あらすじ
「差別はいけない」「弱者・少数者は社会によって守られるべきだ」「多様性を尊重しよう」……どれも正しく、当然のことだ。異論を言う人はまずいない。倫理的にも政治的にも正しいと言えるだろう。だが、一部にはポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=ポリコレ)を、恣意的に拡大解釈し、利用しようとする動きがある。「多様性を認めよ」と言いながら、自分が考える以外の一切の異論は認めず、モンスター的に追い詰める。ポリコレ先進国・アメリカでは、「キャンセルカルチャー」と称してかつての大統領の銅像を引き倒したり、「差別されてきた弱者だから、放火・暴行や略奪も許される」と主張する犯罪行為さえ激増。また、性的少数者をめぐるトラブルや、新しい差別も増加している。一方、日本では「お母さん食堂」が批判され、「肌色の色鉛筆」は消え去った。子どもたちは学校で「あだ名」をつけることも許されず、一部の伝統行事や文化も、過剰なポリコレにより消滅しかねない。少数者の権利を認め共生しようとするのでなく、少数者のためという名目で多数者を迫害しようとすることは、「機会の平等」でなく、「結果の平等」のみを求めること。そして、誰も幸せにならない「新たな不平等社会」を創造するだけなのではないのか。
多くのノンフィクション作品で高い評価を受けてきた著者が、忠実で丹念な取材力を基本に、過剰な「ポリコレ」の正体を明かし、警鐘を鳴らす。
公平と平等について改めて考えるための刺激的な1冊。
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福田 ますみ
専門誌・編集プロダクション勤務を経てフリーライターに。以後、様々な雑誌、webメディアへの寄稿を続けてきた。学校での「教師によるいじめ」として全国報道もされた事件の取材を通して、他メディアによる報道が、実際はモンスターぺアレントの言い分をうのみにした「でっちあげ」だったことを発見。冤罪を解明した過程をまとめた『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』で、2007年に「新潮ドキュメント賞」を受賞。他に『モンスターマザー 「長野・丸子実業高校【いじめ自殺】でっちあげ事件」』では、編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞・作品賞を受賞。他、『暗殺国家ロシア:消されたジャーナリストを追う』(以上新潮社)、『スターリン 家族の肖像』(文芸春秋)などがある。
ポリコレの正体
by 福田ますみ
日本のツイッター民たちは、トランプ氏のこの発言に即座に反応、 怒濤 のコメントを寄せた。 「その通りです」 「マジでそれ」 「仰るとおりでございます」 「誰もが思ってる」 「ど正論」 「認める方がどうかしてます」 「心は女子でも筋力は男だから」 「真面目にやってる選手が可哀そう! なんでも平等一緒じゃない。これさえ言えないオリンピックなんだかなー」 「不公平どころか開いた口が…スポーツマンシップどころか」 「トランスジェンダーは自己申告制なのだろうか? そうすると、トランスのフリをすることも可能になるってことかな?」 「さすがトランプさん、よくぞいってくれました」 「当たり前なことを言うとマイノリティが騒ぎ出すおかしな世の中」 「それを言えるのはトランプしかいないのな」 「ジェンダー・LGBTQ・多様性・SDGs・ポリコレ・フェミ……すべて左派のまやかし(政治利用) に聞こえる。そんな世界は嫌だ」 「最近湧いて出てきた多様性の結末は、これを良しとする社会なのか?」 「これがLGBTが望んだ社会なのか」 「女性への配慮ができないのに心は女性とか笑わせんな」
私は、マイノリティ、マジョリティといった区別をことさらに意識することはよくないと考える。いたずらに対立を 煽ることになるし、一人の人間でも、様々な属性、立場によってマイノリティになったりマジョリティになったりするからだ。 しかしこの件においては、率直に言って、性的少数派が多数派の権利を 脅かしているのではないかと思う。
たとえばパラリンピックは、できるだけ公平に競うことができるように、それぞれの選手の障害の状態を勘案して、きわめて細かく出場枠や条件が決められている。ところが、トランスジェンダーの場合は、「本人の性自認という主観的な判断」と、「定められたテストステロン値をクリアしさえすれば」オリンピックへの参加資格が得られるのだ。 LGBT活動家は、ただ社会的公正や平等を望んでいるだけだと言うが、これでは公平性ではなく、優遇や特別待遇を求めていることになってしまう。
人生が自分の思うようにならないつらさ、もどかしさは、マイノリティ、マジョリティを問わず、人間ならば誰でもその人なりに抱えている。それでも私たちは、互いにいろいろなことを譲りあい受忍しつつ、ともにその一員として社会を形作ってきたのではないか。
だが、どうやら杉山文野氏のコメントを読む限り、LGBT活動家たちは、LGBTの権利が最大限に行使される社会こそを望んでいるらしい。確かに、ジェンダーフリー運動が先行している米国では、LGBTや黒人など 性的・人種的少数派の主張が極力尊重され、それに対して いささかの批判もネガティブな発言もほとんど許されない 社会になってしまっている。
「誰もが不当に差別されることのない、公平で平等な社会を作ること」は、近代市民社会における人類共通の理念に違いない。しかし、その公平や平等、多様性を無前提に人々に強要し、結果の平等だけを唯一の善とする極度にフラットな社会が完成するとすれば、それは立派な全体主義となる。 美辞麗句 に隠されて 密かに進行している事態を、私たちはもっと注視しなければならない。
いったいなぜここまで性別を無視した言葉遣いをしなければならないのかと言えば、いわゆるLGBT=性的少数者に 過剰に 配慮した結果である。 たとえば、パパ、ママの場合、レズビアンやゲイ同士のカップルが同性婚をしていて養子を迎えた場合など、子供にとっては、どちらがパパでどちらがママなのかわからなかったり、ママが二人、パパが二人になってしまうからなのだそうだ。
カリフォルニア州では、結婚式の際に「夫」と「妻」とも言えない
シュラー氏によれば、人種的、民族的マイノリティの文化に対する過剰反応もひどいものだという。 「歌手のジャスティン・ビーバー氏が、黒人のヘアスタイル、ドレッドヘア(縮れた髪を細かく編みこんだヘアスタイル) にしたところ、批判が殺到しました。アメリカではドレッドヘアは黒人特有のものと考えられているからです」 シュラー氏に教えられて、ある動画を見たことがある。それは、大学の中で白人学生がドレッドヘアをしているというだけで、黒人の女子学生から殴られる映像だ。黒人の女子学生は 激昂 して、「そのようなヘアスタイルをすべきでない!」と叫んでいた。
しかし、本来のレイプは、相手の意思に反して無理やり肉体的なセックスを強要することであり、言うまでもなくこうした場合とはまったく異なります」(シュラー氏) 「レイプ文化」とは、いくらなんでもこじつけとしか思えない被害妄想的な言葉だが、こうした言葉が生まれるほど、米国の左派、フェミニスト、特に大学の教授や学生たちは、 些細 なことに対して非常に敏感に反応するという。 中には、「レイプ」という言葉を聞いただけで精神に変調をきたす学生もいるというから驚きだ。
「全ての白人は人種差別主義者」と教える、アメリカ教育のバカげた実態
モーガン氏は、南部ルイジアナ州のニューオリンズ出身だが、彼が大学院生活を送ったウィスコンシン州立大学は、筋金入りの左翼の 巣窟 で、保守的な思想を持つ彼は、ここでさまざまな 軋轢 や衝突を経験した。
「資料の最初のページに、『all white people are racist』と書いてあったのです。『すべての白人は人種差別主義者』という意味です。隣に座っていた、ウガンダから来ていた大学院生が私に、『なぜall white people are racistと書いてあるのか? 私はそう思っていないんですが……』と話しかけてきました。しかし、私もどう答えていいかわかりませんでした。私自身、もちろんレイシストなどではないし、どうして前提として『all white people are racist』などと書かれているのかわからないからです」
この訓練をチューターとして行っていた女子大学院生は超フェミニストだった。彼女は、「授業に参加する学生の性的な好みを把握して、それによって授業の内容を変更したほうがいい」と主張した。 ちなみに彼女の左腕には、「私は左寄りの人間だ」というタトゥーが彫ってあった。 「米国では 多様性 が重要なキーワードになっていますが、内実は、肌の色や民族の違い、性的少数派など表面的な多様性を尊重するにすぎず、思想的多様性については、一切許されません。結局のところ、左翼のプロパガンダしか許されない状況を、多様性とはとうてい言えないと思います」(モーガン氏)
「LGBTマフィア」も大学で猛威を振るっている。LGBTに対していささかでも批判的で異議を唱える教授や学生は、このLGBTマフィアからいつつるし上げられるかわからない恐怖を感じている。 あるゲイの教授の両親は、同性愛結婚をしたレズビアンだった。つまり彼は、レズビアンのカップルに養子として育てられたわけなのだが、「母親が2人いる家庭に育ったことで、相当精神的なダメージを受けた」と語り、「そのような家庭だったから、その影響で自分はゲイになってしまった。だから、ゲイやレズビアン同士のカップルが養子縁組できる制度はおかしい」と主張したところ、大学で 村八分 にされてしまった。
