あらすじ
芥川賞受賞第一作。
公私共にわたしは「いい子」。人よりもすこし先に気づくタイプ。わざとやってるんじゃなくて、いいことも、にこにこしちゃうのも、しちゃうから、しちゃうだけ。でも、歩きスマホをしてぶつかってくる人を除けてあげ続けるのは、なぜいつもわたしだけ?「割りに合わなさ」を訴える女性を描いた表題作(「いい子のあくび」)。
郷里の友人が結婚することになったので式に出て欲しいという。祝福したい気持ちは本当だけど、わたしは結婚式が嫌いだ。バージンロードを父親の腕に手を添えて歩き、その先に待つ新郎に引き渡される新婦の姿を見て「物」みたいだと思ったから。「じんしんばいばい」と感じたから。友人には欠席の真意を伝えられずにいて……結婚の形式、幸せとは何かを問う(「末永い幸せ」)ほか、
社会に適応しつつも、常に違和感を抱えて生きる人たちへ贈る全3話。
感情タグBEST3
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Posted by ブクログ
歩きスマホ。
やっちゃうなぁ。私も。
だめだけど。
でもそれにこんな風に不快感を持つ価値観の人がいる。
こわい。
高瀬さんは人間が怖いと思わせる天才。
自分も歩きスマホをするのに自分が理不尽を押し付けられるのは許せないのが人間の性で。
私も歩きスマホしている人がぶつかってきたら。
道路に押したくなる気持ちがいつか芽生えるかも。。
自分のこの思考回路を植え付けられたような気持ちになる。
読むのが楽しかった。
嫌な気持ちになりたいときにもう一度再読しよう。
Posted by ブクログ
◾️record memo
駅や街中で人にぶつかられることがあると話した時、大地は信じられないという顔をして、実際に疑っているような声色で「おれ、ぶつかられたことないよ」と言った。何言っているんだろうこの人、と思った。大地は中学から大学卒業までバレーボールをしていたという。百八十センチ以上ある身長、腕にも足にも筋肉がそれと見てわかるようについている体。そんなものに誰もぶつかりに行くわけがない。と、そこまで考えて、なんだわたしやっぱりこいつならいいやって選別されてぶつかられてたんだな、と今更のように気付いたのだった。分かっていたけど、分かっていないことにしていたような。それで、わたしもよけるのを止めにした。よけない人のぶんをよけないことにした。
そう決めた日、大地のマンションからの帰り道で、初めて人にぶつかった。それはやっぱり駅でのことだった。東京では、駅に近づけば近づくほど人が人に憎しみを持ち、怪我をさせても不快にさせてもいい、むしろそうしたい、と思うようになる不思議がある。同じ人混みでも、混雑した店の中や祭り会場とは違う。駅の人混みだけが、人の悪意を表出させる。強制させられているからかもしれない。みんな、どこにも行きたくないのに、どこかに行かされている。
「おれ、ぶつかられたことないよ」という大地のことばを思い出した。ここに立っているのが大地だったら、あの男の人は視線をあげて歩くだろうと思った。壁みたいに大きな体の男が前にいたら、すれ違うまでは前を見るんだろうと。
ぶつかったる。
頭に浮かんだことばに、意識も体も引っ張られるように前を向いたまま、ただまっすぐ歩いた。スマートフォンを見ながら歩いている人は、存在しないっていうことにした。わたしの前には誰も人がいない。道に自分しかいない時に歩くスピードと歩幅で、まっすぐ歩いた。そうしたらぶつかった。男は驚いたみたいだった。えっ、とも、ちっ、とも聞こえる小さな声をあげて、でも何も言わずそのまま進んでいった。立ち止まって振り返ってみたけど、男の方は振り返らなかった。階段を下りて行く。姿が見えなくなる。
ぶつかった時に当たった左の二の腕が痛かったけど、五分もすれば消える程度のほのかな痛みだった。痕も残らない。残るのは、ああこれだったんだ、っていう納得。間違わなかった、正しいことをした、社会がどうとかではなく、わたしがわたしのために正しいことをした、と思った。
よけてあげなかったから、結果としてぶつかった。よけてあげる。スマートフォンに顔面から吸い込まれていたあの中学生に、わたしが何かしてあげるのは、なんか、おかしい。だからよけなくて良かった。怪我をしてでも、あの子のためにわたしが何かしてあげたりしなくて良かった。
さっと振り返るとレジのそばに男の人が立って、おばさんに何かを注意していた。名札は見えないけど「次は気を付けてくださいね」の言い方に店長か何かかな、と思う。十歳は若いであろう男の人に、はい、すみません、と答えるおばさんの声が本当に申し訳なさそうな響きを持っていて、うわべだけじゃなく感情を滲ませた声の使い方に、この人の立場の弱さを感じた。
