ抑留資料発見のために職員を派遣したことがなかったことが判明した。大変な驚きだった。その後、毎年のように職員を派遣するようになり、抑留者の死が100人以上、確認されている。なお、ソ連には旧厚生省時代の1991年度からモスクワの日本大使館に事務官を派遣して情報収集に当たってきた。
【第1章】
収容所はハバロフスク地方やイルクーツク州などシベリア地域が多いが、モスクワ周辺、ウクライナ、中央アジア、北極圏にも拡がり、モンゴルにも。収容地域でいえば「ユーラシア抑留」と呼ぶべき。「シベリア抑留」と言い始めたのは1979年に発足した抑留者団体「全国抑留者補償協議会」で、飢餓の中での重労働というイメージを広げるのに役立つ。新聞やテレビが飛びつき、中学、高校の教科書にまで「シベリア抑留」と掲載されるようになった。(26P)
日本政府を相手取った抑留者への補償請求訴訟は最高裁で敗訴するも、判決で重労働の深刻さが認められ、立法的措置として2010年に抑留期間に応じて25万円から150万円の特別給付金を国が支給する「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」が成立、6万8847人に計192億9855万円が支給された。(26P)
戦後、モンゴルでは一般の日本人抑留者は2年間で帰還を許された。だが、ソ連よりははるかに人数は少なかったものの、残留させられていた抑留者は確かにいた。(30P)
厚生省の名簿「外(がい)蒙古死没者名簿」(1966年7月まとめ)では、抑留者1648人。名簿に掲載できなかった志望者を含めると、モンゴル抑留の死亡者は1700人台半ばに上ると推定される。モンゴル外相が1991年に来日した時に持ってきた名簿では、抑留死亡者数1897人(1940年代に作成、不正確だと本人も認める)。(34P)
シベリア抑留は、57万5000人が連行され、うち約5万5000人が死亡、平均死亡率9.6%。モンゴル抑留の死亡率は約1万4000人の日本人抑留者のうち約1700人なので12.1%。(39P)
【第2章】
<モンゴル抑留に関係する二つの戦争>
①「ハルハ河戦争」 1939.5-9
満州国とモンゴル人民共和国の国境線をめぐり、モンゴル人民革命軍がソ連とともに日本具、満州国軍と戦った。人民共和国独立から15年で起こった戦争であり、「国家の独立を守り抜いた聖戦」として建国神話に近い位置づけ。
日本では「ノモンハン事件」と呼ばれるが、ソ連・モンゴルが戦車438両、装甲車385両、日本・満州国軍が戦車92両を出し、大規模な空中戦も。死傷者2万人。事件と呼ぶには無理がある。
モンゴルにとって納得できない結末=軍事的にはソ連・モンゴル合同軍の勝利にも拘わらず、領土確定においてはモンゴルの意向が無視されて敗北。東京都全域に匹敵する約2200平方キロを失った。これは日本がモンゴルを承認しておらず、日ソ二国で停戦交渉が行われたため。(46-48P)
②「2次大戦末期のモンゴルによる対日参戦」
1945年8月10日、日本に宣戦布告、ソ連軍の満洲侵攻を助けた。モンゴルの首都インフラ建設や疲弊した産業の労働力として、ソ連軍が確保していた日本人捕虜の一部を提供したのがモンゴル抑留。モンゴル人はこの戦争を「解放戦争」と呼んでいる。(52P)
満州国とモンゴルとの国境は、清朝時代に外蒙古にいたハルハ族と、満州国西部にあたる地域にいたバルカ族との、いわばモンゴル民族同士の境界だった。(63P)
1936年9月1日、蒙古聯合自治政府が樹立される(1941年に蒙古自治邦政府に改称)。主席にチンギス・ハーンの30代目子孫である徳王(デムチュクドンロブ)が着いたが、実際は満洲国と同じく日本の傀儡政権だった。日本人が最高顧問、日本語教育推進、内モンゴル軍の整備を支援。さらに、日本には内・外モンゴル、満州国西部のモンゴル族を統合した「大モンゴル国」樹立を最終目標とする大構想があった。(66P)
【第3章】