このようにポリコレは、言論の自由が最も保障されているはずの大学に、行き過ぎた言葉狩りと極端な左翼思想を植えつけた。それに洗脳された教授や学生たちによって、 今や大学ほど言論の自由が失われた空間はないと嘆かれるまでになってしまったのである。
2016年に就任したトランプ大統領は、就任前から、ポリコレこそ、米国が抱える最大の 宿痾 として、これに立ち向かう姿勢を鮮明にしていた。
「私はクリスマスが大好きだ。だが店に行くと、クリスマスの文字がない。ハッピーホリデーばかりだ。クリスマスはどこへ行ったのだ。私はクリスマスが見たいのだ」 ポリコレ圧力をものともしないこの発言こそ、米国の伝統的な保守層や 敬虔 なキリスト教徒たちに熱烈に支持された 所以 であろう。
翻って、前任のオバマ氏は、毎年作成する公式クリスマスカードに一度も「クリスマス」の文字を入れなかった。また、オバマ氏とミシェル夫人は、毎年、ホワイトハウスのクリスマスの飾りつけを担当している責任者に、「宗教色のないクリスマス」を要望していたという。
現在、ポリコレとともに、多文化主義、多様性という言葉が非常にもてはやされている。しかし、これらの概念は果たして、100%手放しで肯定されるべきものなのか。
多民族国家の多くが、自国内の民族間の対立や紛争によって、国としての統合に苦慮する中、移民大国米国だけがなぜ、強い結束力のもとに国民がまとまり、世界一の経済軍事大国になったのか。 それは、愛国的同化主義によって、米国民としての誇りや愛国心を 培ったからである。対して多文化主義は、人種や民族間の対立を煽り、国への帰属意識や一体感を失わせる恐れがある。
米国を、二つの現象が熱病のように覆っている。一つはPCと略称される「ポリティカル・コレクトネス」。法律的だけでなく政治的にも正しくなければならない、という考え方だ。もう一つはMC。マルチカルチャリズム。「多文化主義」である。この二つは、本質的に違うが、少数派に関係する問題という点では共通しており、この国の多数派である白人男性や保守派からは苦々しい思いで見られている。(中略)
ポリコレの不寛容性を批判していた「パパブッシュ」の先見性
ブッシュ元大統領(父:ジョージ・H・W・ブッシュ:1924-2018) は、 91 年3月、厳しいスピーチコードを定めた当のミシガン大学で講演し、「(政治的に) 正しい行動を要求する改革者たちは、そのオーウェル的なやり方でもって、多様性の名のもとに多様性をつぶしている」 とポリコレの不寛容を批判した。 オーウェルとは、もちろんジョージ・オーウェルのこと。唯一無二の党が支配する未来の全体主義社会を描いたディストピア小説『1984年』で有名な英国作家である。
ブッシュ元大統領は、ポリコレの急速な浸透に、全体主義の悪夢を想起したのだ。 しかし左派は、このパパブッシュのコメントに対して、「マスコミが誤った情報を事実のように報じており、保守派がそうした極端な例ばかりを取り上げて批判している」と非難した。そして、当時はちょうど東欧の社会主義国が相次いで倒れ、ソ連も崩壊寸前だったため、「共産主義に代わる敵として、右派が見つけた冷戦後の標的にすぎない」とみなした。 だが、この頃からすでに 30 年あまりを経て、ブッシュ元大統領や保守派の懸念は、まさに現実のものとなっている。ポリコレの暴走には歯止めがかからず、まるで、ミシガン大学が作ったスピーチコードが、国全体を覆っているようなものである。
そもそもは、マイノリティへの差別や偏見を取り除くことがポリコレの目的だったはずだが、当のマイノリティ自身もポリコレを疑問視しているのである。
ポリコレの特徴として、表面的な言葉の言い替えに終始することで、むしろ本質的な問題を覆い隠してしまう欠点がある。つまり ポリコレは、本音を隠して偽善的にふるまうことを強いるのだ。
注目したいのは、この調査が、回答者を思想信条で7つのグループに分け、その結果を分析していることである。それによると、 ポリコレを肯定的に捉えていたのは、「進歩的活動家」、つまり左翼活動家だけであることがわかった。
その結果、「家庭」こそが、悪しき保守主義のイデオロギーを 育む元凶であるとして、家庭を解体すべく、 家父長制 や、一夫一婦制からの脱却、性の解放を提唱、また宗教や伝統文化、地域社会も保守主義の温床であるとして徹底的な批判を行い、その崩壊を目論んだ。
米国社会のバックボーンはやはりキリスト教です。人々の精神的支柱であり、モラルの源です。このキリスト教の価値観を 削り取って社会を弱体化させることこそ左翼にとって最大の目標であり、そこにフォーカスをしたのです。 これを彼らがどういう形でやってきたかというと、主に法廷闘争です。たとえば、米国の学校でお祈りをするというのは、以前はごく普通に行われていた。ところが、裁判で政教分離に違反するとして、学校でのそれは禁じられてしまった。突然学校から祈りが消えてしまったわけです。
前述したように、マルクス主義者にしろ、文化マルクス主義者にしろ、彼らの重要な目標のひとつは家庭の破壊である。社会の最小単位である家庭は本質的に家父長主義で保守的であるから、これを揺さぶり破壊することで、共産革命により近づくというのである。
「マルクス主義者は、家庭破壊に利用できるものは何でも使おうとしますが、まさに同性婚以上にうってつけのツールはないでしょう。なぜなら、同性同士の結婚では子供ができない。子孫ができないから家庭が途切れてしまう。これ以上効果的な運動はないからです。ただ、マルクス主義者がLGBT運動を始めたわけではなく、LGBT運動における家庭破壊のパワーのすごさに目を見張ったマルクス主義者がこれを利用したということでしょう」
2018年、同誌に自民党代議士の 杉田 水脈 氏が、「『LGBT』支援の度が過ぎる」と題する論文を寄稿した。その中に、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない。つまり『生産性』がないのです」という文章があり、これが、猛バッシングを浴びた。 杉田氏は、 欧米の過激なLGBT差別撤廃運動が無批判にわが国に上陸したことに懸念を持っていた。そもそも 日本では同性愛者が迫害された歴史はなく、状況が異なっていたからだ。 そこで、いささか辛口のLGBT批評を載せたのだが、「生産性」という言葉にマスコミや野党政治家が激しく反応。LGBT当事者も杉田氏と同誌の責任を追及し、世間は批判一色になった。
ところが実際は、当事者の中にも異論や反論が多数あり、「新潮 45」を擁護する声も少なくなかったのである(私は後に詳細に取材している)。ところが、 そうした声を新聞やテレビは黙殺した。今回と全く同じパターンである。 結局、同誌は廃刊となったが、私は、誰もが 抗えない「差別反対」の言葉に、人々や組織がいかに委縮してしまうかを思い知った。と同時に、気に入らない人や組織を追い落とすツールとしてこの4文字が非常に有効であることも理解した。今回の森氏への異常ともいえる攻撃にも、私は同様の臭いを感じている。
しかし 多様性とは、本来そうした異なる価値観の人々をも包摂し、その寛容の精神で共存することではないのか。一方的に差別者の烙印を押し、糾弾し、社会的に葬り去ることが多様性なのだろうか。
ポリコレの追い風に乗って、フェミニストは男たちに対してやたらと、「古臭い意識を変えろ、時代遅れから脱却せよ」と尻を叩く。しかし本当は女の側こそ、ドラスティックな価値観の転換が必要なのではないか。 だがそれもなかなか難しい。なぜなら、メスが強いオスを求めるのは自然界の 理 だからである。人間の女だって、もちろんその例に漏れない。
男女の性差というものがどうして存在しているかといえば、お互いに足りないところを補完し合って一対になるからだ。 ポリコレは、今やこうした生物学的な違いまで無視して、性の存在しないのっぺらぼうな社会を作りたいようだ。
つまり、「アボリショニズム」を強く訴えるBLM運動とは、単なる黒人差別撤廃運動などではなく、その美名に名を借りた過激な革命運動なのだろうか? 当然ながらそうした疑念が生まれる。
ともかくも、暴動の実態は、わが国の主要メディアが報じるBLM運動のイメージとはまるで別物である。日本のマスコミが伝えるBLMは、あくまで非暴力運動であり、もちろん、暴動を煽ってはおらず、背後に不穏なイデオロギーなど 微塵 もなく、あくまで〝差別された黒人たちを救済しようとする無私のNGO〟のようなイメージだ。しかし、このように現実との著しい 乖離 を見、BLMの目指すところをいささかでも知るにつれ、 メディアは意図的にBLM性善説を 騙り、印象操作をしているのではないかとさえ感じる。
当時、共産主義者の間では、持たざる者=無産者が強盗など犯罪を行ったとしても、それは、強欲な資本家や理不尽な国家から収奪されたものを取り返すことにすぎず、何ら恥ずべきことではないという〝反逆の思想〟、〝 毛沢東 思想〟がもてはやされていた。
「米国の黒人セレブもこうした世の空気を煽っている。ハリウッドを中心とするミュージシャン、俳優らが『暴動で逮捕された人々の保釈金を支払う』などと次々に発言し、多くの資金が集まっている。また元プロバスケットボール選手で神様とも呼ばれるマイケル・ジョーダン氏は (中略) 今後 10 年間で1億ドルを人種差別に反対する団体などに寄付する、と語った。 その一方で、暴動で被害にあった人々への救済については語られていない。巨人企業によるチェーン店はともかく、個人商店、レストランなども数多く被害にあっている。また車を燃やされたり破壊され、翌日からの仕事に支障が出た人も少なくない。ところが暴徒に発砲した商店主が逮捕されるなど、米国で認められてきたはずの自衛権も存在しない有様だ」
BLM創設者たちの強烈な被害者意識
