【感想・ネタバレ】推し、燃ゆのレビュー

あらすじ

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい――。第164回芥川賞受賞、世代も国境も超えた大ベストセラー、待望の文庫化! 解説=金原ひとみ

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Posted by ブクログ

ネタバレ

人と同じように生活することができないあかりを、推しはピーターパンの姿で「ネバーランドに行こうよ」と外へ連れ出そうとしてくれた。あかりは推しの全てを解釈し、推しの目で、推しの体で世界を感じたいと思うようになる。そうすれば自分のままならない生活や環境から、意識をネバーランドに向けることができる。
体力も時間もお金も気力も全てを推しに極限まで捧げることで、あかりは現実から解放された。
けれど、推しが引退したことで、あかりもある意味で死んでしまった。「推しが結婚したから会社休みます」とか言っているレベルのファンとは違うレベルで推しに全てを注ぎ込むことでギリギリ生活できていたあかりが、自分の生活のできなさに直面するのはしんどい。それでも最後は、どんなに無様でも、二足歩行が苦手でも生きていくのだ、とお骨(綿棒)を拾ったあかりを応援したくなったし、懸命に生きていってほしいと思った。

程度の差こそあれ、現実から解放してくれる何か(アイドルでも、何かのコンテンツでも)にのめり込むことは、生きていく上での大きな支えになってくれると思う。多くの人にはあかりのように、目を背けたくなるような現実が多少なりともあるのではないか。そんな現実に直面して蒸発したり爆発したりする人もいる中で、何であろうと自分の中での「推し」を見つけ、それを支えに生きている人は偉いと思う。逃げたくなるような現実から一時離れて生命を維持する手段として、何か他の主体に執着することは、とても健全で賢明なことである。他の人がそれをなんと言おうと。

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2026年02月07日

ネタバレ

アイドルも、おたくも必読な本

推しが存在したことも燃えたこともある身からすると、主人公の思いも行動もリアルで心抉れました。 推し活とは推しに自分を重ね託すことで、どうしようもない自分の生活が救われ、承認欲求が満たされる行為です。誰かのために生きるという観点からすると、子供や親や恋人のために仕事・生活を頑張ることと同義です。主人公の行き過ぎた推しへの想いや熱度を私は愛しいと感じました。
そして、自分の全てをかけ生きる糧としたファンがいたことが上野真幸にも伝わっていればいいとも思ってしまいました。
誰かを推したこと、推されたことがある全ての人に読んでほしい作品です。
生きていく意味を失ったあかりが次の生きる糧を見つけられることを願わずにはいられないです。

#切ない

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2023年09月03日

Posted by ブクログ

ネタバレ

自分もアイドルの追っかけをしていた事があり、まさに今はその生活を引退し自分だけの人生を生きる訓練をしているところです。

主人公の推し活の様子や推しへの感情の昂り、特に最後のライブのシーン……共感できる部分も沢山ありましたし読んでいて楽しかったです。

主人公のそれが推しだっただけで、自分じゃない何かを(背骨)にして生きている人ってすごく多い気がします。自分自身を背骨にして、それをまっすぐ正しながら生きるって苦しくて面倒だからです。悪いことではないと思います。
だけどそれと自分という存在が別物であること、その背骨が取り上げられたとしても、自分の足で立って生きていかねばならないこと。
最後のシーンでそれに気付けた主人公、私はそれだけでもまずは立派だと思う!光が差したような気持ちになりました。

少しずつでいいから今の自分を受け入れ、また体の底から興奮や感動が湧き上がってくるような素敵ななにかに出会える日まで、主人公と一緒に私も頑張って生きようと思えました。一気読みしてしまった。面白かったです。

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2026年01月11日

Posted by ブクログ

ネタバレ

推しの炎上で崩壊する少女というよりは、おそらくADHDにより推し活を制御できず、生活も崩壊していく少女の話だった
自分の人生や時間を、自分以外の人間を信じて全ツッパするっていう行為、自分はこの先もできないだろうな

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2025年12月31日

Posted by ブクログ

ネタバレ

◾️record memo

あたしは触れ合いたいとは思わなかった。現場も行くけどどちらかと言えば有象無象のファンでありたい。拍手の一部になり歓声の一部になり、匿名の書き込みでありがとうって言いたい。

寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなかった。いつも、最低限に達する前に意志と肉体が途切れる。

肉体の重さについた名前はあたしを一度は楽にしたけど、さらにそこにもたれ、ぶら下がるようになった自分を感じてもいた。推しを推すときだけあたしは重さから逃れられる。

この痛みを覚えている、と思う。高校一年生の頃のあたしにとって、痛みはすでに長い時間をかけて自分の肉になじみ、うずまっていて、時折思い出したように痺れるだけの存在になっていたはずだった。それが、転んだだけで涙が自然に染み出していた四歳の頃のように、痛む。