モンゴル政府からの要請でソ連極東軍総司令部がモンゴルに提供しようとした日本人捕虜の人数は2万人だった。ソ連はモンゴル軍が参加して侵攻した満州国南西部の熱河(ねっか)省で確保する計画を立てる。(71-72P)
停戦交渉がまとまった後、ソ連軍の幹部たちは熱河省承徳にいた日本兵の数を知る。2万5、6000人いると思っていたが、約6000人しかいなかった。(74P)
教科書では2次対戦末期、ソ連が日本に宣戦布告して侵攻した地域は、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島と書かれているが、実はこの地域だけではない。万里の長城を超えて中華民国華北地方にも侵攻。そこにいた日本軍は関東軍ではなく、支那派遣軍傘下の北支那方面軍で、そこで捕虜にした日本兵をモンゴルに渡した。(80P)
まだ数が足りないので、ソ連軍は民間人に手をつけ始める。ジュネーブ条約違反、国際法違反である。最初は承徳で、婦女子をあわせて「熱河省日本人居留民団」全体で約1000人がモンゴルへ。(88P) その後、承徳以外でも居留民のモンゴル送りは続いた。
日本軍が居留民の保護ができなかった。関東軍が後世にわたって責められてきたが、支那派遣軍も同罪だといえる。居留民の保護ができない軍は軍ではない。(96P)
【第4章】
「日本人狩り」によってソ連からモンゴルへ日本人が引き渡され、モンゴルへの移送が始まる。移送開始は1945年9月中旬、モンゴルは非常に寒くなっていく。1~2か月もの間、ぎゅうぎゅう詰めの貨車に押し込まれて弱った抑留者たちをまっていたのは、生きていく物資が何もなく、住まいすら急ごしらえでまともではないところだった。この章では、そんな「絶望の国」への移送や生活について紹介している。
乗せられた鉄道は有蓋貨車で、牛や馬を運んでいた貨車もあり、分も残っている。ぎゅうぎゅう詰めの状態で雑魚寝。鉄道のない区間25キロは徒歩。食料は、ソ連軍が捕虜になった日本兵らに命じて集めたもの。関東軍の食料倉庫から運び混んだ戦利品だが、程なくして尽きた。(111P)
貨車にトイレはなく、底をぶち抜いて穴を開けたり、樽を用意して用を足したり。
移送中の死亡記録が残っているが、それは氷山の一角にすぎない。
収容所不足のなか、深さ4メートルくらいの穴を掘り、柱を立てて屋根を葺いた穴倉収容所すらあった。
【第5章】
抑留者たちの収容所での生活や労働において、抑留者のリーダー的立場になった日本人の違いを紹介している。シベリア抑留においても、日本の軍幹部がそのままリーダーとなっていばりちらし、乏しい食料を独り占めしたり、ソ連側に取り入っていい目をしたり、といった事例がよく紹介されているが、モンゴル抑留でも当然おなじようなことが起きている。しかし、逆に待遇改善などを訴えてモンゴル側と交渉したリーダーもいた。そんな人間は、反逆者として死刑になるなどした。この章では、そうした事情を紹介している。
ソ連でも、命令を出すのに作業大隊の指揮系統を利用した。絶対的権限は収容所幹部になり、大隊長ら日本人幹部は命令の中枢機関に過ぎなかった。そのうえ、思想教育を通じて共産主義運動の実態を持つ民主運動のリーダーを育て挙げた。その民主グループの活動家たちを、ソ連は日本の将校から「作業大体幹部」の地位を剥奪して後釜に据えた。労働を免除し、食事も衣服も質量ともに充実したものを回した。特権も与え、日本に帰国後にソ連の爲に働く共産主義者をつくる遠謀だった。ソ連の意向に沿わない将校は「反動」として厳しい収容所へ送った。
モンゴルでは、抑留者の思想教育は行っていない。(150P)
モンゴルで大隊長は3つのグループに分かれていく。
①日本軍時代からの将校の特権そのままにふるまい、上下の階級を盾に労働で疲れ果てた下級兵士に軍紀を押しつけようとする者
②収容所幹部に取り入って発言権を持ち、日本人組織を牛耳ろうとする者
③一般抑留者の命の保証を第一に考えて、自らの危険を顧みずにモンゴル東京に対してぎりぎりの折衝に挑もうとする者
「暁に祈る」事件
