あらすじ
美術館に行く前の3時間で学べる!
絵画の歴史がすっきり分かり、展覧会巡りが楽しくなる!
技法の知識が深まり、自分なりの絵の見方が身に付く
アルタミラやラスコーなどの先史時代の美術から現代のバンクシーまで。約2万年以上にわたる西洋美術史の流れを108のエピソードで一気に学べる入門書。ざっくりと流れが把握できるだけでなく、名画の裏話、画家の恋愛事情、色彩の秘密、時代の変化によってどんな絵画の技法が生まれたのか、オールドマスターの画家の描き方が近現代の画家たちにどんな影響を与えたのかを、美術家ならではの視点で紹介します。絵画の歴史、知識が頭に入ると、自分なりの絵の見方が身に付き、美術展巡りの楽しみがぐっと深まります。
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★再読
2026/10/13
美術史で一番最初に出てくる洞窟壁画とかも、ストリートアートだったんだから、ストリートアートが美術ではないと見下されるのはおかしいと思う。
ナカムラ クニオ
(1971年9月2日 - )は荻窪『6次元』主宰の美術家。現在は画家、金継ぎ作家として活動し、山形ビエンナーレや東京ビエンナーレにも参加している。東京都目黒区生まれ。母方の先祖は、桓武平氏の平良文を祖とする板橋氏。親戚にスウェーデン語翻訳家の板橋憲明、戦前のアメリカで宣教師とした活躍した山本忠美などがいる。父方は目黒区で工場を経営。勲章や和菓子の金型などを制作していた。東京都立日比谷高等学校在学中より美術の活動を始める。学生時代に作品を横尾忠則に絶賛され、17歳で初個展を開く。公募展など受賞多数、すどう美術館の「菅創吉との対話」展などにも参加。西麻布にあった現代美術館「PICA(ペンローズ・インスティテュート)」のスタッフをしながら世界を巡り、美術書、美術作品など収集。中村政人らと新宿少年アートなどの現代美術の活動も続けていた。アーツ千代田3331で開催された、特別展「アーリー90's トーキョー アートスクアッド」展(2020年3月開催)にも参加している。また、オペラ「アイーダ」の東京ドーム公演に最年少で出演し、特別番組が作られたことで映像制作に興味を持つようになった。日本大学を卒業後、フジテレビ系の制作会社ニユーテレスに入社。ネクサスでは、「開運!なんでも鑑定団」「地球街道」などを担当。その後、NHKワールドで紀行番組を担当、「Out & About」「journeys in Japan」など、日本の文化を海外に伝える国際番組を多数演出した。代表作にNHK、Eテレ『世界が読む村上春樹 〜境界を越える文学〜』などがある。2008年、荻窪にギャラリー「6次元」を設立。近現代美術史に造詣が深く、ブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)、山種美術館、Bunkamura ザ・ミュージアム、京都文化博物館、あべのハルカス美術館などでギャラリートーク開催。2022年に東京都美術館で開催されたボストン美術館展ではアートナビゲーターを担当。他にもエゴン・シーレ展、アンリ・マティス展など展覧会公式ガイド本の執筆など数多く手がけている。また陶磁器修復技術「金継ぎ」の普及活動をはじめ、東北、熊本などの被災地やアメリカなどでワークショップを開催。映像作品『金継ぎ PIECES IN HARMONY』は、ADFEST 2018(第21回アジア太平洋広告祭)デザイン部門でシルバーを受賞。資生堂の世界CM「The redefiniton of Japanese Beauty by Shiseido」に金継ぎの器を提供。小学校高学年向け環境問題の教科書「エシカル消費(金の星社)」にも「金継ぎ」の項目が掲載されるようになった。また、NHK出版の『本の世界をめぐる冒険』は、毎年多くの中高で受験問題として採用されている。テレビ朝日「松岡修造のみんながん晴れ サンデーLIVE!!」、テレビ東京「YOUは何しに日本へ?」、TBS「マツコの知らない世界」の金継ぎ特集などにも出演。現在は、TOKYO FMのラジオ番組「THE TRAD」(稲垣吾郎)、bayfm田中美里「Morning Cruisin’」、関西テレビ「ピーチケパーチケ」などにもセミレギュラー出演し、美術解説のコーナーを担当。出演する映画「Kintsugi」は、ダマー国際映画祭、サンダンス国際映画祭で上映された。児童養護施設に暮らす子どものドキュメンタリー映画「ぼくのこわれないコンパス(2019)」(監督マット・ミラー)にも出演、金継ぎをテーマにした絵本「My Invincible Compass」も日米で出版された。他にも海外のドキュメンタリー作品に多数出演している。2019年には、アメリカの画家マコトフジムラと共同で金継ぎの学校「キンツギアカデミー」をロサンゼルスに設立、ニューヨークで展示やワークショップなどを企画。2021年には、東根市美術館で東北各地の市民とともに制作した器を展示する「金継ぎアンソロジー」展を開催した(キュレーター/宮本武典)。現在は、東京と長野県諏訪市、石川県輪島市のアトリエで活動をしている。
