馬場高夫(新城市立長篠城址史跡保存館顧問)のレビュー一覧
-
幕府の重い年貢に苦しむ農民たちを団結させ、リーダーとして一揆を起こした。善戦虚しく敗れたが、現代では考えられない勇者と言えよう。
Posted by ブクログ
-
秀吉がもっとも信頼した天才軍師!
美濃の斎藤家に仕える竹中半兵衛は、態度の悪い主君をいさめるために、わずか16人で稲葉山城を奪取する。それは、稲葉山城を長年落とすことができなかった
織田信長をも驚愕させる事件だった! のちに織田信長に登用され、羽柴秀吉の軍師として活躍する半兵衛の、短くも波乱の生
...続きを読む涯を描く!!
織田信長の跡を継いで天下人となった羽柴秀吉には優れた参謀が2人居た。
後の世で「二兵衛」と呼ばれた
・竹中半兵衛
・黒田官兵衛
である。
この両名が打ち立てた作戦が秀吉軍の天下取りに貢献した度合いは計り知れないものがあった。
両名共に信長ではなく秀吉の直属となった背景には、人間的な魅力で秀吉のほうが信長よりも温和で敵に対して過酷な処置をしなかったことだろう。
秀吉が天下人となる前半戦では竹中半兵衛が、そして毛利家との戦いの最中に半兵衛が病死した後は官兵衛が参謀としての地位を担った。
竹中半兵衛は元は美濃の斎藤家の家臣であり、父親は「美濃のマムシ」と呼ばれた下剋上の申し子・斎藤道三に仕えていた。
しかし、道三は息子の斎藤義龍との戦いに敗れて死に、ほどなく義龍も病死して、その息子の龍興が当主となっていた。
やがて半兵衛の父親も死に、半兵衛が家督を相続したが、主君の龍興は暗愚と評判で美濃国はまとまらなかった。
半兵衛がその名を世に知られるようになったのは手勢僅か16名で主君の居城の稲葉山城を奪取してそれをすぐに龍興に返還。
自らは弟に家督を譲って隠居した。自らが下剋上の世の潮流に乗る気など毛頭無く、あくまでも主家を想ってのことだったとのこと。
けれど、これは後の世に彼の息子である竹中重門が著した「豊鑑」のよる伝承のようだ。
実際は「龍興派」と「反龍興派」との対立によるもので、城乗っ取りは一時的には成功したものの、巻き返しに出た龍興によって奪い返されたというのが本当のところであるようだ。
本来なら「謀反」を起こした半兵衛は抹殺されるはずだが、幸いにも龍興の求心力は低下しており、美濃攻略を目指して進軍してきた織田軍を抑えられなかった。
やがて隠遁する半兵衛の下へ秀吉が訪ねてきて織田家へ仕えるように勧めてくる。
斎藤家への忠節からかそれを断る半兵衛であったが、秀吉は何度も半兵衛を訪問して軍略の手ほどきなどを受け、師弟関係が徐々に構築されていった。そのうち信長の調略によって美濃の国人たちは織田家に寝返り、事ここに至り半兵衛もようやく折れて織田家に出仕するようになった。けれど、立場的には信長の直属ではなく「秀吉傘下」であった。時に半兵衛27歳の再デビューである。
中国攻めの陣中で没したのが36歳の時なので、半兵衛の表舞台での活躍は僅か10年弱の短い期間である。
けれどそれは織田信長の「天下布武」の戦いの軌跡にそのまま参戦することを意味した。
浅井・朝倉氏との「姉川の戦い」「小谷城攻め」等でも秀吉傘下で功を上げ、浅井長政の裏切りで信長が危機に陥った際は秀吉と共に「金ヶ崎の退却戦」で殿を務めている。
彼の編み出す作戦・用兵は「孫子」の軍略に基づいたものであり、「戦わずして勝つ」を基本とした。
決して犠牲を出すような力攻めは好まず、極力犠牲を避け勝利を得ることに集中した。
「秀吉は城攻め、家康は野戦が得意」という後世の評価も、秀吉が半兵衛から教えられたものが大きかった故であろう。
自らは病身であり、決して戦国の世に向いてはいなかったはずであるが、秀吉の、或いは信長の「軍勢をその知略によって使役する」ことで、大いに力を発揮して周囲の人間、特に秀吉には一目も二目も置かれていた。
やがて城持ち武将となった秀吉の下で中国地方の毛利氏攻めに参加。ここで自身の後継者ともなる「黒田官兵衛」と出会う。
後に秀吉に「油断ならない男」として警戒されることになる官兵衛も半兵衛の実力を認め、敬った。
半兵衛は病弱故か自身が長生き出来ないことを悟っていたフシがあり、それが無欲かつ清廉なイメージを作り出した。
禄高や褒賞などには頓着せず、織田家の勝利が「乱世の終結」へ繋がることを信じていたのだろう。
その中国攻めの陣中で結核の病状が悪化。遂に帰らぬ人となる。
「人生五十年」と称された戦国の世で36年の短い生涯であった。
その精神は「黒田官兵衛」「秀吉」に受け継がれ、間接的ながら天下統一に大きく貢献したといえる。
存命ならば秀吉によって数十万国の大大名となり、五大老に列せられていたかもしれない。
Posted by ブクログ
-
幕末。薩摩藩の下級武士の長男として生を受けた西郷吉之助は役人となってからも貧しい農民から年貢の取立てを免除してもらえるように藩と掛け合ったりする人情家だった。
薩摩藩には開明派として名高い名君・島津斉彬がおり、西郷は幸運にも斉彬から目を掛けられるようになった。
時勢はペリー来航以後、開国か攘夷かで国
...続きを読む内は騒然としていた。
開国派である斉彬の影響を受けていた西郷は斉彬の密書を各地に運び、諸藩の有能な人材たちと懇意になっていくのだった。
だが、幕府は将軍継嗣争いに端を発する大老・井伊直弼による安政の大獄で大弾圧が加えられ、西郷も追われる身となった。
薩摩藩も斉彬が亡くなり、父親の島津斉興が実権を握ってからは只管幕府に平身低頭。絶望した西郷は勤皇の僧・月照と共に海に身を投げるが、一人だけ助かり蘇生する。
それからは幕府の目を気にして南西諸島に流罪の身となる。雌伏のときだった。
その間にも歴史は歩を進め、再び西郷を表舞台に立たせる事となる。斉彬の後を継いだ弟の島津久光と西郷は基本的にソリが合わなかったのだが、