BLM運動の創始者である彼女たちが何者であるか、賢明な読者にはもう察しがついていると思う。 そう、彼女たち3人は 歴 としたマルクス主義者であり、しかも全員クィア(Queer) であると自称している。クィアとは、後で詳しく説明するが、「性的少数派」の総称である。
「筆者がウォール・ストリート・ジャーナルの記者から聞いた話では、BLMを始めた3人はマルクス主義者で、目的の達成のための破壊活動を正当化するという発想があったという。何が真実かの判断は難しいが、ポートランドのリーダーである黒人女性、ニューヨークでインタビューに答えた黒人男性は、話している内容からすると、どちらも共産主義的な考えが背景にある雰囲気だったのは事実である」
黒人女性でしかもクィアとくれば、今のアメリカでは マイノリティ中のマイノリティであって、むしろ最強 だ。うっかり彼女たちを批判すれば、手痛い反撃を喰らう。
それはさておき、彼女たちの著作を一読した感想を述べる。全編を通して、人種差別への怒りと糾弾に満ちた告発の書だが、読む進めば読み進むほど、なんとも名状しがたい違和感と疑問が膨らんでくる。 大きな違和感の正体は、徹頭徹尾、「黒人は悪くない、全ては黒人を搾取し差別する白人至上主義のせいである」とする強烈な被害者意識と、アメリカ国家への尋常ならざる憎悪、そして敵意である。
しかしだからといって、自分や家族の犯した個人的な犯罪についてさえ、悔恨や反省の気持ちが一切なく、結局、こうした犯罪のすべては人種差別に起因するという、責任転嫁とも自己正当化ともとれる主張には、首を 傾げざるを得ない。
「彼の人生の中で起きた出来事一つ一つをとってみて、それが父が自分で下した選択の結果だったのか、それとも社会構造の現実やその政治方針や法的裁断がもたらす結果だったのか吟味してみれば、その後者の方がまるで比較にならないほど重大な影響を与えていることが見えてくるだろう。そのことを私は力説する」 要するに、すべて社会が悪い、自己責任ではないということである。
だが彼女は、国、そして社会が、不遇だった父の人生の責任を負え、償え、損害賠償をしろと言っているのである。安定した家庭、食べ物の詰まった冷蔵庫、毎年の誕生パーティ、褒め言葉……、こんなものまで、国が面倒を見ろと主張しているのだ。 これはもう、彼女が途方もなく〝大きな政府〟を求めていると解釈していいだろう。単なる社会福祉政策の拡充ではなく、共産主義国家の実現を願っているということだ。 私は、手取り足取り、国民のために何もかもをあつらえてやろうと公約する政治が、現在の弱肉強食の資本主義社会よりもましな社会を作れるとはとうてい思えない。
それに、この〝大きな政府〟の試みはすでに失敗している。持たざる者を救済するという〝崇高な〟理念のもとに建設された世界最初の社会主義国家ソビエト連邦は、理念とはまったく裏腹に、 夥しい同胞の命を奪う恐怖政治が猛威を振るい、経済を 破綻 させたあげく、自由を求める人々の声に押され、国自体が瓦解してしまった。
毛沢東率いる中華人民共和国も、「大躍進」の美名のもと、何千万もの農民を餓死させた。 カンボジアのポルポト政権は、農村を主体にした原始共産主義を国民に強要して、医者や教師などのインテリを始め、約100万人の 無辜 の人々を殺戮した。 20 世紀にユートピアを作り出そうとした共産主義の理念は、逆にディストピアを出現させてしまったのである。2021年現在、世界に現存しているマルクス主義を基礎とした社会主義国は、中国、ベトナム、キューバ、北朝鮮、ラオスの5カ国のみと認識されている。
また、西欧の社会民主主義においても、例えば、揺りかごから墓場までというスローガンが定着したイギリスの社会福祉政策は、結局国民の間の労働意欲を喪失させ、お上への依存体質を肥大化させた結果、1960年代以降、「英国病」という長い停滞の時代を生んだ。
貧富の格差が広がり、べらぼうに高い授業料や奨学金に 呻吟 する学生の増加などで、社会主義が支持される素地はできている。若い世代ほど社会主義に全く抵抗がないのだ。 民主党左派で、2回大統領選挙の予備選に出たバーニー・サンダースの支持者に学生が多いのもそれを裏付けている。
倒すべきターゲットは、白人、男、キリスト教徒、異性愛者
「私は、BLMとは露骨な暴力革命の一形態だと思っています。米国ではそもそも、赤狩り(レッドパージ:1948-50年代前半にマッカーシー上院議員が行った、公職からの共産主義者たちの追放) の時代からアメリカ共産党に対するイメージはすごく悪いので、コミュニズムという言葉は公には出せなかった。だからこそ、住民運動に 見せかけた コミュニティ・オーガナイジング運動などで、地道に人々に浸透を図っていたのです。ところがBLMは、もはやその本性を隠していない。今の米国でそれが許容されてしまうところがこわいのです」(早川氏)
たとえば、国内の他の被差別民族であるアメリカインディアンやプエルトリコ移民、中国系移民などの権利擁護団体、さらにプアホワイト、過激派学生など白人の急進左派勢力と共闘して、反差別、反戦平和闘争を闘った点や、女性解放を目指すフェミニスト団体や、同性愛者の人権を主張するゲイ解放戦線とも連帯。現在のLGBT運動の前身ともいえる組織を支援していたのである。
デイヴィスはまた、BLMが、警察や刑務所を廃絶せよと訴える「アボリショニズム」(前述) を最初に提唱した先駆者でもある。彼女はその著書『監獄ビジネス──グローバリズムと産獄複合体』(岩波書店) の中で、刑務所の民営化が、収容される囚人の数を倍増させ、所内のレイシズムをより激しくさせていると主張している。
2020年6月、ニューヨークで開催されたLGBT関連のオンラインイベントにゲストとして出演したデイヴィスは、「ご自身の属性を自己紹介してもらえますか?」という問いに、次のように答えた。 「私は共産主義者で、進化論者で、国際主義者で、反人種主義者で、反資本主義者で、フェミニストで、黒人で、クィアで、アクティヴィストで、親労働者階級で、革命家で、知的コミュニティ構築者です」
毎日勤勉に働き、特権などとは縁もなく、在日の人たちやその他の少数派に対して差別した覚えもない普通の善良な日本人に無理やり、贖罪意識を負わせるのが目的なのか。 そうして、韓国の慰安婦問題に一切物申してはならない、中国、韓国、そして在日の人々に、未来永劫謝罪をし続けなければいけないとでもいうのだろうか。
こうした発想は、北朝鮮の身分制度も思い起こさせる。北朝鮮は認めていないが、多くの脱北者たちの証言によれば、国民一人ひとりが厳密に「土台」とか「成分」と呼ばれる身分・階級に分類されているようだ。
それが何によって決定されるかというと、親のかつての地位・職業なのである。最悪なのが、地主とか富裕な農家、資本家、親日・親米家、企業家や商人といったエリート出身階層。親がそうだったから「敵対階層」で「成分が悪い」と称され、軍への入隊や進学、就職など人生のあらゆる場面で厳しい制限と差別を受け続けるのだという。
それはつまり、暴力によるアメリカ社会の転覆を願っているBLMだからこそ、逆に武器を手離したくないからではないか。一人ひとりの黒人の命より、体制変革のほうが大事なのではないか。そうだとしたら大いなる矛盾ではないか。私はそう考えた。
しかし、米国の左翼も日本の左翼も、いったいいつまで黒人を、人種差別の絶対的被害者で社会の最底辺であるというステレオタイプに閉じ込めておきたいのだろうか。 ガーザやカラーズ、デイヴィスの著作、そして、BLMを賛美する関連本を読んで、最も強く違和感を感じたのが、「黒人はアメリカ社会の最底辺に 呻吟 する哀れな弱者であり被差別者であり、法的に人間以下の、無能力でクズのような存在に置かれている」と、繰り返し繰り返し書かれていることだ。
日本社会は、もともとゲイやレズビアンを差別してこなかった
ただその時私は、この造語そのものより、「LGBT差別」という概念に意外な感を抱いた。いわゆる同性愛者に対する差別というのが、人種差別や民族差別、女性差別などと同等に、社会問題として成り立つという事実にびっくりしたのだ。 突き詰めれば、単に性的指向が多数派とは異なるという極めて私的な問題に過ぎないのに、それを人権問題化することに違和感を覚えたのである。端的に言うと、差別という言葉になじまない気がしたのだ。
キリスト教の価値観が長く社会を支配してきた欧米では、ソドミー法によって、同性愛者がすなわち犯罪者や精神病者として扱われてきたことから、当然、彼らに対する偏見や差別も激しいものがあり、ヘイトクライムも珍しくなかった。 欧米の同性愛者たちにとっては、自分たちは明白にホモフォビア(同性愛嫌悪) の被害者であるという自覚があり、そのため、自ら差別撤廃運動に立ち上がったのである。 欧米各国では現在、同性婚を合法化する国が増えているが、それは欧米社会が、同性愛者をこれまでいかに差別し迫害してきたかを反省し、その 贖罪 意識から、急転直下、同性婚を認めるまでに突っ走った結果といえる。 同性愛者に対する処遇を巡り、欧米の社会は、極端から極端へと振れ幅が大きいのだ。
翻って日本の場合、歴史を 紐解いても、同性愛者を反社会的と見なすような法律も存在せず、したがって、組織的な迫害も目立った差別もなかった。むしろ彼らは、日本の伝統文化や芸能の中にごく自然に 包摂 され、しかもその中でもひときわ異彩を放つ存在であった。 例えば、 美 輪 明 宏 氏やカルーセル 麻 紀 氏などは、かなり昔からメディアに露出してきた。
そうした寛容な日本社会に、突如、欧米から黒船のごとくLGBTなるものが上陸。次々に名乗りを上げたLGBT活動家は、日本社会にもLGBT差別が存在すると主張して、日本社会に性的多数派と少数派との対立軸を「人工的に」構築し、差別解消のための施策を国や地方自治体などに要求するという流れになったのである。
いつからホモやオカマが差別語になったのか?