どうしてこんなことをするのか理解できないのに、結婚してもいいんだろうか。祖母にぶたれて赤くなった母の腕を忘れない。同時に、ここで思い出すべきは祖母の暴力ではなく、腕を振り上げた祖母を目の前にして微動だにしなかった父だろう、と思う。思ってから、ぱっと浮かんだ母の腕の映像の隅に、取って付けたように父を登場させる。無理やり浮かばせた父の形はぼやけている。結婚したいなと大地は言ったけど、実はそれだって理解できてない。よくわたしと結婚しようなんて考えるな、と冷めてしまう。
大地といると、損得勘定ばかりしてしまう自分が卑しく感じる時があるけど、一方でこの人はこんなに与え続けても涸れないくらい、持っているし、人から与えられもするんだな、と白けた気持ちにもなる。お金がないと生活していけないのと同じように、優しくしたくたって与えられるエネルギーを持っていないと施せない。優しさが、そんなにたくさんあるなら、すこしくらいもらってもいいよね。世の中の大変なことはお互いさま、と言うなら、わたしがつらい目にあったぶん、大地に優しくされてとんとんだ。割に合わせるにはそうするしかない。
マスクの中で自分の吐いた息を吸う。他人がこんなに近い空間に押し込められて、マスクもしないでいられる人がいるなんて信じられない。
何かが肩に当たり、そのまま置かれる。目だけで振り返る。後ろに立つ若い男のスマートフォンがこつんと肩に載せられている。肩をゆすると、一瞬離れて、また置かれる。咳払いをしても無駄。ねえそれ、そんなに重たい?
人と人とがすれ違う時に、前を向いて歩いていたらお互いにちょっとずつ左右によける。自分のぶんと相手のぶんのスペースが平等になるようにする。駅だけでなく街中にながら歩きをしている人はいる。みんな、自分のぶんを誰かが代わってくれるから大丈夫だと思っている。わたしも誰かのぶんを担ってきたなあと、さっきよけた二人の男のことを考える。おそらく二度と会うことのない人。その人たちのぶんをわたしが担ったこと。これは忘れてはいけないな、忘れてはいけない、と口の中でつぶやく。手帳を取り出したかったけど、職場に着いてからにしようと思う。息が苦しくなって、マスクを外す。
忘れない、と思う。わたしは絶対に忘れない。それがあったことも、その時に発生した怒りも不快も、時間が経ったからって許さない。
おもしろーい、みたいな感じで。人質でも取られているみたいにいい子にするよね、と自分で自分に言う。なんでそんななん、と生まれ育った土地のことばで突っ込む。しゃあないやんそうしてしまうんじゃけん。言い訳をする自分の声。桐谷さんが不幸になりますように、と息をするように思う。これは会社で話す東京のことばで。しばしば、思う。
直子ちゃんって、ほんとにいい子だよねー。そんなふうに。その声には、彼女たち自身がまだ捉え切れていなかった「なんかむかつく」が見え隠れしていた。
帰りの電車も、朝ほどでないにしても混んでいる。人と密着はしないけど、鞄が触れたり毛先が触れたりする距離に立っている。電車ががたごと揺れる度、すこし緊張する。全員が全員不快な気持ちで過ごす。誰かが何かにいら立ち舌打ちをする。それが次の舌打ちを呼ぶ。この中に優しい人間なんて一人だっていない。優しい人は、東京じゃ電車にだって乗れない。
結婚するんだろうか、と考える。考えるのと同時に、考えるって言ったってどうせするに決まっているのに、とも思う。大地に結婚したいなあと言われた時、うれしい気持ちを探した。心の中を検分して、これじゃないという気持ちやことばをよけて。そうしてようやく「うれしい」と口に出して言った。言いながら頭の中にはふつふつと、別のことばが浮かんできていた。見る目ないな、教師のくせに。とかそういうの。
「結婚式ってする意味分かんない。自分たち二人だけならともかく、親族とか友だちとか職場の人とかの、貴重な休日の時間とお金を奪ってまで、自分たちが主人公の時間を演出して、大切なみなさんに見守っていただきながら本日晴れて夫婦となりました!とか言うでしょ。いやいやもう意味わかんない。あんな、ドレスなんか着て、見てくださいわたし主人公です、ばーん!って。恥ずかしい」
大地の家族と会った日にかぶっていた猫は、着ぐるみどころじゃない。この世に存在するありとあらゆる愛らしい猫ちゃんの皮を全部はいできて継ぎ足して、それでも足りない部分はキティちゃんやおしゃれキャットマリーちゃんで補強して作った、最強猫ちゃんで、そこにはわたしの要素はひとつもなかった。ついでに言うと着ぐるみの方はいつもかぶってる。大地の前でもかぶってるし、会社でもかぶってるし、家族の前でもかぶってるし、なんなら一人の時でもかぶってる。元の顔なんて、着ぐるみの中で蒸れて擦れて潰れて変色もしちゃって、原形がない。
