あらすじ
ハンガリーの病院で左手の移植手術を受けたアサト。だが麻酔から醒めると、繋がっていたのは見知らぬ白人の手で――。自らの身体を、そして国を奪われることの意味を問う、傑作中篇!
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
他人の体と繋がることはどういうことなんだ?
本文にも出てくる、"他人を意のままに動かすことができるのか?"答えはNo。
私が司令塔であり、命令を下す側であり、手を従わせなければならない。
"自分の体"とは、他人を受け入れるということは、自我や受容について、少し医療の倫理的な視点もあって自分と他人の「境界線」についてめちゃくちゃ考えさせられた。
でもまさか、境界線に対して、国境の話が入ってくるとは思いませんでした。国と国の境目の話が出てくるのがとんでもなく説得力がでて、後半泣きながら必死に読んだ。
Posted by ブクログ
日本で生まれ育ったら、感覚的に国境を理解するのは難しい。島国ゆえの呑気さがたしかにあるのかもしれないと気付かされた。
厳しい言葉でありながら日本人の本質を突くドクトル・ゾルタンの考えは、日本という国と日本人を客観視する目線を与えてくれた。自らのことや身の回りのこととなると思考の偏りがどうしてもあるものだ。
他者とのコミュニケーションによって思い込みが取り払われることが往々にしてあると思う。それを、一冊を通してゆっくりと浸透させていくように読者に語りかけてくれるので拒絶反応は起きない。
「移植はな、君らみたいな、切り取ったら終わりの治療とは違うのだよ」ゾルタンのこの台詞には、過去も未来も、国や人の在り方も内包していて思わず唸った。
領土を奪い、また奪われていくことの意味や感覚を、移植手術を通して語るという視点が非常に興味深かった。
アサトの体は他人の左手を受け入れる方向で進んでいる。そこに衝突はあっても苦しみながら受け入れる。その過程と結論が重く響く物語だった。
Posted by ブクログ
朝比奈秋、3冊目。作品としては一番荒削りかもしれないが(構成やテーマ、それに対する回答など)、私は本作が一番好きだ。端正にまとまっていない、言語化しきれていない、繋がりきれていない、かもしれないが、それでも私は最も心を動かされた。
前作2作品は日本での医療を取り扱ったものであり、それはそれで新しい視点を提供されて面白かった。一方で、今回はウクライナ侵攻が起きる中、ウクライナ人を妻にもつハンガリーで働く日本人看護師・アサトを主人公に、誤診により切断された手、その後移植された手を、国境や領土を巡る紛争と同化のプロセスになぞらえると、場所もテーマも大きく転換したというか、拡大した、著者にとっても意欲作なのだと思う。勝手にその意気やよし!と思ったし、こうして実際にウクライナ侵攻が起きている現在に、こういう形でその現実に向き合うこともありうるということをよく示してくれた一作だと思う。
本は一人のウクライナ兵の自決の場面から始まる。なぜこの人は日本のことをここまで詳しく知るんだろうと言ったささやかな疑問や、「隣に座る夫の、透明になった左手を撫でた」という文章などは、その後に続くアサト視点、そして途中から医師ゾルタンの視点の物語を読んでいるうちに忘れていた。全て読み終わった後に、もう一度読み直して、震えた。ああこれはやっぱり紛れもなくハンナだったんだ、と。途中で腹が空洞になった死体を「ハンナ」だという義父とのシーンが入るが、その時点では、アサトに記憶障害が起きていることは、アサトが信頼できない語り手であることはわかっていないので、義父が認知症の症状から言っているだけという言葉を鵜呑みにしていた。
時間軸も、記憶も、うまい具合に胡乱に書かれているので、まさに術後のアサトの混乱状態で読めるのは、うまいなと思った。
それからハンナが大阪弁で喋ったり、リハビリを担当する理学療法士の台湾系フィンランド人の雨桐は"はんなり"と京都弁で(と認識したんですが笑)書かれているのは面白かった。私は他言語を喋るときにスイッチが入って、その言語の自分になり、性格や喋り方も少し変わり、アクセントを日本語に喩えて考えたことがなかった。こういうふうに聞こえる人もいるかもしれない、それは面白いなと純粋に思いました。
身体の境界線を国家の境界線に例えて、手の移植を取り扱ったことについては、アイディアとしては面白いと思った。けどちょっと消化不良、という感じ。
「今、ふと思いついたんだがね。日本が手の移植を行わないのは、日本に国境がないからなんじゃあないかな」
