【感想・ネタバレ】「居場所がない」人たち ~超ソロ社会における幸福のコミュニティ論~(小学館新書)のレビュー

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Posted by ブクログ 2023年12月18日

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独身生活研究の第一人者の本で面白いんだけど、自分にとっての本当の幸せとは何かみたいな哲学的な部分とか、今一番関心があるコミュニティづくりに関して参考になることが凄い書いてあって良かった。アジア各国でも翻訳されてるらしい。


独身生活研究の第一人者の本らしいんだけど、超面白い。独身を研究...続きを読む対象にするって斬新だなと思った。アジアでも翻訳されてるらしい。

この本によると、男性の方が仕事引退後とかに孤独に陥りやすいんだって。男の友情の絆は強いっていうのは腐女子の妄想っていうのに科学的エビデンス出たじゃん。腐女子って科学に疎そうだもんな。

荒川和久
早稲田大学法学部卒業。ソロ社会及び独身生活社研究の第一人者として、テレビ、新聞、雑誌、WEBなど国内外のメディアに多数登場。著書は韓国、台湾でも翻訳本を展開。


「日本は、人口の半分が独身者となる超ソロ社会になる」  これは、ある意味、私の代名詞的な定番言葉になっているのだが、 勿論 それは決して「オオカミが来るぞ」というデマを流しているものではない。事実、そうなるからだ。

 数字だけではない。発言に関しても「切り取り」手法はよく行われる。政治家でもタレントでも発言内容の一部が切り取られて報道されることはよくある。ネットの民はタイトルしか読まない人も多いので、「こんな発言が許されていいのか」などと脊髄反射でネットが炎上することも多い。しかし、よくよく発言者の動画を見たり、発言の全文を読めば、その切り取られた部分は意図が逆だったり、その後に反論を述べるための呼び水として使ったという例もある。

 点の発言だけで、すべてを判断すると見誤るのだが、報道はあえて視聴者や読者に見誤らせるために「切り取り」を行う場合があるということを知っておくべきだろう。  特に、昨今は新聞各社もテレビ局も、紙面や放送でのニュースとは別に独自でネット記事をあげている。ネットによる広告収入は無視できないレベルに成長しているからだ。しかし、あまたあるネット記事の中でアクセスしてもらうためには、タイトルのインパクトが重要になる。逆にいえば、タイトルが魅力的であれば、クリックしてもらえるわけで、記事自体は中身のないものであったとしても、クリック単位で広告収入が入るのでそれでいいわけである。

 勿論、新聞やテレビは、その社会的責任においてまったくのデマや 噓 はいわない。しかし、こうした何かしらの魂胆のある「切り取り」は日常的に行われていることも確かだ。それを面と向かって指摘すると「これは演出だ」と開き直るディレクターすらいる。メディア側の意識が変わることを期待してもあまり意味はない。情報の受け取り側である我々自身が、たとえメディアの報道であっても、一次ソースを確認しにいくというリテラシーが必要になるだろう。

ソロ社会化というと、どうしても大都市だけの話だと勘違いしがちだが、実は地方も含めて全国的な傾向なのだ。夫婦と子世帯と単身世帯との構成比差分を比較して、夫婦と子世帯の方が上回る県は、2015年時点では、埼玉・奈良・岐阜・滋賀・群馬・富山の6県あったが、2020年にはゼロになった。全都道府県において、単身世帯が夫婦と子世帯を上回ったことになる。

私は、独身研究の一環として、未婚者と既婚者とでの幸福度の違い、さらには男女、年代別での幸福度の違いについて2014年から継続調査してきた。その結果から申し上げれば、未婚者より既婚者の方が幸福度は高く、男性より女性の方が幸福度は高く、 40 ─ 50 代の中年層より若者の方が幸福度が高いという傾向は常に一定であった。

一方で、既婚女性の幸福度の高さも群を抜いている。もっとも低い 50 代でも 62% が幸福であると答え、 20 代では8割近い 77% が幸福なのである。  つまり、まとめると、一番不幸なのは、 40 ─ 50 代の未婚男性であるということになる。

特に、男性の生涯未婚率は自己の年収が低ければ低いほど高くなる。つまり、男性で中年で未婚であることは、すなわち年収が低い場合が多いと推測でき、そうして自身の低年収による経済的環境とその事情による未婚生活そのものが不幸の原因であると考えることもできる。

 勿論、生活をしていく上で食うにも困るような貧困では幸福も何もないだろう。しかし、だからといって、年収が上がれば上がるほど人は幸福になるかというとそうでもない。  そもそも、年収だけが幸福度の要因なら、未婚も既婚も同年収の幸福度は同じにならないといけない。これを見る限り、年収より未婚か既婚かの配偶関係の方が幸福度に強く影響を与えていると考えるのが妥当である。  では、既婚=結婚すれば幸福なのか?  それもまた違う。

 たとえば、結婚したいという女性は「相手はいないけど、とにかく結婚したい」とよくいう。これこそ結婚という状態に身を置けば、幸福が手に入るはずという間違った思い込みである。そうした思い込みのまま、万が一結婚してしまったら、「こんなはずじゃなかった」と後悔しかしないだろう。  結婚すればしあわせになれるという考え方は、裏を返せば、「結婚できなければしあわせになれない」「結婚しないと不幸だ」という決めつけの理屈にとらわれることになる。それは、結婚という特定の状態に依存してしまって、それ以外の選択肢を否定しているようなものでもある。

 一方、未婚男性の中にも「相手はいないが結婚したい」と婚活にいそしんでいる人もいるだろう。もはや結婚が社会的信用を示す時代でもなく、結婚しなければ出世させないなどという企業も少ないだろう(少ないが、いまだにそういう企業があるということにも驚くのだが)。

 未婚男性の「幸福人口」は 20 代から年代を重ねるごとに順調に減少しているのに対し、「不幸人口」は 20 代から 50 代までそれほど大きな変化はない。これが何を意味するかというと、「幸福な未婚」だけが未婚でなくなっていっているということ。つまり、結婚していく未婚男性は、元から幸福だった者が多いということだ。  未婚より既婚の方が幸福度が高いのは事実だ。しかし、それは「結婚したから幸福度が上がった」のではなく「幸福度の高い未婚が結婚していく」という因果があると見た方が、納得性は高い。

 身も蓋もないいい方をすれば、「結婚したらしあわせになれる」と思っている人は、結婚もできないし、しあわせにもなれないのだろう。  欠乏の心理に支配されて、「あれが足りない、これが足りない」という不幸思考に陥っている人は、まず、現在の自分の「足るを知る」ことが先なのだ。そして、それは、たとえ結婚しようがしまいが、自分の人生をしあわせに生きていく上で大切なことでもある。

