あらすじ
「大いに疑問を持つ」探求者に、 聖書は真実の姿を明かし始める。
訳語、解釈の如何によって天地が入れ替わるほど真逆の結論に導かれてしまう。互いに矛盾し合う場面に満ちてもいる。この難解な聖書とどう向き合えばよいのか。これを正典として信仰を培うとはいかなることか。新約聖書学者がその「難解な箇所」を敢えて取り上げ、正面から挑んだ!
『どう読むか、 新約聖書 福音の中心を求めて』に続く、 青野太潮のヨベル新書、好評第2弾
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Posted by ブクログ
筆者の1994年の『どう読むか聖書』を読み、救いと贖罪の関係において、悔い改めがあるから救われるのではなく、救われているから悔い改めることができると言う、前提と結果の矢印の向きの関係に注意するようになりました。
本書でも同じポイントが繰り返し述べられていましたが、それに加えて一方通行の矢印で説明できない、円環のような考え方にも触れることができました。
具体的には、
>身体に機能の異なるそれぞれの部分があるように、人は一人一人違うものだが、身体を形作ると言う点においてはどれも同じく重要である。
>ある人がその内側に疑問を持つが故に、その人の内側と外側から答えが与えられる。
>神は不完全な現実すら許すが、その不完全さが克服されるが故に許されている。
などです。
どの考えも原因と結果と言う簡単な論理で理解できるものではありませんし、言い方を変えれば『不平等ゆえの平等』や『答えが分からないのに答えが出る』など、そもそも矛盾したことを言ってすらいるようです。
しかし、毎週の日曜日に教会に行き、聖書を読み、牧師の説教を聴くと言う行為は、こうした矛盾に対して自分なりに納得できるように考える事を諦めないことであり、それすらもキリスト教の信仰の一つの形なのではないかなと思いました。