あらすじ
近代美学は、17~19世紀のヨーロッパで成立しました。美学と言っても、難しく考えることはありません。「風に舞う桜の花びらに思わず足を止め、この感情はなんだろうと考えたなら、そのときはもう美学を始めている」ことになるからです。本書は、芸術、芸術家、美、崇高、ピクチャレスクといった概念の変遷をたどり、その成立過程を明らかにしていきます。
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「ピクチャレスク」の概念について論じた第5章は、現代の「映え」ブームを考える上で、とても面白い読み物になっている。また、「崇高」という概念が含む様々な意味合いに興味をそそられた。読者の立場に配慮した懇切丁寧な構成もありがたい。良書である。
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以前『美学への招待』を途中まで読み挫折してしまったが、こちらは読みやすかった。巻末の読書案内も興味ごとに紹介されており、次の段階への足掛かりも用意されている親切設計。
ただ、冒頭で筆者がことわっているように西洋に重きを置いているため、より広く知るには他にも読む必要は出てくる内容。
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「芸術」という概念が古代からどういう変遷で現代に至るかを分かりやすく解説している本。
どの章も面白かったが、個人的には4章の「崇高」と5章の「ピクチャレスク」が特に興味深く感じた。分かりやすく読みやすい文章でスルスルと読めて読み終わるのが寂しくなるような一冊でした。
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巷で話題の図書。美術や芸術という言葉にアレルギーがある私でしたが、「美学」は哲学的な学問だと冒頭での説明に急に親近感。
近代西洋における美学の概論という内容で、各テーマごとに起源、成り立ち、現代における捉え方と丁寧に解説してくれており、初学者としてとてもとっつきやすい構成となっている。
前半は古代、中世、近代と芸術や芸術家、美の意味することが異なっており、一部にはそれらの概念が17-18世紀ごろの近代までなかったという驚き。現代の私たちが当たり前と思っている感覚の成り立ちにおける趨勢を体感できる。
特に感じ入った点。カントの「判断力批判」を引き合いに出し、個人的に疑問に感じていた美的感覚は個人的な感覚なのに、他人と共通で美しいと感じる作品やもの、風景があるのはどいうゆうことかな?という問いに一応の答えが与えられたことがよかったかな。(美は主観的であるにもかかわらず、普遍妥当性を要求するもの。)でもなんで味覚との対比で美が普遍性を要求するという位置付けなんだろう?美味しいものも他人と共有したい気持ちはありそう。。という疑問は払拭できず。
後半では、「崇高」と「ピクチャレスク」といった自分には初めての概念を学ぶことができ、この学問への興味が掻き立てられた。読書案内も充実しており、活用してさらにこの学問への興味を深めていきたい。良い出会いでした。
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井奥陽子(いおく・ようこ)
日本学術振興会特別研究員。東京藝術大学美術研究科博士後期課程修了。博士(美術)。二松學舍大学、実践女子大学、大阪大学などの非常勤講師、東京藝術大学教育研究助手を経て現職。専門は美学・思想史、とくにドイツ啓蒙主義美学。著書に『バウムガルテンの美学――図像と認識の修辞学』(慶應義塾大学出版会、2020年)、共著に樋笠勝士編『フィクションの哲学――詩学的虚構論と複数世界論のキアスム』(月曜社、2022年)がある。
私はあるとき、茶道に造詣の深い友人に「和菓子は芸術だと思う」と言われました。話を聞いていると、それは次のような理由からでした。茶道教室で頂く和菓子には、いつもはっとさせられるような表現で、季節の移ろいが細やかに反映されている。絵画や彫刻に引けを取らないほどの美しさと熟練の技だと思う、と。
文芸でも、18世紀に小説が誕生したことが転換点になりました。小説とは、荒唐無稽なファンタジーではなく、人間や社会の姿を現実に即して描いた物語のことを指します。18世紀は識字率が向上し、印刷産業が飛躍的に発達した時代でもあります。中産階級も読書に親しむようになり、数多くの本や雑誌が人々の手に渡るようになりました。小説はそうした新しい読者層に人気を博し、文芸の主要ジャンルにまで発展しました。
みなさんは絵本を読むことがありますか。よい絵本は大人になってから読んでも、はっとさせられることがあるものです。
美とは美しいものにあるのではなく、ものを美しいと感じる人のなかにある。