本来は、欧米由来のこのイデオロギー臭の強い概念を、土壌の全く異なる日本にそのまま移植することには、議論があってしかるべきだった。ところが、欧米ですでに大きなムーブメントになっている、しかも人権問題である、これは世界の潮流になる、乗り遅れてはならじ。おそらくこんな程度の認識で、ある日突然、「LGBT差別反対」キャンペーンが始まったのだ。
だが、繰り返すが、日本にはそもそも、社会の注目を集めるような同性愛者に対する悪質な差別事件は起きていなかった。ましてヘイトクライム(憎悪犯罪) となると、ほぼ皆無である。
並行して、それまで男性同性愛者を、ホモだとかオカマだとかゲイと言っていたのが、ホモやオカマは差別用語であり、「ゲイ」と言うのが正しい、また、女性同性愛者を指してレズと言うのは蔑称で、「レズビアン」と言わなければならない等々、彼らの名称にも厳しい縛りが加えられるようになった。
8月号で、「生産性」の記述を巡り杉田水脈氏の論文が炎上した。確かにマイノリティを巡る論においてこの言葉を使うのはいささか配慮を欠いたとは思う。しかし、だからといって、この3文字をあえて切り取って本人を執拗に糾弾、攻撃し、彼女の所属する自民党の建物の周りを大勢で取り囲んで「議員をやめろ」とシュプレヒコールをし、本人への殺害予告、家族の脅迫まで飛び出す事態に至るのは、どう考えても異常である。 批判も反論ももちろんあっていい。しかしあくまで言論の場にとどめるべきだ。
ここまでの騒ぎになったのは、杉田議員が科学研究費の問題で左翼教授を追及したり、慰安婦問題でも国連に乗り込んで、いわゆるクマラスワミ報告の撤回を訴えるなど、保守派として活発に活動していたことが影響していると思われる。
政治家であるからには、一部の国民をないがしろにするような発言は良くないという批判もあった。だが政治家だからこそ、少子化という、国家にとってまさに喫緊の課題に取り組む必要があり、どこに支援の重点を置くか、その優先順位を説明するために「生産性」という言葉を使ったのだと思う。
また、もうひとり、ゲイをカミングアウトしているかずと氏も杉田氏の主張に反対せず、LGBTのうちTの一部を除いたLGBは社会的弱者ではない、Tの一部以外は社会的支援は必要ないと書いている。
ちなみに私も、杉田氏流に言う「生産性がない」人間である。結婚もしない、子供も持たない私は、彼らと飲み交わすうちに、互いの持つ孤独感に似通ったものを感じ、全く勝手な連帯感を抱いたこともあった。
この部分ばかりが取り上げられて批判されたために、タイトルの「『LGBT』支援の度が過ぎる」の支援とは、国の予算とか税金、つまり公金を支出してLGBTを支援することであると思った人が多かった。 しかも、その支援の度が過ぎるとなっているので、「いや実際、LGBTのために国は何の予算も計上していない、ほとんど金を出していないでしょう、うそを書くな」とこれまた批判されてしまったのである。
小川榮太郎
「私が問題にしたのは、LGBT個々の人ではなく、LGBTというカテゴライズの恣意性であり、杉田論文炎上で明らかになったように、LGBTがすでにイデオロギー圧力になっている事態である。該当箇所は、こうした恣意的なイデオロギー圧力を安易に追認すれば、それはついに社会が痴漢やSMを公的に擁護する事態をも否定できなくなるという文脈で語られている」 「私の主張の根底には、性は究極的な個人性や暴力性の 淵源 であり、一人ひとりが己の性をマイノリティとして引き受ける他はないのだという思想がある。 だから私は、拙文では私自身のことをまずこう言っているのである」 〈私の性的嗜好も曝け出せば、おぞましく変態性に溢れ、倒錯的かつ異常な興奮に血走り、それどころか犯罪そのものであるかもしれない〉
性的嗜好や性衝動などというものは、本来は、それぞれの個人が内に秘めておく問題であり、自らがこれを引き受けざるを得ない。そこに法律が介在すべきでないという主張である。普段は国を批判しながら、こうしたきわめて個人的な問題まで全面的にお上に依存する左派の体質を、小川氏は、「苦痛や生き難さも含めた人生の私的領分という尊厳を権力に売り渡す事」であり、「あなたがたはそこまで権力が好きなのですか」と皮肉る。
そして、ここが特に重要だと考えるが、 性的少数者に対するわずかな批判に対しても、すべて差別だと叫ぶLGBTイデオロギーの圧力に従ってしまうと、ついには、従来の常識では考えられない事象や反社会的な行いまで認めざるを得なくなると主張している。
「差別の圧力」は、作家の想像力すら委縮させる?
