【感想・ネタバレ】スノーボードを生んだ男 ジェイク・バートンの一生のレビュー

あらすじ

世界で初の出版となる「バートン物語」。

子供用のソリから開発した板でスノーボードという新しいスポーツを生み出し、自身のブランドBURTONと共にスノーボードを発展させてきた
BURTONスノーボード創始者ジェイク・バートン。その比類なるパイオニア精神、遺した偉大な功績、そして彼が真っ白な新雪の上に描いた
夢の軌跡を一年に渡る密着取材から得た貴重なインタビューの数々と関係者の証言、写真から綴るノンフィクション。

藤原ヒロシ、中村ヒロキ、滝沢伸介ら日本を代表するクリエイターたちとの関係も丁寧に描かれる。

没後2年となる11月20日に合わせての発売となる。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

スノーボードを生んだ男
ジェイク・バートンの一生

著者:福原顕志
発行:2021年11月20日
文藝春秋

ジェイク・バートン・カーペンターが生まれ育ったロングアイランドは、ニューヨーク州では有数のサーフスポット。14歳の時、クリスマスプレゼントとして両親がくれたのは勉強机だった。中流のサラリーマン家庭では、彼が期待していたサーフボードなどもともと望むべくもないものだった。彼は自分の小遣いでその頃に流行っていた「スナーファー」という幅広で短いスキーのような形の板の先端にロープがついただけのソリを買った。スノーとサーファーを掛け合わせてスナーファー。サーフィンのように立って雪の上を滑ることができる。

ジェイクはこれにはまった。なぜこんなに人気商品なのに、これを使って誰もなにもしようとしないのか?高校生の時、自らこれを改良していこうと決意する。それがスノーボードづくりの始まりになった。

厳格な父親の下、高校はボーディングスクール(全寮制の厳しい私立高校)に入れられたが、生意気な劣等生でLSDをやって友達と騒ぐ日々。結局、3年生の時に退学処分となる。進学校に入り直し、トップの成績でコロラド大へ。ニューヨーク大の夜間に入り直し、父親と同じマンハッタンの投資銀行に就職したが、1977年、23歳で辞めて夢を叶えるべく道を歩む。

最初は板を自分で切って作り始めたが、平らではスノボになり得ないと思った。
そこで、サンフランシスコ近くのサンタクルーズでサーフボード作りを学び、スノボを自作した。ファイバーグラスで作ったスノボは軽くて柔軟性もあったが、衝撃に弱い欠点があった。
発泡スチロールなど色々な素材で試したがうまくいかず、木に戻る。薄い板を丁寧に貼り合わせていく方法。最初は5枚、そして7枚。板が重くならないように一枚一枚を薄くした。接着剤が乾くと蒸気で熱してプレスし、先端部分をそらせた。その後、電動ノコギリで切り取る。

1978年6月末、100枚目の試作品でついに完成。78-79年シーズンで生産した内、売れたのは350枚。1000枚以上が残った。スナーファーは10ドル以下、だがスノボは90ドル近くした。1980年1月から、在庫を車に積み、訪問販売を始める。これもあまり売れない。行きに買ってくれたショップに帰りに立ち寄ると、売れないからと返品されたりもした。

3年目から、ぼちぼちとメールオーダーが入るようになってきた。4年目、最初に失敗したので正社員は雇わず、高校生のアルバイトを雇っていたが、これが思わぬ成功へ。シーズン中、みんなボードを持ち出して試乗していたが、彼らが友達に広めてくれた。ジェイクは販売対象年齢層を間違えていた。もっと若い層、15-17歳が興味を持ってくれたのだった。

徐々に普及していったが、壁があった。スキー場では滑らせてもらえなかった。彼らは粘り強く交渉し、スクールを開いてそこで合格した者だけにライセンスを与える。そのライセンスもいくつかに段階が分かれていて、滑ることができるエリアが違う。結局、そういう方法で理解をしてもらった。スノボのスクール運営を始めたジェイクは、若者たちにスノボの技術だけでなく、マナーもしっかり教えることを心がけた。

スキー業界にとっては、単なる邪魔ものから、自分たちのビジネスを脅かす商売敵になっていった。スノボ業界は、長年、スキー業界やスキーヤーから差別されることになる。

ジェイク・バートンの〝商魂〟物語だけじゃなく、オリンピックとの関係についても面白かった。正式種目になったのは、1998年の長野五輪から。誕生からたった20年で五輪種目になったものはほとんど例がない。一方で、スノボ界は屈辱的とも言える扱いをされた。FIS(国際スキー連盟)が急に競技会でスノボ種目も扱い始め、変だと思ったら長野五輪の正式種目採用を発表。スノボ界からの働きかけはなく、IFS(国際スノーボード連盟)に連絡さえもなかった。

IOCも絶対にスノボは入れないと言っていたのに、突然の寝返り。スキー競技人口が伸び悩んでいたので、若者中心に人気急上昇のスノボを取り組んで収益を上げたいというのが本音だったようだ。

「スノーボードの神」クレイグ・ケリーを師と仰ぐテリエ・ハーコセンは、その頃、IFS主催のハーフパイプ世界選手権で3連覇、全米も3回優勝し、五輪でも金メダル間違いなしと言われていたが、出場ボイコットした。「やつら(FIS)は長年スノーボードを憎み、馬鹿げたものだと言って、なんの関係も持とうとしなかったのに、アクションスポーツがテレビの視聴率を稼げるようになったら手のひらを返してスノボをもてはやした。冗談じゃない」

テリエが最も納得いかなかったのは、代表選手の選考方法。ISFなどスノボ団体が競技会を運営し、ポイントを与えてきたのに、IOCはFIS(国際スキー連盟)が主催する競技会に限定して選考大会とした。1国4名としたため強豪国では多くの有力選手が出場出来ずじまいだった。スポーツは二の次で、商売が第一。