 とはいえ、未婚者の不幸度が高い理由は決して本人たちだけの問題ではなく、環境がそういう空気を醸成している点も見逃してはいけない。  今では随分となくなってきているとは思うが、ほんの数年前までは、いい歳をして独身のままだと「どこか人間的に欠陥があるのではないか」と冷たい視線を向けられたものである。もしかしたら、今でも地方の田舎にはまだその名残りがあるかもしれない。  さらに、未婚や独身という属性に対する攻撃は今でもネット上でよく見られる。「結婚もせず子育てもしないで自由勝手に生きている人間は社会のフリーライダー」的なものである。皮肉にも、独身人口のボリュームが多くなるにつれ、このような「家族 VS 独身」の対立構造がより可視化されてきたようにも思う。その顕著な例が「独身中年おじさん叩き」である。

「仕合わせ」とは、さらに語源を辿れば「為し合わす」である。「為す」とは動詞「する」で、何かふたつの動作などを「合わせる」こと、それが「しあわせ」だという意味になる。  そう考えると「幸」よりも随分よい意味に思える。つまり、「誰かと何か行動を一緒にする」こと自体が「しあわせ」ということであり、元々は動詞であったことから、「しあわせ」とは状態ではなく「しあわせる」という行動そのものだったことがうかがえる。

 よく婚活系女子のいう 台詞 に「結婚してしあわせになりたい」というのがあるのだが、結婚という状態にしあわせなどはない。結婚に限らず、就職、さらにはお金を所有しているという状態にもしあわせはない。「○○すればしあわせになれるはず」という思考は幻想にすぎないことは先に述べた通りだ。この「ある状態に自分の身を置けばしあわせになれるはず」という思考は、かえって人生の幸福度を下げてしまう。なぜなら、万が一その状態を手に入れたとしても、想像していたしあわせとのギャップを感じるし、その状態を獲得できなければできないで「その状態にない自分はしあわせではないのだ」と勝手に自らを不幸と定義づけてしまう。どっちにしてもしあわせにはなれないのである。

 結婚にしても、就職にしても、その状態に意味はない。そこで誰と何をするのかがしあわせなのであり、お金や時間に関していえば、そのお金と時間を使って誰と何をするのかがしあわせなのである。いうまでもなく、その誰かとは異性に限らず、同性の友人であってもいいし、初対面の相手であってもいい。  つまりは、しあわせとは「人との接点・つながり」であり、つながった人と何をするのかが問…

 そこで、コーチング理論では、be→do→haveの流れで考えようというのである。まず、先に「なりたい自分」というものを思い描き(be)、それに向かって今できることを行動し(do)、その結果としていつしか望む成果が手に入る(have) というものだ。サッカー元日本代表の本田圭佑選手は小学生時代の作文に「将来はセリエAで 10 番をつける」と書いている。メジャーリーグで二刀流で大活躍の大谷翔平選手は、高校1年の時に真ん中に「ドラ1・8球団」と書いた曼荼羅チャートという目標シートを作成している。二人とも、先に未来のあるべき状態(be) から進んでいるという共通点がある。

 ウェルビーイングに違和感を覚えるのはそこである。「私は絶対に玉の輿を手に入れる」という意気込みは結構だが、「一体誰と何をしたい」がないのだ。何度もいうが、しあわせとは仕合わせであり、beでもhaveでもなくdoなのだ。どうあるべきか、何を獲得すべきか、ではなく、「どこで誰と何をするのか」に尽きるのである。

 孤独の健康に与える影響については、米国・ブリガムヤング大学のジュリアン・ホルトランスタッド教授が第一人者といわれ、様々な研究結果を公表している。たとえば、「社会的なつながりを持つ人は、持たない人に比べて、早期死亡リスクが 50% 低下する」「孤独のリスクは1日タバコ 15 本吸うことやアルコール依存症であることに匹敵する」「孤独は肥満の2倍健康に悪い」などである。アメリカ連邦政府の元公衆衛生局長官ビベック・マーシー氏は「病気になる人々を観察し続けてきてわかったのは、その共通した病理(病気の原因) は心臓病でも、糖尿病でもなかった。それは孤独だった」などと述べている。

 誤解のないように断っておくが、私は何も「孤独は絶対善」だといっているのではない。そもそも善悪二元論などに分ける方が無意味だと思っている。彼らのいう「孤独」が身体的にも精神的にも悪い影響を与える人もいることは否定しないが、悪い影響どころかそれを楽しめる人もいるという事実を無視してほしくないだけである。孤独を悪と断じるのは勝手だが、それは絶対的なものでも普遍的なものでもないし、「そうじゃない」と考える人にまで自分の正義を押し付けるなといいたいだけだ。押し付けなければ、自分の中で「孤独は悪だから気を付けなければ」と邁進するのはご自由にどうぞという話である。

 どれも日本語に訳すれば「孤独」になるが、この3つのレベルは天と地ほども違うことがおわかりだろうか。極端に単純化していえば、アーレントは、「孤独にはいいものもあれば悪いものもあるよ」といっているのである。それに私が付け加えるとするならば、「同じ人間であっても、孤独は害になる時もあれば救いになる時もある」のである。絶対的・普遍的な孤独なんてものはない。

「孤独は悪」論者もよくアーレントを引用するのだが、その違いを曖昧にしてすべて「孤独は悪」というのは乱暴すぎる。そうしたツッコミをすると、今度は「ソリチュードはよいが、ロンリネスがだめだ」とごまかし始める。さらには、「孤独といってもいろいろある。自分が望んだ孤独はいいが、望まない孤独が悪だ」といい出す。とにかく、何がなんでも孤独を悪にしたいのだなという意気込みだけは感じる。一体何が、そうした人たちをそんな論理のすりかえまでさせて 頑 なにするのだろうか。本当に不思議で仕方がない。「こどく」という名前の人に親でも殺されたのだろうか?

