和泉悠のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
悪口を例にした言語哲学の入門。
「なぜ悪口は悪いのか?」
「そしてときどき悪くないのか?」
「どうしてあれがよくてこれがダメなのか?」
こうした問い、ある表現や言葉が悪くなったり悪くなくなったりする原理を、言語哲学の概念を使いながら解き明かしてくれる。(あまりよいことではないが)悪口は、軽いものから重いものまで、身の周りに溢れているので、実感を持って難しい哲学的な概念についても理解することができるし、そうした概念を通して身の周りの悪口についての理解も深まるので、とても面白い。より専門的に勉強したい人向けに、巻末にブックガイドもある。
おわりにまとめてある「あるべきでない序列関係・上下関係を作り出したり、維持したりするから」悪口は悪いのだという結論が、個人的にはすっきりとして納得のいく答えだった。
つい先日、中学生の女の子が「顔面土砂崩れ」というあだ名をつけられたのだが、本人的には嫌ではないから別にいいと言っていたことを読んでいて思い出した。よく「いじり」と「いじめ」の境目は何かといった話があるが、こうしたときに、本人が良ければいいじゃないかという意見は、よく見かけるように思う。「顔面土砂崩れ」と呼ばれた彼女も、自分はいいと言っているが、この本のまとめから考えると、やっぱりだめなんじゃないかと思う。
著者の結論から言えば、彼女が、それを自分は別に気にしないからという理由で認めてしまえば、そこに「あるべきでない序列関係」がおそらく生まれる。だから、これは「悪い」のだと言える。
たとえ彼女がよかったとしても、それを許してくれる女の子が一人いたということが、言ってもいいことなんだという事例を作ってしまう。この本7章と8章では、名詞化とヘイトスピーチがテーマになっているが、やがて、そうした事例は、クラスの中で「女の子」という集団を下に見ていいという雰囲気を作りかねないのかもしれない。
あだ名や悪口は、ただ単純に本人の気持ちの問題ではなく、やはり、口にされた言葉が何をもたらすのかから評価されなくてはいけないということを改めて思った。
著者も言っていることだけれども、言語哲学という分野に興味のある人が入門するための本としても、もっと直接的に「悪口」と呼ばれる表現にモヤモヤを持っている人が「悪口」について考えるきっかけにする本としても読める。そして、ここで言われている問題は、上の自分の体験のように、誰にとっても心当たりのある、切実な問題なのではないかと思う。
そんな言葉の問題について一度でも切実に考えようと思う人には、十分おすすめできるいい本だった。 -
Posted by ブクログ
あだな、悪口、嘘、ヘイトスピーチ。
こういった邪悪な言語使用がもとで命を落とす人もいる。
本書はそれらに立ち向かうためにまずはどのように理論的に分析されるのかを解いていく。
新書としては貴重な本だと思う。
前半は、分析のために使用する言語学、言語哲学の概念が紹介される。
タイプとトークン。
意味はどこに存在するか。
意味の機能的側面(真理条件的内容、前提的内容、使用条件的内容、会話の含み)。
確定記述。
言語行為論(発語行為/発語内行為/発語媒介行為)。
扱われている概念の広がりを見ると、なるほど、本書が「入門書」を名乗ることがわかる。
筆者によるとヘイトスピーチは、権力を持った者がある集団を不当に低くランク付けするところに問題の根源があるという。
そして、「ヘイトスピーチ」という語の用法に、単に憎悪を表現したものと矮小化したものがあるとも指摘されていた。
この問題について、自分がいかに考えていなかったのか気づかされる。
とはいえ、上に列記したような概念を、一応頭に入れて読み進めることになる。
例をたくさん挙げ、語り口も少しくだけているので、読みやすいと言えば読みやすいけれど、やはりある程度下地がないと、ちょっと厳しい。
総称文のところを読んでいて、以前読みかけて放り出している飯田隆『日本語の論理』が何を問題にしようとしていたか、ちょっとだけわかった。
この本を手掛かりに、積読状態になっていた本が読めるようになるかもしれない。 -
Posted by ブクログ
「悪い」言語「哲学」。それはまたどういうことだろう?タイトルにひかれて読んだら、とても興味深い内容で、日頃モヤモヤしていることの霧が晴れた気がした。
恥ずかしながら、言語哲学という学問分野があることを、これまで知らなかった。筆者は「言語のダークサイドに立ち向かう際に、言語哲学が必ず役に立ちます」と言う。言語学は「こうなっている」と事実関係を明らかにするが、そこに、歴史的にものごとの善悪について考えるための道具を提供してきた哲学をプラスすることで、「これはよくない」「こうすべきだ」というような、価値についての判断にまで到達することができるのだ、と。なるほど~。