千葉雅也氏と社会学者の 岸 政 彦 氏を除いた5名は、いくつもの文学賞を取った 錚 々 たる職業作家たちである。私が愛読している作家さんもいる。しかしここに披露されている道徳のお手本のような書きものと、彼らが奔放に想像の羽を広げて書いた創作物そのものとの間にはあまりに隔たりがある。 もちろん、評論と小説は大いに違う。ただ、一切の社会規範や既存の価値観、道徳から離れて、邪悪で 融通無碍 でカオスそのもののような物語世界を創造しうる彼らが、ひとたび現実世界にコミットすると、こんなに畏まった物言いしかできないのかと拍子抜けしてしまった。
いつもは「常識を疑え!」などと言っている彼らが、この問題についてはなんら本質的な疑問を呈さない。彼らは、LGBTイデオロギーを普遍的な価値と思い込み、これをいささかでも批判することは正義に 悖ると思っているのだろう。やはり、「差別」の2文字は作家をも萎縮させるのだろうか。
「新潮」 12 月号に掲載された、ゲイ当事者で哲学者の千葉雅也氏(前出) のツイッター投稿文があまりにも面白いので、ここに紹介する。 千葉氏は基本的に、杉田氏や小川氏の論文を差別的でひどいという。しかしその返す刀で、「私はLGBTの味方です」とばかりに「新潮 45」を糾弾するマジョリティの偽善をもぶった切っている。これは、千葉氏とともに、この「新潮」 12 月号に寄稿している他の作家たちへの痛烈な当てこすりでもある。
「帰宅ー。新幹線のなかでゲイの友人とLINEしてたので、さっき電話。新潮 45 の話。あの周りで騒いでるノンケどもなんなのあれー。まあ、マイノリティの味方ですってポジションが商売になってるインテリいるからねー。等々」
「まったく、この何十年の我々の経験は何だったのだ、と。いまごろになって、しれっと、マイノリティとともにあるのが文学だ、みたいなことを『常識化』するみたいな態度で人気取りをしているしょせんノンケの作家連中とか。恥を知れと言いたい」
「ある作家が、新潮 45 批判で、当事者の友達が杉田発言のせいで 鬱 になってるとか 希 死 念慮 抱いてるとかツィートしてたけど、そんなんなるか?! あんなんで?! いたとしてもごく一部だろうし、あまりに弱いでしょ、などなども」(実際に、この「新潮」 12 月号に寄稿しているある作家のことである) 「はっきり言って、そんな過剰な弱さを基準に我々当事者のことを考えてもらいたくないし、そういう弱さへの共感でもってマイノリティに接近するのは間違ってるよ」
「ポイントだと思う基本的な点。性的欲望はそもそも倒錯的で、犯罪的にもなりうるので 公 にすべきでない。小川氏自身もそういう欲望を潜在させているかもと認めている」 「小川氏はおおよそこう言っている。同性愛の公の承認は、抑圧すべきその他様々な性衝動をダダ漏れにすることにつながる」
二次元のキャラクター、たとえばアニメや漫画しか性愛の対象と感じない人たちがいる。これは性的指向だから、自分たちも性的マイノリティに加えてほしいという意見が出ている。しかし、LGBTの研究者は 頑 なに拒絶したそうだ。 一級市民として認知してほしいと願うLGBTから見れば、二次元キャラクターを恋愛対象とする人々は、「単なる趣味、性的嗜好だから」と、切り捨てられたのである。 「ペドフィリア」、「ズーフィリア」「ネクロフィリア」といった、犯罪スレスレの嗜好の人々もいる。 「ペドフィリア」とは「小児性愛者」、つまり、幼児や小児を対象にした性愛、性的嗜好のことである。 「ズーフィリア」とは、動物に性愛感情を抱くセクシュアリティで、感情だけなら問題はないが、獣姦行為となると国によって罪になることもあり、衛生上も問題になる。 「ネクロフィリア」とは、死体に性的興奮、性愛感情を抱くセクシュアリティで、死体性愛者、屍姦症ともいわれる。 「抑圧すべき性衝動」とはまさに、こうした性的嗜好を指すのではないかと思われる。おぞましく感じるかもしれないが、いずれも性愛感情に 止めておくかぎり、わが国では問題にはならない。 彼らにも人権があり、繰り返すが、「性的少数者」という大きな 括りの中のれっきとした一員なのである。
ツイッター上では、これら3つの頭文字を取ってPZNと称し、「LGBTばかり権利を主張するのはおかしい。PZNも加えてLGBTPZNとすべきだ」と言う声がある。 これは、「LGBTばかり正義づらしてうざい」「あいつらPZNも加えたら発狂しそう」といったコメントがあるように、 数多 ある性的少数者の中でLGBTだけを正統扱いし、よりアブノーマルな部分を持つ他の性的少数者を排除する現在の欺瞞的な運動への抗議、揶揄が込められている。つまり、自らの「性的マイノリティ性」は「被抑圧者」「被害者」として認知してもらい、保護も受けようとする傍ら、同じ人間が、もっとマイナーな指向の人に対しては、激しく拒否・断罪する歪んだ構図があるのだ。
LGBTを積極的に支援しているのは、立憲民主党、社民党、共産党などリベラル勢力で、当然活動家もリベラルである。だから、LGBTイコールリベラルと思い込んでいる人も多いと思うが、 市井に暮らす性的マイノリティの多くは、実は保守派である。おそらく日本国民を保守派、リベラル派に分けた時の割合とほぼ同じだろう。
同性愛者=弱者、不幸、なんてとんでもない。同世代のノンケが、家のローンだの子供の教育費に頭を悩ませているのに比べると、生活ははるかに楽、ホモでよかったと思います。相方と、『生産性という言葉に過剰反応すべきじゃない』と話してますよ」
「そういう奴らは結構身近にもいるよ。LGBT擁護者の皮を被った反日活動家。俺たち当事者は結局無視されLGBTの名は道具として利用されるだけ。自由な言論すら封殺され、一般の文芸誌が廃刊に追い込まれた……」
問題なのは、こうした声がマスコミに見事に無視され続けていることだ。うっかり非活動家の当事者の声を取り上げると、マスコミや活動家が描いた「これは差別事案である」という構図が崩れてしまうからなのではないか。
そこで彼は、「騒動の火付け役 尾 かな子の欺瞞」と題して、彼女に呼びかける形で『新潮 45』に次のように書いたのである。 「(あなたは)、LGBTの中でも本当の支援が必要なのはT(トランスジェンダー) の中の一部の方だけとわかっている。しかしそれを認めてしまえば、これまでの主張がすべて覆る。これまでの主張とは何かといえば、 Tの方の問題をLGBT全体の問題としてきた ことです。更衣室やトイレ、制服といった問題、履歴書や各種書類の性別記載、いずれもTの方の問題で、LGBには何ら関係ありません」
その彼の人生観を変えたのは、いや、すべての同性愛者を巡る状況を一変させたのは、SNSの普及である。それまでゲイバーやハッテンバに行かなければ仲間を見つけられず孤立していたゲイたちが、今ではゲイ専門の出会い系アプリによって、日本全国に恋人や友人を見つけることができるようになったのだ。 だから、大半の当事者は、自分が同性愛者であることを肯定し、前向きに生きている。特に若い世代のゲイは、SNS上に普通に顔を出し、ごく自然に仕事の悩みや彼氏との関係を綴っている。 「活動家はこうした状況を見ようとしない」と、かずと氏は憤る。
生産性といったって、たとえば、『生産性なきLGBTは日本から出て行け!』なんてことをいったら、そりゃ僕だって激怒しますよ。でもそんなことは言っていない。
今は、ミクシーから始まってフェイスブック、出会い系アプリなどで簡単に国境も超えて、世界中のゲイとつながれる。だから孤独感はないですね。みな独り者で子供もいないから経済的にも余裕がある。毎週末、ホームパーティやバーベキューをやったり生活を楽しんでいる。僕は生まれ変わってもゲイになりたいです
そうした 経済上の問題もあり、レズビアンはフェミニズム運動に近づきやすい。その結果、ゲイは政治的に比較的穏健だが、レズビアンは先鋭化しやすい傾向があるようだ。
作家の森奈津子氏は、レズビアン寄りのバイセクシュアルである。
「レズビアンのカップルの場合、生活が大変で、男女の賃金格差をなんとかしてほしいという声は切実です。カミングアウトするにも、ゲイにはないリスクがある。職場でカミングアウトしたら、『レズを治してやる』と言われてレイプされたという例もあるんです」
「杉田議員が問題視しているのはLGBTそのものではなく、そこに寄生する左翼勢力であり、またLGBTを禁忌としてきた西欧社会(日本とは異なる社会土壌) で生まれたゲイ理論などでしょう。自分たちの足下から立ち上げた思想ではなく、借り物の思想でよしとしてきた当事者たちは、この点で反省するところはないのでしょうか」
「私はLGBTの運動なんて関わりたくない。権利を声高に主張するのは大嫌い。こういうことは秘め事でいいのよ。私が弱者? バカ言うんじゃないわよ。お店も繁盛して世界中を旅行してまわって楽しかったわよ。私はこの日本国に生まれて幸せだった。差別されたことなんかありません」〉
Aはむしろ、Bがはっきり断ってくれたほうがありがたいと言うが、Bは、Aに対してはっきり拒絶すれば、Aが傷つくだろうと思う。 相手を気遣っているがゆえのこうした葛藤は、男女間の恋愛と変わらないように思える。 だがBからすれば、これは男女間とは比べものにならないほどの心理的負担なのである。友人だと思っていた同性が、自分に特別の感情を持っているとわかったのだから、Aと接触するさまざまな場面で不安に襲われる。同性同士の気の置けない付き合いとして、たとえば仲間同士で旅行に行ったり、温泉に入ったりすることもあるが、それを極力避けなければならない。今まで通りのつきあいができるわけがないのだ。
私は「トランスジェンダー女性」を何のためらいもなく、「女性だ」と言い切ることに抵抗感がある。そういうと、今や「差別だ」と非難されかねないが、厳然と存在する生物学的区分をまったく無視することが、果たして適正なことなのか?