「国境?」
「そうさ。日本は他のどこの国とも繋がってはないだろう?」
…
「妻にも言われたことがあるよ。国境がないというのはどんな感覚なんだと、付き合った当初にかなりしつこく訊かれたっけ」(p.126)
「あのね。免疫とは他者に対する寛容性のことなのだよ。持論になるがね、免疫の寛容性は常に自我の容認性と密接に関連している。人種による自我の違い、特にヤパァナの自我の在り方は我々とは全く違うんだ。移植後の腫れぐあいから、リハビリの進みぐあいから、全く違う。君も彼の経過を見れば、自我と免疫が強く関係しているとわかってもら、」…今までの医療が、肥大化した自我を守るために病気になった身体の部分部分を切り落としてきたのだとすれば、移植は他者の一部を受け入れて自分の自我を削ぎ落とすものであるかもしれなかった。(p.152, 154)
Posted by ブクログ
読んでいる最中から、やばいやばいやばい、と焦燥感が湧きあがった。
「わたしは今、とんでもない本を読んでいる!」
この小説は、喪失と受容の物語だ。
主人公アサト(日本人)は、左手を失い、脳死した人の左手を移植される。
「喪失」も「受容」も、比喩や仮託ではなく、そのものずばり、アサトの失われた左手を示す。それを諦める過程、新しい左手を得たものの、それは激しい拒絶反応を起こす。
そしてこの「左手」は、ウクライナ・ハンガリー・ロシアの「国境線」ときっちり重ね合わせて描かれている。
アサトが最初に失った左手は、80年代・ウクライナが強硬に併呑したハンガリー領土だったクリミアだ。ひじょうに理不尽に、突然に失われた経緯も重ね合わせてある。
アサトは左手が「ない状態」に苦しむ。幻肢痛(ファントムペイン)を起こし、主治医であるゾルタンから心配され、呆れられるほど、「喪失」を受け入れられない。
アサトが長い時間をかけて「受容」した左手のない生活に、新しい左手の移植が決まる。
これは、2014年、クリミア地方をロシアが武力で奪還したことと重ね合わせてある。クリミア人女性・ハンナと結婚したアサトは、妻と一緒に身一つで、まだウクライナ地方である首都キーウへと脱出する。
揺れ動く国境線。今までウクライナのものだった一部がロシアにもぎ取られ、二度と帰れない。が、アサトやハンナの隣人で、元ハンガリー人だった人々は、そのままクリミアに残り、歓喜してロシアを迎える。
この本の感想を、いろいろなアプリで見たとき、「分かりにくかった」「理解できなかった」というものが多かった。
日本人にとっては馴染みのない東欧諸国の歴史がからんでいるせいもあるだろうが、なによりも、物語の時系列が、わざと分かりにくく書かれているからだと思う。
物語そのものは、「現在」=「アサトが新しい左手を得たとき」から始まり、左手を失った経緯とともに、東欧の歴史をさかのぼっていく。
甚大なショックを受けたアサトは、そもそも記憶障害を起こしていて、自分のことさえよく分からない。最初のうちは、左手を移植されたことも理解していない。何人かの人物の名前をつぶやくだけ。
物語の大半は、このアサト目線で進むので、読者は意味不明なまま進むしかない。
しかもアサトには記憶の混乱と妄想があるので、描写が正しいかどうかも判断できない。後半になって、読者だけには、だんだん正解と妄想の見分けがついてくるようになっている。
この物語は「喪失」と「受容」と書いたが、それは背骨に当たるテーマであって、どう読んでもいいと思う。
反戦小説と読むことも正しいだろうし、純粋に医療ものとして読むこともできる。
とにかく医療シーンと戦闘シーンが詳細かつ精確なので、そういう小説が好きな人にも刺さるだろう。
題名が『あなたの燃える左手で』なんだから、アサトとハンナの夫婦の愛の物語としても読める。強烈なインパクトのプロローグは、後半70%くらいまで進まないとまったく意味が分からないが、分かったとき、この2人の夫婦の姿が鮮明に浮き上がってくる。わたしはこの本を読んでいる間、「愛の賛歌」がずっと脳内をリフレインしていて、かなり困った。日本語訳では省略されているけれど、「愛の賛歌」のフランス語の歌詞には「世界がひっくり返っても愛している」という文がある。まさに、国を失い逃げ惑った2人の歌なのだ。
そしてこれは、ひじょうに「中立なナショナリズム小説」でもある。
これほど民族や人種・戦争についてグローバルな目線で、「日本人とはどんな民族か」を問うている小説はあまりない。
主治医ゾルタンは、アサトが失った左手のことを受け入れらないことについて、「日本人(ヤァパン)だから」と見做す。