それでも藩士に人望の厚い西郷を登用しないわけにはいかず、長州が京都に攻め上って「禁門の変」では薩軍の総大将として采配を振るった。
薩摩はどちらかというと幕府寄りで、それがいつの間にか長州と手を結ぶ「薩長同盟」により倒幕派となったように感じられるのだが、
国内で争っている場合ではないときに幕府が長州を征伐しようとしたため、幕府に愛想を尽かしたらしい。
(しかし、この辺は藩主の島津久光と西郷たちでは考え方に温度差があり、久光は幕藩体制の崩壊を望んでいたわけではなかった)
西郷さんは人情家で義に厚い人物であることが度々描写されている。だが、その西郷さんについて二つ疑問に思う点がある。
ひとつは大政奉還した幕府を挑発して軍を起こさせるために、薩摩藩士に江戸市中で乱暴狼藉を行うように指示した点。
そして、東征軍で江戸を目指す最中に「赤報隊」に新政府に味方したら租税が半額になるお触れを出させておきながら、後にそれが財政難で不可能になると
赤報隊に罪を着せて抹殺した点。
この二点から西郷さんの普段の「人情家という顔」とは別の、「目的の達成のためには手段を選ばないマキャベリストたる西郷」の顔が見えてくる。
この漫画では「赤報隊」についてはカットされ、薩摩浪士による江戸市中での乱暴狼藉は「薩摩藩の指示」でとして紹介されている。
そして維新後は政府の要職に就くも、他の薩摩・長州の顔ぶれと意見が合わず下野する。
人望があるだけに政府は西郷を「危険分子」扱いし、それに怒った西郷の下に集う若者たちの暴走が始まる。
西郷自身が明治政府のやり方に不満を抱いていたことは確かであろうが、反乱を起こすつもりなど毛頭なかったであろう。
最後はあたかも「担がれ神輿」となって動乱の渦中に消えた西郷。
彼が生涯で最も尊敬して止まなかった主君・島津斉彬が存命であれば、おそらくは西郷さんの挙兵もなかったであろう。
西郷さんを止められる人物を失ってしまっていたことも彼にとっての悲劇であっただろう。享年51歳。
Posted by ブクログ
-
父・光秀の謀反により幸せな日々が一変!
夫を信じ、己を貫いた戦国女性の運命とは?
織田信長の重臣・明智光秀の娘に生まれ、
織田家臣団の若きエリート、細川忠興の妻となったガラシャは、
まさに幸福の絶頂にあった。
ところが、光秀の起こした“本能寺の変”によって、
彼女の人生は一変、奈落の底に突き落とさ
...続きを読むれてしまう。
裏切り者の一族と後ろ指をさされつつも、
夫・忠興の理解とキリスト教への信仰を支えに、
強く人間らしい生き方をえらんだガラシャ。
時代の波に翻弄されながらも、
戦国乱世をたくましく生きぬいた、
一女性の波瀾の生涯をえがく。
戦国時代の女性は名前も判らないという人が多く、その中にあって信長の妹であるお市の方や、姪の茶々こと淀君などは存在がハッキリと記録に残っており、珍しいほうである。
熊本54万国の祖となる細川忠利の生母が「細川ガラシャ夫人」である。正式な名前は「お玉」。ガラシャはキリシタンとしての洗礼名である。
彼女は織田信長の重臣である明智光秀の娘として生を受け、後に夫となる細川忠興とは幼馴染の関係であった。
父の光秀は諸国を浪々の身であったが、後に足利幕府の最後の将軍になる足利義昭に仕え、その義昭を上洛させることの出来る諸国の大名を訪ね歩くうちに、尾張の織田信長に辿り着く。一説には信長の正室であるところの美濃の斉藤道三の娘・濃姫と親戚関係にあったことが縁であったともいう。
信長に仕えるようになった光秀は各地を転戦し、軍功を立てていき信長の信頼を得ていく。
諸国浪々であった光秀の生活は安定し、娘である玉も何不自由ない幼少期を過ごした。
光秀と細川家の当主の幽斎、は共に足利義昭の家臣という立場から信長の客将となり、後に義昭と信長が不仲になると共に義昭を見限って信長に仕える様になった言わば似た立場にあった。
夫になる忠興の父である細川幽斎は文武に秀でた武将であり、信長の信任も厚かった。
そういった縁にも恵まれた末の婚姻であったわけであるが、それが暗転するのが「本能寺の変」である。
父・光秀が主君である信長に謀反を起こし、信長を自害に追い込んだ。
細川家はお玉の実家である明智家に味方するのか、しないのかという決断を迫られることになる。
この漫画では忠興は率先してお玉の実家であり、義父に当たる光秀への加担を父である幽斎に訴えたような描き方をされてはいるが、実際は助力を願う光秀の書状に
「この度の挙兵は娘婿の忠興を出世させるために起こした」と書かれているのを見ると怒って使者を斬ろうとして父の幽斎に止められている。
つまり、細川家にしては「晴天の霹靂」以外の何物でもなく、当惑しかなかったであろう。
苦渋の末に忠興はお玉を離縁して一時的に山中に幽閉する。お玉は訳も分からないままに命令に従わねばならなかった。
そして、幽斎・忠興共に信長の死を悼んで喪に服するという態度を取った。つまり、積極的に光秀と戦うことはしなかったが味方もしなかったのだ。
一番の頼みとした細川父子から助力を拒絶された光秀は、毛利氏との戦いを切り上げて中国大返しを行った秀吉との戦いに敗れ命を落とした。
主君である信長を討った光秀に味方しても世の人の支持は得られないと見たのであろう。幽斎の機を見る目は確かだった。
その後、細川家は秀吉の傘下に入り、天下取りを進める秀吉に協力。忠興は各地を転戦することになる。
戦功を立てた忠興は秀吉にお玉を引き取ることを願い出て、ようやく夫婦が再会することができた。
・・・・・が、夫婦の間に芽生えた不信感は拭えない。両親を亡くして捨て置かれたお玉は絶望の中で信仰に救いを求めキリシタンの洗礼を受けた。
信長はキリシタンの宣教師には寛容で、布教を積極的に支援してくれた。だが、その跡を継いだ秀吉はキリシタンを侵略の先兵として迫害・追放した。
自分の妻が秀吉が嫌うキリシタンであれば、細川家にとって禍となりかねない。忠興はお玉に信仰を捨てるように迫るのだが、お玉はそれを拒絶した。