ウランバートル・羊毛工場収容所の日本人作業大隊長、吉村久佳こと池田重喜は上記②の典型。池田は、ノルマを果たせなかった隊員や、規則違反や態度不良で日本人の名誉を傷つけたと判断した隊員に対して厳しい処罰を科した。極寒の屋外に、夜間、後ろ手で柱に縛り付け、リンチ的制裁を加える。意識を失った隊員が、明け方、首をうなだれ、祈るようになった様から「暁に祈る」と恐れられた。(152P)
ソ連、モンゴルに抑留された日本人57万人のうち、現地での行為を罪に問われたのは池田ただ一人だった。1人の隊員を死なせたとする遺棄致死罪と5人の隊員に対する逮捕監禁罪により、懲役3年が確定した。
「伊丹の小虎」と名乗る関西ヤクザだった小虎は、一般の抑留者が屋外労働にかり出されている間、特別な食事をとり、毎日ばくちをやって遊んだ。モンゴル抑留者だった錯簡の胡桃沢耕史もこの収容所にいた。1983年直木賞を受賞した「黒パン俘虜記」で小虎を「赤穂の小政」とし、起きた出来事を書いている。(166P)
日本軍時代からの将校の特権をそのままにふるまった大隊長としては、独立混成第133旅団通信隊の兵卒だった鈴木雅雄がいた。
【第6章】
この章では、抑留者の死因について調べている。病死が大半だが、事故死、自殺、獄中死、刑死・・・10人に3人を超える人が死んだ収容所もある。
モンゴル抑留の死亡率がソ連地域のそれより高い4要因
・高齢者を含む民間人が抑留者の1割以上を占めていた
・モンゴルに国家として抑留者を養える余力がなかったこと
・収容所運営の人材やノウハウが乏しかった
・極寒の気候条件が日本人には過酷だった
1万7000人のうち(死没者一覧表より)
・病死:1500人(93.1%)
・外傷死:98人(6.1%)
・その他の死:14人(0.9%)
病死のうち
・結核:583人(36.2%)
・赤痢:139人
・肺炎:121人
・栄養失調:111人
・虱(しらみ)媒介の回帰熱:80人
・チフス:73人
外傷のうち
・凍傷:41人
・骨折(事故死とみられる):34人
・打撲:15人
その他の死のうち
・自殺:5人
・犯罪認定され銃殺刑
「地獄のスフバートル」
シベリア・モンゴル抑留の中で最も悲惨だった抑留先がスフバートル。
死亡者145人のうち、民間人が80人(55.2%)、軍人42人、「原所属部隊」が空欄で所属先不明が23人。
民間人80人中、華北交通社員が40人、満鉄社員が31荷に。華北交通社員は山海関(さんかいかん、河北省秦皇島市)で、満鉄社員は綏中(すいちゅう、河北省秦皇島市山海関区に属する県)で、ソ連軍が「日本人狩り」をして拉致した人々。
死因で最も多かったのが回帰熱の46人(31.7%)、肺結核37人、栄養失調21人。回帰熱は虱(しらみ)やマダニにかまれることで感染する。日本国内では2011年以降に北海道でマダニによる感染が2人報告されている。
「ジャルガラント収容所」
ウランバートルから約120キロ北西の国営農場に付設。三大農場の一つ、スフバートルと並んで回帰熱に襲われた収容所。スフバートルより民間人の割合が圧倒的に高い。
【第7章】
帰国と残留。8人に1人が死亡する中、2年で一斉帰還命令が出て日本に戻った。しかし、お前は帰す訳にはいかないと残留されたれた者がいた。ソ連や中国に移され、第二の抑留生活を余儀なくされた者もいた。なぜ一斉帰還命令でモンゴルは日本人を解放したのか、取り残された人たちはどんな生活をしなのかを紹介している。
1947年10月中旬、帰還命令が出て、月末までに11陣に分かれて1万人余りが帰国の途につく。何の前触れもなく、作業中に収容所幹部から支持された。「今すぐ宿舎に帰って荷物をまとめろ。移動の準備だ」。以前、ドイツ人はその状況で、重労働への腹いせに塩を撒いて機械を使えなくしたことから、その隙を与えないように突然指示したものだった。
各収容所からウランバートルでの集結地に集められた抑留者たち。2年間に振り分けられた懐かしい戦友や同僚との再会があった一方で、亡くなった戦友の情報も聞いて胸が痛かった。
帰還名利はソ連政府からの指示だった。なぜこの時期にモンゴル政府に指示したのか。
