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Posted by ブクログ
大河から。ドラマだとイマイチどんな活躍をしていたかわからない羽柴秀長の、「補佐人」としての働きぶりが良くわかる。
兄、秀吉の補佐として、決して目立ちはしないが重要で、他の人が嫌がる仕事をする秀長。秀吉が外交や調略、出世争いや領土拡大をしている陰で、秀長は内部調整や兵糧の整備、敵陣に近い城の留守居をし、時に戦局を左右するほどの活躍をする。
秀吉もすごいが、秀長もまた常人ではできないことをやってのけたというのが良くわかる。
羽柴家は当初と天下統一後では人材の質も違ってきており、作者が例えたように「新興ベンチャーで最初からいるメンバーと新規メンバーの対立」のような状態だったと推察できる。そんな軋轢すらもよく調整した秀長の、地味かもしれないけど不可欠な仕事ぶりは非凡なものだったろう。
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豊臣秀吉の実弟にして補佐役を務めた豊臣秀長の人生を描いた歴史小説。とても面白かった。小説の書き手としての素晴らしさもさることながら、著者の歴史に対する丁寧な理解と豊臣秀長への愛着が伝わる的確な思考に触れ、「この人は日本史、豊臣秀長が本当に大好きなんだな」と思い、好印象を覚えた。
そして、豊臣秀長。数ある文献の中でも、その名が記されているものは少ないそう。それでも、その貴重な記載から浮かび上がる補佐役としての優秀さ、兄を支える影の存在に徹底し、面倒で厄介な仕事を粛々とこなす肝と力量。輝かしい実績を持つ人の裏には、いつもこういった人がいるんだろうなと、妙に納得してしまった。
好きな戦国武将(?)リストに、豊臣秀長の存在がしっかり刻み込まれました。
Posted by ブクログ
今大河ドラマを見ていて手に取ったが、読み進めてまず驚いたのは、40年前の小説でありながら、ドラマと構成や人物像がほぼ重なるという点だ。秀長という人物像が、時代を超えて普遍的に語られてきた証なのだろう。
兄・秀吉ががむしゃらに出世を目指す一方で、秀長は「兄をどう支えるか」を生きる軸に据える。家臣として、武士として、そして弟として、兄の成功のために自分がどう動くべきかを常に考え続ける。その姿勢は、まさに“名補佐役”の原点だ。
そしてこの本は、さすが堺屋太一、サラリーマン小説としても読める。
戦には金がかかり、兵站が必要で、傭兵をどう扱うかにはメリットとデメリットがある。中世から近世へ価値観が移り変わる時代にあって、秀長はその変化を理解し、補佐役として徹底して合理的に動く。
読んでいて、本田宗一郎や盛田昭夫といった立志伝の偉人たちを思い出した。彼らの背後にも、きっと秀長のような補佐役がいたのだろうと想像させられて面白かった。
Posted by ブクログ
26.1.~NHK 大河ドラマ 「豊臣兄弟」主人公秀長
竹阿弥(ちくあみ)は、戦国時代の人物。通説では太閤豊臣秀吉(藤吉郎)の生母仲(大政所)の再婚相手(秀吉の継父)で、小一郎(豊臣秀長)と旭(駿河御前)の実父とされている
通説では、「この人」の母親、同郡御器所村生れの「なか」が、ここ中村の百姓、弥右衛門に嫁ぎ一男一女を生んだが、弥右衛門が死んだので、近くにいた竹阿弥を入婿として迎え、さらに一男一女を儲けた、ということになっている。はじめの夫、弥右衛門の子がのちの太閤秀吉とその姉「とも」であり、あとの夫との間にできたのが、「この人」──のちの大和大納言秀長と妹の旭姫だという。つまり、秀吉と「この人」とは異父同腹の兄弟というのである。
農地・農業から切り離された専業の武士というものができてまだ間が無い。というより、織田の若殿・信長様が考え出した面妖な制度なのだ。
五月十九日の午後に、三河の桶狭間という所で休憩していた今川義元を、織田の若殿・信長様が急襲し、討ち取ってしまった、というのである。
今川義元の死後自立した松平元康、のちの徳川家康が織田家と同盟を結ぶために清洲を訪れた(永禄五年正月十五日と伝えられる)のと同じ頃、ということになる。