やがて秀吉が死ぬと天下の形勢は、徳川家康とそれを除こうとする明智光秀との対立が激しくなる。
忠興は加藤清正や福島正則などと共に武断派の一人として三成たち文治派とは対立していた。
家康の会津の上杉家征伐の軍に加わる夫の忠興。留守を守るお玉は京都の細川家の屋敷にいた。
だが、留守中に三成たちが家康を討つために挙兵し、家康と共に会津征伐の軍に加わった諸将の妻子を人質に取ろうとした。
脱出は叶わないと悟ったお玉は家臣に自らの命を差し出した。夫の足手まといとなることを避けるためと、彼女はキリシタンであったため自害は禁止されていたからである。彼女も戦国を生きる大名家の女性として覚悟は出来ていたということであろう。享年38歳。
戦国の世に生を受けた大名家の姫君は実家と自分の嫁ぎ先との対立・没落の危機と常に隣り合わせであり、その際に嫁ぎ先を守るためにどのように行動するかが問われたことであろう。お玉の人生は「本能寺の変」で暗転し、両親は死に、それまでの幸せから放り投げだされた。
そんな中で夫である忠興は可能な限り妻を守ろうとし、その行為がお玉の誤解を受け、時に夫婦仲が冷え込むこともあったものの、最後までお互いを想う気持ちが続いた。
二人が「幼馴染」であったことも大きかったであろうが、不本意ながら妻の実家を滅ぼすことに加担してしまった忠興には後ろめたい思いが常にあったはず。
忠興なりの生涯を通した「妻への贖罪」が、後に妻の洗礼を認めることにもなったはずである。
政略結婚が大半を占める戦国の大名家の婚姻の中で、おそらくは数少ない恋愛結婚だったはずだ。
Posted by ブクログ
-
戦場で“槍の又左”の異名で恐れられ、前田家を加賀百万石に育てた猛将!!
若い頃の利家は「傾奇者」と呼ばれる派手な出立を好む戦国の不良少年だった。
それも四男で前田家の家督を相続できるわけでもない中途半端な立場が影響したと思われる。
が、主君である織田信長も傾奇者的なところがあり、何だかんだで気に
...続きを読む入られて仕えることになる。
戦場で初陣を飾り利家の人生は順風かと思われたが、信長のお気に入りの小姓を勝手に無礼打ちして信長の勘気に触れ浪人となった。
浪人中の利家を気にしてくれたのが、柴田勝家と木下藤吉郎秀吉の二人。
勝家は大先輩。そして秀吉は同僚で住んでいた家も近所。また、利家の正室のまつと秀吉の正室のねねが親友という間柄でもあった。
やがて、合戦が起きるたびに勝手に参加して手柄を立てていき、勝家の取り成しもあって織田家に帰参が許された。
帰参後は母衣集という戦場での伝令役の任務に就き、エリート集のひとりとなる。
勝家の配下として主に北陸方面を担当して23万石の大名に出世した。
しかし、利家の運命も本能寺の変で大きく変わる。
信長の跡目を巡る争いで柴田勝家と羽柴秀吉が対立する。両者に恩義のあった利家は争いを回避すべく奔走するのだが・・・
遂に両雄は賤ヶ岳にて激突する。勝家の配下として参加していた利家だったが、秀吉とは戦えず撤退してしまう。
恩人である勝家を見捨ててお家の存続のため、秀吉に組することにしたのである。
この決断が前田家を大きく発展させることになった。
以後、秀吉に従い各地を転戦する。豊臣政権の重鎮として「五大老」のひとりにも選ばれて、徳川家康の抑え役として83万石を有した。
秀吉の死後は対立する武断派と文治派の間で苦労するが、利家の寿命も程なく尽きようとしていた。
最後は病の身で家康を刺殺しようと考えるも家康はそんな気配を察知して終始利家に下手に出て、利家に刀を抜かせなかった。
ここに家康を討つチャンスは未来永劫に失われてしまったのである。
こうして見ていくと、利家の人生は天下人である秀吉と連動したことで大きく開けたという傾向が強く、その点においては非常に幸運であった。
但し、戦歴や石高などから見ると「徳川家康」に対抗するにはやはり1ランクもしくは2ランクは利家のほうが落ちるのは否めない。
利家自体が元々は信長の配下という立ち位置であり、独立大名である徳川家康は本来なら「主君である信長の同盟者」であり、信長健在であるなら「同僚」では有り得なかったはずである。
また、石高でも独立大名であった毛利輝元・上杉景勝の後塵を拝する形となり、秀吉からの信頼でその差を埋めていた感がある。
また、利家自身は四男でありながら兄を差し置いて家督を相続することになるが、兄・利久の子である「前田慶次」の名を出しながら、その後の話に一切登場させないというのも非常に残念な点です。
この点は前述のおまつとねねの友情という点で「ねね」を登場させていない点でも同じ。
さらに前半の母衣集時代からのライバルとして佐々成政を登場させながら、後に成政が九州での失政を責められて秀吉に自害させられるエピソードを省略している点もいただけないと思います。
Posted by ブクログ
-
幼いころ病気にかかり右目を失明。
それからというもの、母親の愛情は、
もっぱら弟の小次郎に注がれ、
幼少年期の政宗を大いに苦しめます。
徳川幕府の時代になっても“天下”を狙いつづけ、
江戸の民から“伊達者”と呼ばれた政宗。
政宗は家族のうち、父親と弟を殺さねばならず苦渋の決断であった。残る母親
...続きを読むとは不仲で、小田原に参陣して秀吉に臣従しようとする直前には毒殺され掛かる。
その際に、家中の不安を取り除くために弟の小次郎を誅殺せなばならなかったそうだ(但し、生存説もある)。
秀吉に臣従しても裏で一揆を扇動したりして、隙あれば秀吉の天下を覆そうとする政宗。当然に秀吉から詰問を受けるが・・・その度に
・花押(サイン)を二種類使い分けたり
・黄金の磔柱を持参したり
と派手付きの秀吉の性格を見抜いたパフォーマンスで切り抜ける。
おそらく秀吉は政宗に「かつての主君である織田信長の姿」を重ねていたのではないか?