「バロック期の画家ピーテル・パウル・ルーベンス( 1577 ~ 1640)が描いた女神や女性はほぼ全員ぽっちゃりです。この時代、ふくよかであることは階級の高さ、餓えに困ることがない裕福さや、子どもをたくさん産む子孫繁栄の象徴とも結び付いていたのでしょう。 近代においては、印象派の画家、ピエール =オーギュスト・ルノワール( 1841 ~ 1919)が、特に晩年になるとふくよかな美女を描き続け、彼の影響を受けた洋画家、梅原龍三郎( 1888 ~ 1986)もまた、肉付き豊かな女性像を数多く描きました。ルノワールは生前「絵は楽しく美しいものでなければならない」と語り、「私が描くのは、風景ならばその中を散歩したくなるような絵、裸婦ならばその胸や腰を愛撫したくなるような絵」と述べています。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「「なぜ洞窟の奥深くに描かれているのか」という疑問が湧きます。 人類は洞窟を雨風がしのげる住居としてだけでなく、お墓や信仰の場として使ってきました。日本でも人里近くの洞窟や鍾乳洞などに祠が祭られている例が数多く残されています。雨乞いの儀式なども行われていたようです。洞窟は、非日常の特別な空間として捉えられていたのかもしれません。奥深い場所は暗く狭く、落石の危険性もありました。日常生活の場所として利用されていた可能性は下がります。 興味深い説は、「洞窟で幻覚を見るために自ら酸欠状態にしていた」というもの。よく考えてみれば、洞窟の深い部分は、日常的な生活ではほとんど使わないでしょう。洞窟の奥は暗く、火をたくと酸素が不足します。人は低酸素状態になると、多幸感や臨死体験、幽体離脱の感覚を感じるらしく、薬物の服用時と似たようなトランス状態になるそうです。さらに洞窟内では、幻覚を見るために使われる植物が見つかったこともあるのだとか。この時代の人々にとって、洞窟壁画は幻覚を見るための舞台装置であり、特別な祈祷や呪術などが行われる劇場や聖なる場所だったのかもしれません。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「ベンガラと同じ酸化第二鉄を含む赤はルネサンス期のベネチアでも好まれました。貿易が盛んだったので赤の染料の素も輸入されていたようです。ベネチアの巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ( 1485ごろ ~ 1576)の前期の代表作『聖母被昇天』では輝くばかりの赤が見る人にマリアの愛を感じさせたでしょう。近代の色彩の魔術師、アンリ・マティスなども赤を基調にした作品を手掛けています。 現代でも赤の効果は様々に利用されています。ハンバーガーチェーンであるマクドナルドの「赤」は、刺激や食欲、空腹感を増す色として知られています。お客さんの回転率を上げるともいわれ、ファミリーレストランなどでも使用されています。色彩心理学では「赤」がもたらす興奮作用によって、時間を長く感じさせる効果があるそうです。多くの画家が「赤」を愛したのも、絵を見た人を興奮させる心理作戦だったのかもしれません。古代遺跡の中から骨を赤く塗った遺物が発見されているのも同じ理由だと思います。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「パリのルーブル美術館に所蔵されているコレクションの中で、最も有名な大理石像といえば『ミロのビーナス』です。ギリシャ文化と東方の文化が融合し、普遍的な美意識で作られたヘレニズム期のギリシャ彫刻として知られています。 この『ミロのビーナス』が発見されたミロス島などがあるのが、ギリシャの南部に広がるエーゲ海です。ターコイズブルーの静かな海に大小様々な島が点在する地中海で、西洋美術の源流は生まれたのです。 紀元前 3000年ごろから始まるエーゲ海文明は、古代ギリシャ文明より前に東地中海で栄えた青銅器文明のことを指します。温暖なエーゲ海の太陽が降り注ぐ島々は貿易で栄え、独創的で神秘的な芸術作品や工芸品が数多く生み出されました。オリエント地域との海上交易を通して、次第に青銅器を中心とした文明を作り上げていったのです。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「古代ギリシ美術の特徴に、かすかな笑みを浮かべた「アルカイックスマイル(古典的微笑)」があります。