Posted by ブクログ
2020年01月29日
発売と同時に購入。
たもさん著『カルト宗教やめました』
エホバではないが、私自身十代と二十代前半はカルトに所属していたことがあり、
半分は、誰にも言えない、分かってもらえない葛藤に費やされていた。
集まっていた青少年たちは、私たちと何も変わらない純朴で素敵な人々で、
つまり、今この記事を読んで...続きを読むいるあなたが居ても全く違和感がない。
キャンプファイヤーを囲んで歌い、涙ながらに本音を話し合い、全国の同じ信仰を持った仲間と交流し、絆ができ、楽しく幸せな感覚で、魂が美しくなったような、
ああこんな人たちになりたいと思っていた。
こういう幸福も分かってもらえないが、
そういう幸福が埋め込められているからこそ、
自分の主体性が自分でないものに強制され、誰かの都合の良い道具としかみられておらず、
それを「立派な信仰」とされる現場の気持ち悪い恐ろしさも分かってはもらえない。
また、奇妙なことに、
思い通りにならないと癇癪を起こし子どもを怒鳴って叩き、外ではニコニコ優しい良妻賢母を演じるような、
それらのカルト宗教の話に出てくる母親像と、
うちの母が不思議と被るのである。
その時の体験を書いたものが、四千円でも売れたりするのだから、
人間の他人の珍しい大変さを覗きみたい欲求は、「成功や幸福のためのハウツー」なんかよりもよっぽど強い。
Twitter界隈でも、「アンチ」「信者」が集まり、上手いこと結託して、
一方では、教団の異常性を世に訴えかけ、一方ではアンチの心根をこき下ろし、教団がいかに素晴らしいかをアピールし、、、。
私がそういう問題に口出しをしないのは、
「もうこれ以上巻き込まれたくないから」
「私が叫びをあげることで周りにいる人を不快にさせたくない」
「誰も分かってはくれない。受け止められる人はいないだろう。」
「必然的に、特定の宗教の批判につながり穏やかではいられない」
という理由もあるし、
そして、現在、「さほどの脅威でない」「もうどうでもいいや」と思っているので、
記事が流れてきても人ごとでスルーしているのだが、、、
宗教二世というのは、マイノリティのニッチな世界だと思っていたのが
「五万部突破」という帯を見る限り、「めっちゃバズってる」。
伝統宗教が、「立派な教え」を言っても、一部の真面目な人だけ丁寧に読んで、後はそこまで広がりはしないだろう。
「毒親」「発達障害」などというキーワード同様、
実は潜在的に、「カルト宗教」に対するニーズのポテンシャルは大きいのではないか。
それまでマイノリティで日陰で人に言えず閉鎖的空間の中、
苦しんできた人たちが表に出て、大声で自分を表現できる。
教祖の息子がYouTubeで内部告発し、教団と裁判合戦。
属していた組織で、
そしてそれが濃密で閉鎖的で絶対的であればあるほど、
そこから出た時の辛さ、
そしてそれを批判して、組織から返ってくる攻撃ほど引き裂かれるようなものはない。
「地獄に落ちる」「悪魔」「嘘つき」とレッテルをはられ、
「あなたに問題がある」「魂が腐っている」と次から次へと暴言を吐かれ、
しかもそれを、「あなたを愛しているから」などとのたまう。
個人が、その人としての尊厳を持って尊重されず、
そこで語られる「愛」も「反省」という美しい言葉も、コントロールのための都合の良い道具。
キリスト教が歴史の中で「異端」を選り分けてそれらと戦ってきたことにも、排他的独善的なレッテル貼りがなかったとは言えないが、
こうした、人間の霊魂を厳格さと恐怖で支配する危険性を認識していたからだろう。
無論時代の中で教会そのものが巨大なカルト化していたこともあったが。
こうした問題を扱う際に必要なリテラシーは、
「単なる悪口」「ゴシップ」でなく、本質をついた人間論だろう。
