菅原克也のレビュー一覧
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ネタバレ英語学習について、筆者の体験を元にまともに分析している。
統計的なデータ、研究をしこたま引用して主張を強めるというより、筆者がたさ「体感」していることを丁寧にまとめているという印象。
特に、母語として英語を学ぶ場合と外国語として学ぶ場合を明確に区別し、さらに、学習者のおかれている環境にも着目している。そして、それぞれの場合で、英語の学習方法は違うことを明確にする。英語を話さずとも生きていける(学校の外に英語を話す場がない)日本で生まれ育った日本人にとって、最適な学習方法は何か、という問に体し、文法的基礎を身につけることが先決だ、という結論を導いている。
よく聞く英語学習法とは、この点で大きく -
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2013年度から高校の英語の授業は英語で行うことが決まったようだ.なんと馬鹿な事を文科省は考えているのか.これについで穏やかな反論が本書の内容だ.共感することが多かったが例を一つ.p 203に次のような記述がある. 「英語を書く機会が増えると,自分が日本語で書いた文章をそのまま英語に直そうとしても,うまくいかないことがわかってくる.それより,はじめから英語で書いた方が,はるかに手間が省ける.」 その通りだ!私論だが,中高で英語を必修にする必要はないと思っている.日本の社会で英語を必要とする人はわずかだ.英語の授業は英語嫌いを増やしているだけだ.
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「そうですよね、うんうん」という調子ですらすら読めた。
というのも、私も中学から文法・訳読中心の英語教育を受けてきて、高校卒業時点では、英語は得意で好きだったが、全く聞けず、話せずだった。しかし、大学で発音記号を学び、かねてからの一種の憧れ・夢であった留学(語学留学)を経験し、今は多少聞けて話せるようにもなった。
その時感じたのは、やはり基礎となるのは日本で積み重ねてきた文法・単語の知識、訳読の訓練であり、これらは外国語の習得には欠かせないものだということ。「よろしく」や「がんばれ」など、どうしても英語に直訳できない日本語もあり、その逆も然り。一つ一つ覚えていくしかないということ。など多くの点 -
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訳読の重要性を謳い,平成25年度から始まる「英語での英語教育」に疑義を呈した本です。英語が嫌いになるのはある意味で仕方がないとは思いますが,訳読というのが単なる英語→日本語という変換に留まらないという観点を明示してくれています。こういう話は中学生にもしておく必要があると思います。
新指導要領を作った文科省の役人は,この著者が務める東大の卒業生が多いはずですね。外務省の役人よりも英語ができないということはどこかで聞いたことがありますが,「自分たちは英語を読んだりすることはできるけど,英語でやり取りするのが下手なのは,英語教育にコミュニケーションの時間が少なかったからだ!」という短絡的な発想が新 -
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英語のみによる授業の導入に意義を唱え、ふつうの日本人の立場としてどう英語を学ぶべきかを考察した本。
読解力、とりわけ訳読(いわゆる逐語訳含む)の重要性を指摘し、それが学習者にとってなぜ重要なのかの説明が明快であり、説得力もある。なにより、私自身が高校生活・大学受験を通して学んできた「英語」が、間違いでは無かったと確信できたことが嬉しい。
なにかと槍玉に挙げられやすい「受験勉強」だが、英語に限らずすべての科目に、やっただけの成果はあがることをもっと認めてもいいと感じる。もちろん見直すべき点が無いということではない。だが少なくとも私は、あの頃の勉強が、肝要な土台を築きあげていたことを実感している。 -
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ネタバレ日本語環境に身を置く者として
いかに英語力を高めたらいいか。
日本語、英語、両方の力を高めたい
私にとって重要な課題だ。
その中、筆者が訴えるのは
決して斬新な意見ではない
「長文読解」。
『読む力を向上させ読む体力をつけることが
総合的な英語力を養う手段になる』
『英語と日本語の間には変換が必要』
『英語を日本語に訳し、英語を書いてみる』
中学時代からやってきた地道なことを続けることが求められる。
それなりの英語力になってきた今だからこそ、
「長文読解」がリスニング、スピーキングも含めた
英語力向上につながるのではないかとさえ思えてきた。 -
Posted by ブクログ
「英語と日本語のあいだ」をつなぐために、読む力が最も重要であり、訳読の授業によって英文を理解する訓練を積むことが必要、ということを主張するもの。新学習指導要領の「英語の授業は英語で」を受けて書かれたもので、いわゆるこれまでの正統派の英語教育の重要性を訴えている。
コミュニケーション重視の英語教育の風潮に対するアンチテーゼとなっているこの本であるが、内容的に目新しい部分はない。著者は文学が専門らしく、英語教育の専門外である。おそらく、「英語の授業は英語で」の意味を本当にそのまま捉えているのではないかと思われる。文科省側の説明が足りないことのあらわれと言える。
さらに、英語教育や文科省の側で