そのため、幾度も反旗を翻されながらも最後まで政宗を取り潰さず、丁々発止の駆け引きを楽しんでいた節さえ見える。
政宗にしてみれば家康よりは秀吉のほうが性格的にウマが合ったと思う。
他にも朝鮮出兵に参戦する際に自軍の兵に派手な衣装を着せて、秀吉の直属兵として温存させることで部下の命を守ろうとするなどしたたかさを見せるが、この漫画ではそのエピソードは省略されてしまっているのが残念。
さらに政宗の名参謀である「片倉小十郎」がいたことも政宗の生存の大きな理由であったかと思うが、その小十郎が秀吉や家康にスカウトされてそれを固辞して政宗に仕え続けたことなども、主従の絆の強さを示す意味で入れるべき話だったかと思います。
一番残念なのは、前半から小田原参陣まで母親の義姫との関係がしっくりいっていないことを描きながら、晩年に義姫が身を寄せていた実家である山形の最上家が改易になると行き場を失った母親を政宗が引き取り、母子が和解した描写が全くない点。
晩年に徳川家による天下が固まるまで、自らの天下取りの野望を捨てなかったという政宗だが、実は天下と並んで欲していたのは「母親の愛情」ではなかったか?
戦国の世の骨肉の争いの習いで、素直になれなかった両者がようやく歩み寄り和解したのは義姫が亡くなる1年前の短い時間ではあったが、それが無ければ政宗はどれほど後悔したことであろう。
天下を取ることは叶わなかったが、実は最も欲しいものは最後の最後で手に入れた政宗。母子の和解を父・輝宗も喜んだことだろう。
それが一切描写されていないので、単なるダイジェストのような構成になっているのが残念。
Posted by ブクログ
-
赤穂藩浅野家の家老。
忠臣蔵の主役として、指導者の理想像に。
名は良雄、内蔵助は通称。
山鹿素行に軍学を学んだと言われる。
1701年藩主浅野長矩が切腹、領地没収となると、家中を統率して浅野家再興を図る。
その望みが絶たれた翌年、赤穂義士の首領として、主君浅野長矩の敵・吉良義央を討った。
自身は
...続きを読む、幕法違反として肥後藩預けとなり、切腹したが、浅野長矩の弟大学が五百石の旗本になっており、浅野家再興は別の形で実現した。
■忠臣蔵 あらすじ
元禄時代「浅野匠守」という赤穂藩の殿様が、「吉良上野介」にいじめられ、
逆上し、江戸城内の廊下で刃を抜き、浅野匠守は切腹となる。
それに憤りを感じた赤穂浪士が家老「大石蔵之助」を中心として、吉良邸へ討ち入りをする。
討ち入りは成功するが、赤穂浪士らは切腹となる。
忠義な臣下の大石蔵之助。
忠臣(忠義な臣下)が沢山入った「蔵」。
■目次
おもな登場人物
第一章 刃傷松の廊下
第二章 揺れる赤穂城
第三章 討ち入りか再興か
第四章 吉良邸討ち入り
第五章 忠臣蔵
大石内蔵助を知るための基礎知識 •解説
•豆知識
•年表
•参考文献
Posted by ブクログ
-
伝説の「関ヶ原の戦いでの敵中突破による退却」で知られる島津義弘の伝記漫画。
島津家の歴史は古く、源頼朝によって九州最南端の島津荘の地頭となって以来、鹿児島の地に根付いてきた。
戦国時代になって九州でも群雄割拠の様を呈し、島津家は他の国人に占拠されている
・薩摩国
・日向国
・大隅国
の3ヶ国を奪還
...続きを読むすべく戦いを続けていく。
義弘は島津貴久の次男であり、兄は義久、弟に歳久と家久がおり、この四人は「島津四兄弟」として強固な絆に結ばれていた。
島津家の戦法は釣り野伏せと称される「伏兵戦法」であり、少数で大軍を引き付けてわざと敗走して、追ってくる敵を伏兵で取り囲んで殲滅するというものであった。
やがて島津家は九州の南部を制圧し、中央部を領する「大友家」、北部を領する「竜造寺家」との三勢力による構図に突入する。
けれど、竜造寺家は「肥前の熊」と称された当主の竜造寺隆信が島津氏との戦いで討たれ、キリシタン大名として名高い「大友宗麟」もキリシタンに傾倒する余り、求心力の低下を招き島津氏との戦いで敗北を喫した。
他の2家の衰退するのに対して島津家は四兄弟の団結で勢力を増し、九州を統一しようとしていた。
しかし、中央では織田信長の跡を継いで天下取りを進める豊臣秀吉が勢力を伸ばして、四国・中国地方を傘下に収めていた。
落ち目の大友宗麟がすがったのがこの秀吉である。大友を助ける名目で秀吉は九州へ出兵する。
その軍勢は何と20万人に及んだ。小田原攻めの軍勢が22万人と伝えられているから、ほぼ同規模である。
如何に島津家が九州最強を誇ろうとも「多勢に無勢」は否めなかった。
各地で打ち破られる島津軍。義弘も奮戦するが叶わず島津家はとうとう降伏する。
けれど秀吉は寛大にも島津家を許し、大隅・日向・薩摩の3ヶ国は安堵された。
豊臣政権に組み込まれた島津家はその後の朝鮮出兵で義弘が渡海し、「鬼島津」と恐れられるほどの凄まじい強さを見せる。
20万人の明と朝鮮の連合軍を僅か1万の兵で撃破したのだ。
けれど朝鮮出兵は島津家に多大な人的・金銭的な負担を強いた。領内の豪族たちの反乱も収まらず、渡海して戦っていた義弘と国内に残っていた当主の義久との間にも軋轢が生じた。
秀吉は渡海もせず積極的な協力もしない義久を排除して、島津家の当主に義弘を据える。秀吉による島津家分断作戦である。
四兄弟のうち末弟の家久は病死し、三男の歳久は領内で起こった反乱の首謀者として秀吉の命により討たれた。
鉄の結束を誇った四兄弟も義久と義弘の二人になり、島津家の戦力も半減する。
朝鮮出兵での無理が祟ったのか1599年に秀吉が病死すると、朝鮮から軍は撤退する。
やがて帰国した諸将は石田三成を初めとする「文治派」と、福島正則・加藤清正らの「武断派」の争いに巻き込まれる。
その両派の争いを上手く利用したのが「徳川家康」であった。家康は徐々に自身の野心を露わにする。
中央に不穏な空気が漂う中、五大老のひとり会津の上杉景勝に謀反の疑いがあり、家康の下に討伐の軍勢が起こされる。
義弘は家康から直々に伏見城の警護を依頼されたのだが・・・その時の義弘の手勢は僅か700の寡兵である。
しかもその寡兵が伏見城の留守を預かる鳥居元忠の拒絶に遭い、城に入れない。
そこへ三成からの誘いが来た。家康討伐の軍勢を起こすので加勢をという依頼である。
手勢が1,000人を切っている義弘に選択の余地はない。西軍に加勢する他はなかった。
もし、この時に伏見城に入城していたら義弘は三成の軍勢に攻められた際に討死したであろうか?