ぎこちないポーズで無表情にもかかわらず口元には慈悲、慈愛が満ちた笑みをたたえたような動きが感じられます。このような表現は、初期ギリシャの彫像に見られます。代表的な作品としては神殿などに奉納された、手を太ももあたりに下ろし、正面を向いて片足を前に踏み出す男性裸体像(クーロス)や着衣の女性像(コレー)などに見られます。動きは変化に乏しく、ややぎこちないポーズですが、かすかなほほ笑みによって「生命力」と「幸福感」を伝えています。第一印象が人間関係をつくるのに重要な要素であるのは現代社会でも同じことです。 アルカイック( archaic)とは、古代ギリシャ語で「古い」という意味。エジプトのスフィンクス、ガンダーラ仏もレオナルド・ダ・ヴィンチ( 1452 ~ 1519)の『モナ・リザ』も京都・広隆寺の『弥勒菩薩半跏思惟像』や奈良・中宮寺の『菩薩半跏像』もウルトラマンも広い意味でみなアルカイックスマイルです。 初代ウルトラマンをデザインしたデザイナーで彫刻家の成田亨( 1929 ~ 2002)は、広隆寺の弥勒菩薩像の微笑みから造形的に影響を受けたといわれています。アルカイックスマイルは、美しさとミステリアスな雰囲気を兼ね備えた神秘的な表情です。現代でも、ポートレートを撮る際には、口元にさりげない笑みを浮かべます。これは、古代のギリシャ様式が普遍的な美として定着しているといえるでしょう。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「初期のキリスト教美術はごく素朴な内容から始まりました。信者には文字を読めない人々が多く、キリスト教を分かりやすく伝えるための手段でした。信者たちは、弾圧を受けながらも墓地や地下の秘密の礼拝所の壁に単純なモチーフの絵を描き続けました。信仰していることが知られないようにと、イエスは魚の姿などに置き換えて描かれていたのです。「イエス・キリスト・神の・子・救世主」のギリシャ語の頭文字をとると「 Ι Χ Θ Υ Σ」 =「魚」という意味になるからです。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「明確にイタリアルネサンスを意識していたと思われるのが、ドイツの天才、アルブレヒト・デューラーです。ドイツの美術はデューラー以前と以後に分かれるとされるほどの重要な芸術家。イタリアへ 2度の長期滞在をした他、人文主義者たちと交流しています。ルネサンスの技法を吸収するだけでなく、ベネチアで工房を開いて注文も受けています。他流試合のような感じかもしれません。遠近法や理想的なプロポーションの描き方などを学び、大きな影響を受けました。 デューラーは〝近代的自我〟の持ち主だったのではないかといわれることがあります。理由の一つは〝自画像〟を描いたこと。それまでは画家個人が自分の絵を正々堂々と描くことは一般的ではありませんでした。あたかもキリストになぞらえたような自画像もあります。もう一つは著作権意識を持っていたことです。デューラーの版画は人気が高く、コピー作品が出回りました。デューラーは絵の中にサインとしてモノグラムを描き込むことを思いついています。さらに、贋作つくりの版画家を訴えたこともありました。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「バロックは、ドラマです。強く激しい感情表現で、観客を刺激するのです。美術においても、音楽においても即興的な装飾で、豊かな感情を伝えています。端正で理想主義を掲げる古典への回帰を目指したルネサンスと比べると、バロックは劇的な一瞬を切り取って感情に訴えかける舞台芸術のお芝居のような感じです。 バロック美術が広まったきっかけは宗教改革です。その火蓋は 1517年に切られました。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の莫大な修理費用をねん出するために、教皇レオ 10世が贖有状を発行しました。これに異を唱えるマルチン・ルターがドイツ・ヴィッテンベルク城教会の扉に質問状 95カ条の論題を発表、瞬く間に広まりました。キリスト教の世界がカトリックとプロテスタントに分かれていきます。この宗教改革の動きに反応して、カトリック内部の改革も盛んに。カトリックでは総決算としてイタリアのトレントで 25回にわたる公会議が開催されました。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「カメラ・オブスクラを使用していたバロック時代の画家といえば、ヨハネス・フェルメールです。