鈴木翔のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
スクールカーストは生徒・教師の両面から異なるメカニズムで維持されている。いまや市民権を得ている「スクールカースト」という言葉ですが、この本が出版された2012年12月時点では、言葉じたいはあったものの、社会学・教育学の対象にはなっていませんでした。なので、スクールカースト研究の先駆けみたいな本。本書は筆者の修士論文を再編集したものというから驚きです。
この本では、生徒(中学2年生)へのアンケート調査と大学生10人、現役教師4人へのインタビュー調査をもとにスクールカーストについて論じられています。スクールカーストとは、クラスのなかのグループにランク付けがされ、下位のグループは上位のグループに逆らえない雰囲気が醸成される。1軍、2軍、3軍みたいな区分けがされるわけです。しかもこの上下関係は学年が上がってクラス替えがあっても固定化するといいます。たまにランクが落ちることはあってもめったに上がらない。勉強やスポーツだったら自分が頑張ればなんとかなる部分はありますが、スクールカーストでは、いっかい下位グループになってしまうとそこから自力で改善していくことができない。しかも明文化されない理屈で上下関係が決まってくるため、厄介なのです。
生徒側と教師側のインタビューの中では、スクールカーストに対しての捉え方の違いが見えてきます。生徒にとってのスクールカーストは、逃れがたい「権力」として映ります。下位グループは上位グループに逆らえない。上位グループはやってもいいことの権利が多い、と捉えている生徒もいました。
他方、教師にとってのスクールカーストは、その生徒の「能力」を基盤として成立したもの、というように映っているようです。上位グループにいる人たちは、コミュニケーション能力とかリーダーシップに長けているからそのポジションにいるんだ、というわけ。だから、学校運営にうまく利用しようとする。場合によっては上位グループの生徒にすり寄って、仲良くします。生徒へのアンケート調査では、教師との仲の良さは「成績」も「クラスでの地位」も正の相関が見られたのですが、成績よりもクラスでの地位の方がその傾向が強く出ています。
したがって、生徒側・教師側の両面からスクールカーストは維持されることになります。ただ、生徒側と教師側の認識には差があり、教師側が「能力」という捉え方で構造の維持を図ることが生徒のためになっているかは疑問です。
さて、この先は私見ですが、会社でも同じようなことはあります。仕事やコニュニケーションという意味で「デキない」人は地位が低い。ただ会社は逃げ場があるけど(異動とか転職とか)、教室は逃げ場がないんですよね。カネのためだ、と思えば割り切れるし。そこが事態を深刻化させている要因だと思います。
別の見方をすると、スクールカーストの存在は「空気の安定化」につながるので、クラスメイトにとっては「楽」なんじゃないか?みんな平等だと、「空気の探り合い」をしなきゃいけなくて疲れるし、意見の対立も起こる。いや、意見の対立が起きるのは大いに結構なわけですが、日本社会は意見の対立を嫌いますからね。しかもある程度「デキる」やつが上位グループにいて、「空気」を醸成してくれる環境にしてくれるんであれば、それって効率的とも言えますよね。だから、問題こそあれど、スクールカーストは生き残っているんではないかと思います。
それと、機能としては年齢による上下関係だって同じようなものではないか。年齢のほうは昔から染み付いた習慣なので、異を唱える人は多くないと思います(ぼくは大嫌いですが)。ただ、年齢は地位の上下がはっきり明確(誕生日を聞けばわかる)だし、誰しも時間が経てば「上位」が回ってくる「平等感」があるから受け入れやすい。スクールカーストはその理由がよくわかんなくて、不平等でしょ。そこに不満がたまるという要因もあると思います。 -
Posted by ブクログ
評判が良かったため購入。いじめやいじりは区別がつけにくく把握が難しいから、大本となる学校の人間関係、つまりスクールカーストを見てみよう、という話。
忘れていた自身の学生時代のことを思い出していろいろともやもやした。小学校時代はなぜか足の速い子、運動神経のいい子がもてるよね。そしてクラスに一人くらい嫌われている子がいた。中学時代になるとあからさまなスクールカーストがあった。大人になってから卒業アルバムを見直すとみんなどっこいどっこいの田舎の中学生なのだけれど、あの頃は中学校が世界の全てだったから、クラスや部活であの子より上だ下だと序列を感じていたな。高校時代はスクールカーストの高い子と友達だったから確かに楽しかった。