 しまいには「孤独とは孤毒だ」などと言葉遊びをし始める。本人は「うまい事いった」とドヤ顔だが、どうでもいいわと正直思うのである。皮肉にも、毒という言葉がいい表してしまうのだが、毒というのは薬にもなる。いい方を変えれば、誰かにとっての薬も他の人には毒になる場合がある。大量摂取すれば薬でも命を奪う。要するにそれは、孤独が主観の感情であるのと同じで、孤独が毒になる人もいれば薬になる人もいるということだ。それならそれでいいじゃないかと思う。しかし、…

 ともかく、「孤独は悪だ」といいたい人は「孤独を悪くない」とか「孤独が好きだ」…

「友達がいないなんて、きっとあの人は人格的に何か問題があるからだろう」と勝手に決めつけてレッテル貼りをする人がいる。その人のことを何ひとつ知らないくせに、である。  他にも、一人でランチを食べている人に対して「一緒に食べる友達もいないんだ。寂しい人だ」とこれまた勝手に謎の決めつけをしてマウントしたがるのもいる。外に出ないで家の中で本を読んだり、ゲームするのが好きな人に対して「暗いね~」といじったりする人もいる。  かつて、いい歳をして独身のままの人に対しても同様な仕打ちがあった。「結婚できないなんてきっと人間性に問題があるんだろう」と。  しかし、友達の有無や未既婚や性別だけでその人の人間性や人格まで推し量れるものではない。ましてや、会話したこともないのにそういう決めつけをしてしまうのは、差別的であり非常に危険ですらある。  確かに、「友達がいない」比率はどの年代を見ても男性の方が多い(図 12)。

 国内外のいろいろな調査で結論づけられていることだが、外向的な人間と内向的な人間の比率はほぼ半々である。国や民族や宗教・文化が違っても変わらない。とはいえ、社会生活を送る上で必要に応じて内向的な人でも外向的にふるまうこともあるだろう。表面上、外向的に見えたとしても、その姿は決して本性であるとは限らない。人と対面して関わることが苦手や苦痛に感じる人間もいる。

 同時に、外向的100%、内向的100% のどちらか一方に偏っている人間もいない。人間は誰もが外向的な面と内向的な面をあわせもって、時と場合と相手によって出し分けるものである。

 たとえば、芸能人など、テレビカメラの前では愛想よくしゃべり、コミュ力が高い人のように見えるため、プライベートでもいつも大勢の人たちとワイワイしているというイメージがあると思うが、「お疲れ様でした」の声がかかった以降は寡黙になったり、案外休日は「一人でインドア派」という人も多い。

「ぼっちは孤独だからよくない」や「家に引きこもるのはよくない」など、個人の特性も考慮しないで大きなお世話をいいたがる識者もいるが、本人にとって慣れ親しんだ環境や快適な行動は様々である。

 興味深いことだが、「友達がいない」といわれて怒るのは既婚の中年男性に多い。しかも、ある程度社会的地位の高い人に多い。聞いてもいないのに「俺は友達多い」と見栄を張るのもそうだ。  なぜおじさんは友達が少ないことを恥と感じるのか? それこそが友達の数に代表される自分自身の数量価値(年収とか肩書とか) に依存しているからだろう。  数量価値依存は決して悪いものではない。そういうものが勉強も仕事も頑張れる原動力にもなるからだ。だからこそ、そのおじさんは結果として高い年収や地位を獲得したともいえる。しかし、長年そればかりに依存し続けると、そういうものが一気に 剝奪された定年後に空虚になるのである。自分自身を見失うのである。  大事なのは友達の数ではない。

 多様性というものを「いろんな人がいる」と区分けしたがる人がいるが、正しくは「一人の人間の中にも多様性がある」という視点に立つべきである。

 会社の人間関係は、会社の内集団だからこその関係性にすぎず、会社を辞めた瞬間に「外の人」になる。以前勤めていた会社だからといって、IDカードもないのに勝手に立ち入ることはできなくなるし、仮に「近くに来たから飯でもどう?」などとかつての部下に連絡を取ったところで相手も迷惑に思うはずだ。何十年も勤め上げたところで、退職すれば、それまでの人間関係はその瞬間に消滅するのである。

 要するに、ほとんどの男性には、仕事を辞めた後も付き合いが続く人間関係はほぼないのである。深刻なのは、現役の時に友達がいると錯覚している人ほど、仕事を辞めた途端に「俺は友達がいなかったんだ……」と突然思い知らされ、大きな絶望に直面させられることの方である。

 身も蓋もないいい方をすれば、退職後の高齢男性の末路は、友達もなく、趣味もなく、生きがいもなく、やることもなく、さりとて何かを始めようとする意欲も体力も気力もなく、ただ毎日テレビを見て過ごすだけの抜け殻となるのである。

 かといって、老後のために「友達作りましょう」とか「趣味を持ちましょう」とかいう胡散臭い高齢者向け自己啓発セミナーの口車に乗せられてはならない。まず、不可能だからだ。正確には「作ろうと思って友達はできるものではない」し、「趣味にしようと思って始めたことが趣味に昇華することなんてない」からである。友達はいつの間にか友達になっているものだし、趣味はいつのまにか泥沼(いい意味で) にハマっているものである。

 では、友達もいない、趣味もない高齢男性はどうやって生きていけばいいのだろうか?  それは「友達を作る」や「趣味を作る」ことではなく、1日数時間、週3日でもいいから仕事を続けることだ。その仕事は一人黙々とやる仕事ではなく、倉庫の分別とか大勢の人間との共同作業であった方がいい。なぜなら、それは金を得るための仕事ではなく、人と接する機会を得るための仕事だからだ。そうでもしないと、丸一日誰とも口をきかずに終わる日々を過ごすことになるだろう。

 友達の数より会話の数を増やす。できるならば、いつものメンバーだけではなく、時折知らない人との会話の機会があればなおよいだろう。「人見知りだし、口下手なので、知らない人と会話なんかできない」などと勝手にハードルを上げる必要もない。もしやったことがないのなら、一人旅でもしてみてほしい。見知らぬ土地の誰かと一言二言喋るだけでもいい。売店や飲食店のおばちゃんとの会話でもいいし、通りがかりの人に道を尋ねる事だけでもいい。同じ景色を見ている人に感想を伝えるだけでもいいのだ。自分の事を誰も知らない旅先であれば、案外気楽に喋れるものである。具体的な効用については、次章で詳しく述べる。  そうやって、会話欲求を満たしていかないと、お客様センターに電話をしてはクレームをいいまくる迷惑な高齢男性になってしまうかもしれない。

 自殺者が全員一人暮らしなわけではないし、全員独身でもない。結婚していても、家族と同居していても自殺してしまう人はいる。傍から見て、毎日充実しているように見える人でも自殺してしまう場合もある。

 全体的には、未婚及び離別・死別などの独身の方が孤独を感じやすく、女性より男性の方が孤独を感じやすい。さらに、年齢的には、 30 ~ 50 代の中年層が孤独を感じやすいという傾向が見てとれる。孤独をもっとも感じやすいのは、男性では 50 代で配偶者と死別した層、女性では 20 代で離別した層だった。