あたしのオタク活動に、姉はたまに口を出してくる。なんで好きなの、と不思議そうにする。あんた、塩顔好きだったっけ。明仁くんのが目鼻立ちはっきりしてるし、歌もセナくんのほうがうまいでしょ。
愚問だった。理由なんてあるはずがない。存在が好きだから、顔、踊り、歌、口調、性格、身のこなし、推しにまつわる諸々が好きになってくる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の逆だ。その坊主を好きになれば、着ている袈裟の糸のほつれまでいとおしくなってくる。そういうもんだと思う。

あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。

勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。

世間には、友達とか恋人とか知り合いとか家族とか関係性がたくさんあって、それらは互いに作用しながら日々微細に動いていく。常に平等で相互的な関係を目指している人たちは、そのバランスが崩れた一方的な関係性を不健康だと言う。脈ないのに想い続けても無駄だよとかどうしてあんな友達の面倒見てるのとか。見返りを求めているわけでもないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする。あたしは推しの存在を愛でること自体が幸せなわけで、それはそれで成立するんだからとやかく言わないでほしい。お互いがお互いを思う関係性を推しと築きたいわけじゃない。たぶん今のあたしを見てもらおうとか受け入れてもらおうとかそういうふうに思ってないからなんだろう。実際推しがあたしを友好的に見てくれるかなんてわからないし、あたしだって、推しの近くにずっといて楽しいかと言われればまた別な気がする。もちろん、握手会で数秒言葉をかわすのなら爆発するほどテンション上がるけど。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。

延々と同じ模様を描く汚れたタイルや点字ブロックの上を、スニーカー、革靴、ピンヒール、多様な形状をした靴がばらついた音を立てて絶え間なく打ち付けている。人の汗や手垢が建物をぶち抜く柱や階段の縁にこすりつけられ、人の呼吸が、同じ直方体の連結した車両内にあふれている。コピペしたみたいに階の積み重なったビルへ続くエスカレーターに人が押し寄せ、吸い上げられる。機械的な繰り返しのなかに人間が動いている。どの投稿も四角い縁で囲まれ、円のなかに等しくアイコンが切り取られ、まったく同じフォントで、祝ったり、怒ったりしていた。あたしの投稿もあたし自身も、そのなかの一部だった。

やめてくれ、何度も、何度も思った、何に対してかはわからない。やめてくれ、あたしから背骨を、奪わないでくれ。推しがいなくなったらあたしは本当に、生きていけなくなる。あたしはあたしをあたしだと認められなくなる。

あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった。
もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。

散々、道に迷い、バスを乗り間違え、パスモを落としそうになった。最寄り駅に着いた頃には二時になっていた。家に帰った。帰っても現実が、脱ぎ散らした服とヘアゴムと充電器とレジ袋とティッシュの空き箱とひっくり返った鞄があるだけだった。なぜあたしは普通に、生活できないのだろう。人間の最低限度の生活が、ままならないのだろう。初めから壊してやろうと、散らかしてやろうとしたんじゃない。生きていたら、老廃物のように溜まっていった。生きていたら、あたしの家が壊れていった。

綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。綿棒をひろい終えても白く黴の生えたおにぎりをひろう必要があったし、空のコーラのペットボトルをひろう必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える。

這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。

先ほど私は散髪屋の玩具を例にあげながら、戦わせながら切り終わりを待っている、と書いた。そういう場合の人間は、自分ではないものに自分を仮託して、待っているのだ。何を?そうしないではとどまっていられないような、苦痛な時間の終わりを、だ。

個人にとって苦痛な時間が、多くの人に訪れる。それはやすやすとはぬぐわれず、忘れる瞬間か、偶然救いが訪れる瞬間を待つしかないというのは、あるひとつの正解ではないだろうか。がんばったから救われるわけではなく、そして待っていて必ず救われるかというとそうではなく、そんなことをしているあいだに自分がもたなくなることもある。ある日ひょんなことで隙間から脱出できることが、あるか、ないかは偶然が決める……小説を通すと別の結論にいたることはあるが、現実世界の私はいつもこう考えている。

