ハーバーマスとアーペルによって展開された討議倫理学が投げかけている問題に対して、現象学や解釈学の立場からどのような回答を引き出すことができるのかということを考察している本です。
討議倫理学は、われわれのコミュニケーションにおいて、理想的共同体における相互承認が超越論的な機能を果たしていることを明らかにしようとしました。他方、フッサールの後期思想では、個々の言語使用に先立つ受動的な段階に「われわれという地平」が設定されることで、その超越論的な機能が把捉されていたと著者は主張します。
次に著者は、ハーバーマスとのあいだで論争を戦わせたガダマーを中心に、解釈学の立場に目を向けます。ディルタイの「生」は、ただ流れ去っていくのではなく、それ自身のうちにみずからを意味表現へと形成する働きを有していると考えられていました。ガダマーはそうしたディルタイの思想を発展させて、世界内存在の契機としての言語こそが、意味を現出させるロゴスとしての役割を果たしていると考えました。著者はこうした考えかたを引き継いで、意味表現はわれわれが「他なるもの」とかかわるディアロゴスのなかで現出すると主張します。
つづいて著者は、フッサールの現象学と討議倫理学を相互に参照しつつ、コミュニケーションにおいて超越論的な意味がどのようにして成立するのかという問題についての考察をおこないます。著者は、意味の理念的な同一性は、言語コミュニケーションのなかでたえず設定されつづけると考えます。そして、コミュニケーションにおける予期の相互反照性についての批判的検討を通じて、そこではコミュニケーションの参加者が相互に合理的で正規的であることが承認されていることに注目し、その役割を果たしているのが参加者たちの帰属している解釈学的な地平としての「言語共同体」と考えられるのではないかと主張しています。