①モンゴルの一般国民の間に生まれつつあった日本時抑留者への親近感に対する警戒
抑留者が連れてこられた当初は「日本人は鬼畜だ」というモンゴル政府のプロパガンダが効いていたが、日常生活の中で初めて接した日本人が勤勉で礼儀正しく、技術力も高いことに次第に見方を変え、痩せ細り、労働に着かれ果てた姿に同情すら芽生えた。遊牧社会に生きてきたモンゴル人は、困っている旅人がいれば情けをかける伝統がある。ソ連ではそんな感情が生まれなかったのは民族の気質差。
②ソ連全体の日本人抑留者の帰還計画との関わり
米ソは1946年11月27日「米ソ暫定協定」を締結し、毎月5万人の日本人抑留者の引き上げを約束していた。ソ連は自国から日本人をなるべく帰還させたくないので、モンゴルからの帰還で引き揚げ枠を埋めようとした。
モンゴルの病院では重症患者がいたが、帰還命令で病院を追い出されることに。日本人医師は反対し、治療を続けるようにモンゴル当局に願いでたものの、1人残らず帰せと言ってきたソ連の指示しか頭になかった。結果、帰還途中にも死亡者が出た。そうした死亡者は死亡者リストにすら載らなかった者もいる。日本政府も把握していない。
帰還できなかった人たち
内モンゴルから「戦犯」として連行されてきた人たちは、モンゴルに残留させられた。日本の傀儡政権として1939年9月に成立した蒙古聯合自治政府の自治体顧問や現地の特務機関員などの立場にあった日本人。裁判で刑期15-25年の判決を受け、ウランバートル中央監獄に投獄されていた。
モンゴルでは、受刑者に労働が課せられ、過酷な監獄生活を送る。命を落とす者もいた。さらに、生き残った者も1954年に中華人民共和国に身柄を引き渡され、今度は中国での取り調べが一から始まった。モンゴルに連行されて9年近くの監獄生活に耐えてきたのが水疱に帰した。
【第8章】
なぜ、日本政府は抑留問題に向き合ってこなかったのか。今日、東亜アジア屈指の親日国であるモンゴルは、日本と1972年2月24日に国交樹立したが、戦後27年もの間、国交がなかった理由は、20世紀前半の二つの戦争と、戦後に起きた日本人抑留者に関わる問題がその要因だった。そして、その点にこそ、モンゴル抑留者が存在したことにまともに目を向けようとせず、知らぬ振りをしたまま通そうとする日本政府の態度を解明する手がかりあると、著者は言いたいのではないか。
(詳細な名簿紹介や死亡原因の追及と行った「事実解明」をまともに外交交渉の議題に挙げることなく今に至っている点)
国連加盟の流れ
・1945年10月、国連設立
・1955年12月14日、国連総会で日本と、モンゴルを含む東側5ヶ国、西側13ヶ国の一括加盟が支持された
・しかし、中華民国(台湾)はモンゴルを不可分なん自国領土だとして拒否権を発動、日本の加盟にもソ連が拒否権を行使し、両国の加盟は承認されなかった
・1956年12月18日、日本の国連入り承認。日ソ共同宣言によってソ連と国交正常化したことにより、ソ連が反対しなかったため
・モンゴルは1961年10月27日に承認された。米国のケネディ大統領が蒋介石を説得した
・池田勇人はモンゴル国連加盟に賛成の意思表示をしたことで、事実上、モンゴルを国家承認していると述べた。「暗黙の承認」と称される。
モンゴルの主張、日本の主張
・モンゴルは極東委員会に対日賠償請求権を明らかにするため、1935年より1945年の間に日本の侵略によって生じた3億2198万3000トゥグルグ(約8000万ドル)の物的賠償などを求める書簡を送っている
・それに対して日本は戦時賠償の支払いを一貫して拒否。戦後多くの日本人が抑留され、亡くなった人も出ている。国民感情として賠償を国交樹立の条件にするのは許されない、と主張
ただ、これは表向きの理由であり、譲れない外交上の立場は下記だった
・第2次世界大戦以前は、日本はモンゴルを中国の一部とみなし、独立国家として承認していない。だからモンゴルの宣戦布告を認めておらず、戦争の相手国ではないで戦時賠償など存在しない
↓↓↓(これを貫きつつどう解決したか?)