マジメとヤンキーが互いに嫌いあっていたというのは80年代の話だと思う。受験戦争に意義が唱えられ、勉強が重視されなくなってから、マジメの価値は落ちたよ。
生徒と教師からの聞き取りが根拠のほとんどを占めており、論文としての根拠は薄弱かもしれないが、スクールカーストという言葉を全面に出し世に知らしめたという点で価値のある本。スクールカーストの存在を否定する者がいなかったにもかかわらず、それが形成される根拠やカーストの決め方は非常に曖昧であり明文化されない。にもかかわらずどの生徒にも共通して認識されているところが闇を感じる。
生徒からの聞き取りによりスクールカーストは上位の生徒にも下位の生徒にもデメリットがあると考えられるのに、教師の捉え方が全く異なることにいやな感じがした。スクールカーストは権力であり、上位の者がいない場で中位の者が場を盛り上げることがあることから決してコミュニケーション能力によりカーストが形成されているわけではないという結論が出ているのに、教師はスクールカーストを能力ととらえている。上位は積極的で自分の意見をはっきり言える、人付き合いもうまいと。そして下位の者はぼんやりしていて楽をしていると。教師のあまりにも都合の良いものの見方に憤りを感じた。上位の者は友達が多い「ように見える」だけで、裏で反発されていることもある。自分の意見をはっきり言うのは、それが通る場だから。上位とされない者でも自分の意見は持っているが、相手にされないので言わない。能力が序列になるのではなく、序列の差が態度に現れる。
学級経営というのはモデルケースが見えない。理想とされる学級はどんなものなのか、多種多様な人間がいる中で、未成熟な生徒達がどのように互いとの関わりをもてばうまくいくのか、誰も示さない。生徒達は自ずとカーストを形成し、役割を決め、日々がうまく回るようにしているのかもしれない。学校以外の世の中で、勝手に作られた同年代だけの集団においてただ仲良くあることを求められる場というのは思いつかない。学校が全ての世界である生徒は苦しい。ただ仲良くあれ、それが正しいとされる世界は辛い。
典型的な体育教師の認識の仕方に本当に憤りを感じた。下位の生徒の将来をダメだと決めつけ、学級経営のためには上位の生徒を使って回していくのが良いと考え、唯一クラスで圧力から逃れられている存在なのに、積極的にスクールカースト形成に力を貸している。強く自己主張できるのがそんなに偉いのか。騒がしいのが偉いのか。静かに日々を過ごすことがそんなにいけないのか。学校という逃げ場のないところで自身の振る舞いにかかわらず下位と評価されるのはどれだけ心が傷つけられ、自尊心が抉られることか。
スクールカーストは、学級という均質を目指す箱が必然的に作り出した闇に思える。個を重視するなんてよく言うよ。 -
Posted by ブクログ
️p.6 同学年の児童や生徒の間で共有されている「地位の差」を、本書では「スクールカースト」と呼びます。
こう定義される「スクールカースト」。でもよくよく考えてみると、この「スクールカースト」なるものって学校生活の中でごくごく自然にあったことだろう。それに敢えて焦点を当てて論じたという意味で、この本には意義があると言えるだろう。
スクールカーストが発生する学校の「クラス」とは、全ての生徒がまったく平等であるという建前の下で扱われる集団だ。でもだからこそ、余計に地位の差、ヒエラルキーの差を作りたくなるものなのかもしれない。完全に平等であることに、もしかしたら人は耐えられないものなのかも。
ただ率直に言って、後半部分の教師の話には違和感しか感じなかった。スクールカースト上位の生徒をやたらと評価している教師が多いが(もちろんあくまで本書の中での話だが)、確かにそういう面もあるのかもしれないものの、だからといってスクールカースト下位の生徒を「損である」「能力が低い」と位置づけてしまうのも何か違う気がする。外から見れば地味に見える生徒だって、その中身は意外にも個性的で面白かったりするものだ。逆に上位の人の中にだって、そりゃ面白い生徒もたくさんいるんだろうが、薄っぺらい人間だって山ほどいるだろう。表に出てくるものだけで生徒を判断するなんて、それでも教師か!?と言いたくなる。
