あらすじ
「学び」という言葉には
どこか胡散臭さがあるーー
鳥羽和久が 7人の学び手に話を聞いた。
千葉雅也(哲学者・作家) 矢野利裕(批評家・DJ・中高教諭)
古賀及子(エッセイスト) 井本陽久(いもいも教室主宰・数学教師)
甲斐利恵子(国語教師) 平倉 圭(芸術学者) 尾久守侑(精神科医・詩人)
『君は君の人生の主役になれ』
『おやときどきこども』で
親子のリアルを描き出してきた著者による
現代の「学び手」たちと交わした対話と思考の全記録。
いま、子どもたちの教育現場では、
暗記偏重の「勉強」が敬遠され、
「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)にみられるような
「学び」という言葉が積極的に取り入れられています。
しかし、現代社会で使われる「学び」を
大人たちはどこまで理解し、実践しているのか。
本書は「学び」という言葉への疑わしさの感覚を出発点に
本来の「学び」を自らの手に取り戻すためにどのような取り組みが有効なのか、
そのことを知るために、学びの現場にいる人たちに話を聞きにいった、その対話の記録です。
受験の渦中にあり競争原理に基づく勉強に没入する家族、
暗記偏重の「勉強」から距離を置き、子どもを自由にさせたいと願う親、
さらには、子ども時代に「勉強」とうまく出会うことができずに
いまも苦手意識から逃れられない大人たちすべてへ、本書は開かれています。
[目次]
まえがき────鳥羽和久(書き下ろし)
第1章 何のために勉強するのか────千葉雅也
・勉強なんてくだらない?
・自分専用のAIエンジンをつくる
・あらゆる情報がミックスされる現代
・「勉強するとキモくなる」のリアル
・メタ視点を学ぶ「塾」という環境
・濃いコミュニケーションは目障りなだけなのか
・「自由」を警戒する子どもたち
・晩餐のような勉強を
第2章 リズムに共振する学校────矢野利裕
・異色の経歴──カルチャー批評から高校教師へ
・身体的交流こそ学校の本懐
・他者とのぶつかりを避ける子どもたち
・監視カメラが子どもを犯人予備軍にする
・子どもは「腐った言葉」を嗅ぎ分ける
・社会性と非社会性の間で
・生徒と共振する──学校のリズム
・先生の言葉には嘘が混じっている
・社会構造をひっくり返す「ストリートの学び」
・「やりたいことがない」への処方箋
第3章 家庭の学びは「観察」から────古賀及子
・家庭こそが学びの第一の場
・日記エッセイの悩ましさ
・感想禁止──感想文より「観察文」を
・「お母さんらしさ」をトレースする
・「観察」は裏切らない
・偏差値、大好きなんです
・大人の社会は学校の後遺症でできている
・日記のトレーニングでメタ視点を身につける
第4章 世界が変わって見える授業を────井本陽久
・「正解」を求める勉強には意味がない
・「できる・できない」の学びには自分がいない
・「プロセス」にこそその子らしさがにじむ
・「将来への備え」という現代病
・なぜ森は究極の学び場なのか
・将来の心配をする子ども
・子どものコンプレックスに踏みこむ
・先生は「世間知らず」であることが大事
・抽象思考だけではぷるっとできない
第5章 「言葉」が生まれる教室────甲斐利恵子
・本当の言葉が生まれる教室
・公立校では自由に授業ができるか
・使うテキストは毎年変わる
・言葉を「血肉化する」授業
・勉強が始まる瞬間の「沈黙」
・「好きなことだけやらせたい」への違和感
・言葉の持つ暴力性と可能性
・親が子どもにできること
・子どもは「感謝しない生きもの」だから尊い
・生徒に慕われているうちは二流
第6章 からだが作り変えられる学び────平倉圭
・ニュージーランド公教育の現場から
・なぜ入学式で「カパ・ハカ」を踊るのか
・染み付いてしまったからだのこわばりについて
・言葉が息を吹き返す
・抑圧された環境から「爆発したからだ」
・巻き込み、巻き込まれる大人と子ども
・親も子も言葉の魔術に巻き込まれる
・「子どもを見る」とは理解し尽くすことではない
・人の固有性と出会う教室
第7章 子どもの心からアプローチする────尾久守侑
・子どもの「過剰適応」とは何か?
・「自分の道を行け」が子どもを足踏みさせる
・思春期の延長としての「推し文化」
・心の問題は自己治療がすべて
・思春期に獲得する自分の言葉
・プロとしての経験知が子どもを救う
・「自由と規範」の間で揺らぐ
おわりに────鳥羽和久(書き下ろし)
(構成は変更の可能性があります)
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Posted by ブクログ
chatGPTがビッグデータから組み合わせて文章を吐き出すように、人間も自分だけのビッグデータを持っていて、そこからジェネレートする。勉強というのは、自分専用のAIエンジンを作ることで、その意味で、暗記は重要である。
ネットは歴史的な遠近法を崩壊させる方向で機能しており、あらゆる情報を等価にしている。そのため、「積み重ねを経て、練り上げられていく」「時間をかけて発酵していく」というイメージが薄れている。
学校にはなくて塾にはあるのが、日常の外部の世界を垣間見せる機能。
・歴史とはあくまでも、今の時代から見た一つの「歴史観」であり、「物語」である
・物理法則全体には必然性がなく、覚えるしかない
こうした感覚を最初に伝えた方が、はるかに覚えやすい
人間関係には齟齬が生じるのが常で、その中で傷つき、傷つけられて、その経験を一旦飲み込んで、自分の中で発酵させるのが当たり前だった。しかし、今は衝突が起こると、それをすぐに「ハラスメント」などとしてしまう。その結果、「じゃあ、もう一切踏み込まない方が良い」とみんなが内側にこもり始めてしまった。
教師と生徒の関係においては、身体的な交流が不可欠で、ある種の利害関係や合理的な判断を超えて、踏み込んでいくような関係性が重要。だから、あえて踏み込んでいくことがむしろ大事。
教育とは、社会性と非社会性の間にある営み。
求められたことを「できる」ようにする勉強をどんなにやっても、求められて以上のところまでは踏み込もうとはしない。(受験勉強が典型)でも、実際には、求められていないのに気になって踏み込んでしまうところから、自分を拠り所にした学びが始まる。よって、学校の「型にはまった」勉強は意味がない。
学校では「できる/できない」で評価される。すると、子どもたちは「できよう」とする。その時、自分のやり方・考え方でやるのは試行錯誤、つまり何度も失敗することを前提にするので損だと思う。こうして、学びにおいて自分を封じることを「学ぶ」
大村はま
「子どもを知るためには「本当の言葉が生まれる教室」が必要」
しかし、「あなたの好きなものは?」「何に興味がある?」と尋ねられると、子どもは自分の欲望に対して正直になるのではなく、大人に忖度してしまう。だから、子どもたちが、自分の中から出てきた言葉で、本当に話したいことを話せる場所を作る必要がある。そのために、「安心」が大切。
やりたいことを見つけるには、「乗っかってみる力」がすごく大事。
貝原益軒は「真習び」を「学び」と読ませ、手本そっくりに書く「手習い」を学びの中心に据えた。すなわち、手本そっくりに書けるほどに身体化して自分のものにすることが学びの原型である。よって、今日、「暗記」に問題があるとすれば、身体化が十分に伴っていないことである。