宗教画や歴史画ではなく、ささやかな日常のワンシーンを丁寧に描いた風俗画で知られています。 彼が生まれ育ったデルフトは、オランダ東インド会社( VOC)が拠点を置いて、世界と貿易したことで繁栄した町。さらに輸入した中国や日本の陶磁器を模倣した、青い絵付けのデルフト陶器によって世界で知られるようになった「青の町」です。フェルメールが生まれた当時は、「チューリップバブル」と呼ばれる花の球根市場が好景気だったこともあって、中国の陶磁器、日本の着物、アラビアのじゅうたんなど世界から集まった珍しいお宝が町中で手に入ったと考えられます。そして、貴族でなくても庶民が家の壁に絵画を飾るという文化都市へと発展したことが最大の変化です。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「それまでのヨーロッパで絵画は、教会や王侯貴族のものでした。それが「画商」という存在を通じて絵の市場で庶民が買えるようになったのもこの頃からです。宗教画や歴史画ではなく、親しみがある静物画、風景画、風俗画がたくさん描かれ、売られるようになります。 フェルメールは父の亡き後を継ぎ、画家でありながら宿屋と画商として、仕事を掛け持ちしながら妻と 14人の子供たちを養いました。画家たちが出入りする宿屋と居酒屋を経営していることで、モチーフとなる庶民の暮らしも時代の流行も間近で観察することができたのだと思います。さらに宿屋の収入に加え、裕福だった義母のおかげで、金より貴重だったアフガニスタン産のラピスラズリから作られる青い絵の具「ウルトラマリン」の鮮やかなブルーをぜいたくに使用することができました。異国情緒を醸し出す、エキゾチックな『真珠の耳飾りの少女』や『牛乳を注ぐ女』もこういった恵まれた環境から生まれたのです。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「画家としてのフェルメールに影響を与えたのが、同じデルフト派画家のピーテル・デ・ホーホ( 1629 ~ 1684)です。明るい室内空間に人物をオブジェのように配置、市松模様の床タイル、左側にある窓から差す光を描き入れるモチーフ。どの作品も、フェルメールの原点というべき作品で構図も酷似しています。おそらく、フェルメールは、ピーテル・デ・ホーホや周辺画家の作品を徹底的に観察し、アレンジしたのだと思われます。 さらに「魔法の粉」ラピスラズリを振りかけました。これは、誰にもできない裏ワザだったのです。当時、ラピスラズリはアフガニスタンで産出され、海運経由でヨーロッパに輸入されており、「海を渡ってきた青」ウルトラマリンという名が付いていました。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「しかし、 1672年、第 3次英蘭戦争の最中、フランス軍がオランダに侵攻すると経済が低迷し、バブルは崩壊。絵は全く売れなくなり、フェルメールは大量に抱えた借金を返せないまま、 1675年に 43歳の若さで亡くなってしまいます。困窮した未亡人がパン屋への借金のカタとして 2点の作品を引き渡したという記録があります。そのとき、このパン屋は既に 1点のフェルメール作品を所有していたそうです。そして、未亡人は最後まで手許に残したかった『絵画芸術』も手放さざるを得なかったのです。ちなみに『牛乳を注ぐ女』は、パン屋さんに看板のように飾られていたそうです。 19世紀にフランス人の研究者で画商だったトレ・ビュルガーによって再発見されるまで、画家フェルメールの名前は約 200年もの間、忘れられてしまったのです。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「フェルメールが愛したラピスラズリは、特に古代エジプトや中世以降のヨーロッパ世界ではその希少さと美しさから、高貴な顔料として大切にされていたのです。当然王族や有力貴族、教会から依頼された作品でしか使用されることはありませんでした。一説にはフェルメールはウルトラマリンを購入するために多額の借金までしていたといわれています。 フェルメールは、無理して最高級の素材を使っていたということになります。恐らく、高い画材料を支払ってもラピスラズリで着彩された絵が欲しいという顧客の好みを反映したはずです。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「オランダで市民社会が繁栄を謳歌していた頃、フランスでは政治的・宗教的混乱を経てブルボン王朝が絶対王制の体制を整えていました。ルイ 14世は芸術の大パトロンとなり、文化や芸術も発展。その礎となったのが 1648年、王立絵画彫刻アカデミーが設立されたことです。