  20 代だけは多少バラツキが見られるが、男女とも年収が高くなるほど孤独を感じる割合が減少している。注目したいのは、単身世帯でも二人以上の世帯でも同様に年収が増えるほど孤独感が減少する点である。これを、前述した配偶関係別のグラフと照合すると、以下のような仮説が浮かび上がる。つまり、孤独感とは、有配偶など誰か同居する人間がいるかいないかという問題より、年収の 多寡 で孤独感の増減が決まるのではないか、ということである。

 先ほどの年収との相関とあわせて考えると、孤独を感じるというのは、人間関係の問題も勿論あるのだが、それと同等以上に「経済的問題」であることが明らかになる。  今まで、感覚的に「家族や友達など話し相手がいない」とか「コミュニケーションする相手がいない」ことだけが、孤独感の元凶のように語られていたが、この初めての孤独に対する大規模調査から浮かび上がってきたのは、「孤独とは経済問題なのだ」という発見である。要するに、「お金が足りないから孤独感を感じてしまう」のだ。

たとえば、300万円に満たない年収の人間が年収1500万円の裕福な人間と一緒に遊ぼうと思っても、それを可能にするだけのお金がない。実施する趣味や行動にかけるお金のレベルも合わないだろう。それでは友達になれ

何より年収200万円台で生活をするとなれば、それこそ毎月カツカツの生活を余儀なくされる。一人暮らしなら家賃も光熱費もかかるわけで猶更である。まして、今後インフレが加速するという中、さらなる増税や社会保障費負担増がささやかれている。額面の給料が増えても手取りは減るのである。それではお先真っ暗だ。自分一人生きていくのに精いっぱいで、誰かと一緒に遊んだりする余裕すらなくなる。お金がないから人とのつながりもなくなるわけで、孤独の正体は貧困なのである。

孤独を苦痛と感じる人の根本が「人とのつながりがないことではなく、お金がないことの不安」だとするならば、話し相手がいればいい、とか、居場所があればいい、という前に「まず、金をよこせ」といいたいだろう。

そんなことは当たり前の話だが、「貧すれば鈍する」といわれるように、「金がない」という環境は、人間のあらゆる行動を萎縮させる。何もしたいと思わなくなる。失敗したくないと思う。面倒くさいと思う。自分の姿形すらどうだっていいと思う。そんなもの気にしていられないと思う。自分のことすら気にしない人間は他人のことを気にしたり、心配したりする余裕がなくなる。そうした状態に陥ってしまうと思考の視野が狭くなる。精神的にも閉じてくる、病んでくる。もし、そうした状態を「孤独に苦しむ」ということだとするならば、それを解決するのは個々人のコミュニケーション力や性格など属人的な問題ではなく、毎日を心配しなくていいお金という経済環境の話だったりするのではないか。

哲学者三木清は『人生論ノート』の中で〈孤独は(略) 一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである〉と記しているが、まさに〝人と人との間には必ず孤独が生まれる〟のである。  さらに、私なりに、三木の言葉を膨らませると、「人ではない物や自然や映画・小説・物語などの虚構との間にも生まれるもの」である。つまり、自分と相対するものすべてと自分との間に孤独は必ず生まれる。そして、生まれてよいのである。逆に、そうした対象との間に孤独が生まれないという感情の方が危険である。なぜなら、あらゆる対象と向き合った時に、生まれるものはすべて、あなたの心に生じた大切な感情の投影(プロジェクション) だからだ。

たとえば、Aさんという人と対面したとしよう。話をしたりして、何か共通の趣味嗜好が合致して、気が合ったような気持ちになったとしよう。しかし、だからといって、Aさんのすべてをあなたは理解したわけではない。ほんの少しAさんと接続したにすぎない。にもかかわらず、あなたはきっと「Aさんはこういう人なんだわ」と思ってしまうに違いない。「趣味嗜好が合うのだから、私とは気が合うはず」と思ってしまうかもしれない。しかし、それはあくまでAさんではなく、「あなたの心が作ったAさんの虚像の投影」にすぎない。しかし、あなたはそれを虚像ではなく実像だと錯覚する。すると、さらにAさんと会話を進めると自分の嫌いな虫が大好きだということがわかる。虫について楽しそうに語るAさんを見て、あなたは少なくとも不快感を抱くだろう。違和感といってもいい。その違和感が孤独なのである。「せっかくよいお友達になれそうだったのに、虫が好きだなんて無理」と思ってしまうとすれば、残念な気持ちが心の中に湧き上がるだろう。  しかし、よくよく考えてほしいのだが、勝手にAさんの虚像を作り上げたのはあなた自身である。そして、勝手に幻滅しているだけだ。Aさんにしてみれば、あなたの投影したAは「私じゃない」といいたいだろう。

しかし、人と人との関係は、常にこうした勝手な投影による期待と幻滅の繰り返しによって生成されていくものであり、我々は自分の外の世界をありのままになど見ていないのである。外世界に存在するAさんを見ているのではなく、Aさんと接続したことを通じて、あなたの中に生まれたあなたが思い描くAさんを見ているにすぎない。そして、その多くは深く知れば知るほど、期待を裏切るAさんと接続することになる。勿論、期待通りのAさんだけが続く場合もあるが、その場合だとしても、「期待通りの投影をしたAさん」を見ているのであり、その「期待通りでうれしい」と思うこともまた、そこに生…

年収以外に親から提供される「子の環境」というものを考えた時に、家庭内の人間関係の環境がある。親子の人間関係もそうだが、両親の関係性というものもある。つまり両親たる夫婦の仲のよさ加減だ。  子は親のことをとにかくよく見ている。たとえば、関係性が険悪になった夫婦が、子どもの前でどんな仮面で取り繕ったとしても、子にはバレている。両親がしょっちゅう夫婦喧嘩するような環境で育った子どもが、「自分も結婚したい」と思うだろうか。  実際、私が調査したところでも、両親の仲がよければよいほど、その子の既婚率は高まるという強い正の相関が見られている。特に、男女とも 40 ─ 50 代の中年層(いわゆる生涯未婚率対象年齢) ほど仲の悪い両親の環境で育った人は有意に未婚のままなのである。 50 代未婚女性の場合は、平均より1・7倍も未婚率が高かった。

繰り返すが、環境とは時間と場所と人である。どんな時代に、どんな場所で、誰と何を行動したのかによって劇的に変わる。

実は、「一人で生きる」ことと、「人とつながる」こととは、別物ではないのだ。そもそも「人とつながる」ということも、必ずしも「誰かと一緒に生きる」ということと同義ではない。  友達がいれば、家族がいれば安心だと思っているだろうか。  確かに、人生における安心を担保する「人のつながり」というのはある。それは時に、お金以上に価値がある場合もある。