まことに時勢の移り変わりとは激しいものである。
その後、国許を抜け出して義弘の軍勢に加わる者が出てきたため若干、兵が増えて1,500人ほどになった。
かくて運命の関ヶ原の戦いを迎える。何故、国許は兵を寄越さなかったのか?天下分け目の戦いであるのにだ。
これは国許の内乱の鎮圧に兵を裂かねばならなかったのが大きな理由であるが、国許の中央への情報の把握が出来ていなったことが大きな原因であろう。
勿論、朝鮮出兵での損害が大きく尾を引いているのも忘れてはならない。
西軍の一武将として参戦した義弘であるが、西軍に遅れて関ヶ原に着いた東軍に夜襲をかける提案も三成には容れられない。
寡兵の島津軍は単独で軍事行動を起こせず、開戦しても積極的な攻撃には出れなかった。
三成の再三に渡る要請にも応じず、小早川秀秋の裏切りにより西軍が総崩れになっても島津隊はほぼ無傷であった。
退却の決断が迫られたとき、義弘は遂に立つ!何と後方への退却ではなく、前方の家康本陣前を横切っての「世界の戦史上にも他に類を見ない」であろう敵中を突破しての退却戦を展開する。
将兵たちは義弘を逃がすために次々と犠牲になり倒れていった。それでも戦場を脱した義弘は僅か数十名となった兵と共に薩摩へ帰国した。
家康の脳裏には「島津恐るべし」の印象が刻まれたことだろう。
戦後、西軍に組した大名は領地を没収されたり、石高を大幅に削られるなどした。
そんな中で島津家のみが唯一、1石も領土を減らされなかった。合戦直後では家康の権力はまだ安定しておらず、
またここで島津討伐の軍を起こせば「家康の私闘」と見做されて野心を見抜かれてしまう。
あくまでも名目上は「豊臣家を守るための戦い」であったのだから。
こうして島津家は首の皮1枚のところで滅亡を逃れ徳川政権下でも外様大名の重鎮として残るのである。
義弘の判断が島津家を救い、後に幕末期における維新の原動力へとなっていくのである。
島津家は「日本史」を大きく動かしたのだ。
Posted by ブクログ
-
幕末に日本史上最強の「剣客集団」として志士たちを震え上がらせた新撰組副長の土方歳三の伝記漫画。
明治を迎えて天寿を全うできなかった隊士の中で、土方は最後の最後まで戦い続けた点で、幹部の中でも特別ドラマ性の高い生涯であった。
近藤も土方も沖田も元々は武州・多摩の農民の出自である。
剣術が得意であっ
...続きを読むたが、江戸幕府の身分制度の敷居は高く、武士には裏口を使ってもなかなかなれない。
本来ならば不満を抱えたまま一生を為す術なく終えるはずの身であった。
けれど黒船来航に始まる幕末の動乱が土方を歴史の表舞台へと登場させるに至る。
志士たちの暗躍する京都の治安を守るための浪士隊が結成され、近藤が隊長、土方が副長となった。
結成当時の新撰組は食い詰め浪人の集まりのようなもので、京都の人々にもその素行の悪さから「壬生狼(みぶろ)」などと蔑まれた。
そんな愚連隊のような集団を組織するには厳しい紀律が必要だった。
かくて「違反すれば切腹」という厳しい局中法度という鉄の掟が土方の主導の下に作られた。
この法度の違反で多くの隊士たちが敵との戦闘ではなく、切腹に追い込まれて命を落としていったのである。
そこには元々は士族の出身ではない土方の「より武士らしくあろうとした」羨望とも劣等感ともいえる感情が透けて見える。
確かに武力に優れた者たちを束ねるにはより厳しい力で押さえ付ける必要があった。
が、それが後年の新撰組内部粛清を誘発し、結成初期の同志たちの命さえ奪っていくことになるのである。
大政奉還後に近藤は斬首され、沖田は病死。土方はひとり各地を転戦する。
新撰組の生き残りとして、薩長が自身を許すなどとは考えられなかったのであろう。
土方自身に何らかの目的や思想があっての戦いというより、自らの死に場所を求めての流離に等しかった。
最後は五稜郭の戦いで戦死する。銃撃を受けての最後であったと伝わる。享年35歳。
「武士らしくあろうとした農民の戦いに明け暮れた生涯」であった。
Posted by ブクログ
-
幕末の英雄の一人、長州の「吉田松陰」と「高杉晋作」の師弟関係を描いた伝記漫画。
前半は「吉田松陰」を中心に描いていき、長州藩の置かれた状況。
当時の外国船が頻繁に来航する中で、危機意識が高まる世相を描いていき、
その中にあって全国各地を飛び回り国を守るためにどうすればいいのかを探し回る松蔭を語る。
...続きを読む
外国を倒すにはまず外国を知らねばならないと考えて
「ペリー艦隊に密航して、米国へ渡航しようとする」ほど直情的な松蔭は幕府から危険思想扱いされて投獄される。
自分の行動に何ら罪の意識を持っていない松蔭は、お調べの段階で老中暗殺を企んでいたことをベラベラと自ら話してしまい、処刑された。
跡を継ぐ形で、松蔭門下の弟子たちの活躍が始まる。晋作もその中の一人であった。
晋作もどちらかというと「直情型」の傾向が強く、長州の中では「過激派」と見なされて、「穏健派」の桂小五郎とは対極にあった。
けれど、無謀な事にはとことん反対する柔軟性も持ち合わせていたところから「単なる猪武者」ではない。
長州藩が御所の警備から追放されたことに怒って、京都へ攻め上ろうとしたときにも大反対。
後に初代内閣総理大臣になる伊藤博文は「高杉派」で、弟分のように付き従っていたらしい。
英国との戦いで長州藩が敗北した後の交渉の席で、領土である「彦島」を租借することが持ち出された際に、
晋作は「日本神話のイザナミノミコトの話」を持ち出して拒否。
日本の領土を掠め取られることを防いだ。後に通訳として同席した伊藤が苦笑してその際の事を話している。
土佐の坂本竜馬ともウマが合ったようで仲が良かった。けれど病魔が晋作の身体を蝕み、長州藩と幕府の戦いの最中、27歳の若さで病死する。
幕末の英雄は「戦死」「敗死」「自害」が圧倒的に多く、明治維新前の病死は「高杉晋作」くらいであろう。
維新を迎えてもこの男の奔放さである。
目次
第1章 寅次郎学ぶ
第2章 黒船来航
第3章 上海行
第4章 攘夷
第5章 おもしろきこともなき世をおもしろく…
Posted by ブクログ
-
色白でひよわなために「姫若子」とよばれた不遇な少年時代。
その姫若子が、初陣で手柄をあげるや、土佐を平定し、さらには四国を統一する!