ここではルネサンス期の画家、ラファエロ・サンティやフランス古典主義のニコラ・プッサン( 1594 ~ 1665)が規範となり、フランス古典主義が定着します。また、絵画に歴史画、肖像画、風俗画、風景画、静物画というヒエラルキーが持ち込まれました。ローマ賞が設立され、 1等には 3 ~ 5年のイタリア留学・滞在と奨学金が与えられています。「サロン(官展)」と呼ばれる展覧会も開かれ、文化的な社交場となるだけでなく、芸術家の作品を売る場にもなりました。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「時々刻々と変化していく光を受けた建物や自然、積みわら、そして睡蓮の庭を絵画に収めようとしたクロード・モネ。風景や自然を愛する穏やかな人柄とその人生を思い浮かべませんか。 ところが、モネは 19歳で本格的な画家を目指しますがなかなか絵は売れず、子どもが産まれたのに父から結婚を認められませんでした。 28歳のときには行き詰まってセーヌ河に身投げして自殺未遂を起こしたこともありました。サロンの体制に不満を募らせ、状況を改善しようと 1874年から印象派グループ展を始めたのですが、思ったほど売れず、仲間とつくった会社も解散。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「点描画は、 1880年代半ばにパリでジョルジュ・スーラとポール・シニャック( 1863 ~ 1935)によって開拓された革新的な絵画技法です。新印象派と呼ばれます。彼らは、混ぜられていない純粋な色の点を慎重に配置して描きました。スーラは、当時の光学理論と色彩理論の概念に基づいた独自の分析により、新しい印象派を探究したのです。カミーユ・ピサロも印象派のスタイルに背を向け、スーラ風の点描画を試みましたが、評判が悪かったことや制作にあまりに時間がかかるため、最後には、やわらかな線へと回帰していきます。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「同じくポール・ゴーガンの芸術も印象派から発展しましたが、エキゾチックなテーマやプライベートな経験を描くことに力を注ぎました。ゴーガンは伝統的な遠近法を捨て、平らな物体を、簡略化された色で描きました。宗教的な象徴性に注目したのです。さらにゴーガンは旅好きな性格で、ブルターニュ、プロヴァンス、マルティニーク、パナマを旅し、最終的には辺境のタヒチ、マルケサス諸島のヒヴァオア島に定住しました。そして、ヨーロッパの工業化された世界から逃れることを望み、素朴さと美しさが残る世界に身を置きます。手つかずの土地を探し求めていたゴーガンは、理想の場所で最後まで活動を続けました。ゴーガンは自然を摸倣する(そのまま描く)のではなく、そこから抽象を引き出すことが創造だと考えていました。だから、ゴーガンにとって印象派は、目で見たものを重視するあまり、心の奥を探索していないことがしっくりこなかったのでしょう。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「 フィンセント・ファン・ゴッホはなぜ耳を切ったのか。その謎はいまだ解けません。ポール・ゴーガンがゴッホの描いた自画像の耳をからかったことで衝動的に切ったといわれていますが、それならなぜ、娼婦に渡したりしたのでしょうか? 耳は「社会とつながる器官」という意味があります。「耳を切る」ことで、社会から切り放される自分を重ねていたのか。それとも、「死と再生」の儀式として新しく生き直そうとする最後の賭けだったのか。その耳でゴッホにやがて注がれる称賛の声を聴くことはありませんでした。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「パブロ・ピカソが巨匠であるということに異論をはさむ余地はないでしょう。「子どもの頃ラファエロのように描くことができた」と本人も語っています。 14歳のときにバルセロナ美術工芸展に出した『初聖体拝領』を見れば、それも本当だろうと思います。バランスといい、モチーフの聖体を授かる女の子の着ている白いドレスを描く筆づかいといい、画面構成といい、既に完成されています。 そのピカソは多くの女性と恋愛を重ねたことでも有名です。 60歳を過ぎても若い恋人を手に入れるスキャンダラスな面で世を騒がせたこともしばしばです。 19歳でパリに出たピカソは友人のカルバロス・カサヘマスと共同生活を送りながら、絵で自立する道を探っていました。 20歳のとき、カサヘマスは恋が成就しないことを悲観して自殺。友人の死にショックを受け、「青の時代」の作品が生まれます。カサヘマスが恋した人妻がその後ピカソの作品に登場することから、 2人も恋愛関係だったのではと指摘する人もいます。 