知らない人も多いのだが、日本における殺人事件の約半分は親族殺人である。しかも、1997年時点 39% だったその構成比は、2010年に 52% となって以降、ほぼ平均的に 50% 前後で推移している。日本は世界的に見ても、殺人事件の少ない国であるが、数少ない発生件数の半分が親族間での殺人なのである。しかも、親族間の殺人において一番多いのは、配偶者殺しで 32%、続いて親殺しで 30%、子殺しが 23% となっている(2020年警察庁の統計より)。

また、近年増加傾向にもあり、今後も増えると予想されるのが介護殺人である。8050問題ともいわれるが、 80 歳代の親の介護を 50 歳代の子が背負わなければならない事態や、老老介護といわれる高齢者夫婦のどちらかが介護対象になった場合など、慣れない介護に疲れ果て、介護対象者を殺害してしまう、または、介護対象者から「楽にしてほしい」と乞われて殺害してしまうパターンもある。相手を殺害した後、自分も自殺する心中事例も多い。

かつて安心な囲いだったはずの家族のカタチが、今や家族のみんなを縛り付ける鎖になっている。「家族を頼る」ことと「頼れるのは家族しかいない」というのはまったく違う。  場所としての家が家族なのではなく、血のつながりが家族なのでもなく、いつも一緒に同じメンバーで同じ場所にいることだけに依存するのではなく、必要に応じて、集まったり助け合ったりする関係性、何かをするために考え方や価値観を同じくする者同士が巡り合えるネットワークも家族のカタチなのだという視点も必要ではないか。

ここで、コミュニティというものについて考えてみよう。  日本に限らず、多くの国で人々の生活基盤としての「所属するコミュニティ」が崩壊または縮小していることは明らかである。大きな分類でいえば、「地域」「職場」「家族」という3つのコミュニティがある。

「所属するコミュニティ」とは、自由と引き換えに安心を手に入れるものであり、対立と引き換えに身内の結束を強固にするものなのである。  とはいえ、かつてほどの強固な結びつきこそ失われたが、この「所属するコミュニティ」に所属している間はメンバーの安心の拠り所として存在し続けている。それは決して悪いことではない。所属や帰属という欲求は誰しも持っているものだからだ。

 自分の周りに囲いがあったことで安心していた「所属するコミュニティ」だけに依存していると、突然その囲いが消滅して、何物にも所属しない自分という現実を突きつけられる。その時、自分自身そのものを喪失してしまいかねない。失業及び離婚した男性の自殺率が高いのはまさにそれが原因といえなくもないだろう。  そこで、「所属するコミュニティ」だけに依存することなく、もうひとつのコミュニティの視点として「接続するコミュニティ」を用意することが重要になってくる。

 これがもうすでに到来している「個人化する社会」の姿である。昨今の非婚化や離婚の増加は、まさにそういう「選択の自由を個人が得た」結果だといえるが、これは決して独身だけに関わる話ではない。好むと好まざるとにかかわらず、結婚しても家族がいても誰もがいつかは一人に戻る可能性があるわけなのだから。

 実際にはそんなことはない。所属の有無に関係なく、私たちは接続することでのコミュニティを作れるはずなのだ。  たとえば、趣味のコミュニティなら、趣味を行うときだけそのメンバーと接続している。趣味以外の時に相手がどんな仕事をしているとか、どんな生活をしているとかは気にしないだろう。かといって、趣味の集まりの時は、協力したり、共に喜びを分かち合ったりしているはずだ。

 想像してほしい。定年退職して高齢の夫婦のみの家族になった時、もはや会社の部長でもないし、親でもない。唯一残るのは妻の夫という役割だけだ。しかし、そこで今更ながらハタと気付くのだ。夫の役割とはなんだ? と。正直、働いて金を稼ぐ以外に夫としての役割を見出せない人が多いのではないか。退職して金も稼いでいないとすると、もはや夫の役割でさえ喪失する。

 役割を喪失した人間は何もすることがなくなり、だらだらと終日テレビを観て過ごすことになる。今までやることもなかった家事や料理をするようになり、そこに新たな役割を発見できるならまだマシで、何十年もやってこなかったことをいきなりできるほど甘いものではない。むしろ、妻からすれば手を出されれば出されるほど二度手間になり迷惑だろう。かくして、仕事を辞めて夫婦だけになった高齢男性は、急激に自己の役割を失うとともに、唯一の「所属するコミュニティ」のメンバーである妻からも邪魔者扱いされてしまうことになる。居場所の喪失とは自己の役割の喪失なのだ。

 読書や映画鑑賞というインプットだけで終わらせてほしくないのだ。本を読んだり、映画を観れば、何かしらの感想や感情などを含んだ思考が頭に浮かんでくるはずだ。それは「新しい自分の芽」なのである。そのまま放置しないで、書いたり、誰かに話したりするなどアウトプットしてほしい。せっかく生まれた「新しい自分」にも出場所を与えてほしいのである。

「人と会う、人と話す」という行動もそれ自体が「出場所」になる。「そんな友達などいない」と悲観する必要はない。必ずしも気心のしれた友達である必要はないのだ。勿論、仲のいい友達でもいいのだが、それより、むしろまったく知らない赤の他人との刹那のつながりが結果として自分に刺激をもたらす場合も多い。知らない相手だからこそ気軽に話ができる場合もある。

 米国の社会学者マーク・グラノヴェッターは「弱い紐帯の強さ」を提唱している。常に一緒にいる強い絆の間柄より、いつものメンバーとは違う弱いつながりの人たちの方が、有益で新規性の高い情報や刺激を得られやすいというものである。「弱い紐帯」とは「接続するコミュニティ」そのものである。

 読書が好きなら、今は各地で読書会イベントが開催されているので、そうしたイベントに出向き、同じ本を読んだ者同士で意見を交わしてみてもいい。まったくの見ず知らずの間柄であっても、同じ本を読んでいるからこそ通じる思いというものがあるはずだ。互いに知らない仲だからこそ純粋にいいたいことがいえるかもしれない。

 自分が思う自分というものは、決して自分ではない。禅問答のようでわかりにくいかもしれないが、自分で自分をこういう人間であると思っていることは、あくまで主観的なものにすぎないのであり、客観的に自分を見た姿ではない。一方、他人がその人を見た場合には、外側に表出する表情、態度、言動、行動でしか判断ができないのだから、客観的ではあってもその人の主観までは判断できない。つまり、自分が思う自分と、他人が思う自分というものは決して同じになるはずがないのである。