国境線を見たことがなく、海に囲まれて、自分の生まれた国を失う恐怖を味わったことがない民族だから、と。
また、ハンナは、一度日本に来たとき、「日本って大きいんだね!」と喜ぶ。
ユーロスター(特急)に乗って4時間も経てば、5つの国を超えるのに、世界で最高峰の新幹線に4時間乗ってもまだハカタ、日本なんだ、日本って広い! と。
実際、ほとんどのヨーロッパ諸国よりも、日本の領土のほうが広い。
ゾルタンは、「日本人は自国を小さいと謙遜するフリをして、小さい国だから何の責任も負いたくないと逃げているだけだ。卑屈なふりをして逃げる小心者だ」と非難する。
そう考えるゾルタン自身はドイツ人で、かなり偏狭なナショナリストで、公平な語り手とはいえないのだけれど、ヨーロッパの知識層は、こういう各種民族で形成されているのが普通だ。
著者は、ヨーロッパ社会に留学か、生活していた経験があるのだろうと思った。
つまり、この小説には、読者が引っかかる「フック」が大量にあるのだ。
個々人が好きなように読めばいいし、何かを学んだり得たりするための本でもない。たぶん、著者はそんなことは求めていない、と思う。
とにかく読んでいる間、重くてしんどかったが、それでも読後感はよかった。
誰もが諦めるほど、アサトの新しい左手の拒絶反応は激しく、アサト本人の命まで危ぶまれたため、再度左手を切り離す直前までいく。
が、誰にも理解できないまま、激しい熱は治まり、アサトの左手は突然定着した。
一から十まで自分の予想を超えたアサトを見て、ゾルタンは何かが切り替わる。
アサト本人も、いろいろなものを失いながらも、元の生活に穏やかに戻っていく。
それは、「異物を受容する日本人の在り方」=「戦争・移民を受け入れることになる将来の日本人」への、著者の希望像ではないか、と思えたのだ。
Posted by ブクログ
意外と難しくて、読み終わるのに時間がかかった
なんの説明もなく過去の話になったり、話し手が変わったり
いつのまにか考え事をしてる時はそんなものが知れない 国語の試験の課題文を読み解くみたいな気持ちで読み進めるのが疲れた
誤診で左手を失った喪失感は直接描写されていないのに、幻肢痛の描写リアル そり、考え事しちゃったり、妄想の世界に入ってしまったりするよなぁ
ロシアに攻め込まれたウクライナ市民の描写、隣国ハンガリーの市民の気持ち、シチュエーションによって言語を使い分けることが要求される生活、日本にいたら分からない
この本に書かれていることが全てじゃないだろうけど、それなりの真実は含まれているんだろうと思う
一回読んだだけじゃ理解しきれない
何度か読み直そう
Posted by ブクログ
今まで読んだことがないような作品で、楽しめました。(文章は少し苦手でしたが)
日本の国境意識と、外国の国境意識。
日本で生まれ育っているからか、あまり考えたことがなかった話を、左手の移植に準えて考えされられるとは。
今でも色々な場所で国境に肖っていたり、苦しめられていたりすることを知りました。
外国語の訛りを日本訛りで表現しているのにも驚きました。
Posted by ブクログ
少し自分には難しいと感じた
他人の左手がどんな感覚なのだろうと初めて想像してみた、とても受け入れ難いものであると思う。何をするにも手は使うし、視界にも入る、それが自分ではない人の手なのであれば不快な気持ちが常にまとわりつく感覚になるだろう
当たり前に日本にしか住んだことないから考えたこともなかったが、見えるものすべてが自分の国のものって当たり前がじゃないんだと気付かされた
Posted by ブクログ
正直言って内容の3分の1ほどしか理解できていないと思う。
そもそも他人の手をそんな簡単に移植できるのもなのだろうか。
それも赤の他人で国すら違う人間のものを。
途中拒絶反応的なものが起きる場面があったが、
あくまでも精神的なものの影響というか、
自分の中での葛藤がありそこに打ち勝つことと
現実を直視することができるようになったことで収まったのか、
妻の死も自分の腕についても受け入れて生きていく。
…という解釈でいいのだろうか。
「日本人は寛容なようで実はとても閉鎖的」というのは
自分自身納得してしまい思わずフッと声がでてしまった。
ここだけは深く同意。
腕を移植されたことと国境のことや内戦のことがごっちゃになっていて
これが理解できないというのはやはり私が島国育ち、
しかも平和な日本人だということが関係しているんだろうなと思った。