具体的に取り上げられているのは、悪口や嘘、デカイ主語、ヘイトスピーチなど。どれも切り口が新鮮で、とても面白かった。「入門」とある通り、学問的探求の入口を示す程度にとどめてあるので読みやすく、同時に、重ねられてきた研究の成果としての信頼感があると思った。以下は覚え書き。
・ことばの評価はタイプ単位ではなく、トークン単位で行うべきもの。どんな場で、どんな文脈で使われたかで、同じことばが違う意味を持つ。
・「言語行為」という考え方。あることを言うことそのものが行為である。「○○とは言ったけどからかったりしていない」という言い訳はできない。
・「ことばは情報伝達の道具」という考え方の誤り。誹謗中傷をしながら「本当のことを言っているだけ」という場合、単に情報(本当のこと)を伝えたいだけではないはずで、これも言語行為。
・悪口や不適切な発言があったとき、単にどの表現タイプを使った、使ってないということだけに注意をそらされてはいけない。また、「どういうつもりだったか」という答えの出しようのない問いは煙幕となる。
・総称文(「男は~だ」「日本人は~だ」)は、単に「そうでない人もいるからよくない」のではなく、その集団が「本質的に」その性質を備えていると主張し、ステレオタイプや偏見を表明している可能性があるから、そのことに自覚的になるべき。
・哲学者のミルによる言論の自由擁護の論証では、真か偽となる「意見」を提示する自由が擁護される。意見の提示ではない加害行為を、言論と見なして擁護する必要はない。
・哲学者のヒラリー・パトナムの言葉。「ことばを一種の道具と見なすとしても、それがハンマーやねじ回しのような一人で使う道具ばかりでなく、複数の人間が関わる蒸気船のようなものである可能性も考慮しなければならない」
・敬語などが持つ含意を私たちは自由に決められない。差別的語彙が持つ含意も、私たちは自由に決められない。
「差別的発言が、同列に位置づけられるべき集団を低くランクづけするような効果を持つならば、それは話者の意図と無関係に何らかの制裁の対象となるべきでしょう。本当のところは、深層心理では、差別的意識がないとかあるとか、そういったことは、表現の公共的使用とは無関係なのです」
・「ヘイトスピーチの可能な規制や、人権を侵害する言語使用を批判するとき、私たちは蒸気船やタンカーの造船技術・運行規制・免許制度などについて話をしているわけです。『タンカーの操縦に規則なんかいらない、大事なのは安全に運転しようとするそれぞれの意識だ。ほっといてくれ』などと言われて納得する人はいないでしょう。ところが、言語については、『ことばよりも個人の意識が大事だ』のような見解がしばしば提示されます。少なくとも、私たちは、言語がときとして、大事故を引き起こすタンカーや航空機のように、人を傷つけ、社会を壊すことがあることを忘れてはならないでしょう」
以前テレビで、民族学校に街宣車が乗りつけ、「○○を叩き出せ!」「○○を殺せ!」と大音量で叫び、学校のなかにいた子どもたちが「怖い-」と泣いてるのを見た。憤りで体が震えた(本当に)。このとき以来、「ヘイトスピーチ」は「ヘイト」でも「スピーチ」でもないと思っている。恫喝や脅迫は犯罪だし、あれは絶対に「スピーチ」なんてものではない。「言論」が尊重されるのは権力に対するときであり、「何を言ってもいい」わけではない。本書のような論考はとても大事だと思うけど、現実には、そんなもの屁とも思わない人たちがたくさんいることを思うと、もどかしくてたまらなくなる。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ一般の人の声(偏見というかほぼ私)、筆者の声、ナレーション(私の声)の3視点構成で解説してみようと思う。
一言でいうと、悪い言語=悪口について言語哲学的に考えてみましょう!という本。
まずタイトルからして、一般の人から突っ込みが入る。
一般の人「でたでた専門用語。『言語哲学』とか分けわからんこと言っちゃって。学者さんは、簡単なことでも無理に小難しくしちゃうから困っちゃうよ。私たち、日本語普段から使ってるし、日本語の専門家みたいなもんでしょ。悪口についても、言語哲学?なんか学ばなくても理解できてるし。」
著者「では、聞きますが、そもそも悪口って、いったい何ですか?」
一般の人「簡単簡単、悪口=人を傷つける言葉でしょ?」
筆者「確かに間違ってはいないですが、不十分です。『人を傷つける言葉』であることは、『悪口』であることの必要条件ではないし、十分条件でもありません。」