「奇特なる御巧」 と表現している。戦国大名のほとんどが、たとえ不便でも本拠地から動けなかったのに、織田信長だけが、岐阜に、安土にと本拠を移し、天下取りに先駆けたはじまりは、実にこの小牧移転の成功にある。
最早信長は、土豪連合の長ではなく、完全な尾張一国の領主、いわば「小さな独裁君主」となったのである。
兄・藤吉郎が竹中半兵衛に目をつけたのもこのためだ。つまり、半兵衛は「手段」であり、「目的」は安藤伊賀守ら西美濃三人衆といわれる有力豪族の方だ。
仏教と儒教の主な違いは、目的と視点にあります。仏教はインド発祥で、個人の「苦しみからの解放(悟り)」と死後の救済を目指す宗教ですが、儒教は中国発祥で、孔子が説いた倫理・道徳を重視し、現世での秩序や正しい人間関係(仁・義・礼)を追求する思想・学問です。
永禄・元亀のこの当時、他の主要な大名──越前の朝倉、甲斐の武田、越後の上杉、関東の北条、中国の毛利ら──の軍はまだ、半農半武の土着農民兵を主体としていた。高位の部将たちも総て各郷村の豪族である。
木下藤吉郎秀吉は遂に大名にまでなった。これを祝して秀吉は姓を変えた。木下を捨て、羽柴を名乗ったのである。この度、織田家の筆頭家老となった柴田、丹羽両将の姓から一字ずつ頂戴したのだ。
当然、秀吉の弟、小一郎の姓も羽柴に変った。これ以後この人は、羽柴小一郎秀長を名乗るのである。
〈俺は、兄の補佐役、羽柴の第二位者だ。決して兄の後継者になることを望みはせぬ〉と。
天正六年(一五七八)、この時期まで生き残り、大を成していた勢力は次の七つである。
南九州五カ国を獲得しつつあった薩摩の島津家、四国一島の大部分を攻め取った土佐の長宗我部家、中国十一カ国に勢力を張り出した安芸の毛利家、甲信駿三カ国を持つ甲斐の武田家、北陸三カ国と上野の一部を抑えた越後の上杉家、南関東六カ国をまとめた相模の北条家、そして畿内と濃尾地方を中心に十四カ国余を支配した織田家である。
「本能寺の変」
天正十年(一五八二)六月二日未明、織田信長は、明智光秀によって弑逆された。そしてその直後、信長の嫡子・信忠も、明智の大軍に囲まれて二条御所で死んだ。
その明智光秀も、六月十四日の中には死んでいた。山崎の合戦に敗れたあと、本拠の近江坂本城に逃げ帰ろうとする途上で、落武者狩りの土民の竹槍にかかって落命してしまったのだ。享年五十五歳、
「信孝殿こそ織田家の跡取り。京は勿論、山城、丹波、河内も信孝殿にお返ししろ」
織田家中は真二つに割れた。一方は羽柴秀吉とこれに与する丹羽長秀、池田恒興、堀秀政および旧明智組下の筒井順慶、細川藤孝、中川清秀、高山右近らである。他方は、織田家宿老筆頭の柴田勝家と神流川の戦いで北条に敗れて宿老の席からはずされた滝川一益、そして美濃一国を得た信長の三男・神戸信孝の三者連合である。
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賤ケ岳の戦い】秀吉vs勝家! 織田家継承はどちらの手に…? | 戦国 ...
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いは、1583年(天正11年)に織田信長亡き後の主導権をめぐり、羽柴秀吉と柴田勝家が近江国(現在の滋賀県長浜市)で争った決戦です。秀吉は「美濃の大返し」という電撃的な軍の移動と、加藤清正・福島正則ら「賤ヶ岳の七本槍」の活躍により勝利。敗れた勝家は北ノ庄城で自害し、秀吉の天下統一が確実なものとなりました
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世に名将・名参謀と呼ばれる人物は数多いが、名補佐役はきわめて少ない――。激動の戦国時代、尾張の貧しい農民の出でありながら、野心家の兄・秀吉を天下人たらしめ、自らも“大和大納言”と呼ばれるまでにのぼりつめた男・豊臣秀長。この人なしに、秀吉は天下人になれなかったと言われる。本書は、卓越した実務能力と抜群の調整力、非凡な統治能力で、脆弱な豊臣家の体制を支え続けた、日本史上屈指のナンバー2と呼ばれる男の生涯を丹念に描く歴史巨編。昭和の大ベストセラーを全一冊にまとめた決定版。
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