このようにプラトンは、神は世界を創造するときに数学(とくに幾何学)を使ったと考えました。彼は「神は永遠に幾何学する」と言ったとも伝えられています。幾何学者としての神という考えはのちにキリスト教と融合し、中世には口絵4のような、コンパスを持った神の図像も生まれました。
こうしたことから、多くの様々な部分を持っていながらも全体としては統一がとれたものこそが美しい、と考える思想があります。これを「多様の統一」と呼びます。
レオナルドの名言として知られているものに、「私の芸術を真に理解できるのは数学者だけである」というフレーズがあります。これも手稿に残された言葉で、原文では「数学者でない人は誰も私の作品の要素・原理を読みとらない」となっています。彼の卓越した作品は実は数学的に構築されているということです。その要素のひとつがこうしたプロポーション理論でした。私たちがその原理を垣間見ることができるのは、没後に手稿が編纂されたおかげです。
歴史学者や文筆家としても活躍した哲学者デイヴィッド・ヒューム)です。
美はものそのもののなかにある性質ではない。ただものを見つめる心のなかにのみ存在する。
カント(図11)はイギリスの思想家と同じく、美については基本的に主観主義の立場をとります。私たちが何かを「美しい」と言うことができるのは、そのものが美を持っているからではありません。目の前のものに私が美しいと感じている事実があるからです。心地よい感情が生じている、そのときの心の状態こそが美の根拠です。
では、道徳はどうでしょうか。たしかに道徳的によい行為を見聞きしたときも、立派だ、素晴らしい、尊敬に値する、といった心地よい感情が生じます。しかしそのように感じる理由は「その行為は人助けで、他者の人格や生命を尊重することにつながるから」など、はっきりと言うことができます。
道徳は個々人の感じ方を超えたところにある、客観的なものです。ある人が人助けをしたことを立派だと思うのは、誰かひとりではなくあらゆる人に当てはまる、つまり普遍的なものです。
「このワインは美味しい」と感じることは、完全に私だけのもの、主観的なものです。あらゆる人に当てはまることではなく、普遍的ではありません。正確を期するなら「このワインは私にとって美味しい」と言わねばなりません。
たとえば時計は、部品に不備がなく正確に時刻を示すものであれば、あるいは時刻を知るのに役立つものであれば美しい、ということにはなりません。実際、壊れた時計に美を感じることもありえます。同じように、廃墟となった教会はもはや教会として使用することはできませんが、カントの立場にたてば、廃墟の美を論じる可能性が開かれます。
美が自律的であるなら、何にでも美を見いだしてよいことになります。廃墟のようにそのものとしては不完全なもの、道徳や宗教や社会に反するようなもの、倒錯的なもの、醜いと言えるようなものでも、その人が美しいと感じさえすれば美しいものになります(カント自身は、他人の意見に流されず自分の感じ方に従うという意味で、趣味に対して「自律」という言葉を使っています)。
美や芸術に携わる人は、どのような場面であっても政治や道徳に無関心でいてよいのでしょうか。美を理由にすれば何でも正当化されるのでしょうか。意見が分かれるところかと思いますが、私はそうした態度は是認しがたいと感じます。
美に耽し、美だけを追い求めることは、ときに取り返しのつかない破滅を招くことになります。19世紀的な価値観を前提にして美を素朴に称揚することで、他者の生命や尊厳を脅かすようなことはあってはなりません。そのことを私たちはリーフェンシュタールの例から学ぶべきではないでしょうか。
私は美しいものが好きです。哲学が精神の薬なら、私にとって美は心の薬です。美を感じてこそ、楽しいことばかりでない日々も生きやすくなると感じます。しかし美の力は大きく、ときに毒にもなります。だからこそ、美の自律性は近代に確立されたものであり、その価値観が普遍的ではないことを意識しておくのがよいのではないでしょうか。
山に入ると帰ってこられなくなる、というのが珍しくない時代を想像してください。そうした時代に山に登るのは、やむをえない理由があるときだけです。通商や戦争などのために、山を越えなければ訪れられない場所へ行く必要があるときや、鉱物や薬草を採取するとき、あるいは修道士が俗世を離れて生活するときなどです。
ヨーロッパで山を神聖視する文化の代表としては、古代ギリシャと旧約聖書の世界があります。 ギリシャ神話では、主要な12人の神々はオリュンポス山に住むとされ、詩や音楽の女神たちはヘリコン山やパルナッソス山に祀られました。旧約聖書では、シナイ山でモーセが十戒を授けられ、アララト山にノアの方舟が漂着したと伝えられています(図2)。
他方で、山は邪悪で陰鬱な場所とみなされることもあります。 たとえば、スイスにピラトゥス山という険しい山があります。その山頂付近の湖には、イエス・キリストを処刑したローマ総督ピラトの霊が出没すると伝えられ、16世紀まで公式に立ち入りが禁止されていました。この山には竜にまつわる伝承も残っています。悪霊や魔物の巣窟として山が語られる伝説は、洋の東西を問わず枚挙にいとまがないでしょう。 山に対する畏怖の念は、このようにポジティヴなイメージとネガティヴなイメージの両方を生みだしました。