しかし秀吉がよこした、四国攻めの圧倒的な大軍にはなすすべもなく、
結局、その軍門にくだることになる――。
自由奔放かつ破竹の勢いで動乱の世を疾走した四国の雄、長宗我
...続きを読む部元親。
夢半ばに終わった、その波乱の人生を描く。
戦国時代、全国的な騒乱は四国にも当然に及んでおり、土佐の国でも八家が入り乱れる群雄割拠の状態。
長宗我部氏はそのうちの一家でしたが、勢力としては最弱。
それを一躍躍進させたのが、元親の父・長宗我部国親になります。
元親はその国親の嫡子として生を享けますが、幼少の頃から「姫若子」とあだ名されるほど本ばかりを好み武芸をしないことで有名でした。
それ故か初陣も22歳と遅く、長宗我部家の将来を懸念されておりました。
ですが、その初陣で敵を次々と打ち破る大活躍。初陣の数か月後に病で父の国親が死去すると家督を相続して四国統一を目指す戦いに明け暮れます。
土佐は全土でも太閤検地で24万石とされるほどしか石高がなく、そういった意味で兵員動員能力には欠けるはずでした。
しかしそれを補ったのが「一領具足」という半農半兵制度です。
これは平時には農民として田畑を耕作していた者が戦の際には兵士として駆け付けるわけで、これにより領土の狭さの割には長宗我部家は大量の兵力を動員できたのです。
元親が家督を継いだ頃、中央では尾張の織田信長が桶狭間に今川義元を打ち破っており、元親はこの信長に妻の縁をつてに接近。
信長に嫡男の烏帽子親となってもらい、四国平定のお墨付きを得ます。
ですが、元親が四国平定を進め勢力を増すと信長はこれを危険視して約束を反故にし、四国一国のみで我慢するようにと申し渡して織田・長宗我部の両家の対立は深まります。
四国征伐の兵が準備できていた矢先、「本能寺の変」が起こり、信長は横死。織田家との対決は回避されました。
その隙を付いて元親は四国平定を急ぎますが、信長の後継者争いに名乗りを上げた羽柴秀吉と徳川家康との戦いにおいては家康に味方。
四国平定後に援軍を送るつもりだったのですが・・・・その前に家康と秀吉が政治的な和解をしてしまい、今度は単独で羽柴秀吉と戦わなければならなくなります。
中国の毛利氏もその頃には秀吉の傘下に入っており、四国の征伐軍は10万人にも及んでいました。
各地で打ち破られる長宗我部軍。敵わないと見た元親は降伏し土佐一国のみ安堵されて秀吉傘下に組み込まれます。
ですが、長宗我部家最大の不幸がその後の九州の「島津氏征伐」で発生します。
軍監である「仙石秀久」の無謀な戦略で元親の嫡子・信親が戦死してしまう。
期待されていた嫡男を失った元親の落胆は激しく、これが結果的に長宗我部家滅亡の引き金になってしまいます。
嫡男を失った元親は二男・三男を差し置いて四男の「盛親」を後継者に指名。反対する家臣団を粛清するなどしたため、長宗我部家の力は弱体化した。
元親自身は秀吉が亡くなった僅か1年後には病を得て亡くなる。享年62歳。奇しくも秀吉と同い年での没年であった。
その1年後、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発し、盛親は西軍に組したため土佐24万石を没収されてしまう。
盛親は当初は家康に組するつもりで使者を送ろうとしていたのだが、その使者が家康の元に辿り着けなかったため、西軍に加わるという態度。
しかも肝心の関ヶ原では毛利氏の後方に布陣していたため、動くことができないまま終戦を迎える。
何もしないで土佐一国を失ってしまったのだ。代わりに土佐24万石を山内一豊が得る。
盛親は大坂に潜伏して寺子屋の師匠などを務めて命を長らえ、大坂の陣で豊臣秀頼の要請に従って大坂城に入場。
そこそこ活躍したものの、落城後に捕えられて斬首され、ここに長宗我部家の嫡流は断絶した。
長宗我部家の勃興はそのまま「乱世の縮図」である。
成り上がることも難しいが、一度成り上がって獲得した領土・地位を守り通すことの難しさ。
嫡子・信親を失った後の長宗我部家のお家騒動が最終的な滅亡に繋がった。
その無念・恨みやいかばかりであっただろうか?土佐の「一領具足」たちも新領主・山内一豊に反抗して弾圧され、郷士という低い身分に落とされる。
郷士は山内家家臣の上士とは徹底的に差別され、憤懣やるかたなかった。
260年後の徳川末期、その蓄積された不満が爆発する形で土佐郷士の中から
・武知半平太
・坂本竜馬
らの英雄が飛び出して来るのである。長宗我部遺臣の無念の結実であろうか
Posted by ブクログ
-
聖徳太子の死後の話です。
聖徳太子生存中から権力を振るっていた蘇我氏の横暴は酷く、
聖徳太子の息子の山背大兄王も帝位に就けないまま、
蘇我入鹿に攻められ自刃した。
蘇我蝦夷・入鹿親子の横暴を苦々しく思っていたのが
舒明天皇と皇極天皇の息子・中大兄皇子。
秀才と名高い中臣鎌足と共に蘇我氏打倒の策略を
...続きを読む練る。
見事、蘇我入鹿を天皇の御前で打ち倒すことができた。
だが、
皇極天皇に代わって即位した孝徳天皇は軽んじられ、
周囲も中大兄皇子を天皇扱い。
孝謙天皇は失意のうちに病没する。
そして孝謙天皇の息子の有間皇子も謀反の疑いを掛けられて処刑された。
中大兄皇子はまるで蘇我入鹿のようになってしまう。
蘇我氏の帝を軽んじる振る舞いに激怒して兵を挙げたのに、
今度は自らが帝を軽んじだす矛盾。
違いは中大兄皇子は皇族だったというだけ。
その違いで蘇我氏のようには討たれなかった。
即位して独裁者となった中大兄皇子改め天智天皇は、
大化の改新で自身に協力してくれたものたちを攻め滅ぼしていく。
同じ蘇我氏でありながら入鹿に反旗を翻した
蘇我石川麻呂は乱の後に「右大臣」の地位を得て、
娘を中大兄皇子の正妻としていたのに讒言の末に自害してしまう。
しかも朝鮮半島では日本寄りの百済を支援するが、
白村江の戦いで大敗北を喫して、百済は滅亡。
唐の支援を受けた新羅は朝鮮半島統一後に日本に攻め込んでくるのでは?