要するに、普通の女性と比べてほとんど違和感がない外見を持ったトランスジェンダー女性なら、女子トイレの使用がOKということだ。 であれば、同大学の受験資格を取得するための最も重要な条件が、周囲と違和感のない容姿ということなのではないか。なぜなら、女子だらけのキャンパスに、いくら心は女と強弁しても、おっさんのような外見の女子学生がいていいとは思えない……。 いや、性自認を絶対視するのならそれもありなのかもしれないが、周囲の学生の反応を考えれば、現実的に無理だろう。
同大学の学長・佐々木 泰 子 氏は、日本はLGBTに関する施策に関して、諸外国より遅れているという意味のことを言っている。本当にそうだろうか? 何度も言うが、日本は歴史的に、同性愛者に対して欧米などよりはるかに寛容であった。そんなわが国と欧米とを単純に比較できるのだろうか。 しかも、あちらでは今やLGBTの権利擁護どころか、LGBT優遇、いや礼賛にまで突き進んでいるのだ。 日本には日本のやり方がある。向こうの行き過ぎた風潮まで右へ 倣えして、社会の混乱を招くことはないはずだ。
部落民以外はすべて差別者であるとして、部落解放同盟が行政を支配下において推し進める施策をわずかでも批判すると、「部落差別だ!」とすさまじい攻撃を受けた。 そして、「人格崩壊する」といわれるほどの過酷で悪名高い糾弾の 矢面 に立たされた。LGBT関連の圧力団体のやり方は、部落解放同盟のそれに似てきたと感じる。
これについても新聞は、「LGBT請願は左翼の作戦」などと批判的に書き立てた。いかにも唐突な発言のように聞こえるが、井上市議もまた、米国に蔓延するポリコレ=LGBT礼賛の背後に文化マルクス主義があることを知っており、この新たなマルクス主義のわが国への浸透に警戒感を抱いているのである。
ポリコレは、ディストピアへの直行便
ある日突然「自分は男だ」と言い出した娘に対し、保護者が「それは気の迷いよ」とうっかり反論すると、保護者は〝トランス差別者〟と見なされ、娘から強制的に引き離される。人権派弁護士や児童福祉士の支援を得て未成年者のシェルターに身を隠した娘は、ホルモン療法などを行い、着々と性別移行してゆく。その間、保護者は愛する娘に会うことすらできないのだ。
近年、米国では、このような性的違和を訴える少女たちが急増している。Blah氏が書いているが、少女たちにとって、トランスジェンダーは、最高にクールなトレンドのようだ。かつては拒食症や自傷行為であったものが、思春期の性の揺らぎや早期ジェンダー教育、LGBT礼賛、華やかなインフルエンサーによって、自身もトランスジェンダーであることをカミングアウトし、時に、身体改造を伴う性別移行にまで至ってしまう。
Posted by ブクログ
非常に面白かった。内容が恣意的に操作されている疑いがあるが、それでも面白いと思える。
ポリコレ ポリティカルコレクトネス、政治的な正しさ、の略。
東京オリンピックでトランスジェンダーの重量挙げ選手が女子選手として出場し、話題となったことを覚えている人がいると思う。そして同じ重量挙げ選手のトランスジェンダーではない女子選手が「フェアではない」という意見を述べていたことも記憶にあった。
本書で書かれている2020年にSNSであげられたセリーナ・ソウルさんの動画で彼女が女子短距離選手として奨学金を得る機会を失ったことが印象に残った。彼女がその機会を失ったのは二人のトランスジェンダーの選手がタイトルを制覇したことによる。アメリカの金メダリスト アリソン・フェリックス(著書ではフェニックスだけど間違いだと思う)の記録でさえ、彼女の記録を上回る男子高校生は300人近くいるという。
アメリカではマイノリティのみが優遇される社会なのか?マジョリティを犠牲にして?
大坂なおみのマスクで話題になった、アメリカで起きた警察官の行き過ぎた逮捕業務執行による黒人の死。この本を読んだ限りではアメリカの警察官の行為が行き過ぎ、とは思えなかった。しかし本書だけでなくネットの情報を見ると、本書は多分、本書の主張に都合のいい情報を切り取っている。例えそうだとしても、警察官による逮捕行為自体が違法、とは思えなかった。本書で取り上げられている「ジョージ・フロイド事件」のフロイドは犯罪歴多数で、偽札を使用した容疑で警察を呼ばれている。無抵抗だったのか、そうでなかったのか、は本書とネットの記事で全く違っている。警察官のボディーカメラの映像のところから違っているのでなんとも言いようがない。抵抗が本当であったのなら、まあ、拘束されるだろう。無抵抗だったのなら、行き過ぎた逮捕行為だろう。本書によれば、フロイドは薬物を使用していたという。どっちなのだろう。
この事件をきっかけに起こった暴動で25人が死亡したとされる。本当に多くの店舗が略奪、放火に合っている。
BLM活動(black lives matter)の創始者の方の言論も、自分や家族の犯した個人的な犯罪さえ、反省や悔恨がなく、全て人種差別に起因するという自己正当化がある。
持たざるものが行う全ての略奪や犯罪は帳消しになる、富の再分配などと暴徒が主張しているのは恐怖でしかない。この略奪を受けた店主には黒人の個人店主もいて、保険もきかず、一切を失った人もいる。この個人店主たちはmatterである、blackではないのか?
またBLM活動創始者の方が豪邸を建てたこと、中国系の資金を得ていることを本書では指摘している。
1955年 ローザ・パークスの逮捕から始まった、公共バスの不乗車による公民権運動は私も子供向けの絵本で読んだことがある。
差別される黒人を示す例としてあげられる数値として警官に殺される黒人は白人の2.5~3倍というのがあるらしい。しかし、黒人の犠牲者の割合は事実として、黒人の犯罪率から見れば低いという。
また、警察官による黒人の死亡として、ファーガソン事件を本書では取り上げられていた。この亡くなった少年が193センチ132キロと書かれており、彼が向かってきたら警察官が恐怖を覚えても仕方がない、と述べていたが、調べてみたら、警官も190センチ以上だった。これは意図的な感じがする。ただ検視により警察官側の主張正しいだろうということが亡くなった少年の銃創から分かっている。
BLMは白人に殺された黒人だけを問題にするが、黒人による黒人の殺害の方が遙かに問題という話が本書に出てくるが、これはそうだろうなあ。そっちの方が圧倒的に多いから。事件に巻き込まれて殺される黒人の90パーセント以上は黒人によって殺されるそう。しかし、黒人の犯罪率がなぜ、高いのかについての言及も欲しい。
BLMもLGBTもマイノリティが最大限に尊重されて、それに少しでも異を唱えたらたちまち、バッシングが起こるという動きがあるらしい。被害者ビジネスっぽい。
「弱者」を盾にして人を黙らせる風潮に対して、政治家も言論陣もみな臆病になっている、と本書の中で書いている言論者がいたが、まさしくそうだと思う。
だからこそ、ちょっとめんどくさい人、というイメージがついてしまうのかな、と思う。しかも当事者だったらまだしも、このイメージをつけているのが、活動家だったら、やりきれない気持ちになるのではないだろうか。
Posted by ブクログ
死ぬほどおもろい。
なんとなく今の世の中に不信感がある人こそ読んでみて欲しい。謎が解けてスッキリする。
自分の答えを出す手助けになる。
正義は振りかざすものじゃなくて、ただ存在してるだけのものなんだよ。
Posted by ブクログ
私が子供の頃に憧れたアメリカは、もう存在しないのだと実感した一冊。
某ストリーミングサービスが会員数を大きく減らし、株価も急落しているとニュースになっていたが、ポリコレを意識するあまり、面白いコンテンツが少なくなっているからではないのだろうか。要するに、ポリコレを支持していても、対外的に装っている人が多いのではないか。
また、BLMについても書かれているが、思い出すのが米国ドラマ『24』の台詞。
どのシーズンだったか忘れてしまったが、駐車場でのシーンだったと思う。
デニス・ヘイスバート演じるデビッド・パーマーが自身と同じ人種の若者へ向けた言葉で、「自分ではなんの努力もせず、全てを肌の色や世の中のせいにするな」みたいな台詞だったと思う。(はっきりと思えていない…汗。また観てみようかな。)
自分は、一生懸命努力をして政治家になり、大統領を目指しているわけだから納得。
そして、これは人種関係なく、全ての人にも云えることだなとも感じた。
デビッド・パーマーというキャラクターは、高潔な人物として描かれており、後に大統領になるのだが、こんな政治家が日本にも居てくれたらと思ったくらいだ。
今後、どうなっていくのは予測は不可能。世界中がポリコレに飲み込まれていくような気がする。既にそうなってしまっているのかな?