〇人を傷つける言葉 ↚ 悪口
まず、『人を傷つける言葉』であることは、『悪口』であることの、必要条件ではないということ。日常語に言い換えると、『悪口』がいつも必ず『人傷つける言葉』ではないということを、一般的な感覚で捉えるために、次の例え話を紹介している。尚、これはあくまで理解を促進することだけを目的とした「お話し」に過ぎず、結論の正当性を強化する根拠ではないことに注意したい。この「お話し」を、根拠だと勘違いして反論することはいくらでもできる。しかしそんなことをしても得られるものは何もなく、時間を無駄にするだけなのでやめよう。
例え話:メンタル最強浅草さん
浅草さんはどんな悪口を言っても絶対に傷つかない人です。そんな彼のもとに、性格が悪いAさんがやってきて、言いたいこと(お前は下の下の人間だ。死んだ方がよい。生きてる価値なし。自殺しちゃえ、などなど)を好き勝手にいいます。しかし、浅草さんは全く傷つきませんでした。
筆者:「この場合、Aさんが言ったことは、浅草さんを傷つけていません。『人を傷つける言葉』が『悪口』の必要条件であれば、Aさんが言ったことは、悪口ではない、ということになります。しかし、みなさんの大半はそう思わないはずです。つまり一般の感覚的な理解においても、『人を傷つける言葉』であることは、『悪口』であることの、必要条件ではないのです。」
〇人を傷つける言葉 ↛ 悪口
次に、『人を傷つける言葉』であることは、『悪口』であることの、十分条件ではないということ。日常語に言い換えると、『人傷つける言葉』がいつも必ず『悪口』ではないということを、一般的な感覚で捉えるために、次の例え話を紹介する(著者のが微妙だったので自作)。
例え話:可愛い恐怖症のウサギちゃん
ウサギちゃんは、可愛いという単語を聞くとトラウマを連想して必ず傷ついてしまいます。そんなことを知らないBさんがウサギちゃんの容姿を褒めようと「可愛いね!」と言いました。その言葉に傷ついたウサギちゃんは、泣き出してしまいました。
筆者「この場合、Bさんが言ったことは、ウサギちゃんを傷つけました。『人を傷つける言葉』であることは、『悪口』であることの、十分条件だとすると、Bさんの言った『可愛い!』は悪口だということになります。しかし、みなさんそうはおもいませんよね。なので、感覚的にも『人を傷つける言葉』であることは、『悪口』であることの、十分条件ではないのです」
筆者「以上より、『人を傷つける言葉』であることは、『悪口』であることの必要条件ではないし、十分条件でもない、ということに納得して頂けましたでしょうか。納得といっても、あくまで感覚的な範囲内での話ですが。」
一般の人「ふんわりとは分かったけど、じゃあどうすんだよ? 何が悪口の必要十分条件なのか、どうやって見分ければいいんだよ?」
筆者「言語哲学という道具を使えばいいのです。悪口について考えるとき、まずは言葉の中身がどうゆう構造になっているのか、考える必要があります。その時に、役に立つ道具が『言語学』です。次に、なぜその構造だと悪いのか、も考える必要があります。その時に役に立つ道具が『哲学』です。だから、悪口について考える時には、言語学と哲学をくっつけた『言語哲学』という道具を使うことが有効です。」
以上が一章までの内容。
しかし、道具を使うためには、その道具に対して、仕様や使い方を知っておく必要がある。その道具(言語哲学)について、実践を交えて浅く広く解説しているのが、二章―八章(予測)。この部分に関しては専門的な話が多く、整理も理解もできてないので省略(理解でき次第追記する予定)。
終わり部分を先に書いておく。
筆者の結論「『平等の理念上あるべきでない、序列関係、上下関係を作り出したり、維持したりする機能(構造?)をもつ言葉』であることが、『悪口』の必要十分条件である。」
しかし、本書の最も大事なことは、上の筆者の結論に納得することではない。大事なポイントは以下の2点。
①本書で学んだ言語哲学という道具を使って、悪口の必要十分条件を自分の言葉で、設定できること。
②①で設定した、条件を基準に、実生活で悪口かどうか疑わしい事例について、判断できるようになること。具体例としては、アスカがシンジに言い放った「あんたバカぁ?」は悪口なのか、悪口じゃないのか。また、最近三男である私が母に言われた「三男は長女より下」は悪口なのか、どうなのか、などなど。
感想
まだ軽くしか読んでないが、全く興味がなかった言語哲学に興味がわいてくる、面白い本だった。もっと言語哲学を学びたい人向けの、ブックガイドもついているので、入門書として当たりなのでは。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ読書感想文:悪口ってなんだろうと、私による対話設計の再考