長野五輪でスノボ大回転の会場となった志賀高原・焼額山スキー場は、普段はまだスノボ禁止だったというのも、象徴的なこと。

テリエは以後、クレイグ・ケリー同様、スノボの原点であるパウダースノーで滑るため、バックカントリーの世界へと入っていった。ところが、平野歩夢の憧れで、かつ、ライバルだったスーパースターのショーン・ホワイトの世代になると、生まれたときからスノボが人気スポーツで、こうした感覚はなかった。彼にとっては、最初から競技だった。

著者はNHK出身。この手のものを英語圏の人間が書くと回りくどくて長いものになるが、そういうこともなくて読みやすく、内容も面白かった。

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アメリカでは伝統的に新婦側が結婚式の手配をすることが多い。ジェイクの妻となるドナの父親は富豪で、NBAボストン・セルティックスのオーナー。

ポール・グレイブスは12歳からスナーファーに乗っていた熟練ライダーだった。1979年開催の初めての賞金付き大会で、彼のライディングに驚いた大会側が急遽フリースタイル部門を新設し、彼は初代チャンピオンに。その大会に、ジェイク・バートンも自分のスノボで参加した。大会側はスナーファーではないため反対したが、グレイブスの強い推薦で認めた。2人は意気投合し、以後、スノボの普及に尽力する。

NYでの展示会に出展していると、トム・シムスという西海岸では名の通ったスケートボーダーが来てニヤニヤしている。「これなら高校時代に作ったなあ」と、スノボを考えたのは自分だと言わんばかりの発言だった。以後、ライバルになる。

1985年公開の「007 美しき獲物たち」冒頭のアクションシーンで、ロジャー・ムーアが演じたボンドのスノーモービルが爆撃され、その破片でソリをスノーボードのように乗りこなしたシーンは、トム・シムスがスタントを務めた。

西海岸では、水を抜いたプールの内側をスケボーで滑るのが流行っていて、シムスたちは同じことをスノボでもやっていた。しかし、ジェイクたち東海岸のライダーはハーフパイプなど一度も滑ったことがなかった。

クレイグ・ケリーは「スノーボードの神」「史上最高のスノーボーダー」と呼ばれていた。1985年に初めて競技会に。いきなり表彰台。86年からは4年連続世界チャンピオン。シムスのチームライダーとなったが、シムスの財政状態悪化とともにボードの改良がなされなくなり、うまくいかなくなった。やがて、バートン社のライダーに。

クレイグはスノボ出身で初めて山岳ガイドになった。バックカントリーを楽しむのには山岳ガイドの存在は不可欠だと考えたから。しかし、スキーと違って登坂できないので、スプリットボードという板が縦に二つに割れるタイプのスノボをバートンと開発した。だが、2003年、山岳ガイドの全資格を保有するためにカナダのロッキー山脈で熟練山岳ガイド、ルーティ・ベグリンガーのハイキングツアーに同行したところ、雪崩に巻き込まれて死亡した。ベグリンガーの判断ミスが原因だった。

ジェイクの考え。
「スタイルは全てだ。素晴らしいスタイルというのは、見る人の目を喜ばせる。それは、楽しそうに見えると同時に芸術的でもある。スノーボードにとって最も重要なものだ。ライダーたちがジャンプしてクルクル回転して体操競技のようになっても、決して失ってはいけないものだ。そこにスタイルがなければ、それはただの空虚な回転でしかない。

2015年、ジェイクは全身の筋肉が動かなくなるギラン・バレー症候群に似たミラー・フィッシャー症候群になった。前者は毎年10万人に1-2人、後者は100万人に1-2人が罹患する希な病気。しかし、なんとか克服。

2019年、以前に患って克服した癌が再発、3週間後の11月20日に死亡。享年65。

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2022年04月08日

Posted by ブクログ

ネタバレ

タイトルの通りの内容。
2019年11月20日に65歳の生涯を閉じた、スノーボードという新しいスポーツ、いや、カルチャーを生んだ、「BURTON」創始者の物語。

「仲の良い人や自分に似た人を雇うと、会社が困難に陥った時に自分が思いつく以上の解決策が出てこないんだ。自分とは違う種類の人、自分の足りない部分を補ってくれるような人を周りに集めるべきだと、この時学んだよ」

小さな工場から始め、事業を大きくしていく時の気づきや、

「スノーボードを独り立ちさせるためには、ある程度反逆者的に振る舞う必要がありました。スノーボードというスポーツを誇りに思い、自分たちはスノーボーダーであるというプライドを育む必要がありました」

と言った、業界に新風を吹き込むための意思的な自分たちの立ち位置、座標軸の定め方など、一流のビジネス書としても読めるが、それでは夢がない。
というか、ジェイクの一生から読み取るべきところはそこではなかろう。

スノーボードという一枚の板を作ることから拡がる、原初的な人間関係、コミュニティのあり方つくり方、カルチャーやライフスタイルを含めた文化、あるいは生き方を学べる好著。

「洗練されていないけどカッコいい」

バートン・ジャパンで働いた中村ヒロキの言葉に代表されるように、見た目やデザインなどではなく、捉えるべきは本質である、と。 スノーボードの場合は、なによりそれは、雪の上で、いかに愉しくをRIDEできるかに尽きる。

自分の身長にも満たない1枚の板に己の全てをかけ、人生を謳歌した男の生きざまは、新雪の人跡未踏の極上のパウダースノーの上に描かれたターンのように、自由奔放だ。その軌跡はまるで、自分の好きなように滑っていけばいいんだよと、後に続く者にプレッシャーを与えることなく、確かな道しるべとなって、独特の輝きを放っている。

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2021年12月01日

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