あらすじ
2016年7月26日、知的障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が死亡、26人が重軽傷を負った「やまゆり園事件」。犯人は植松聖、当時26歳の元職員だった。なぜ彼は「障害者は生きるに値しない」と考えるに至ったのか。地元紙記者が、37回の接見ほか丹念な取材を続け、差別を許容する現代日本のゆがみを浮き彫りにした渾身のドキュメント。
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Posted by ブクログ
やまゆり園事件の取材から、社会のあり方とは?を考えさせられる本。単なる異常者の犯行ではなく、日本社会の病理を浮かび上がらせる。答えを提示するのではなく、各々が考えるきっかけになる。全人類に読んでほしい。
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この事件をきっかけに浮き彫りにされる様々な矛盾と、社会としての問題を改めて実感させられた。
障害福祉に携わって来た人間として、とても読みごたえがあり、考えさせられるものだった。
子どもたちが、障害者と当たり前に共生出来る社会を作っていけるような行動を私たち大人がとっていかなければいけないと思う。
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凶悪犯罪者に関する書籍で最も深かったと思う。快楽殺人ではなく、信念を持った犯行であり、植松死刑囚の問いかけは万人に通ずるし考え続けないといけない。特に京アニとの比較、被害者の記号化は考えさせられた。
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個人による日本における大量殺人事件「やまゆり園事件」。元職員の男がなぜこんな凄惨な事件を起こしたのか、だけにとどまらず、この社会に潜む病理に切り込んだ一冊。
確かに犯人・植松の思考は、常人のそれとは違う。でも、異常者と言えるほど、突飛な発想ではないようにも思える。特に、障がい者の家族のしんどさや職員の疲れた様子を鑑みて、それを軽減させたいという思いはなんとなくわかった(だからと言って、勝手に命を奪ったり傷つけたりするのは言語道断だが)。でもこれが現実なんだろうなと。
そして、奪われて良い命などないという原則によって行われている裁判のはずが、死刑を求刑している(命をうばいにいっている)のが、最大のジレンマで、思わず唸ってしまった。事件の詳細や裁判の様子、やまゆり園や被害者に関する情報にとどまらず、障がい者を取り巻く社会の状況に目を向けて議論を進めているのが、本書のすごいところ。とくに、障がい者の子どもを特支に入れるか通常学級に入れるか、は私たち教育者にとっても大問題。
引き続き考えていきたい問題が山積している。
p.236 スケート植松の命
生きるには値しない。命は無いと、植松の独善に従うのであれば、植松自身の命の価値はどう考えれば良いのか。あくまでも私たちと等価であるはずの命に死をもたらす刑罰だからこそ、黙過たくない。
植松は生きるに値しない、とみなし、彼を処罰することはできない。植松の主張とそっくり重なり、否定したはずの彼の過ちを肯定することになるから。この取材で幾度も聞いたかパラドックス。落とし穴が待ち受ける。死刑によって、私たちが植松の命を奪う意味を、本書の終わりに通ってみたい。
p.268 支援と管理が逆転
身体障害者の大半は最重度の「障害支援区分6」で、言葉での意思疎通が難しい人が少なくない。暴れるなどの強度行動障害がある人もいる。
支援のあり方を模索し続ける桜の風でも、支援のつもりが、入所者を意のままに行動させようとしている時がある。入所者が管理の対象になるという主客が転倒した状態に近づく。
ある30代の男性入所者は、散歩や体操への関心が薄かった。職員はやる気を促すための策を練った。1日1回運動したらシールを1枚あげ、平日に毎日続けて5枚たまったら好物の缶コーヒーを飲むことができるという約束を交わした。
やがて支援の歯車が狂いだす。「運動に行かないとシールをあげないよ」「シールもらえなくていいの」。本人の頑張りを引き出すためのシールが行動を操る手段に逆転する。
ある時「シール5枚」を達成できず、落胆する男性の姿を見かねた職員から相談を受けた副施設長の佐野良は「来週は頑張ろうと励まして、きょうは缶コーヒーを飲んでもらおう」と助言した。
「支援計画が崩れる。いいんですか」と問い返す職員を、佐野は論した。「あなたは仕事で嫌なことがあったら、気分を晴らすために飲みに行ける。缶コーヒーをお預けにするのは、楽しみが奪われてつらい思いをしている人に、飲みに行っては駄目と追い打ちをかけるのと同じだ」
佐野が自戒を込める。「現場では、支援と管理が逆転していても、気づきにくい時がある。少しでも油断をしていると、本人の行動を制限すると言う危うさをしないかねない。」