・「経済協力」という名の下の資金供与、つまりカネで解決を図った。国交樹立から5年後の1977年3月17日、両国は経済協力協定を締結、戦時賠償ではないことを確認した上で、50億年(1700万ドル)をモンゴルに贈与した
モンゴルの政権は民主化以降、日本の位置づけを「敵国」から「パートナー」に変え、抑留問題が二国間関係、特に日本からの経済支援を阻害しないように努めてきた。
【最終章】
2026年になってようやく動き出した日本政府。
身元特定に至っていない抑留死亡者をリストアップした「資料未提供者名簿」を作成し、モンゴル政府の関係機関に提出すること。
Posted by ブクログ
日本人の中にモンゴルという国について十分な知識を持っている人は少ないのではないか。私もその一人だが、かつてユーラシア全域に大帝国を築き、日本にも二度の元寇として攻め込んできた国、草原を馬に乗って駆け抜けるチンギス・ハーンの姿がまず思い浮かぶかもしれない。それ以外だと、最近の角界がモンゴル相撲を経て日本にやってくる力士たちで賑わい、かつ強力な横綱を輩出し続けるイメージが強い。少し歴史に詳しい方なら、名前のインパクトからチョイバルサンを思い浮かべるかもしれない。モンゴル人民共和国の首相を務め、ノモンハン事件(モンゴル側から見るとハルハ河の戦争)でソ連と共に日本と闘った人物だ。その人物像は「モンゴルのスターリン」と呼ばれる程、残忍な手法で国内の不穏分子を様々な罪名のもとに処刑した事で知られる。あとはどこまでも続く草原と、夕陽に映えるゲルのある風景が頭に浮かぶ。日本人にとっては元寇、相撲、草原あたりがモンゴルの印象という方が殆どだろう。最近旅行会社のサイトでモンゴル特集のページを見ることが多い気がするが、他の国は殆ど行き尽くして、いよいよ非日常体験ができる様な秘境として注目されてきたのだろうか。私の周りには海外旅行好きが多いが、モンゴルに行ったという話も聞かない。
本書のタイトルを最初に見た時、「シベリア抑留」があるのだから、「モンゴル地方」にも連れて行かれたのだろう程度にしか考えなかった。だが確かに戦争終了時には、日本は正式にモンゴルを国として承認していないながらも、モンゴル人民共和国としては存在している。そして抑留者全体57.5万人のうち、2万人がモンゴルに抑留されている。確かに厚生労働省のホームページを見ると、抑留者の死亡者の特定に関して数値が掲載されており、そこには確かに「シベリア・モンゴル地域」と掲示されている。そしてそれぞれの死者数(ロシア政府発表資料)を「シベリア地域55,389人」「モンゴル地域1,655人」と区別している。この事について、我々日本人の中では、冷戦時のソ連の崩壊によって、連邦を構成する各国に抑留者がいた事は想像していたが、モンゴルに関してはその認知度は低い様に思える。
本書は、筆者が長年新聞記者として追い続けてきたテーマである、このモンゴルへの抑留者と、そこで亡くなった方の身元特定の取り組みの活動について書かれたものである。一新聞記者が何故ここまで執念を燃やし、身元特定に死力を尽くし続けるのか。その理由と共に描かれる内容となっている。前述した様に、我々日本人でモンゴルのことも、その抑留者がいた事も十分な知識を持つものは少ないだろう。そして長らく国としての存在を認めてこなかった経緯などから、国としてモンゴル国への働きかけなど(旧ソ連への働きかけに比べ)も不十分であるとする。その死者数さえもざっくりとした捉え方しかしない(天皇陛下の2000人の発言についてもふれている)。
筆者をモンゴル抑留者の身元解明に走らせる要因が何か。そしてかつての日本が大陸で行ってきた行為とは何か。その戦後の処理を含めて、国家対国家の波に翻弄される、枯れ木のように痩せ細った抑留者たち。そして誰に看取られる事なく、静かに命の灯火を消していった多くの人々。モンゴルの乾いた大地に今も誰にも探されずに埋まっている日本人がいる事を知り、深い悲しみが湧き上がってくると共に、そうした命の形跡を懸命に辿る人が居ることに、日本人としての誇りを感じた一冊。