にこにこしようとか、興味を持ってるふりをしようとか、そんなことばかり考えて、わたし、本当に他人に興味を持って話を聞く方法が分からない。
三年目になって仕事を覚えて、仕事ができている実感を持ってくると、仕事をしてるのに愛想まで求められるのは割に合わないと、思い始めた。後から付いてきた感情だった。
通勤電車は相変わらずぎゅうぎゅうに人間が詰め込まれている。ねえ大地、わたしが電車に乗る時にマスクをするのは、感染症予防のためじゃなくって、人間を汚く感じて、その人たちの口や鼻から出たり入ったりした空気に、直接触れたくないからなんだよ。マスクも着けずにあんなぎゅうぎゅうの電車に乗っている人たちのこと、頭がおかしいなって思ってるの。前を見ないで道路を歩く人のことも、怪我をして痛い思いをしたうえで死ねばいいと思ってる。そんなこと思ってる人間と結婚を考えるなんておかしいと思ってたけど、本気で考えているわけじゃなかったんなら、おかしくなかったね。やっぱり大地は本物だ。まともで、正しい。
驚くもんなんだな、と自分の反応に冷める。喉がぎゅっとしまって声が出なくなるほど、びっくりしていて、心の表面をざっと手で触ると、ところどころにひっかかりがあるようだった。傷が付いてるんだ、とこれにも驚く。ずいぶんやわな出来の心だ。傷ついたところに爪をたてて、さかむけを剥くみたいにして引っ張る。中身が見える。ほら、心の中ではわたしのことを好きでいる大地をばかだなと思っていたくせに。ようやくばかじゃないことが判明した大地に、びっくりして傷つくなんて。ださい。しんどい。うざい。
電柱の下、植込みの間に嘔吐の跡がある。投げ捨てられてひしゃげたビール缶が転がっている。泥水を吸ってコンクリートにはりついているハンカチは誰にも拾われない。こんなところで、丁寧なことばだけで、どうやって生きていけというの。
みんな、いい子だって言ってるくせに。にこにこしていたら安心するくせに。自分が傷つけられたぶん、囚われたぶん、取られたぶん、削られたぶん、同じだけを他人にも、と思う。だっておかしい。割に合わない。
わたしは、わたしが悪い時でも、わたしは悪くないって主張する。だって割に合わせただけだから。いいとか悪いとかじゃないから。わたしはわたしのぶんだけしかやりたくないから。全部背負っていくのは嫌だから。嫌だけどでも、やっぱり悪いことをしたって思ってる部分はあって、だけど誰にもそれは言えない。わたしが悪かったって認めたら、それは、わたしが割に合わないことを受け入れて生きていかなきゃいけないってことになる。顔をあげて前を向いて歩いている人ばかりが、先に気付く人ばかりが、人のぶんまでよけてあげ続けなきゃいけないってことになる。
プライベートの知り合いと比べて遥かに低いラインを引いて、職場の人たちを嫌いだと思えてしまう。この確信はなんなんだろう。自分が選んだのは仕事であって人間ではない、自分が選んだ人間ではないから、嫌ってしまってもかまわないと、そういう心理だろうか。大嫌い、と自分から切り捨てるように思うことができるのだから、わたしはきっとどこに行っても、誰と働いても嫌いになってしまうのだろう、と分かる。今目の前にいるこの人たちが特別悪い人間というわけではないのだ。
子どもの頃に出席した親族の結婚式で覚えているのは、マッシュポテトの上にキャビアなるつぶつぶが載っていたことと、「花嫁さん綺麗ね」と母に言われて見上げたウエディングドレスの女性をたいして綺麗だと思えなかったことだ。純白のきらきらした美しいドレスに、人間色の緊張した魂が突き刺さっているように見えた。けれど幼心に「うん」と答えるしかないと分かっていたので、そうした。わたしは今でも分からない。母が「花嫁さん綺麗ね」と言ったのは、本心からのことだったのか、親族に囲まれて座る丸いテーブル席で幼い娘にかける言葉の正解があれだっただけなのか、どっちなんだろう。今更訊いても、そんなこと覚えてないしやっぱり性格悪いわね、と嫌な顔をされるだけだろうけれど気になる。
結論としては、バージンロードから嫌だったから、つまり、初めから嫌だったということになる。直訳して処女道であるそれを、父親の腕に手を添えて歩き、道の先で待つ新郎に引き渡される図。新婦、物みたいだなあ、と最初に思った。それから、下品だなあとも思った。思ってしまったら、ふんわり広がった純白のドレスの下で、何センチもあるヒールに足をぷるぷる震わせながら必死で歩いているのも、新婦を一人で歩かせないための罠にしか見えなくなった。
