「健康な精神などというものは無い」ことを前提に
本来的な「主体」を見つけ、知り、受容し
ある種の居直りを身につけること
それを助け、人を生きやすくするのが精神分析である
しかし実際にやるとなるとなかなか簡単なことではない
「健康な精神などというものは無い」という前提を
疑うつもりはないけれど
それが一般社会の常識に逆行しているのは確かなことだし
また自分自身に居直る態度も
周囲から「生意気」のレッテルを貼られる原因になりがちで
だから精神分析による一種の悟りを得たとしても
結局、社会との軋轢に直面し
孤立してしまうことはあるわけだ
それでまあ、かえって何かへの依存を深めてしまうことも
たぶんよくある話なんじゃないかと思う
しかしながら、投薬に頼る治療法が
個人的に抱えた問題を棚上げにしてしまいがちなのも
やはり事実なんだろうし
それが例えば向精神薬依存にまで至る可能性もまた
否定できないだろう
度し難い
依存も捉え方によっちゃロマンチックだけどね
この本の表紙イラストみたいに
美しいメンヘラの二律背反みたいな幻想はあっていい
と思うんですが
だがもしも幻想と現実が齟齬をおこしてしまったならば
それは悲劇である
そうならないためにもまずこれはむしろ
幼児発達メカニズムを軸とした、一般論的な世界観の
あくまで一例として
精神的距離を置きつつ学ぶのがいいんじゃないだろうか
とはいえ正直に言うと
実感に比較して納得のいかない部分はかなりある
無意識に沈むのはシニフィアンではなく
耐え難い恐怖や
忘れ難い享楽の瞬間におけるイメージではないか、など
思ってしまうわけだ
しかしそういう持論にこだわりすぎるのもやはり依存なのだろう
依存というのはつまるところ、母に抱かれた胎児の心だけを
つまり無謬の全能感だけを健康な精神とみなす幻想であろうから
それに気づいたとき
人ははじめて己の足でこの現実を歩みはじめるのかもしれない
ところが依存を脱するべく去勢を繰り返すなかで
人間は鏡の中の自分を認識できなくなり
かえって無謬の錯覚を強めていくのではないかとも
思えてならないのは
やはり度し難いことである
だから僕はもう
なるようになれ、としか言えません