あらすじ
映画のように書き、小説のように撮る……
のちに世界有数の映像作家となった
映画監督イ・チャンドンによる傑作小説集
待望の日本語訳刊行!
映画監督として世界中にファンを持つ韓国の作家イ・チャンドンが、かつて小説家として発表し、「映像の世界への転換点となった」と自ら振り返る小説集、『鹿川は糞に塗れて』(原題『??? ??? ???? ?? ??』)(1992)の邦訳。
収録される5作品はそれぞれ、朝鮮半島の南北分断、そこに生まれた独裁政治下の暴力、その後の経済発展がもたらした産業化や都市化に伴う諸問題などを背景にしている。すべての登場人物は、分断や社会矛盾の犠牲になって生きる「ごく普通の人びと」。膨大な量のゴミで埋め立てられた地盤と労働者たちの排泄物の上に輝く経済発展、そしてそこに生まれた中間層の生活の構造を、作家イ・チャンドンは「糞に塗れている」と看破し、そこに生きる市民たちの悲喜交々の生を問う極上の物語を紡ぎ出す。
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Posted by ブクログ
イチョンドンは映画監督として有名らしいのですが全く見たことなく(^_^;)
生まれは1954年、この短編が執筆・発表されたのは1980年代後半から1990年代初め。
以下、関連ありそうな出来事は検索内容を抜粋しています。
❐1980年光州事件: 全斗煥(チョン・ドゥファン)軍事独裁政権に対する民主化のためのデモを鎮圧軍が弾圧。国民の間に学生運動と、民主化闘争が広がり、1987年「6月民主抗争」に至るまでの命がけで政権に抵抗した。
❐急激な都市化と格差: 「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展の裏側で、伝統的な共同体が破壊され、都市の下層階級が置き去りにされた。
『本当の男』
・1987年「六月民主抗争」:大統領の直接選挙制改憲を中心とした民主化を要求するデモを中心とした韓国における民主化運動
作家の「私」(多分民主化などに付いて寄稿する)は六月民主抗争のデモ学生と共に警察護送車に乗せられた。バスの中で蹴られたり殴られたりしているとある男と目があった。彼の名前はビョンマンで田舎から出てきてその時々の仕事をして家族を養っている。「私」は「あなたのような方が死ぬほど働いても報われない現実を変えることが民主化です!一緒に頑張りましょう!」などと声を掛ける。
しかしその後のビョンマンは、「私」も、ビョンマンを国民民主化運動の象徴にうってつけだと取材しようと言った雑誌編集者さえも予想しないくらいに運動にのめり込んでいった。見るたびに目付きは代わり、考えも発言も過激になり、家族も顧みずに運動を行うようになった。
最後に見たビョンマンは取り締まりの警察に引きづられていく姿。もはや獣じみていたが、あまりに激しい意思を全身から漂わせてまるで引きづられていくよりも彼が全世界を引きずっているかのようだった。
反政権活動に、「私」やそしてビョンマンを取材しようとした編集者は、現実の生活は守ったうえで行っている。本当に民主化を必要としているような労働者はむしろ取り締まられ時代に逆らうようでおいていかれていく。
『龍泉(ヨンチョン)ベンイ』
教師のキム・ヨンジンは「父が反体制運動で逮捕された」ことを知らされる。ヨンジンは朝鮮戦争で南北分断後に生まれて反共産主義教育を受けている。ヨンジンの父は、朝鮮戦争時は共産主義者として活動して投獄されていたことがある。しかしその後の社会の移り変わりについていけず、ヨンジンが見てきた父の姿は過去の活動にすがりろくに働かずまるで廃人だった。その父が「自分は北朝鮮の対南工作スパイだ」と主張しているのだという。
父が?あの無気力で意思が弱く過去の活動に栄光を見出してすがって生きているあの父がスパイ?思想的にも、性格的にもありえない、これ以上家族に迷惑をかけるのは辞めてくれ。(連座制があったので、ヨンジンも仕事を失ったりする恐れがある)
題名の「龍泉ベンイ」は世の中から見捨てられた存在とかそんな意味らしい。父は自分たちが朝鮮戦争でそれになったことをずっと嘆いていた。戦い続けることも、その後の社会の一員になることもできなかった。ずっと龍泉ベンイで居続けた父は、抜け出すためにスパイだと主張している、んでしょう。息子のヨンジンは「別の龍泉ベンイになるだけでなないか」と責め、しかし父の涙を見て口をつぐむしかなかった。
『運命について』
ある不運な男が手紙で生い立ちを語る。
「私」は朝鮮戦争のときに親とはぐれたようで孤児院で育った。小さい頃から良いことがありそうなその瞬間に全てを失うことを繰り返してきた。学校友達からもバカにされ、貧しく慎ましく働けば詐欺にあう。そんな彼に幼馴染の男がある詐欺を持ちかけてきた。彼が雇われているドケチの資産家老人には朝鮮戦争で生き別れた息子がいる。「私」にその息子の役をやれというのだ。
老人に合う「私」だが、ところがどうやら本当にこの老人と「私」は親子である可能性が出てきた!