 俳優やモデルの人たちは、常に自分の姿をカメラがとらえた姿として認識している。同様に、歌手や声優も自分の声を客観的に収録した音声として認識している。しかし、一般人は、自分の顔の写真や録音した声を聞けば「これは自分じゃない」と思う人が多いだろう。「自分じゃない」と思うのは自分だけであって、他人から見れば「お前の顔だし、お前の声だよ」でしかないのである。

 前述した「俺は俺の事がわかっている」などと豪語する人間に限って、写真も録音も嫌う。なぜなら、そこには自分が認めたくない自分の嫌いな部分があるからだ。しかし、本人が短所だと思っていることでも、他人から見ればそれが長所である場合もあるし、逆もある。

 つまり、「確固たるアイデンティティ」とか「自分らしさ」など無用なのである。  必要なのは、自分というものは決して唯一無二の存在などではなく、たくさんの自分の集合体なのであるという理解をすることである。

 十人十色という言葉がある。人はそれぞれ違うよね、という意味合いで使われるが、人間は決して一人一色ではない。一人の中に多くの色を内包しているのである。  たとえば、あなたが無垢の真っ白の状態だったとしよう。そこに、赤い色を持った人と接続した。そうすると、あなたの中に赤の成分が注入される。黄色の人と接続すれば同様に黄色が注入される。しかし、白に赤が注入されたからといって、白と赤が混じり合ってピンクになるわけではない。絵具ではないのだ。あくまで、あなたの白の構造の中に赤の要素が付加されるのである。黄色もまた付加される。生きている間にたくさんの人と接続するだろう。そのたびに様々な色が付加されていく。それは決して混ざらない。が、モザイク模様のように、あなたの中には彩りができ上がっていく。わかりやすく説明するために単純化したが、そもそも真っ白な人、真っ赤な人などという単色人間は存在しない。すべての人間は多種多様な色を持つモザイク型である。そうしたモザイク同士で接続することで、互いに違う色を取り込み合いしていく。それが、「接続するコミュニティ」における人のつながりの重要なところで、自分の中に新しい自分が生まれるというのは、そういうことである。

 多様性の時代だのと口ではいいながら、その人自身がまったく多様性を認めないという矛盾した人物をよく見かける。それは、そもそも自分の中の多様性をまず認められていないからだと思う。

 人生とは、長い年月に及ぶ経験や人とのつながりを経て、自分の中に新しい自分を生成していく旅なのだ。その自分の中にたくさんいる自分というものの存在を理解していればしているほど、自分というものはわからないということになるわけだが、それでいいのである。わかったつもりになって、勘違いして 噓 の自分を生きるよりよっぽどマシである。

 大体、人間なんて、環境が違えばその環境に応じた人間にならざるを得ないし、相対する人間によって態度を変える必要だってある。カメレオンでいいのである。誰に対しても主張も態度も何も変わらない人間なんて独裁者である。

「自分がいわれて嫌なことは他人にはいわない」と、よくいうが、本当に人を傷つけているのは「自分がいわれて平気なんだから他人にもいっていいでしょ」精神だったりする。

 そうした面倒を嫌がり、人とのつながりを極力避けてしまう人もいるだろう。傷つけられる可能性があるからといって、人とは関わらない方が本当によいのだろうか? 逆に、自分がよかれと思っていた言葉も誰かを傷つけてしまう恐れがあるから、誰にも何も話さない方がよいのだろうか?

しかし、その刹那がずっと続く保証はない。「ずっと親友だよね」なんていい合っていた人とどれだけ親友関係が続いているだろうか。男女間でも「運命の出会いだ」などと錯覚して、結婚に至るカップルもいるかもしれないが、そうした夫婦のどれほどが離婚しているだろうか。俯瞰して見れば、あなたが誰かと親密な関係になった場合に、それが他の誰かの嫉妬心を喚起し、傷つけ、それによって最終的にあなた自身を傷つけないとも限らない。

 善意だろうが、悪意だろうが、何も考えていなかろうが、人と人の関わりとは、相手または第三者に傷をつけ、傷つけられる可能性がある。  では、「人とのつながりなんてない方がいい」と思うだろうか。むしろ逆である。傷つくからこそ、気付くことができるのである。そもそも、「誰からも傷つけられたくない」とか「誰も傷つけたくない」という前提自体が無理な設定なのである。人との関わりというものは、大小あれど摩擦なのであり、互いに傷をつけ合う行為であると認識してほしいのだ。

 人のつながりの重要なところはまさにそこにある。一生出会わないかもしれない人との一期一会の出会いも、「あいつ嫌いだわ」と第一印象で思ってしまった人との出会いも、何かしらの傷をあなたの中に残してくれた時点で、ありがたいものなのだ。

「傷なんかつけたくないし、痛い思いなんかしたくない」とは皆思うはずだ。勿論、命にかかわるような大怪我はしない方がいいに決まっている。嫌いだと直感的に思った人と我慢して付き合い続ける必要なんてない。最初から「傷つけてやろう」という悪意を持って近づいてくる者など論外である。だが、だからといって、傷を恐れて誰とも関わらないという無傷のままでいることこそが一番危険となる。それこそが「孤立」だからだ。

 人が生きるということは何かしらの傷が伴う。傷をつけられ、治癒させ、何回もそれを繰り返して強くなる。最初は触れただけで痛みを覚えたような粘膜のような状態でも、慣れればどうってことはなくなる。傷をつけるのは摩擦である。人間関係の摩擦で傷がつくこともあるだろう。しかし、摩擦は血の出るような傷をつけることもある反面、温かくもなる。ぬくもりを伝えられる。

 傷の痛みを知ったからこそ、傷になる摩擦と温かくなる摩擦の違いがわかるようにもなる。それは自分の気付きであると同時に他者への思いやりにも通じる。互いに傷の痛みを知るからこそ、相手の事も思いやれるようになるし、心が通えるのではないだろうか。

 リアルな世界では、自分と気の合う仲間と集まりがちという「イツメン(いつものメンバー) 現象」が起きるが、ネットの世界でも同様である。特に、ツイッターなどのSNS上では、自分と似た価値観や興味関心を持つ人ばかりをフォローし、相容れない考えの人はミュートやブロックできる。その結果、特定の思考や信念が無意識に増幅されてしまう現象が起きる。それを「エコーチェンバー現象」という。

リアルな世界ではたった2、3人の友達に共感してもらえただけでもうれしいのに、ネットの世界では何千、何万人もの人に共感されているという感覚に浸れてしまう。すると、人間とは不思議なもので、そうした自分を支持してくれる人たちが好みそうな事ばかりを書くようになる。勿論、自分の考えとまったく違うことは書かないが、支持や賛同を得るためには、より極端で過激ないい方が好まれるということも学習していく。このように、偏ったエコーチェンバーの中では、その偏りの環境の中にいるがゆえに、より極端に偏った行動が生まれていく。

