木村直司のレビュー一覧
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ネタバレGoetheの赤 -2009.03.09記
以下はゲーテ「色彩論」における<赤色>談義だ。
「青や黄を濃くしてゆくと、必ずそれとは別の現象が一緒に生じてくる。色彩というものは、最高に明るい状態でも暗い翳りをもつものである。したがって色彩が濃くなれば、ますます暗くなってゆくのは当然である。しかしながら、色彩が暗くなるにつれて、同時に色彩はある輝きを帯びてゆく。
この輝きをわれわれは「赤みを帯びた」という言葉であらわしている。この輝きがだんだん強まってゆき、高昇の最高段階に達すると、圧倒的な力を示す。強烈な光を見た場合には、網膜に真紅を感じる漸消現象が生じる。プリズム黄赤色は-朱色-は、黄色から生じたものだが、黄色を想起する人はほとんどいない。
赤という名称を用いる場合には、黄や青を少しでも感じさせるような赤は除外し、完全に純粋な赤を考えていただきたい。たとえば白磁の皿の上で乾かせた純正のカーマイン-紅色の絵具のような。古代人の言う真紅が青の側に近いものであったことはよく承知しているが、赤という色彩にはその高貴な威厳のために私はしばしば真紅という名をあたえてきた。
真紅が生れてくる課程をプリズム実験で見た人は、真紅には現実的にも可能的にも他のすべての色彩が含まれているとわれわれが主張しても、牽強付会の言とは思わないであろう。
黄と青の、この二つの極が赤に向かって高昇し、合一するところに、理想的充足と名づけてよいような真の平静さがあらわれると考えることができる。実際、物理的現象においては、それぞれ合一を目指して準備し、一歩一歩進む二つの相対する極がついに出会ったところで、赤という全色彩現象中で最高の現象が生じるのである。
この色彩は、その性質ばかりではなく、その作用も比類がない。この色彩は厳粛で威厳に満ちているというばかりでなく、慈愛と優美を併せ持っているという印象を与える。赤が暗く濃ければ厳粛で威厳があるものになり、明るく淡ければ慈愛と優美に満ちたものになる。このように老人の威厳と若者の感じの良さとが一つの色彩の中に包みこまれているのである。」 -
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ネタバレ岩波文庫の「色彩論 色彩学の歴史」を解読してからのレビューであります。
ダンテの「神曲」のように詩韻に秘密があるのではないかと、行ごとに番号を付けながら解読して行きました。
また色彩論なので赤ならば赤、青なら青、黄色なら黄色、緑なら緑、白なら白、黒なら黒、灰色なら灰色、紫色なら紫色と色分けしながら、また、明るいもの、暗いものなども区別しながら解読しました。
その後、日本に正藍冷染(しょうあいひやぞめ)というものがあることを知りました。
なるほど、ゲーテの言う灰色を明るくしたり暗くしたり、緑が青になったりということと一致している。
また、ダンテの「新曲」の中でニュートンがプリズムに固執し過ぎていることも一致している。
さて、本題はここで始まる。
私にとってこの調和された本の解読がどのような意味を持つのか、また私にとっての調和とは何か、ゲーテが色彩という調和を見つけ示したように私にとってのそれを見つけたい。 -
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「岩波文庫『色彩論』リベンジ」でもないけれど(?)、これも手に入れました。自然科学か否か、という分類はもはや気にならず、「文字にて書かれたもの」として対峙しようという構えにて臨みましたし、そういう意味では、岩波に接したときほどの敷居は感じませんでした。……で、私は、未だに(おそらくは生来)自然科学(の或る分野)には弱いんだなぁ、って、思い知りました。思い知ることができただけでも幸いです。プリズム分光器を作ったこともあるから、ちょっと自信あったんだけどな、その程度じゃダメか……。色々あれこれ「色ごと」は、大好きなのに。だから、これらゲーテの著作は大事にとっておきます。
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古書店で本書を見つけ、驚いてその場で購入した。フンボルトとは地理学者には「近代地理学の父」として知られている18世紀から19世紀にドイツで生きた博物学者である。フンボルトのいわゆる熱帯旅行記の一部も岩波書店の「17・18世紀大旅行記叢書」に2巻本で訳出されたのが2001年から。その後も伝記が訳されたりと、地理学以外で最近注目が高いようだ。
ちなみに訳者はゲーテ研究で知られる人物ということで、ゲーテとの交流が深かったフンボルトの翻訳にも手を伸ばし始めた、というところだろうか。
本書の一部はすでに地理学者、手塚 章氏によって翻訳されている(『続・地理学の古典』古今書院,1997年)。しかし、今回一冊丸ごと翻訳されたことで、学んだことは多い。まずは目次から。
草原と砂漠について
オリノコ川の滝について――アトゥレスとマイプレスの急流地帯
原始林における動物の夜間生活
植物観相学試論
さまざまな地帯における火山の構造と作用の仕方
生命力あるいはロードス島の守護神物語
カハマルカの高地――インカ皇帝アタウァルパの旧首都
手塚氏の翻訳もある「草原と砂漠について」(手塚氏は「ステップと砂漠」とした)は手塚氏の訳を読んだときの印象が強く、本文より分量の多い脚注により、本文=文学的、脚注=科学的というゲーテ的な芸術と科学の融合という試みを強く印象付けた。手塚氏の解説文を再読はしていないが、恐らく1808年の初版からの訳出だったと思う。初版ではこの文章の他に2,3の文章しか収録されてない、小冊子であったという。
しかし、本書はその後も改定を重ね、1826年に増補再販、1849年には「事実上の第二巻」(p.24)が出版され、本訳書はそれらを1冊の作品とみなし、上記の7つの文章を収録している。こういう事実は知らなかった。しかも、第二版、第三版と長い間隔がそれぞれ空いており、フンボルトの作品の中では長く愛読された本であることも分かる。
さて、そういう史実を知るという意味では、本書の読書から学ぶことは多かったが、本文はなかなか頭に入ってこないものだった。旅行記的な文章から、自然地理学のトピック的な各論、そして方法論的な文章まで含んでいるのに、どれも活字が私の目の前をさらさらと流れていく感じがした。
やはり、一応地理学者としての私には、地理学的な観点からの翻訳である手塚氏の翻訳の方が、ゲーテ的要素に着目している木村氏の翻訳よりも読みやすかったのかもしれない。そして、手塚氏があえて本書を丸ごと翻訳しなかったのかということも説明できるのかもしれない。