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202208/事件と犯人についてのドキュメンタリーだけでなく、後半はグループホーム建設や地域の無理解・差別等についても言及されていて、思ってたのとは違う1冊ではあったが読み応えあった。やまゆり園事件の犯人のような命のジャッジはあってはいけないと思うのに、この事件に限らず酷い(と自分が思う)事件の犯人に対し死刑が妥当と思えてしまうという自分もジャッジしているパラドックス…。
Posted by ブクログ
ずっと気になっている事件だった。「重度の知的障害者には生きる価値がない」という植松の主張への、明確な反駁を知りたかったからだ。人間の命の価値とは何か、という点に踏み込んで論じるものではなかったが、読みながら自問させられることも多かった。
本書の前半は、植松の生い立ちや凶行の顛末、遺族の心情や裁判など、やまゆり園事件という具体的事例について。後半は、優生思想や障害者を排除する分断社会、インクルーシブ教育などについて、日本の現状を解説している。
後半は、高度経済成長の中で生産性が重視され、障害者の隔離や不妊手術が行われてきたこと、対して80年代からの当事者運動の発展などにも触れられ、読み応えがあった。辺見庸が問う「死刑という『生体の抹殺』を黙認する我々と、自身で抹殺を実行した植松の距離は近い」とする意見は、なるほど、と思う。死刑=植松は生きる価値がない、と社会は価値づけているではないか、と。また、やまゆり園事件について、社会はちゃんと怒れていない、と指摘も耳が痛い。
あとがきの、抱樸の奥田さんの文章が非常に良かった。「いのちが大事」を当たり前とすることは、命を金科玉条のように仰ぎ、思考停止に陥ることではない。問いの前で呻吟し続けることだ、と。
Posted by ブクログ
本の概要
2016年7月26日、知的障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が死亡、26人が重軽傷を負った「やまゆり園事件」。犯人は植松聖、当時26歳の元職員だった。なぜ彼は「障害者は生きるに値しない」と考えるに至ったのか。地元紙記者が、37回の接見ほか丹念な取材を続け、差別を許容する現代日本のゆがみを浮き彫りにした渾身のドキュメント。
植松の犯行を行う前の状態や行動・言動までよく取材をされて書かれています。
ただ、後半の亡くなられた方のご遺族やら周りの皆様、亡くなったご本人の思い出や会話が何人分も記載されており、後半読めずにおりました。大変胸の痛い事件で、何て言葉にしたらいいのか分からない。
なぜそんな事を思い犯行を起こしたのか。本当はどうだったのかを知りたくで読んだけど、犯人にはとてもじゃないが理解できない世界で、救いようのない馬鹿だと思った。
亡くなられた方へのご冥福をお祈りします。またこのような事が二度と起こらない世界であってほしいと切に願います。
Posted by ブクログ
日本史に残る個人による大量殺人事件。
植松死刑囚がナチスのような選民思想というか大麻でネジが緩くなっていたのかは不明だが自意識過剰である事は疑いない。事件前に精神病院での退院をクリアしている辺り事件を起こして精神異常を訴え再度退院して娑婆に出ようと考えていたのではあるまいか。どちらにせよ彼にとっての格上でなく格下の人間を殺すという行為は卑劣卑小の極みであろう。本書の語録からは無感覚なものを感じるが死刑を迎えるその日にどの様な心境になるか…。
被害者が植松曰く「劣ったもの」として扱われ本名すら明かされない報道やこの事件をどう捉えて乗り越えていくか迄に筆は及んでいる。
Posted by ブクログ
植松聖の動機は結局わからないという印象を抱く人が多いが、本人から説明されつくされているが理解できないという印象をいだいた。
この本を読んで衝撃だったのはメディアが被害者の実名報道にとても固執していること。実名報道が通例なのだとされているけど、筆者である神奈川新聞取材者が書いてある通り、被害者家族はメディアスクラムを恐れていた。
その気持ちを無視して知る権利という、主語が曖昧な権利を主張するのは、なんというか怖かった。
報道されることで、周りからの目線、取材攻勢、あるいは施設に入れてしまったという後ろめたさを抱えながら生きてきたことに直面する辛さ、肉親が殺されたばかりの被害者家族をそういった状況に置くことに対することに無神経だと思った
かといって後半では障害者の生活のあり方について当事者である障害者自身の意志を尊重することの必要性を説いていて、違和感を覚えた。(当事者の意志を尊重することはとても賛成している)そうであれば、報道に関しては被害者家族の意志を尊重するべきではないか。
当事者の意志が尊重されるべきたと私は思う。
そこに関わる、第三者のメディアのあり方を個人的に考えさせられた一冊だった