 当然、世界中が自分と同じ考えになることなどはないので、反対意見も寄せられるし、目にすることもある。すると、自分の意見が大多数だと信じて疑わないものだから、反対意見の人たちに「間違っている」と非難をするようになる。それどころか、同じように「間違っている」と感じるネットの仲間同士で共同して、その反対者を糾弾するようになる。一緒に糾弾すればするほど互いの仲間意識は強固になっていく。

 リアルであろうが、ネットであろうが、結局いつものメンバーとだけつるんで強固な絆の中で安心を得るなら、それは所詮「所属するコミュニティ」の延長でしかない。「所属するコミュニティ」そのものは否定しないが、せっかくの「出場所」である接続点を単なる「居場所」にすり替えてしまっては本末転倒なのだ。

「人とつながる」ことはそれ自体が目的なのではない。あくまで手段である。「人とつながる」ことを通じて、自分の中の新しい自分を生み出すことこそが目的なのであり、手段と目的を混同してはならないだろう。

 たとえば、弱者救済的な活動において、「この活動は弱者を救済するためだから」という世間的に異を唱えにくい道徳的な大義名分の下で、結果的に私腹を肥やし、弱者を苦しめている悪徳な弱者ビジネス業者は少なくない。

弱者から搾取するのではなく、弱者を道具として公から搾取するのだ。弱者を集めて、我々は彼らを救うのだから国や自治体は金を出せと要求し、その金を懐に入れるのがその常とう手段である。だから、弱者は永遠に弱者であり続けてくれないと困るのだ。つまり、弱者を完全に救って、弱者のいない社会を作ってしまうことは彼らの詐欺的商売に反することになる。

驚くのは、実際に弱者救済のNPO法人を運営する人間が、こんなことを堂々とSNSで発言したりしていることだ。 「大衆受けするように振る舞い、テレビ出演などで目立って寄付金を集め、政府にくっついて補助金をたくさんもらい、労働者からの搾取割合を高め、事業費は目的外に転用すれば儲かる」  弱者を救うことはどうでもよくて、弱者を救うという活動をしている自分は利他的な人間なのだから信用せよ、感謝せよ、敬え、善行をしているのだから何もしない奴は黙ってろ、何か文句をいったらそれは誹謗中傷とみなす、法的手段で訴えるという始末だ。もうメチャクチャである。これはある種の利他全体主義(リタ・ファシズム) といっていいのではないか。

 利他的であることを絶対正義にする人間ほど他者から「利他的な人間」として承認されることを強く求める。なぜなら、自分が利他的存在であると虚飾しないと自分の利益にならないからである。だから、それを見破った者や自分を承認しない者は敵として攻撃し、排除し、結果として害他行動をする。言葉で飾り立てた「利他」を追及するために、結果的に「害他」になるのだ。

 そもそも個人の行動の起点など利己的でいいのである。自分の楽しみや欲のためでいい。そのために仕事をすれば、それが自分の報酬として返ってくるし、仕事をすることそれ自体が結果的に他の誰かの報酬を生んでいる。自分の楽しみのために消費をすれば、それは自分に楽しみを与えると同時に、どこの誰かは知らない人の給料になっているし、承認にも喜びにもなる。「自分を励ます」ために何気なくSNSでつぶやいた独り言が、もしかしたら人生に絶望した誰かをほんのちょっと笑顔にしているかもしれない。

 ちなみに、私は、利己や利他という表現もなるべく使わない。個人が個人のしあわせのために行動する「利個」がまず先で、「利個」の最大化を図るには当然周りの人間の迷惑や感情も考える。考えられない者は結局「利個」的行動がとれていないことになる。最初は周囲を欺いて自分だけ得をするようなことが成功しても、それはすぐに見破られて、次回以降誰も相手にしてくれなくなる。それは長期的に見れば完全なる損になるのである。かといって、周囲の利益ばかり考えて、自分の得をまったく考えられないのなら、それは長期的に見れば「生きていけない」だけのことである。バランスが重要なのだ。

「利個」を得られる人は当然ながら自己のしあわせを得ている。しあわせな人には他者にもそのしあわせをおすそ分けできる心の余裕が生まれる。何かの時に、今度はその自分のしあわせそのものをシェアすることができるかもしれない。いつも笑顔でいる人は、周囲の人も楽しい気分にさせるもので、そういう無形の価値のおすそ分けもひとつのシェアである。

 反対に「利個」を得られていない人はどうだろう。しあわせになることもなく、むしろ「いつも自分ばかり損している」という被害者意識に支配されてしまう。そうすると得する他者を妬み、攻撃するようになる。攻撃されたら誰だって気持ちのいいものではない。関わりたくないと思われる。そうやってどんどん人とのつながりが遮断されていき、いつしか「利個」を得られない者は社会的に孤立していくのである。

「誰かのために」とか利他とかわざわざいう必要もない。自分の好きなモノを自分の欲望のために使えば、結果としてそれが誰かのためになる。使えば戻ってくる。経済を回すとはそういうことなのだ。とかく、節約とか倹約が美徳で、浪費は悪とみなされることが多いが、節約とか倹約とか貯金の方がよっぽど利己的で自己中心的な行動となる。

 なぜこんなことを書いているかというと、この循環構造こそが、ひとつの「接続するコミュニティ」でもあるからである。物々交換時代の商いとは異なり、貨幣経済による商いというものは、誰かが必要とするモノを貨幣で交換し、その受け取った貨幣で、また別の人間が自分の必要なモノを自由に調達することができる。貨幣や紙幣などは所詮ただの金属や紙でしかないが、人々の信用があるからその取引が成り立っている。モノと貨幣の交換という接点が人と人との接続するコミュニティであり、そのネットワーク上を貨幣が流通することによって、多くの人のしあわせが生まれる。まさに「利多」行動なのである。  ひとつの買い物行動であれ、それは私たちの小さな「接続するコミュニティ」なのだ。

 第二章で、「結婚したらしあわせになるのではない。しあわせな人間が結婚しているのだ」という話を書いた。また、しあわせとは状態ではなく、行動であり、ウェルビーイングではなく、ウェルドゥーイングであるという話もした。利個と利多の話の本質はまさにそこであり、誰もが、目に見えない関係性の中でも、大きなひとつの「環」の中にいることを感じて、利個行動をすることによって、巡り巡る利多を生み出すということを意識してほしいと思う。