式場スタッフが三人がかりで運んできた大きなウエディングケーキを前に、ケーキ入刀とファーストバイトが行われ、「ファーストバイトには、一生おいしいごはんを作るからね、という新婦からの誓いと、食うのには困らせないからな、という新郎の誓いが込められています」と説明がなされる。なにそれまじで気持ち悪いっ、と慄きながら辺りを見渡すと、握りこぶしほどもある特大スプーンを新郎に差し出した新婦と、こぼれるっこぼれるってとおどけて大口を開ける新郎に、みんながあたたかい笑い声をふりかけていてまたぞっとした。じごく、と言葉が浮かびかけ、結婚式の日にその言葉だけは頭に思い浮かべてはいけないような気がして、慌てて意識から遠ざけ、スマホのカメラを新郎新婦に向け直してボタンを連打して写真を撮った。
大音量で流されるウエディングソングでは二人の愛の尊さが表現され、自宅で家族だけに伝えた方がいいように思われる両親への感謝の気持ちを、なぜか新婦だけが手紙にしたためて参列者全員の前で涙ながらに発表し、新郎は泣いている新婦を支えるように肩や腰に手を添えているのだけど、自分は感謝の手紙を取り出す気配もない。新婦の涙を見つめながらなんでだろうと考えてみると、女性は生家から出され、夫の家にもらわれるので、夫側から見ると「別に今親にありがとうとか言わなくてもいいでしょ、これからもおれはおれの家にいるんだし」となるのだ!と思い至って衝撃を受けた。じんしんばいばい、とこれもまた今日このおめでたい日に当てはめるべきではない言葉が頭に浮かんできてしまう。会場のあちこちからすんすんともらい泣きの音が響き、拍手とともに「末永くお幸せに」「末永く」「末永く」と呪文が繰り返される。
人は人、自分は自分、などと言いながら、思いながら、これを気持ち悪いと思わないなんておかしい、と心から思って見渡すと、気持ち悪がるどころかみんな幸福そうに微笑んで、うんうん頷いて、目に涙を浮かべて感動している人までいた。末永く、末永くだよほんと。また呪文が聞こえる。うそでしょわたしだけ?一人一人に訊いてまわりたい。おかしいでしょあんなの、気持ち悪いじゃん、どう見たって。「分かる」と言ってほしかった。分かるよ、そうだよね、おかしいよねって。
家族の期待に応えること、地元で家族に囲まれて過ごし、家族を増やすこと。学生時代から人前に立つのが得意ではなかったりっちゃんが、自分が主役になる結婚式をしたいと思う意味。そこから生まれる幸福を、わたしは心で感じることができない。分からないから、触れられないから、近づくと苦しくなるから、同じようには願えないけど、りっちゃんが求めている幸せの形は明確で、「それっておかしいと思う」などと言い出すわたしがいない方がいいのは分かり切ったことだった。
Posted by ブクログ
*公私共にわたしは「いい子」。人よりもすこし先に気づくタイプ。わざとやってるんじゃなくて、いいことも、にこにこしちゃうのも、しちゃうから、しちゃうだけ。でも、歩きスマホをしてぶつかってくる人をよけてあげ続けるのは、なぜいつもわたしだけ?「割りに合わなさ」を訴える女性を描いた表題作*
とてもとても不思議な読後感。
「いい子」でいることの必要性や優位性は十分わかっているけど、「いい子」でいることの割に合わなさ、理不尽に摂取され、消費されることに対して疲れ果ててしまう気持ち…わかるなあ。
我慢の限界と静かな怒りがじわじわと沁みてくる様がリアル過ぎて痛い。
決してキレイなお話ではないけど、読んでいて苦しいのになぜか心地よい解放感もある読後感…
クセになりそうです。
Posted by ブクログ
「いい子のあくび」
主人公の生き方をしていたら疲れそう。ずっといい子でいられるのは強みだと思うが、嫌われたくなくて友人相手にもビクビクしているのは単純に可哀想と思ってしまう。なんで歩きスマホをしている側がよけなくてよくて普通に歩いている人がよけないといけないのか、という気持ちは共感できるが、かと言って自分が怪我をするリスクを負ってまでぶつかりに行く気持ちはわからない。正直この主人公とは友達になりたくない。関わりたくない。この作者は人間の濁った感情を言語化するのが得意だなと思う。
「末永い幸せ」
結婚と結婚式に対する気持ちが主人公と全く同じだった。私は参列しないことはないだろうけど、家族への手紙を読む時間とか、キリスト教形式の挙式で父親の手から新郎に新婦が手渡される瞬間は気持ちが冷え切ってしまう。茶番だと思う。関係ないが、キリスト教徒でもない日本人がキリスト教の結婚式で神に誓ってるのが理解できない。