さて、苦痛の過ぎ去るのを待つあいだに何をするかだが、この作品の主人公が選んだのは「推す」ことだった。

口を閉じている存在を軽んじる先輩や大人にはどうか背を向けて、心の柔らかい部分をまもって生きてもらえたらと願っている。

この世界を生きるために、何か一つ支えが足りない。言語化はできていなかったものの、私が幼いころから抱えてきた思いだ。どうしてこんなに息ができないのか、どうしてこんなに体が重いのか、どうしてこんなに人と同じことができないのか、どうしてこんなにこの世界は私にとって過酷なのか。ずっとそう感じてきた。そして今のこの瞬間だけでも生き延びるために小説を読み、小説を書き、爆音で音楽を聴き、泥のような恋愛をして、刹那的な遊びを繰り返し、薬や酒に逃げた。泥のような恋愛はいつも干上がった田んぼのようになって終わったし、刹那的な遊びや薬がもたらす快楽は翌日には自己不信に取って代わった。今の生活に残ったのは小説と酒と身を滅ぼさない恋愛、ライブやフェスに行くことだけだ。

私には推しという推しはいないものの、生活の柱として仕事以外にライブとフェス参戦を組み込み、自分が崩れないよう半ば無意識的にバランスを取っている。このライブに行ったら報われるから、この人前に出るイレギュラーな仕事も乗り越えられるはず、このフェスに行ったら一週間は多幸感に満ちてるからこの締め切り前のラストスパートと睡眠不足にも耐えられるはず、このちょっと苦手な編集者との打ち合わせは疲弊するだろうからライブ前日あるいは当日に設定しよう、とマリオカートでいうところのスーパースターやキノコみたいなアイテムのように使ったり、致死的なことがあっても平気なようにライフを回復しておいたりして、荷が重い仕事や苦手な人を乗り切るのだ。ちなみに学校のPTAや保護者会的なものは、直前にそれ相応のアルコールを服用してから出るようにしている。自分にもそうして生きるために縋っているものがある者として、この信奉することによって自分の生活や生そのものを支えることを「背骨」と称した著者のセンスには脱帽する。

「あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな」

それがなければ日常生活はおろか、立っていることすらできない、体を貫く骨。これが主人公が終盤で這いつくばるシーンにも効いてくる、重たく切実な、唯一無二の比喩だ。

最後の砦であった家族すら解体され個として生きる他ない人々が何を求めるのか、何と共に生きることを選ぶのか。本書はその問いの一つの答え、そしてその答えの先に見える景色を描いている。

現代人の多くは、この糸の切れた凧のような浮遊の中で無意識的に、自分を世界に、自分を日常に、自分を生に結びつけてくれるものを求め、推しを推しているのではないだろうか。コロナ禍で推しを持つ人が増えたのも、社会はいとも簡単に機能不全となる、死ぬ時は一人である、という事実がわかりやすく提示されたという理由からかもしれない。

あかりも身をもって体験するが、自分自身の背骨を誰かに委ねるのはリスクを伴う行為だ。しかし背骨のない生を、世界と自分を繋ぎ止めるものが何一つないまま平然と生きられるほど、人間は必然的な存在ではない。

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2025年12月26日

Posted by ブクログ

ネタバレ

2025.5月分読書
生き難い心地というのは一過性なのか、人生を覆うものなのか。学生時代はそれなりに生き難さを自分自身も感じていたが、過ぎれば青かったと思える。その一方で、あの頃に戻っても、また苦しいだろうなとも思う。苦しい時間をどうにかやり過ごす方法は縋る藁は人にとって多種多様だろう。あかりにとっては推しだった。昨今のエンタメ業界をみると推しを本書で言うところの背骨にしている人は多いと思われる。
あかりのような推しを背骨にしてギリギリに生きている人が、本書に触れることはあまりないだろう。しかし、あかりたちは本書に触れないのに、本書はギリギリを生きるオタクを深い解像度で描いている。そのアンバランスさが趣深かった。一方からは交わらないのに、他方からは交わる。
また、あかりの「推し」の描き方も感服した。こういう話を描くときに現実のエンタメをオマージュしたくなるように思うが、まざま座の真幸くんは絶妙にいそつでいないように感じられた。また、真幸くんについての描写も多かったのが、あかりの背骨をしっかりと見えるようでよかった。
本書を読んだとき、正直あかりには感情移入できなかった。青春時代の1番どん底の自分を3倍に濃縮したような状態がずっと続いて後戻りできないようなところまで行ききっているような姿だったからだ。でも、あかりが見えている世界、吐き出す苦しさは普遍的なものに思えた。そして、私はその苦しさから逃れるために小説に縋っていたことを思い出した。今はほとんど読むことがない物語の世界で、息ができると思ていた当時の自分を思い出した。
最近、自分の特別に思える苦しみも普遍的なものなのだという安心と失望を感じている。本書もまたそれを与える作品だった。

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2026年02月01日

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