23歳でパリに定住すべく、モンマルトルのアパート「洗濯船(バトー・ラヴォワール)」へ。この頃、フェルナンド・オリヴィエという恋人ができ、「バラの時代」へ。画面は一気に明るくなり、また様々な実験を繰り返す時期に入ります。イベリア彫刻やアフリカの仮面、セザンヌの絵画などから多くを吸収して『アヴィニョンの娘たち』を発表。評判は最悪だったため、 9年間も放置されていたとか。ジョルジュ・ブラックと出会いキュビスムへと進むのは 28歳の頃。画商ヘンリー・カーンワイラーはこの頃訪れたピカソのアトリエについて「嘆かわしいまでの悲惨さだった」と回想しています。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「ダダイズムは、第 1次世界大戦中ごろ、世界各国で同時多発的に生まれました。まずは、スイス・チューリヒで生まれ、その後、フランスやアメリカへと広がっていきました。キュビスム、未来派、構成主義、表現主義など、他の前衛的な運動の影響を受け、その作品はパフォーマンス・アートから詩、写真、彫刻、絵画、コラージュに至るまで多岐にわたりました。言葉を使う芸術とも連動するため、文学的な運動でもあります。ダダイズムは、シュルレアリスムにも大きな影響を与えました。見た目に美しい物体を作ることではなく、ブルジョワの権威主義的な感性をひっくり返すことも目的の一つでした。ラウル・ハウスマン( 1886 ~ 1971)が拾い集めたもので作り出したアッサンブラージュ作品なども知られています。戦争で多くの犠牲が出たことによって、芸術家たちは、社会や文化に対する抵抗や絶望などを感じ、アートの可能性を疑問視するようになっていました。そのため、既存の美術や文学を否定し、アンチ芸術(反芸術)の機運が高まるのです。ダダイストたちは、自由で創造的な表現を追求し、従来の芸術のルールと慣習を打ち破ることを目指しました。例えば、ダダイストで詩人のトリスタン・ツァラは、ランダムに切り抜いた単語を使って、全く意味のない詩を作り出しました。マルセル・デュシャン( 1887 ~ 1968)は『泉』という作品で、トイレに置かれた小便器を美術作品として出品したのです。既製品(レディ・メイド)に架空の画家のサインをすることで、アートの意味を問いかけたのです。これは、美術の枠組みや慣習に対する皮肉や批判であり、現代のコンセプチュアル・アートにつながる先駆的運動です。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「エコール・ド・パリは、 1890年から 1940年の間にパリで起こった現象で、「パリ派」という名の大きな学校のようなものです。正確にいうと、「運動」ではありません。当時、パリは多くの外国人芸術家にとって非常に魅力的な都市でした。政治的弾圧がなかったこと、経済的に安定していたことも関係しています。その結果、パリには何千人もの画家や彫刻家が集まり、その多くは国外から来ていました。そして、この混ざり合いによって、彼らは互いに刺激を与え、創造力を高めたのです。モンパルナスのアートシーンは非常に国際色豊かなものになりました。パリは若い絵画を育てた「ゆりかご」のような存在もしくは場所だと考えると分かりやすいでしょう。 エコール・ド・パリに関連した運動は、装飾芸術的なナビ派、色彩主義ともいえるフォーヴィスム、断片化された画面を構成したキュビスム、音楽的なキュビスムであるオルフィスム、表現主義、シュルレアリスムなど、あらゆる活動の温床になったのです。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「エコール・ド・パリの全盛期には日本人も多く集まっていました。藤田嗣治、佐伯祐三( 1898 ~ 1928)などです。 藤田がパリに渡ったのは 1913年。大恋愛を成就させて結婚したにもかかわらず、新婚の妻登美子を置いて渡仏します。しかし、 3年で成功するという約束は実らず、パリにとどまることに。その後、藤田は 4人の女性と結婚しますが、ラッキーガールは、結婚していないモンパルナスのキキ(本名アリス・ブラン)だったと思います。キキはモデル、キャバレーの歌手として活動しており、 1921年からは、フランスの美術家マルセル・デュシャンに影響を受けたアメリカ人写真家マン・レイと出会って同棲していました。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「 恋多き女性でもありました。詩人で批評家、キュビスムを支援するギヨーム・アポリネールとの 5年にわたる恋愛は、互いの才能を高め合う仲でしたが、実を結ばず終息。