【感想・ネタバレ】安楽死が合法の国で起こっていることのレビュー

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Posted by ブクログ

ネタバレ

安楽死は個人の意思によって実行されるものという建前のもと、社会からの要請で死んだほうがメリットになる社会的弱者を締め出すものとなりかけている。経済的な状況や支援を得られない人が政治的に殺されている。カナダでは医療や支援がない人の最後の手段になってしまっている。それは元々の原則から逸脱した政治的な安楽死であり、到底この安楽死の制度を認めるものであってはならない。

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2024年01月29日

Posted by ブクログ

ネタバレ

尊厳死=終末期の患者に積極的治療を開始しない、中止する。=消極的安楽死。死ぬに任せる
安楽死=積極的安楽死と医師ほう助自殺。
海外でも、積極的安楽死を認めるところも多い。
医師ほう助自殺を尊厳死に含ませる国もある。

2007年は、オレゴン州、オランダ、ベルギーが安楽死を認めていた。スイスは、医師自殺ほう助が認められていたため、支援機関が存在する。
カナダが生涯や不治の病がある人にも安楽死ができるようになった。
スイスはスイス国民と1年以上滞在した外国人には医師ほう助自殺機関が合法的に活動している。
重大な病気はなくても、QOLの低下に耐えられないという理由で自殺をほう助していいか。高齢者の理性的自殺は容認されるか。容認されるとしたら、障害者、精神疾患、認知症はどうか。子供はどうか。コロナで絶望感を抱いた高齢者はどうか。
現時点で意思が表明できない人が過去の意思表明に頼って自殺をほう助していいか。手が動かない人はほう助でなく安楽死させていいか。
すべり坂状態。どこまでも範囲が拡大していく。

安楽死を望んでいる人は、ほんとうに死を望んでいるのではなく、この状態で生きるなら死んだほうがいい、と考えているだけ。

救命可能性からQOLの低下が指標になってきている。
安楽死は権利か。ある人に認められてほかの人には認められないのはおかしい、という権利議論の中に、すべり坂が内包されている。

医師ほう助自殺の要件に満たない人が、絶食によって、終末期と同じ状態にする代替自殺方法もある。そのための緩和ケアもある。やがて余命6か月以内という医師ほう助自殺の要件に達する。

死にたい、という自己決定が果たして正しいものか。終末期の患者の考えは揺れ動くもの。長い時間をかけてよりそわなければ、本当の理解と自己決定は出てこないはず。認知症、精神発達知的障害のある人、こども、は本人の自己決定は誘導的になりやすい。
安楽死の自己決定原則は崩れかかっている。ナチスによる障害者の強制安楽死と同じではないか。

安楽死と臓器提供。死ぬ前に臓器を取り出したい=脳死判定で取り出せるようになった。さらに自己決定権としての安楽死に誘導できればもっと臓器提供はたやすくなる。=無益な治療論。
テキサス州の無益な治療法=無益だと認められれば生命維持装置を外すことができる。
無益な治療論でも安楽死と同じすべり坂現象が起きている。脳死が植物状態から最小意識状態に変化しても、無益な治療だと判断されることもありうる。回復不能なら無益と言われかねない。
健康寿命もあまり浸透すると、この議論に巻き込まれかねない。健康でなければ生きている価値がないとならないか。健康寿命という言葉は、無益な治療を示唆していないか。

パーソン論=パーソンとは生物学的だけでなく一定の知的能力が必要とする考え方。
治療の費用をワクチンに回せば多数が助かる、という理論には気を付ける。功利主義的で、優性保護になりかねない。
自分の意思を表明できない人たちがドナーに含まれるのではないか。
脳死に至らない患者から人工呼吸医を外して数分呼吸が戻らないことを確認して、死とする=ドナーとできる。
あらかじめ臓器提供を希望している人から取り出せるのなら、無益な治療を行う患者から臓器を取り出しても問題はない、という考え方。
さらに、潜在的なドナーは必ず死ぬ。治療が無益だと判断されれば。=循環死後臓器提供。

コロナのトリアージ=高齢者を救うのか。利益の最大化を考えると高齢者、障碍者、難病患者は救わないという
結論に達する。
尊厳死の法制化=医師に促されてあらかじめそのような意思決定をしておけ、という誘導にも聞こえる。

医師によるパターナリズムから患者の自己決定権、無益な治療論の意思の決定権、へと議論が進化した。いずれの過程にもすべり坂が存在する。

家庭内ケアにもすべり坂が存在する。家族介護者による自殺ほう助に対する寛容な判決。
本人の自己決定により医師ほう助自殺を選んだとしても、残された家族には、まだ何かしてあげられたのではないか、というしっくりこないものが残るのではないか。

患者の死にたい、という言葉をそのまま受け取ることは理解とはみなさない。医師は要件に合っているかを判定する前に、苦しみに伴走する姿勢が必要。
患者の考えや意思は揺れ動く不確かなもの。
すべり坂現象が、医療職の命への畏怖を失わせることにならないか。
1回目と2回目の判断の時間が短く緩和されるること、安楽死の日常化によって、医師ほう助自殺が例外から通常に行われる医療行為になってしまうこと、への恐れがある。

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2023年12月15日

Posted by ブクログ

ネタバレ

タイトル通りの前半部分と、著者の主張と医療批判強めに出てくる後半部分。笑

そう言う意味では、著者の立場がかなり明確。というよりも、偏っていると思って読む方がいいのかな、と思いました。

医療サービスって、当然資源的な制約もあるし、医者だって人間であるわけで、医療にかかればどんな病も解放に向かうわけではないし、医者は全知全能の神ではないのです。

また、医療の進歩とはいえ先進的な治療はスキルと費用がかかるし、資源を有効活用するためにトリアージという仕組みがあるわけで、それを批判されてしまうと「では、どうしろと?」という疑問を持たざるを得ません。

こう書くと、それは今わたしが切り捨てられる立場にいないからだという反論もありそうですが。

少数派の意見をどう社会に反映させるか、という課題はLGBTQの話題にも関係するなぁと思うのですが、この場合は「選択肢を増やすこと」で多くのケースに対応できると思うのです。

そう考えたときに、安楽死という選択肢また取り入れる方向で議論していくのは、そこまで飛躍した発想ではないようにも思います。

もちろん、選択肢のひとつとして。です。

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2024年01月26日

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