またこの本、途中から大学生や教師へのインタビューが多く挟まれるのだが、数少ないサンプルをさも多くの人がそう思ってるものだとして解釈しているところにも若干の違和感を感じた。 -
Posted by ブクログ
小中高の学校に存在するスクールカーストと最近では呼ばれる、
生徒間での序列がどういうものかを解き明かそうとする本です。
前回読んだ、『桐島、部活やめるってよ』でも、生徒間の関係性の「上」「下」
というものがでてきました。きっと、僕が高校生だった90年代の中頃よりも、
そういったものがクリアになってより子どもたちをひっ迫しているのかなぁと
思って読みました。そして、読んでいるうちに、自分が学生だった頃の、
スクールカースト的な序列というものも思い出してきて、
今考えればそう分類されるのかなと新たな視点からとらえ直すことになりました。
きっと、ほとんどの人が感じたことがあると思いますが、
あの人はスポーツができてかっこよくて、「上」にいて、発言力があって、
自分の思うように事を進めがちだったというのがなかったでしょうか。
あるいは、そういう人は自分だったという人もいるでしょう。
本書では、そういう序列を若い大学生のインタビューから構成し、
その後、教師からのインタビューからも構成して、
生徒と教師という二つの立場からスクールカーストを追っていたりします。
教師っていうのは、安易で一面的な社会的価値観の上に成り立っているんだなぁと、
あらためて、僕が中高生のときに感じたような嫌悪感を感じました。
読んでいくとわかりますが、上にいるものも下にいるものも、誰も得しないんですよね。
「え、上にいる人は得なんじゃないの」と思う人もいるでしょうけれど、
人間的にそれじゃいけないわけで、そういういけないことを勉強する機会を失って、
未熟な価値観のまま大人になっていくので、とても残念なのです。
最終章では、ではどうやってスクールカーストのある今の学制に対応していけばよいか、
その方法の提案がありますが、決してドラスティックな感じではない。
僕はこう考えるのですが、「上」の人間でも、その浅薄な価値観に気付けば、これではいけないと
変わろうとしていくと思います。でも、「上」にいる「甘さ」に慣れてしまうと、
なかなかそうはできずに、社会に出てからも、
スクールカースト的な価値観をどこにでも持ち込もうとするはずです。
たとえば、団地で公園デビューするとか言う話が実際にも小説にもでてきますけれども、
そういうときの人間関係の序列もスクールカースト的だったりします。
人間はどうしても、人を値踏みして、序列を決めないと落ち着かない生き物なのかなと思ったりもします。
また、「下」の人間であれば、「上」の嫌悪感も「下」の不自由さも知っているので、
そうではないオルタナティブというか、アザーサイドなというか、
もっと別の価値観を探したり構築したりして、
そういう自分へ変化していこうと努力すると思います。
そういう意味では、10代のスクールカーストによる苦みは良いほうへ機能する。
僕の持論では、いじめは、いじめる側はその時に権力の甘味を知って堕落するので、
それ以上の人間にはなかなかなりにくい人が多く、いじめられる側は、
自分に疑問を持ったりして、苦しむのだけれど、その後の人生では
自分が変化していくことにためらわないような人になることが多そうなので、
それだけ人生が開ける可能性があると思っています。
いじめられる側のほうが、その後、頑張るんですね。楽観的な考えかもしれないですけど。
そういう立場にいたいか、いたくないかの差で人生は大きく変わるということです。
なぜ、今、こんなにスクールカーストが明確になったのか。
そして今後スクールカーストを解体していくことができるのか。
それら両方にはきっと「自我」というものが関係しています。
現代の、特に大人は、自我の肥大によって、上からの目線に過敏になっているといいます。
なので、そういうことを扱う本には、摩擦を避けることも一つの方法として書かれていたりしますが、
もしかすると、スクールカーストに代表される、社会の序列づけに対しての拒否反応かもしれない、
なんて考えてみたりもできます。
学生は、そのまま「今」の問題として。
社会人は、「過去」でありそうで、社会の中でもそのまま生きてしまっている
序列に対して類推的にも読めるでしょう。
きっとスクールカーストは短絡的な価値観で出来あがっていますが、
子孫繁栄の性のプログラムがされた人類の生存戦略として
一番てっとりばやい発現の仕方なんじゃないでしょうか。
そんなふうにも思いました。