 残念ながら、日本のソロ社会化は不可避である。  独身が人口の半分を占め、一人暮らしが4割になる。男の生涯未婚は3割となり、女も2割を超える。婚姻数も出生数も今後増えることはないだろう。そもそも、対象となる婚姻する若者、出産する女性人口の絶対数が減っているためである。何十年先までわかりきっている出生数減少の話を毎年のように、さも今始まった危機のようにメディアは報道するが、それに煽られてはならない。

 伝統的な家族の数も減る。そもそも結婚しても、家族になったとしても、いずれ子は独立し、配偶者とは死別する運命にある。終身家族でいられるなんて幻想である。

 人口推計によれば、2100年には日本の人口は今の半分の約6000万人程度になる。

多少の誤差があったところで、大きく人口が減少することは間違いない。出生率が改善されないのなら移民を増やせという意見も相変わらずある。が、日本はすでに海外から出稼ぎにくる魅力のある賃金水準の国家ではなくなっている。その上、日本だけではなく世界的にも少母化なのである。それがために、海外諸国も出生率は下がり、高齢化比率が高まり、早晩日本と同じ道を歩むことになる。

結婚も家族も完全に絶滅してしまうわけではない。「恋愛をするな」といわれても、する者はする。というより、義務や意志で恋愛などしていない。恋愛とは意志に関係なく、気が付いたら落ちているものだ。本書に書いた「恋愛強者3割の法則」とは不思議なもので、どんな時代背景であれ、世代が変わろうとも、恋愛する者はする。たかだか100年の皆婚時代で勘違いしているかもしれないが、恋愛はいわば向き不向きがあり、そもそも誰もができるものではない。そして、それによって人間の価値が決まるものでもない。

全員が結婚するという皆婚が絶対善ではない。全員が同じような人生をコピーロボットのように過ごす、かつての人生すごろくの方が異様だったのである。

夫婦の仲でも役割分担があっていい。「夫は外で仕事、妻は家で家事育児」のような役割分業を顔を真っ赤にして非難する界隈がある。親の仇のように専業主婦をののしる界隈がある。しかし、その夫婦が互いの合理的な選択によってそれを決断したのであれば、他人がとやかく口を出すことではない。専業主婦だって働いている。すべての夫婦は共稼ぎでなくても共働きなのだ。

 多様性といいながら、多様性を認めない界隈もある。自分たちだけの思想の「所属するコミュニティ」を作り上げて、片っ端から敵認定して血祭りにあげる活動家もいる。いろいろいる。

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Posted by ブクログ 2023年10月09日

■人口減少するのは日本だけではない。世界の国々も同様。正確に言えばアフリカなどの途上国を除く全ての国は人口が減る。人口学的には、人類は「多産多死→多産少子→少産少死→少産多死」というサイクルで流れていく。これは日本に限らず世界のすべての国が同じ過程を進む。その傾向は先進国や高所得国から先に進むのだが...続きを読む、日本はその先駆けと言える。少子化も人口減少もマクロ視点で見ればこのような人口転換メカニズムの大きな流れの中で推移していくもの。
■2021年の婚姻数は約50万組。2010年はまだ約70万組もあった。この10年で約28%減。出生数は2010年約107万人から2021年約81万人で減少率は24%であるから、大騒ぎしている出生減より婚姻数の絶対減の方が深刻。
■これまで、感覚的に「家族や友達など話し相手がいない」とか「コミュニケーションする相手がいない」ことだけが孤独感の元凶のように語られていたが、、孤独に関する大規模調査から浮かび上がってきたのは「孤独とは経済問題」という発見である。要するに「お金が足りないから孤独感を感じてしまう」。
 若者が結婚できない大きな要因の一つに経済問題がある。結婚や恋愛だけではなく、交友関係もまた個々人の置かれた経済環境の影響が大きい。

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Posted by ブクログ 2024年04月24日

統計を数多く使い、今後の人口減少や独身率増加は避けられないので心構えをせよと後押ししてくれる。
時代とともに考え方は異なってくるので、この本にあるようなゆるやかなつながりを続けていくのがこれから広がっていくのだなと感じた。

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Posted by ブクログ 2024年01月01日

20年後には独身者が全人口の5割に。
40歳まで未婚だと結婚できる確率が5%以下に。

子育て支援はやるべきではあるが、少子化対策にはならないというのは、本当にその通りだと思う。
筆者によると、問題は、少子化ではなく、少母化らしい。

婚姻者、未婚者に関わらず、今後は居場所ではなく、出場所を探すべき...続きを読むというのはなるほどと思った。家族、職場の枠以外で、色々な繋がりを持っておくことは、孤立化しないため、人生を充実させるため、必要になってきそう。

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2023年06月12日

とてもわかりやすく、データを整理されている。少子化なのか少母化なのか、あるいは孤独に対して、それぞれの年代や生活環境でどう捉えているのか非常にわかりやすかった。
この本は特に定年間近の人や、職場環境などの悩みがあり転職をしようと考えている人たちが読むと良いかもしれない。
この作者のシリーズは本当に分...続きを読むかりやすくて勉強になる。

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Posted by ブクログ 2023年05月14日

自分の中に多様性をもつ。
所属ではなく、接続するコミュニティ(出場所)を増やして、自分の中にいろんな色を増やして行く。
その色たちは、混合するのではなく、組み合わせによって新結合し、自己のイノベーションが起きる。
この考え方に共感。
今はまだ孤独感や居場所のなさを感じたことはない(むしろ1人時間が1...続きを読む番心地良い!)
でも、今後はどうなるか分からない。
人生を楽しむなら、行動して自分の中に多様性をもち、いろんな色を取り入れたい。

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Posted by ブクログ 2024年01月02日

未婚のみならず死別離別した高齢者の増加により人口の半分が独身者である時代が到来した。個人主義化が進み、かつてのような所属コミュニティの崩壊も進んだ。社会構造だけではなく、各人の視点を多重化し視座を再配置して不可避なソロ社会に適応しよう。

家族至上的な考え方をより柔軟に変えよう、独身は不幸じゃないし...続きを読む孤独は悪じゃない。それぞれがそう思ってたとしても、社会の雰囲気がまだあまり変わっていないのだろうか。

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Posted by ブクログ 2023年12月14日

 仰っている主張は正しいかもしれないが、やや攻撃的過ぎるのでそちらが気になって本筋が頭に入って来ないことが多かった。今の少子化対策もただの子育て支援と言われているが、同じことを著者も述べている。婚姻数の減少による母親の減少と、高齢者の多死化により少子化が加速する。孤独=悪と決めつけず、孤立を防ぐため...続きを読む「居場所」ではなく「出場所」を作り出すべし。確かに出場所を複数持っている母と、出場所の少ない叔母とでは、母の方がいきいきしている。

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