恋の傷も癒える間もなくドイツ人の貴族男性と出会い、結婚。ところが、直後に第 1次世界大戦が始まり、ドイツ国籍となったローランサンはスペインに亡命することに。この亡命期間はつらい時期となりました。夫は酒と女遊びに溺れ、ローランサンの財産は没収され経済的にも不安定。当時書いた詩「鎮静剤」には「死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です」とその心境がつづられています。 その寂しさを埋めてくれたのが旧友のニコル・グルーでした。 2人の関係は友情以上の恋愛関係にあったともいわれています。ニコルの娘の著書では、ローランサンは「女性にも情熱と呼べる感情を抱いた」と同性愛の指向もあったことに触れられています。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「ローランサンの絵は独創的です。画面の色数は決して多くなく、ほぼ 7色。「すべての色が好きだったわけじゃありません。どうして自分の嫌いな色が使えるでしょう?断固として嫌いな色は避けてしまいます。私は青、ピンク、そして緑、白と黒しか使いませんでした。年を取ってからは黄色と赤も好きになりましたけど」と語るように、色彩の使い方にもオリジナリティーがあります。 キュビスムやフォーヴィスム、素朴派など様々な表現が次々に登場した時代。自分を見失わず、個性を表出させていけたのは、自由な心、自分に対して真っすぐな気持ちを軸に持っていたからではないかと思います。ただ甘いだけではなく、アンニュイ、切なさを含みながら、包み込んでくれるような絵は、様々な出会いを大事にしながら自分を貫いた強さに裏打ちされています。強い雨と太陽がない場所に虹は存在しないと教えてくれる虹のような気がします。ローランサンの愛読書の一つが清少納言の『枕草子』だったそうです。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「ローランサンの愛読書の一つが清少納言の『枕草子』だったそうです。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「デ・キリコは 1912年にサロン・ドートンヌに出品した作品が詩人ギョーム・アポリネールの目にとまり、ポール・デルヴォーらの若いシュルレアリストたちに支持されました。自らの絵画を「形而上絵画」と称しています。ギリシャ生まれで、イタリアで幼少期を過ごし、ドイツ・ミュンヘンの美術アカデミーに入学したデ・キリコ。ニーチェを学び、「謎以外何が愛せようか」という言葉がお気に入りでした。それだけに、制作年をわざと変えたり、自分が再制作した作品を贋作と騒いだりとなかなか謎が多い画家なのです。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「ルイーズは自分たちを裏切った父から与えられた苦痛を克服し乗り越えていく希望を、創作に見いだそうとしていたのでしょう。最近では立体造形に転向する前の絵画の再評価が進んでいます。 オキーフも、ブルジョワも、〝女性初〟と紹介されることは望んではいなかったと思います。彼女たちの作品には性別を超えて、人生に与えられた苦しみから再生していく力を見る人に与えています。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「ちなみに、最も成功した芸術家といえば、アンディ・ウォーホルです。「お金を稼ぐことはアートだ。働くことはアートだ。ビジネスで成功することは最高のアートだ」。そんな言葉を残しました。富を批判すると同時に、名声を切望していました。さらにウォーホルは芸術家だけでなく、実業家でもありました。本の執筆、雑誌の出版、映画の製作と監督、音楽プロデュース、ナイトクラブでショーを主催、不動産や美術品の収集などにも力を入れていました。ピッツバーグで貧しいスロバキア移民の息子として生まれ、カーネギー工科大学でデザインの訓練を受けた後、ニューヨークで商業イラストレーターとしてのキャリアをスタートしました。まず彼は「ヴォーグ」「ハーパーズバザー」「ニューヨーカー」など有名雑誌のために仕事をしました。そこで、何が大衆にとって魅力的なのか?ということを学んだのです。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「1917年、マルセル・デュシャンが便器を芸術と宣言し、 20世紀で最も影響力のある作品に変えたように、 50年後のウォーホルは「何も作らない芸術」を作ることに熱中します。そして「新しい芸術の本質は、実際にはビジネスだ」ということを世に知らしめたのです。 