Posted by ブクログ
・政治はそれぞれの人生まで丸抱えすることはできない。「機会の平等」を保障することを目指しているまでであり、「結果の平等」の保障は不可能である。
・悩んでいるのはLGBTQだけではなく、背が低い/薄毛/容姿が悪いなどみんないろんな部分でマイノリティーである。
Posted by ブクログ
フランクフルト学派というらしい。「文化マルクス主義」。
資本主義の矛盾から共産革命が起こるはずだったのに、何やうまいこといかんので、資本主義を弱体化しようとした。そのためには、保守の苗床である「家庭」を崩壊させるべき。
もはや労働者は資本家に組み込まれており、「被差別」マイノリティこそが、階級闘争の主体になっていくのである。
こんな発想が「ポリコレ」の根本にあるらしい。
うーん、なるほど。
BLMにしても、かなり組織だった活動が根っこにあって、特に米国は酷いことになっている。
安易な正義感、浅薄な倫理観、原罪感や、贖罪意識をうまーく利用されてるわけだ。それに、残念な人たちが乗っかっている。
もちろん、日本の今の環境も例外ではなく、つか、戦後かなりボコられ慣れてるところから今やっとおかしいやんけ、という運動が立ち上がりつつあるところに、コレがやって来ている。
マスコミと教育と、大半の政治がすでに乗っ取られている。
Xが有料になったら、さらに情報が遮られて、えらいことになりそうな予感。
Posted by ブクログ
恥ずかしながら、ブレイディみかこさんの「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」で初めて”ポリティカル・コレクトネス”なる言葉を知った。
その後仕事でもポリコレについて取り扱ったり、意見を交換する機会があったので、本作の序盤で書かれていること(アメリカではキリスト教でない人への配慮のために、メリークリスマスとは言えず、ハッピーホリデイと言うようになった、など)は、既に知っている知識がほとんどだったが、アメリカの極左化と日本の今後の項については、驚き、呆れてしまった。
こちらの著者・福田ますみさんは、かなり保守的な視点から執筆しているようにも思えて、なかなかニュートラルに読むことは難しいけれど、多文化共生社会を目指し深い考えもナシにLGBT法などに賛成している人は、一度本作を読んだうえで自分の考えを整理した方が良いと思った。
多文化共生社会と他文化強制社会はまったく別物だ。
P.35
カリフォルニア州で結婚式を挙げるなら、式の最中に「夫=husband」と「妻=wife」という言葉を使ってはいけない。なぜなら法律的に禁止されているから。性的に中立な「配偶者=spouse」という言葉がポリコレにかなっている。「夫」「妻」という言葉は、ゲイやレズビアンに失礼だ。
歌手のジャスティン・ビーバーがドレッドヘアにしたところ、批判が殺到した。なぜならドレッドヘアは黒人特有のものと考えられているから。
2017年2月に米国のファッション雑誌ヴォーグが、白人のモデルに日本の着物を着せて撮った写真を掲載したところ、編集部に強い抗議が寄せられた。ポリコレ的には、白人が日本人の着物を着ることは不適切なのだそうだ。
P.62
ポリコレの特徴として、表面的な言葉の言い替えに終始することで、むしろ本質的な問題を覆い隠してしまう欠点がある。つまりポリコレは、本音を隠して偽善的にふるまうことを強いる。
ポリコレを肯定的にとらえていたのは、「進歩的活動家」、つまり左翼活動家だけであることが分かった。
P.95
よく引き合いに出される世界経済フォーラムの「ジェンダーギャップ指数」によれば、毎回日本は3ケタ代の順位に沈んでいる。日本のマスメディアは、毎回この不名誉な数字を好んで取り上げる。いかに男性優位社会で女性が差別されているかを強調するにはもってこいのデータだからだろう。その割には、どういった性格のランキングでそもそもどれほど信頼性があるのか、詳しく解説した記事は意外に少ない。
「ジェンダーギャップ指数」とは、スイス・ジュネーブに本拠を置く非営利財団「世界経済フォーラム」が、政治、経済、教育、健康の4分野について、男女の間にどれくらいの格差があるかを数値化して発表しているものである。
実は世界にはほかにも、「国際開発計画」の「ジェンダー不平等指数」など、さまざまなランキングがある。わが国には女性の国会議員や官僚がわずかしかおらず、女性の首相もいない。民間企業にも女性の経営者や管理職が少ないので、意思決定の場に女性が少ないということになり、それが理由で、日本の順位がかなり低くなってしまう。
だが、他のランキングでは全く違った結果が出ているのである。「国連開発計画」の2020年版の「ジェンダー不平等指数」では、意外なことに我が国は162か国中24位である。こちらは、女性が安全に出産できる環境が整っているかを重視しており、「妊婦死亡率」や「未成年出生率」などの指標が入っている。
P.137
あなたはこう言うかもしれない。ジョージ・フロイド事件しかり、トレイボーン・マーチン事件しかり、ロドニー・キング事件しかり、武器を持たない黒人たちが毎年何人も警官に殺傷されている事実こそが、明白な制度的人種差別ではないか、と。
2019年、1004人が警察官によって射殺されたが、そのほとんどが武装していたか、警察官にとって危険なケースだった。このうち黒人が占める割合は235人で、約4分の1だが、この割合は2015年以降変わっていない。
警察による銃撃は、武装した相手や、危険な容疑者に遭遇する場面が多いほど増えるが、黒人の犠牲者の割合は事実として、黒人の犯罪率からみれば低い。2018年のデータによれば、黒人が全人口に占める割合は13%にすぎないのに、彼らは殺人犯の53%、強盗犯の60%を占める。警察官に射殺された黒人が全体の4分の1というのは、犯罪率から推計される人数より、むしろ少ない。
黒人女性で、トランプ前大統領支持を鮮明にした保守派の若き論客、キャンディス・オーウェンズのツイッターは次のように主張した。
「毎年黒人は、白人に殺される数の倍以上白人を殺している。我々(黒人)は全米の暴力犯罪の85%を占め、すべての殺人事件の50%が黒人によるものだ。事件に巻き込まれて殺害される黒人の90%以上は黒人によって殺されている。にもかかわらず、我々は(黒人が白人に殺されるたびに)それを人種差別だと訴えているのだ」
P.155
今アメリカでは、自分は「クィア」だとか、「ゲイ」だとか、「レズビアン」だとか、「トランスジェンダー」だとか称するのは、クールなこととされているようだ。(日本のファッションオタクみたいな感じか?)
「クィア」と言うのは実に便利な言葉である。もともとは、同性愛者に対する侮蔑後、日本語にすると「ヘンタイ」というようなニュアンスがあったようだが、現在では、LGBTだけでなく、LGBTに含まれない性的少数者をも広範に含む肯定的な総称になったのだそうだ。
自分はレズビアンであるとかゲイであるとか、具体的に名乗らなくて済むので、漠然としたクィアと自称している分には、嘘をついていることにはならない。
P.170
米国の左翼も日本の左翼も、いったいいつまで黒人を、人種差別の絶対的被害者で社会の最底辺であるというステレオタイプに閉じ込めておきたいのだろうか。
ジョージ・メイソン大学特別教授で、保守派コラムニストとしても活躍する黒人のウォルター・ウィリアムズ氏はこう話す。
「私は2011年に書いた「人種と経済学」という本で、米国の黒人社会を1つの国家と仮定した場合、2008年の統計でその国内総生産は世界18位の国家に相当すると指摘した。米国の黒人は、ポーランドやベルギー、スイス、スウェーデンより裕福ということになる。これは目覚ましい進展である。」
P.196
文芸評論家・小川榮太郎氏は、LGBTに対して、欧米由来の概念が胡散臭いと説く。欧米のキリスト教世界で、同性愛者はつい最近まで宗教的異端者とされ、刑事罰の対象であった。イスラム世界ではいまだに同性愛を禁じている。あのイスラム国に至っては、見つかり次第即刻殺害されていたのである。
対して日本では、歴史上、彼らに対してそのような差別は一切なく、かなり寛容であった。その我が国に、欧米のムーブメントをそのまま輸入することへの疑問を呈しているのだ。
ゲイを公表している元参議院議員・松浦大悟氏によれば、「国際レズビアン・ゲイ協会」は国連に加盟するにあたり、これまでともに活動してきた「米国少年愛者同盟」を切り捨てたという。変えられないセクシュアリティを持つという意味では、ゲイも少年愛も同じだそうだ。つまりは、特殊な性的指向のどこまでを公に認めて支援の対象にするか、その線引きが恣意的になされているわけで、LGBTという概念があいまいなままであることがわかる。
ゲイをカミングアウトしているかずと氏も、LGBTのうちTの一部を除いたLGBは社会的弱者ではない、Tの一部以外は社会的支援は必要ないと書いている。
P.220
二次元のキャラクター、たとえばアニメや漫画しか性愛の対象と感じない人たちがいる。これは性的指向だから、自分たちも性的マイノリティに加えてほしいという意見が出ている。しかし、LGBTの研究者は頑なに拒絶したそうだ。
「ペドフィリア」とは「小児性愛者」、つまり、幼児や小児を対象にした性愛、性的嗜好のことである。
「ズーフィリア」とは、動物に性愛感情を抱くセクシュアリティで、感情だけなら問題はないが、獣姦行為となると国によって罪になることもあり、衛生上も問題になる。