…だがまたすべてを失った。自分の生い立ちもわからず終い。主張すれば詐欺師呼ばわりされる。
だがたった一つ、巡り巡って「私」の手に入ってきたものがある。老人と面会したときに見せてもらった、親(私、の祖父?)から受け継いだ粗末な時計だ。仕方がない、膨大な資産や自分の名誉は失っても、祖先との繋がりだけは転がり込んできたことこそ「運命」だろう。
『鹿川(ノクチョン)は糞に塗(まみ)れて』
年代: 1980年代末
1987年の民主化宣言後が舞台。
冴えない中年ジュンシクは、この社会にしがみついてささやかに、たまにはあくどいことも良しとして必死に生きて小さな生活を守ろうとしている。彼は最近ソウル郊外の鹿川に建設中のアパート団地の一室を手に入れて妻と娘と引っ越してきた。鹿が水を飲む川、などと美しい名前とは裏腹に、建設中のアパートが立ち並ぶ寂しく臭い町だ。川は工場用水と糞で黒く汚れて匂いも酷い。あちらこちらに糞溜まりがある。だが妻は「やっと自分の家を手に入れた」と喜び、ジュンシクはせっせと仕事に通う。
ある日長年音信不通だった異母弟ミヌが訪ねてくる。ミヌは父の不倫相手が産んだ子で、ある日突然家に引き取られた。インテリの父は仕事を失い、冴えない母が家族を養う、そのためにはみっともない仕事も、盗みも、ちょろまかしもやってきた。そんな必死の働きをインテリの父と、父に似て見栄えが良く頭が良く道徳心の強いミヌが批難する。ジュンシクにとっては、父の不始末を母と自分が背負わされているという思いだった。
ミヌを家につれて帰ると、見栄えが良く目に強い光を宿した彼に妻が色めき立つ。
どうやらミヌは、反体制活動家の主要メンバーとして警察に追われている。妻はそんな彼の生きる姿に感動したのだ。妻は妥協でジュンシクと結婚して、慎ましい生活を守ることが全てであるかのように振る舞っていたのだが、内心では「このつまらない男と結婚して自分は死んでいる」と思っていたのだ。
一気に悪化する夫婦関係、一気に吹き出すジュンシクと妻のそれぞれが秘めた不満。ミヌは「僕のせいで兄さんと義姉さんがそんな事になって申し訳ない。でも兄さんが今の体制で生活を守る人生しか歩めないというなら、僕は逮捕されようと反体制活動の人生しか歩めないんだ」といって出ていく。
だがジュンシクは警察にミヌを密告していたのだ。捕まってほしいような、捕まってほしくないような複雑な気持ち。警察が見えたときにジュンシクはミヌに「逃げろ!」と声を変えて自分も逃げる。
転んで糞に塗れた。
家に帰ったら妻はまだいるのだろうか?だが自分の人生は糞とゴミに塗れて建設された町で、糞に塗れて生きるしかない。
==物理的にも、精神的にも排泄物塗れ。ジュンシクは「この生活で良いんだ!この生活を守るんだ!」という気持ちが虚像だということをミヌによって暴かれるっていうか、でもどっちもその生き方しかできない。
『星あかり』
鉱山町の喫茶店レジ係のチョン・シネは反社会運動の潜入活動だと密告されて逮捕された。彼女が逮捕され、各部署での取り調べと拷問を受け、釈放されるまでの記述に、彼女の過去が挟み込まれる。
シネの母は飲み屋の女で未婚で彼女を産んだ。母はシネが社会的に安定した生活を送ることに執着して、まさに地を這うように働き借金を重ねながらシネに極端なほどの教育を行ってきた。シネの大学でも民主化運動家、共産主義者がいた。ある時シネたちが呼びかけた集会が学生デモ扇動活動とみなされて、シネたちは停学処分になる。
しかし学費を払い続ければ在籍だけはできて、いつか復学できるかも、という夢に縋ることができる。シネは母のためだけに学費を払い続け、金のために鉱山町でのレジ係になった。そして何年も前に鉱夫たちの暴動リーダーだったキム・グァンべに興味を持ったことから余計に警察に目をつけられた。
警察官たちは彼女を「強情な女だ!」と殴ったり蹴ったり脱がせたりするが、シネは「自分には確固たる信念がない。他の民主化運動家のように自分のすべてを労働者に捧げることができない」ことに迷い、それは自分とはなにか、自分はなぜ生きているのかにも繋がっている。
シネは警察がでっち上げた供述書のサインを拒否し、他にも色々ありまして保釈された。彼女はキム・グァンベを訪ねてお互いの心境を話す。またすべてを失って町を出る彼女は星あかりを見る。その瞬間に彼女の中に力が湧いた。自分の中にも輝く星が、誰にも消せない星があるに違いないのだ。
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私は韓国文学には恨み言を感じて苦手なのですが、こちらは社会に不服で運動を行ったり、恵まれない環境で必死で生きながらも恨み言感があまりなかったです。
しかし「糞まみれ」ってまさに物質的にも精神的にもそのもの過ぎて、なんというか「全体的にそのものすぎ」って印象は否めない。
作者は民主化運動の目的を政治そのものというよりも自己実現(『星あかり』)とか、鬱屈の矛先(『本当の男』の二人共)としているのかな。
主な小説の母親たちは(作者の経験でもあるようだが)、働かない夫の代わりに家族を養うことを虚無の目で受け入れ、恥も物理的精神的な汚さも軽犯罪も気にせず働く。客観的に書いたらこの母は誉められたものではない(ほぼ窃盗もしているし)のだが、読んでいると嫌いにはなれないんだよなあ。