感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
思想面について語る知識も言葉を持たないので過去編の構造についてだけ。
作中ではリヴィエール教授がイヴォンのことを話すという体で過去編が始まるが、この過去編はイヴォンを視点人物として構成されている。
わざわざ教授がイヴォンになりきって話すというようなことをするとは考えられない。
つまり、ここでナディアたちがリヴィエール教授から聞いた話と過去編とでは、厳密に考えれば別物の話の可能性が出てきてしまう。
ナディアの思考や作中の会話により、過去編の語りの重要なポイントは読者が読んだ過去編と照らし合わせて了解できるようにはなっているが、イヴォンの心情は確実に教授の話では語られない(あってもイヴォンの思いを又聞きで話すぐらい)
この謎は作中の終盤にナディアが今回の話を小説とするときに、過去編を間に挟むことが示唆されることで解消される。
タイトルは違うかも知れないが、『煉獄の時』という、後にナディアが書いた作品の、ナディアが書いた過去編だからこそ、イヴォン視点で心情まで含めて描かれている。
この場合であれば現代と過去編はナディアという同一作者によるものであり、教授の語りと過去編は同じものなのだと理解できる。
けれどもここで物語の信頼性という面で逆転が発生してしまう。
過去編がナディアが書いたものではなく、それ自体が神の視点で描かれた物語ならば、読者はそこに描かれた心情も(作品世界において)確かなものとすることができる。
一方でこの過去編がナディアが書いたものだとするならば、イヴォンの心情や細かい描写の数々はナディアという書き手のフィルターを通して推測・想像されたものということになり、それらが実際に正しいものだったのか信じることが出来なくなってしまう。
神の視点で描かれている場合はナディアたちが聞いた内容と読者が知っている情報に乖離が生じ、ナディアの書いたものであればイヴォンという人物の物語が本当なのか確実性が失われる。
悩ましい話。
ただこれはミステリでワトソン役が後に小説として書くというよくある形式の根底に常に存在する話だし珍しくもない話ではある。
それが今作で強く意識されてしまったのは、結局のところ教授の語りとして始まったのに、いきなりイヴォンの視点で過去編が始まったという部分が印象に残ったせいかな。
(『哲学者の密室』はどうだったっけ?)