危機に際して皇子は北九州の防備を固めた。
母親の斉明天皇が没した後に
ようやく即位できた中大兄皇子は「天智天皇」となるも、
豪族たちの不満をかわすために妥協を強いられ、
律令国家の成立には天皇の死後半世紀の時間を必要とした。
この頃の天皇はまだ「自らが武力を用いて戦う存在」。
「国家の象徴」ではない。
次代の「天武天皇」がその最後の時代。
以後は武士たちの登場で天皇は主役から脇役へと追いやられていくのであった。
Posted by ブクログ
-
鎖国体制が揺らぎ始めた幕末。外国の脅威から日本の未来を守るため、新たな時代を切り開いた勝海舟の生涯をまんがで徹底紹介!!
江戸幕府の幕引き役を務めた勝安房守の生涯を描いた漫画。
海舟が幕府の貧乏御家人の長男として生を受けたのは11代将軍・徳川家斉の御世。
子供が50人を超えたという家斉の世は8
...続きを読む代将軍・吉宗の時代の質素倹約・引き締め政策も薄れ、華美華奢な風情が勢いを取り戻していた。
なので幕府の権威も徐々に失墜しており、また海外から盛んに異国の船が日本に通商を求めて来航していたときだった。
海舟は剣術も免許皆伝、勉学も向上心が並ではなく、家が貧乏故にロクに本も買って勉強できなかったが、
オランダ語を学ぶ課程で幕府に意見書を提出するなどして上役に徐々に認められていくようになる。
やがてペリーが来航して日本は攘夷か開国かで騒然となる中、米国に幕府の使節団を派遣することになる。
海舟がその船・咸臨丸の艦長となったことが後の彼の人生を開かせた。
先進国の米国で様々なものを学び帰国した勝に14代将軍・徳川家茂は海軍操練所を作ることを命じる。
日本の未来を背負う多くの若者が集まり学んだ。土佐の坂本竜馬もその一人だった。
だが、時代は急変。御所に攻め込んだ長州の処分を巡って幕府内は二転三転紛糾する。
足並みの揃わない幕府に見切りを付けた海舟だが、謹慎中に起こった鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北。
官軍が江戸に攻め上ってくる中で、とうとう幕府の幕引き役として舞台に担ぎ出される。
官軍の参謀は面識のある西郷隆盛。海舟一世一代の直談判が始まる・・・・・・・・・・。
Posted by ブクログ
-
武田信玄は跡目を弟と争ったうえ、父を追放して跡を継いでいる、
上杉謙信も、兄を追い出したうえで、跡をついでいる。
山国の甲斐国の国主となった信玄は隣国の信濃国を攻め、これを領土とすることで自国を富ませようとした。
関東には北条家が南の駿河には今川家がおり、南進は強敵と干戈を交えねばならないため苦肉
...続きを読むの北進であっただろう。
問題は信濃国の村上義清・小笠原長時といった信玄に領土を奪われた旧領主たちが越後の上杉謙信を頼ったこと。
自らを毘沙門天の化身と信じる謙信に領土拡張の欲はなく、義のために関東管領職であった上杉家を継ぎ信玄・そして相模の北条氏康と干戈を交えた。
中国地方の毛利元就が一代で十か国を支配下に治めたのに比して、信玄は生涯を通しても甲斐・信濃・駿河の3国。
上杉・今川・北条という強国に挟まれた立地では、いずれかの国が勢力を衰えさせない限り、いずれは膠着状態の手詰まりになるのは時間の問題だった。
この辺りは大内氏・尼子氏の弱体化に上手く乗じた元就との差か。
謙信と空しい消耗戦を川中島に繰り返しているうちに尾張の織田信長が将軍・義昭を奉じて上洛を果たした。
その信長と義昭が不仲になると、信玄も謙信も反信長包囲網の中核と期待される。
駿河の今川家の弱体に乗じて南進が可能になり、ようやく上洛への道が開けたと思われた信玄も、
能登・越中の一向一揆に手を焼かされていた謙信も信長との決戦を前にして寿命が尽きてしまった。
Posted by ブクログ
-
理想の世を目指し、鎌倉幕府
打倒に挑み続けた不屈の天皇!!
武士の世に即位した後醍醐天皇は、
天皇中心の政治体制を築こうと、
鎌倉幕府に戦いを挑む。
何度失敗してもあきらめず、
信念を貫いた後醍醐天皇の人生を描く!