山ほど醜いものはない、とバーネットは言います。ところが山について述べる箇所の冒頭では、海や山ほど眺めていて喜びを感じるものは広大な空の他にはない、とも書いているのです。 彼は続けます。こうしたものには荘厳な雰囲気があり、私たちは思わず神に思いを馳せる。人間が把握するにはあまりに大きくて無限を感じさせるものは、私たちをその過剰なまでの巨大さで圧倒し、心は「ある種の心地よい茫然自失と賛嘆」に陥る、と。彼はすぐさま、とはいえ山は世界の廃墟であって、その壮大さに感嘆するべきではない、と付け加えます。
彼らのような人々を経て、崇高の概念が自然についても当てはめられるようになると、文芸では強調されていなかった特徴が前面に出てきます。彼らがアルプスで感じたような無秩序さや醜さです。そしてそれにもかかわらず心が高揚するという、矛盾を孕んだ感情です。
美の概念についても、同じ頃に転換が起こりました。美しいものとは均整のとれたものであり、よって美はものがもつ性質であるという思想が支配的だったところ、美はそれを感じる人の心のなかにあるという思想が優勢になったのです。このことは美が道徳や有用性などから独立した、自律した価値とみなされるようになることを促しました。
・佐々木健一『美学への招待 増補版』中公新書
2019美学の入門書と言えば、この1冊。国際美学連盟会長などを歴任した著者が、センス、コピー、スポーツなど身近な事柄を美学的に掘り下げる。最近の研究動向を踏まえた展望も語られており、幅広い人におすすめ。
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素晴らしい一冊。興味のあった美学を知りたいと購入。美と崇高とピクチャレスク。分かりやすいし、これからの美術鑑賞にも役立つ内容。
カントも学んでみたくなった。
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現代の人が考える「美」や「芸術」「芸術家」への考えが過去より連綿と紡がれてきたものではなく、当時の人々によって再考され、新しく生み出されてきた、比較的新しい概念であることを初めて知った。
美学という初めて触れるジャンルであったが、歴史通じて、時系列で記述されながら、ところどころでその時代ごとの繋がりが強調されていた。
「美」への接し方や考え方を再考するキッカケになり、読んでいてとても面白かった。
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「美しい」とは何か、哲学的に考えたくなり読む。「美しい」の考え方が歴史的に変遷する状況を学ばせてもらう。哲学的に一言で「美しい」と語るのは難しいが、美は技術で崇高で主観だ。誤読とも思うが、この言葉をもとに、考え方を深めていきたい。
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西洋近代に生まれた美や芸術に係る諸概念の変遷を概説しながら、現代の私たちのアートへの向き合い方について考えさせてくれる一冊。
初学者向けに分かりやすく体系化された本なので非常に読みやすい。特に最終章で取り上げられるピクチャレスクの話題は、身近な観光やSNSの話にまでリンクするので興味深かった。
既に一定の知識がある方がこの本を読んでどのように感じるかは分からないが、入門書としては非常に良いと思う。
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美学とピクチャレスクについて、とても興味深く読んだ。美術品や現実の風景を見て、心が揺さぶられることの仕組みを言語化して理解しようとする試みをもっと学びたいと思った。
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建築家や彫刻家や画家はギルドに所属し教会や貴族からの注文通りの造形作品を制作していたが、ルネサンス期には商業が発展し豪族などが職人のパトロンとなることで制作の自由度が増し、技術の向上の余地も生まれる。職人の諸技術のうち美しいものが芸術と呼ばれ、その地位は向上、アカデミーも創立され、芸術家は独立した知識人の地位を認められる。やがて芸術作品には作者の内面が表現されているとされ、美を対象のプロポーションに見出す客観主義ではなく美は受け手の内面に生ずるとする主観主義が優勢となり、芸術家は独創的な世界を創造する天才と扱われるに至る。この傾向は作者の感情を表現するロマン主義に通じる。また、美が主観的なものとなったことに加え、アルプスの山越えが盛んに行われるようになったことで、感覚で捉えきれない圧倒的な自然に対する畏怖を含んだ「崇高」さが着目される。表現しがたい崇高さの表現を目指す姿勢が前衛的な現代アートに繋がる。一方で、風景画が市民の間で流通するにつれて、絵になる自然の景色が「ピクチャレスク」と認識される。イタリア風景画への憧れから、従来の整形式庭園からイギリスの風景式庭園への転向が起こり、軌を一にしてピクチャレスク理論も成立した。ピクチャレスクは現代の写真が広く普及した情勢では重要な概念だろう。
