あらすじ
「ある日、家族が侵入者に殺害されたら」「社会の安全が揺らいだら」――。裁判員制度下、市民は正義の判断を下さなければならなくなった。何が死刑と無期懲役を分けるのか。その裁きを決める根拠とは。秋葉原通り魔事件、光市母子殺害事件、附属池田小児童殺傷事件などを手掛かりに、元裁判官が問いかける現代の罪と罰。(講談社現代新書)
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Posted by ブクログ
チェック項目20箇所。死刑の自由化とは、死刑の価値化でもある、これまでの職業裁判官制度のもとでは、死刑の基準はあっても、真の意味での判断はなかった、あったのは形式的な基準の運用だけで、実質的な正義の判断と言えるようなものはなかったのである、これまでの官僚司法が市民の司法に変わったことで、これからは正義の価値観を示すことができるようになった、また、それが求められている。死刑宣告である以上は、どうあっても、「こういう理由で死刑しかないのだ」とはっきり言えなければならない、それも、ここでとくに一つ注意喚起しておきたいのは、人命の価値は何ら理由にできないということである。最終の価値判断は個々の市民による、本書は答えを提示しようとするものではない、最後の答えは読者に委ねられる、が、本書は、「いま」の死刑をめぐる状況を開示することで、市民の決断を可能ならしめようとするものである、いや、可能ならしめるものである。職業裁判官のもとでの死刑の基準は、被害者の数を尺度に「殺害された被害者が三人以上であれば原則的に死刑を選択し、二人の場合はケース・バイ・ケースで決め、被害者の数が1人であれば原則として死刑は選択しない」を大枠としていた、そして、死刑を決する二次的な尺度として、「金銭目的」や「計画性」が考慮されてきた。同じ10年間において、「1人殺害」の場合は死刑になるのはあくまで例外的とされるが、約0.2%である。近年の一年あたりの殺人既遂の字件数は減少傾向にあるが、それでも500件程度はある、これらに死刑をもって臨むとした場合、われわれは、毎日毎日、必ず一人か二人の死刑を執行しつづけなければならないことになる、日本社会全体が「血の匂う社会」「血まみれの社会」になりかねない。死刑判断は最大の刑罰の発動であるが、それ以前に、無期懲役との区別をつける行為である、ところが、およそ検察から死刑求刑がおこなわれるような事件は、通常の道徳的倫理的観点からは論外のケースばかりである、そのような行為のうちから死刑になるものと無期懲役にとどめるものを選別するのが死刑判断である。日本の場合、死刑の必要性は、この事実上の終身刑判決、実質的な終身刑との対比で考えなければならない、極限的なかたちで死刑の必要性がとわれるのである。死刑は極刑と呼ばれるが、「永遠に罪あるものとして残される」ことも極刑にはちがいないだろう、なにゆえに「永遠に罪あるものとして残す」ことでは足りないのか、死刑の真の必要性とは何かが問われる。死刑は「正義」「悪」であるという価値判断はあり得ること、さらには、正義や善を実現するためにまちがっている者を抹殺するという価値判断も成り立つことである。かつて、古代から中世にかけてのゲルマン法には、アハトという制度があった、アハトで追放された犯罪者は、文字どおり、森や原野を彷徨うことになった、そして、放逐された者は人間ならざる「人狼」とみなされ、人狼たる漂泊者はたとえ誰かに殺傷されてもいかなる法的保護を受けることもできず、殺傷者は咎めなしとの掟になっていた。秋葉原事件……7人死亡という定量的なダメージが重要なのではなくて、安全な社会という理念、いわば安全神話がどれだけ崩れたかという価値的問題のほうがより重要になる。われわれが税金で面倒を見る必要があるのは、現に殺人を二度くりかえし、殺人の抜きがたい犯罪性向を持つ者である、われわれが税金を負担しなければならないのは、その者の一生涯という長きにわたる期間である、ここで生ずる疑問は、なぜ、かかる反社会性の強い者から二度と被害を受けないために、そこまでしなければならないのかである。一家無理心中……この場合に被告人を死刑にすることはどういうことを意味するか、一家を全滅させることになる、それこそ、一家を無理心中させることになってしまう、この場合、死刑の宣告をして、一家を全滅させて、われわれは「正義は貫かれた」と言って終われるか。両親殺し、祖父母殺し……自分の子ども、孫に当たる被告人が死刑になることを望む家族はほとんどいない、この場合に被告人を死刑にすることは、そういう被害者の感情を押しきって人命を絶つことを意味する。単なる同情では、死刑の決断には危うすぎる、死刑の決断に向かう勇気は、同情を殺したうえで生まれるべきなのである。刑事責任年齢とは年齢的な応答能力のことで、日本では14歳以上とされている、それに満たない子どもについては、たとえ残酷な犯罪行為をしても罰しない、子どもを刑罰で罰するのはそれ自体残酷とみなされる。光市母子殺害事件……「死刑でなければ遺族は再出発できない」「正義を示してほしい」、被害者がこれだけ苦しんでいるのに、どうして犯人が死刑でないのか、何のために被害者はこれほど苦しむのか――われわれは、その叫びに対して「少年の更生の可能性」で応えることはできない。帯広の事件では、留守番幼児を殺傷した被告人とその親は被害者に対して合計2000万円を支払うことを約束し、まず約600万円を支払い、残りは分割で支払っていくことを誓約していた。他者の「命を絶つ」ようなことをなぜしなければならないかと言えば「われわれが生き、これから生きてゆくなかで必要だから」と言う以外にないだろう、本書はいまを生き抜くための書でもある、動物化しないための書である。