お金を稼ぐとすぐに、ウォーホルは仕事の大部分を行うアシスタントを雇いました。この行為も実にポップ・アート的です。もはや、すべての仕事を自分で行う必要がなかったため、ファクトリーのボスとして、ほとんどの仕事を人に任せるようになり、創作から距離を置きました。このようなプロセスで、無意味で空虚に見える芸術を量産し、芸術の意味を世間に問いました。ウォーホルがやることは人脈をつくり、有名人としてのイメージを築き上げることだけ。ついには、「自分の株式を株式市場で売りたい」とまで考えるようになりました。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「キースの活躍の舞台となったのは地下鉄構内の使われていない広告版。落書きは違法なので、 2、 3分で描いては電車に飛び乗るという「サブウェイ・ドローイング」です。「誰にでも楽しめるアートを届けたい」というキースの気持ちにあった表現スタイルでした。それまでも地下鉄はグラフィティの発信地でしたが、キースの作品にはキャッチーでシンプルなキャラクター性がありました。そして、逮捕される度に有名になるというスリリングさも相まって話題になったのです。 あっという間に人気は高まり、サブウェイ・ドローイングを始めた翌年には初個展を開催します。そして、 1982年現代アートでは重要なドイツの国際展「ドクメンタ」に、翌年はイタリアのべネチア・ビエンナーレに参加します。アート界での評価が高まると同時に、音楽界やファッション界からのデザインのオファーも絶え間なく来るようになり、世界的ミュージシャンであるマドンナや、デビッド・ボウイのジャケットデザインなども手掛けています。 キースは、世界各地で壁画を描いたり、子どもと一緒にワークショップをしたり、デザインしたグッズを販売したりしました。「アートを誰でも楽しめるものにしたい」という信念に基づいていた結果ではないでしょうか。次第に社会的なメッセージも多くなりました。そして 31歳の時、エイズで亡くなったのです。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「キース・へリングはストリート・アートから出発し、次第に自分のアートを追求するようになりました。アートを通じて人々を巻き込む可能性を感じていたと思います。キースはアートによるビジネスで稼いだお金を社会活動の支援を行うスタイルをつくりました。「アートで大衆をつなぐ」という点にバンクシーやキースの新しさがあります。それは先史時代の祖先たちが始めた「何らかの表現で社会をつなぐ」という行為と限りなく近い気がします。 Point 先史時代のアートとストリート・アートは「何らかの表現で社会をつなぐ」行為で通じている。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
「アトリエに多くのスタッフを雇い、巨大工場を運営するように制作しているところも、現代的です。しかし、ルネサンス時代のラファエロ・サンティやバロック期のピーテル・パウル・ルーベンスなどヨーロッパの巨匠たちも、大規模な工房を構え、大量の受注をこなしていました。美術史的な観点から見ると、クーンズの生産スタイルも古典的であるともいえます。 クーンズは、 1980年代に流行したシミュレーショニズムのアーティストです。コピーや模倣というスタイルを武器に使い、アメリカの繁栄をシニカルに表現しているともいえるでしょう。初期の代表作は、水槽の中に3つのバスケットボールを浮かべただけの作品、チンパンジーのバブルスを抱いているマイケル・ジャクソンの金ピカ彫刻、大量生産された新型の掃除機をアクリルケースの中に並べただけの作品などが知られています。ポルノ女優で妻だったチチョリーナと一緒に『メイド・イン・ヘブン』という巨大看板のような作品を制作したこともありました。そして、バルーンアートのうさぎを鏡面仕上げのピカピカなうさぎに変身させた『ラビット』で一躍、誰もが知るスターとなったのです。」
—『美術館に行く前3時間で学べる 一気読み西洋美術史』ナカムラクニオ著
Posted by ブクログ
一気に読む西洋美術史とタイトルにあるように、絵はなく文章のみ。
絵画鑑賞の要素はないが、
作者の新しい視点や、名画の裏話、
画家の人生など、興味深い内容で
飽きさせる事なく、西洋美術史の流れを
一気に学ぶことが出来る。
ラスコー洞窟画から、バンクシーまで
2万年以上に渡る歴史を読んできて、
バンクシーのアートが、実は先史時代の壁画
と似ているという指摘は、興味深かった。
他にも金ピカうさぎのオブジェが、
100億円!など面白い話が満載で、
美術館に行く前に3時間で読みきるのは
難しいが、美術館に行くのが楽しみになる良本
だと思う。