「ネクロフィリア」とは、死体に性的に興奮、性愛感情を抱くセクシュアリティで、死体性愛者、屍姦症ともいわれる。
「抑圧すべき性衝動」とはまさに、こうした性的嗜好を指すのではないかと思われる。おぞましく感じるかもしれないが、いずれも性愛感情にとどめておく限り、わが国では問題にはならない。彼らにも人権があり、繰り返すが、「性的少数者」という大きなくくりの中のれっきとした一員なのである。
ツイッター上では、これら3つの頭文字を取ってPZNと称し、「LGBTばかり権利を主張するのはおかしい。PZNも加えてLGBTPZNとすべきだ」という声がある。これは、数多ある性的少数者の中でLGBTだけを政党扱いし、よりアブノーマルな部分を持つほかの性的少数者を排除する現在の欺瞞的な運動への抗議、揶揄が込められている。つまり、自らの「性的マイノリティ性」は「被抑圧者」「被害者」として認知してもらい、保護も受けようとする傍ら、同じ人間が、もっとマイナーな指向の人に対しては、激しく拒否・断罪する歪んだ構図があるのだ。
P.224
北陸地方のとある街に住むかずと氏は40台半ば。一周り年下の相方と暮らすゲイの男性だ。彼は「ホモも単なる男です」と言う。「ホモ」という言葉は最近、差別語ともいわれるが、かれはあえてこの言葉を使う。そして、「私はLGBTとは無縁なホモにすぎない」とも言う。
「気がつけば当事者とは無縁なところに、LGTBなんていう世界が完成していた。一緒に暮らす相方も知り合いの若いゲイたちも、誰ひとり自分をLGBTとは思っていません。同性愛者=弱者、不幸、なんてとんでもない。同性代のノンケが、家のローンだの子供の教育費に頭を悩ませているのに比べると、生活ははるかに楽、ホモでよかったと思います。」
「新潮45」休刊騒動で図らずとも露呈したことがある。テレビや新聞で騒動についてコメントした当事者の多くは、いわゆるLGBT活動家であり、その主張は必ずしも、普通の性的マイノリティの本音を代弁してはいないということだ。それどころか両者の間には深刻な断絶があり、活動家嫌悪という感情さえ生まれている。
P.227
LGBTの当事者の方たちから聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいといいます。
P.234
ゲイは、LGBTと分類される性的マイノリティの中で多数派である。一方で、レズビアンコミュニティは、ゲイコミュニティよりもかなり小規模だ。ゲイとレズビアンを比較すると、それはそのまま男女格差の問題にもなる。つまり、ゲイの男性二人で暮らせば経済的に余裕が生まれるが、女性同士で生活を支えるとなると、男性同士より厳しくなる現実がある。そうした経済上の問題もあり、レズビアンはフェミニズム運動に近づきやすい。その結果、ゲイは政治的に比較的穏健だが、レズビアンは先鋭化しやすい傾向があるようだ。
P.243
「トランスジェンダーという言葉は、アンブレラタームとされ、性同一性障害ですでに性別適合手術を受けて戸籍の性別変更も行った人から、同様に性同一性障害でありながら、持病があったり体に与える影響を考えて、ホルモン治療や手術が選択できない、あるいは選択せず、生まれたままの体で過ごしている人、さらに、単なる女装化、オナベ、ドラァグクィーンまで含まれます」
つまり以前は、トランスジェンダー=性同一性障害という理解だったが、現在はトランスジェンダーという抗議の概念の中に性同一性障害が含まれるという解釈である。
「彼ら(LGBT活動家)はトランスジェンダーの権利を訴えていますが、いかにも性同一性障害で生適合手術を終えた人の権利保護を主張しているように装いつつ、その中には単に、トランスジェンダーを自称する女装家も含む場合があります」
P.261
本事件(=一橋法科大学院生、アウティング転落死事件)を契機に、国立市がアウティング禁止条例を施行した。この動きを受け、その後、岡山県総社市や東京都豊島区、港区など、全国のいくつかの自治体でも同様の条例を導入する動きが続いた。2021年4月には、都道府県レベルでは初めて、三重県が、アウティングの禁止などを盛り込んだLGBT差別禁止条例を施行した。
だが、この条例については、実は当事者の側からも反対がある。なぜなら、性的少数者がそのことをノーマルな友人に告白したとして、告白された側は、その秘密を誰にも漏らしてはならず、極端な話、墓場まで持っていかなければならないのだ。それは大変な重荷だろう。だからこうしたリスクを孕んだ相手とは距離を置きたい、避けたいと思う気持ちがより強く働くようになるのも無理からぬことである。
当事者たちは、自分たちがますます腫物扱いとなってしまうことを恐れているのだ。
P.277
LGBTの当事者、および支援団体がしきりに主張する差別の事例については、現行法でも十分解決可能だと井上市議は言う。(パートナーの入院時の付き添いや遺産の相続などは、公正証書を作成・提出すれば問題は解決する)
本来こうした政策は、支援する対象の市民が具体的に存在して初めて決定され、議会に提出され、議決されれば予算がつき、税金が投入される。支援すべき対象がいるのかどうか不明なところに、どうやって予算をつけるのだろうか?
「圧倒的多数の市民は、児童虐待や難病支援、防災対策、医療、介護の充実など、他に優先的にやるべきことがあると思っているんじゃないでしょうか」
税金が投入される異常、より緊急性の高い問題から手を付けることは当然だ。国政と違い、住民により近い地方行政の場合は、なおさらである。
P.282
いくつかのアメリカの州では、自称トランスジェンダーの少女が、自分は性自認が男なのでホルモン治療を始めたいと言えば、患者主体の医療がまかり通ってしまう。驚くべきことに治療の内容は親にまったく知らされず、介入も許されない。ある日突然「自分は男だ」と言い出した娘に対し、保護者が「それは気の迷いよ」とうっかり反論すると、保護者はトランス差別者とみなされ、娘から強制的に引き離される。
近年、米国では、このような性的違和を訴える少女たちが急増している。しかし、熱狂の季節が過ぎ去り、我に返ると、男性になった少女たちの多くが深く惟男を後悔するようになるという。そして、実にその約8%が元の性別に戻る手術を受けるそうだ。
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右よりだけど、これを読んで思ったのは、メディアが以下に1次情報を切り取って報道しているか、また、当事者を一部の人や他人が過度にサポートしなくてはならない社会風潮が出来上がりつつあるということ。
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虎ノ門ニュースで紹介されて話題、ポリコレについて考察された一冊。ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)という言葉を基に、新しい正義が謳われて、もしその正義の基準に沿わないものは、全メディア総出で社会的に抹殺するまで叩かれる、SNS全盛の時代必見の内容。過去に問題になった森喜朗さんの「女性がたくさん入っている会議は時間かかる」発言や、「LGBT」の表現を巡って廃刊となった雑誌「新潮45」について深く考察される。言葉狩りによる全体主義への傾倒…ポリコレについて深く知りたい人にオススメの一冊。
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日本の女性は、ジェンダーギャップ指数が大きいのに、幸福度は男性より高い。この背景には、男性が働くことを前提とした人生で、選択肢が少ないのに対し、女性は専業主婦など多様なライフプランがあり、人生の選択肢が多いからだとされる。
LGBTという私的領分に、国(政治)はどこまで介入するのか?小川榮太郎「私的領分という尊厳を権力に売り渡すことである。」「政治は生きづらさの主観を救えない。」
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ポリコレという言葉を、高橋源一郎「飛ぶ教室」で初めて知る。
???の頭で、本を探すとこの本が見つかった。
ポリコレなる意味は理解したものの、まだまだ勉強が必要である。
とはいえ、最近のなんだか気持ち悪い世の中に、この言葉がしっくりと当てはまる。
この本でいうと、同調できることと出来なこともあり、もう少しいろいろな本や記事を紐解く必要がありそうだ。
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ポリティカルコレクトネス=政治的正しさの名の下に、行き過ぎた言葉狩りや差別主義者のレッテル貼りが行われるのを目にするにつけ、何かおかしいと思っているのは私だけじゃないだろう。
ちょっとした言葉尻を捉え、しかも故意に切り取られた言葉をあげつらって、まるで集団ヒステリーのように対象者を社会的に抹殺せんとする勢いで追い詰める人々。
彼らを扇動するものの正体を論じたこの本が、様々な違和感やモヤモヤを明らかにしてくれた。
行きすぎたポリコレに毒された今のアメリカの恐るべき姿に暗澹たる思いとなり、日本は遅れている、アメリカを見習えとばかりにポリコレを煽る勢力に決して踊らされないようにしようとつくづく思う。
多様性という言葉をやたらと使う人たちが、反対意見を頑なに封殺する現状を見れば、自ずと彼らの胡散臭さはわかるもの。まだ間に合う。どうか日本は踏みとどまって欲しい。
マイノリティでないというだけで迫害される、そんなディストピアにならないで欲しい。