南北朝の騒乱の大元になったともいえる人物「後醍醐天皇」の伝記漫画。
鎌倉
...続きを読む時代末期。元寇以降幕府は弱体化し、世の中は乱れていた。
武士の世の中からかつてのような天皇親政の世の中にすることを願う後醍醐天皇は側近たちと謀議を重ねる。
けれど公家に武力はなく、また衰えたとはいえ未だ幕府の力は侮り難く討幕は容易ではなかった。
側近を各地に派遣して徐々に仲間を増やしていく天皇方だが・・その多くは「幕府に不満を持つ武士たち」である。
天皇親政の時代に戻すために武家政権を打倒そうとしているのに「同じ武士たちの力を借りる」。
ここにそもそもの矛盾があり、それが後々の建武親政の崩壊に繋がったのである。
討幕は叶ったものの、恩賞は公家や僧侶など何の手柄もないものたちに厚く、武家に薄かった。
これでは味方した武士たちの心が離れてしまうのも当然である。さらに御所造営費用などの名目で民の税金も上がった。
「天皇親政」は既に過去の時代の遺物と化しており、それを復活させるということは時代の流れに逆行する行為であった。
そこには「革新」はなく、旧例に復するのみであった。
尊氏たちによる武士政権の存続という折衷案を認められなかったことが、結局のところ「さらなる戦乱」を呼んでしまう。
「争い無き世を作る」ことが天皇親政の目的ではなかったのか?
それなら、既に目的は逸脱していた。天皇親政でなくとも「争い無き世は作れる」とは考えられなかったのか?
結局は天皇の我儘に過ぎず、その我儘のために天皇の子供や楠木正成・新田義貞等の多くの有能な武士たちが命を落とした。
「痛みを乗り越えてこそ新たな世が生まれる」と信じたであろう後醍醐天皇。
そこに「痛みを生まないようにするにはどうすればいいのか?」という視点は欠落していた。
Posted by ブクログ
-
秀吉の縁戚であったことがまず彼の出世の階段を駆け上るための足掛かりになった。
農民上がりの秀吉には譜代の家臣がおらず、数少ない親戚関係の加藤清正や福島正則は頼りになる存在であった。
秀吉の正室のねねとは親子も同然の間柄。福島正則とは生涯を通じての親友であった。
豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七
...続きを読む本槍の一人である。
各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。
秀吉没後は徳川氏の家臣となり、
関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。
賤ヶ岳の七本槍の一人として歴史の表舞台に飛び出した清正であるが、
彼が戦場を思う存分駆け回れたのは朝鮮出兵の頃が最後。
秀吉の死後は落ち目の豊臣家と天下を手中にしようとする徳川家康との間を取り持つために奔走することになる。
天下分け目の関ヶ原の戦いにおいても九州にあった清正は、三成憎しの思いから東軍に加担。
戦後は肥後一国52万国の太守となったが、結果的に家康の天下取りに大きく貢献したことになってしまう。
虎退治、賤ヶ岳七本槍―――
忠義を貫いた豪傑の生き様
秀吉配下の豪の者、民を思うこと深き内政の巧者、
そして熊本城築城の英雄。
さまざまな側面をのぞかせる加藤清正の一生涯とは―――
○もくじ
第一章 少年夜叉若 ・・・・・・3
第二章 秀吉と虎之助 ・・・・・・25
第三章 賤ヶ岳七本槍 ・・・・・・45
第四章 太閤の意思を継いで ・・・・・・85
加藤清正をもっとよく知るための基礎知識
解説 ・・・・・・103
豆知識 ・・・・・・113
加藤清正関連年表 ・・・・・・116
監修者より ・・・・・・126
Posted by ブクログ
-
水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれ、
御三卿・一橋家を相続した慶喜は、やがて将軍の跡継ぎ候補として名をあげられるようになるが……!?
黒船が来航し、尊皇攘夷論が吹き荒れる幕末。
弱体化した江戸幕府を支え、のちに外国の脅威から日本を守るため、
大政奉還して江戸幕府に終止符を打った、
日本史上最後の
...続きを読む征夷大将軍・徳川慶喜の激動の人生を描く!!
・初代「家康」創成期の功績
・三代「家光」安定期をもたらした功績
・八代「吉宗」転換期を迎えた体制を支えた功績
・十五代「慶喜」「源頼朝以来800年近くに渡って続いた武家政権の幕引き役」としての功績
徳川慶喜という人物に対する評価は難しいところがあります。
難しい状況の幕府を支え、大政奉還によって新しい国への道筋をつけた名君だったとも、
幕府の命運を尽きさせ、鳥羽伏見の戦で醜態を晒した暗君だったとも言われます。
ただ、将軍位を退くまでの仕事ぶりを見れば、歴代将軍の中でもずば抜けて高い実務能力を持っていたのは間違いないでしょう。
幕末の難しい状況を、最小限の犠牲で乗り切ったようにも思えます。
ところで、謹慎後の慶喜はどうしたでしょうか。
実は、早くも明治2(1869)年に謹慎を解かれています。
しかし、新政府に参加する希望はもはや抱いていなかったようで、
写真や狩猟といった趣味に暮らす日々を送りました。
1902年には公爵、貴族院議員にもなりました。
亡くなったのは1913年11月22日のことです。
■目次
第一章 水戸藩主の息子
第二章 禁門の変
第三章 大政奉還
第四章 鳥羽・伏見の戦いから江戸無血開城へ
第五章 明治の慶喜
解説/豆知識/年表/参考文献
Posted by ブクログ
-
家光と春日局は切っても切り離せない。
ただ、春日局の印象が強すぎて、家光の仕事の印象が薄くなってる館もあるなあ。
Posted by ブクログ
-
絵が今風(最近のレビューこればっか書いてるな^^;)。
ただ・・・初めて読む人にはちょっとピンとこない構成かも?
私はたまたま大河ドラマを観ていたのでなんとなく頭の中で補足情報をつけながら読めましたが、初めて知る子どもにはどうかな??
さらっと義経の生涯をなぞっただけのようにも見えます。
Posted by ブクログ
-
伊達政宗の伝記マンガ。
幼い頃にかかった疱瘡(天然痘)のために右目を失った、戦国時代の奥州の武将、伊達政宗。
父から期待をかけられ 若くして家督を譲られるも、実母からは毒殺されかかったり、お家安泰のために弟を成敗したりと、苦悩もある。
豊臣秀吉が天下を治めた頃には、まだ血気盛んで、自らが天下をとり
...続きを読むたかったとの野望があったため、秀吉からは目をつけられており、白装束や十字架を背負っての、歌舞いたアピールで伊達家を守ってきた。
なんだかんだで70才、徳川家光の世まで生き、伊達家は残ったのだから 力のある、魅力もある人物だったのだろう。
Posted by ブクログ