ヤコービとラインホルトは、ともに生と思弁を対立的なものとして理解したうえで、二者択一的なしかたでみずからの立場を語りました。すなわち、ヤコービは「非哲学」の立場を標榜し、ラインホルトは思弁から逃避して「実践哲学」を打ち立てます。これに対してフィヒテは、一方では生と思弁の対立を受け入れつつ、生から超越するとともに生へと超越する思弁のありかたを求めて、生か思弁かという二者択一を回避する道を見いだそうと努めました。
フィヒテが生涯にわたって追求しつづけた知識学とは、このような認識を獲得する学問にほかなりません。それは、たんに対象を認識する学問ではなく、「自己自身が生成するのを見る認識」であると彼はいいます。本書は、こうしたフィヒテの思索の深まりを、前期の『全知識学の基礎』、『知識学の新しい叙述の試み』、『知識学の叙述』、1804年の『知識学』の四つの時期に分けて、その展開をたどっています。
知識学は、「学一般の学」であり、人間精神の必然的な行為様式を解明することをめざします。そして、知識学が成り立つためには、まさにそのような行為様式がみずからを意識へともたらす働きがなければなりません。フィヒテは、このような循環のなかから知識学の成立を見とどけるために、「事行」にそくした反省にもとづいて、知識学の根本法則を明らかにしました。こうした反省は、『知識学の新しい叙述の試み』とその『第二序論』において、自我の自己内還帰の働きによって見いだされる「意識の事実」としての知的直観というかたちで、さらに掘り下げて論じられます。
その後、生と思弁との関係をめぐるフィヒテの考察は、哲学者が智を分析する立場から、絶対知が哲学者による知の分析を介在しつつみずからを分析する立場へと移行を遂げます。こうして後期の知識学においては、哲学的な知の内容は「像」として外化されると考えられるようになります。フィヒテは、生と思弁の直接的な同一性を主張するシェリングを批判しつつ、超越論哲学の立場にもとづく生と思弁の関係についての思索を展開します。