美、崇高、ピクチャレスクから、近代の美意識が形成されている。美意識は決して普遍的なものではなく、文化や制度に大きく依存してあくまで主観的に成立するものである。
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初めて美学に関する本を読んだ。研究者らしい簡潔な文章で書かれていて読みやすい。崇高やピクチャレスクなど抽象的な概念について、具体的な絵画を引用し、わかりやすく説明している。他の美学の本も読んでみたい。
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この本を読んで、美しいものに対峙した時の語彙が増えたと思う。
美、崇高、ピクチャレスク。これらの概念を整理し、さらに現代の美が近代ヨーロッパの基準に沿って作られていることも明らかになって、そこを強く意識できるようになった。
美はそれだけで賞賛すべきか?
「人種的な美しさ」という回答に沿って我々は美容をしていないか?
また、自分の美に対する考え方が、客観的美の立場であること、さらに言えば、「幾何学の神」であることがわかった。ならば、積極的に主観的美の立場を取り込んでいきたい。
この本を読んで覚えていることは、美、崇高、ピクチャレスクを意識すること。そして、芸術という単語は近世のものであること。最後に、芸術は300年前ほどから、常に「天才」という概念によって支えられていること。神にも等しい創造主になれることに熱い情熱を燃やした人間が、近世以降に見られた特徴で、逆に言えばそれまでは重視されていなかったことが、驚きのようである。
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最初の数ページにカラーの絵画などが掲載されているのが視覚的に面白かった。本の内容と関係している絵である。崇高などの美学に関する言葉の細かい説明が書いてある。主に現代の芸術に対する問題提起があってよかった。
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美学についての論考だが、難しかった.美をどのように定義するかに関して、神が登場するのは予測していたが、17世紀辺りまで、その影響は多大だった由.芸術に関しても、詩、音楽、絵画、彫刻、建築の主要ジャンルが18世紀頃に確定して、それぞれ独自の発展が見られるが、当時は一般大衆がそれらを味わうことはなく、富裕層の嗜みだったようだ.風景を素晴らしい感じるのも、裕福な人たちがグランドツアーと称する旅行で特異な情景を目にしたのがきっかけで、写真のない時代に現地でスケッチしてものを、後から絵画に表すことでアルプスなどの絶景が紹介されたようだ.「美」をベースに歴史の勉強をさせてもらった感じだ.
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近代美学について、簡潔にまとめた、ありそうで無かった入門書。
特に崇高とピクチャレスクについて触れられているのが、貴重。
崇高はカントの判断力批判で学んでいたが、このことを含め、全編を通して得難い復習ができた。
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われわれが「美」についていだいている素朴な理解が、近代以降に形成されたものだということを解説し、そうした「美」の理論をつくり出した思想家たちについて紹介をおこなっている本です。
古代から中世にいたるまで、「アート」に相当する概念は、近代以降の「芸術」とは大きく異なるしかたで用いられていました。天災による創造ではなく、職人の技芸を表わすことばとして理解されてきたこれらの概念が、どのような経緯をたどって現代のわれわれが理解する「アート」に変遷してきたのかということが、簡潔に解説されています。つづいて、近代美学の中心的な概念である「美」と「崇高」と、さらに「ピクチャレスク」の概念がとりあげられ、それらが形成されてきた過程についてもわかりやすい説明がなされています。
オーソドックスな近代美学の入門書では、下級認識能力である感性の学として、バウムガルテンの美学がとりあげられ、それがカントによって継承されたことに多くのページが割りあてられて解説がなされているように思います。これに対して本書では、カント美学はヒュームのそれとともに、美の根拠を主観と客観のいずれのうちに求めるのかという問題を提起したという点だけに絞って紹介がなされており、哲学的な内容に立ち入るよりも思想史的な観点から説明することに重点が置かれているように感じます。