序:悪口という問いの立ち位置
私は、ファシリテーションとコーチングの実践者であり、哲学と心理学の観点から対人関係や組織の構造を常に問い直している。和泉悠の「悪口ってなんだろう」は、言語哲学の視点から「悪口」を定義し、その社会的・心理的機能を解明する本だが、私がこの本に求めたのは、単なる倫理書としての読解ではなく、対話プロセスを設計する際の理論的基盤としての再構築であった。
この本は、「悪口はなぜ悪いのか」「どこからどこまでが悪口なのか」「悪口はなぜ面白いのか」という三つの問いを軸に、悪口の本質を「相手を劣位に置く行為」と捉える。これは、私が現場で感じる「悪口は関係秩序を作る装置だ」という直感と、驚くほど整合する。
第一部:悪口は序列を可視化する
第一部では、悪口を「人を傷つけるから」「悪意があるから」ではなく、「相手のランクを下げるから」であるという視点で捉える。これは、私が以前述べた「悪口は縦の関係を作る道具だった」という仮説と、非常に深く接続する。
私は、悪口が単なる否定的な言葉ではなく、社会的な位置関係を可視化するための装置であると考えている。限られた資源や承認をめぐる場では、誰が上で誰が下かを素早く共有することが必要であり、悪口はその機能を果たす。和泉の「ランクを下げる」という定義は、この視点を言語哲学の用語で裏づけている。
第二部:悪口の境界線と、対話設計への応用
第二部では、軽口・あだ名・自虐・褒めながらの悪口・批判・差別語など、悪口の境界が曖昧な領域を扱う。これは、私がファシリテーションやコーチングの現場で直面する「何が悪口か」の判断に近い。
現場では、悪口を単純に「禁止する」だけでは、対話が停滞する。むしろ、関係性・文脈・権力差・受け手の解釈を見て、場を壊さずに調整することが必要である。和泉は「適切な非難や批判」と「悪口」を分けるが、この区別は、私の実務感覚と一致する。評価せずに扱う、しかし必要なフィードバックは行う、という姿勢は、この本の理論によって支えられる。
第三部:悪口はなぜ消えないのか
第三部では、悪口が笑い、脳、狩猟採集民、イコライザーとしての役割、ヴァーチャルな悪口へと広がる。これは、私が述べた「古い脳の仕様」「現代的な多軸化された関係」という見立てと接続する。
私は、悪口は「共同体に不要なノイズ」になったというより、共同体の理念と矛盾しやすいが、なお権力と不安の場面で使われ続ける装置だと考えている。和泉は、悪口を単なる道徳問題に閉じず、なぜ人間がそれを手放しにくいのかを、関係調整と集団秩序の観点から見る。これは、私の進化心理学的・情報処理的な読みと、非常に相性がよい。
実践:概念としての仮想敵と、リベレイティング・ストラクチャ
私は、個人的に「仮想敵」をあえて作る。それも、「人」「組織」としない。「概念」として生む。それを使ってまとめるとうまくいくことが多いという実感がある。また、これを対話プロセスとして使うリベレイティング・ストラクチャの有用性も併せて重要だと考える。
和泉の「悪口は相手のランクを下げる」という整理は、この実践を裏づける。「概念」を仮想敵に据えることで、参加者は「相手のせいにしない」ではなく「この課題とどう向き合うか」に集中でき、対話の質が上がる。また、リベレイティング・ストラクチャは、対話を「誰と誰の争い」ではなく、「共通の課題とどう付き合うか」に引き上げる構造を作る。
結論:悪口は、対話設計の理論的基盤になる
この本は、私にとって、悪口の本質を言語哲学で押さえる本であり、ファシリテーションやコーチングの「介入と受容」の設計を考える本であり、共同体感覚と序列の緊張関係を再考する本でもある。一般には悪口をどう避けるかの本として読まれがちだが、私にとっては、悪口・批判・非難・受容・秩序形成を一本の線でつなぐための基礎文献となっている。
私は、この本を「理解する側」であると同時に、「使い直せる側」の読者である。実務の観点からも、安全性の観点からも、この本は、対話プロセスを設計する際の、非常に強い理論的基盤を提供している。
「概念を仮想敵にする」+「リベレイティング・ストラクチャで対話を解放する」は、組織の対話プロセスを設計する際の、非常に強いプラクティスである。和泉の「悪口は相手のランクを下げる」という定義は、この実践を理論的に裏づける。
この本は、単なる倫理書ではなく、対話プロセスを設計する際の理論的基盤としての再構築が可能である。私は、この本を、哲学・心理学・組織論・実務スキルの四象限で、自らの知的関心地図に位置づける。