週刊誌や本、YouTubeでの情報には単にアクセス数や話題集めのためのような憶測とレッテル貼りのストライクゾーンからずれたものが多々見られるが、
そんなものは、誤解であればあるほど、教団を正しいとつけ上がらせ、団結させ、
被害にあっている人からしたら慰めにも薬にもならないばかりか、
「自分たちのことは見てくれてない」と落胆するばかりだ。
信教の自由は保障されなくてはならないし、尊重されねばならないが、
問題になってくるのは、「基本的人権」の保障である。
これも単純なようで居て難しい問題で、
仮に、外で爆弾がバンバン落ちてきたり、ターミネーターが襲ってきたり、津波が押し寄せてくる現場において、
親は子どもを「基本的人権を尊重して」普通に学校に行かせはしないだろう。
ホラーやパニック映画では、カタストロフィから生き延び大切な人を守るため、
バットで人を殴りつけ、自転車を窃盗し、銃を乱射し、トラックで民家に突っ込み、
あらゆる犯罪や暴力が英雄的な行為として描かれる。
狂っていることが正常で、正常であることが狂っているのだ。
つまり、人間の合意によって法律で定められた普遍的原理よりも、
絶対神の啓示する未来の方に行動の原則が置かれる。
オウムだって、最終戦争が起こると本気で信じて、
それが殺人罪になることくらいわかって善意でポアをした結果、
日本国の法律によって裁かれた。
破壊的カルトにおいては、「価値観の違い」なんていう生温いものでない、社会よりもはるかに上位の差し迫ったカタストロフィのビジョンがありありと刷り込まれている。
そのため、その上位のビジョンのためであれば詐欺も窃盗も殺人も「世界を守るためには仕方がない」と正当化されうる。
その反動で、
「もう宗教は懲り懲りです」と、世俗に完全に一致して慎ましく生活する人もいれば、
しっかりした宗教のうちで信仰を持ち直す人もいる。
(それでも、洗礼を受けるのにとても恐れがあったと言う)
それにしても、エホバは組織としてこの本を訴えないのだろうか、もしくはHPや組織の貼り紙で禁書令を敷いたりしないのか、気になるところである。
うちではわずか少しの批判でもあれば鬼の首を取ったように恫喝し訴えてくる。
健全な組織の一つの指標があると思う。
「問題があるかないか」よりも、
「問題を告白できるかどうか」。
「問題のない」組織や人の集まりは無論存在しない。
『二人のローマ教皇』の映画を観たが、
フランシスコも、後輩の司祭を死なせ、
ベネディクトも、司祭虐待の隠蔽に加担した。
組織の暗部や問題を、勇気を持って内側から晒すことのできる組織は、美しい。
卑屈になってなんでも「私が悪うございました、私は罪人、人間の屑でごぜえます。正しいのはあなた様でございます。」と、屈服せよと言っているわけではない。
「罪人の自分には生きている価値はない」とその場で自分をひたすらに責め、絶望するのでもない。
そうではない。
必要なのは痛悔と心からの償いと決意だ。
そこには、やはり運命全体に対する、赦しを信じる勇気ある決断が必要で、
この決断だけが私たちの自分では克服できない罪を洗い流してくれる。
どれほど倫理的に真面目に見えても、
「私は潔白です。悪いのは周りや誰それです。」
と自らをやたら正当化するところは傲慢とも言える。
そして、そこに本当の意味での安心や喜び、心の安らぎはない。
自分が自分であれることを喜ぶことができない。
人祖が楽園から追放された(自ら出る羽目になった)のも、
「自分を正当化して、他者に責任転嫁した」からだ。
素直に謝ることができない。
自分の過ちが許されないと思って、他者を裁き出す。
いつのまにか、自分が神になる。
生きている限り、私たち全員にその自己保身の傾向性は根深くある。
カルトの問題は、どうも、人類根源の罪に根っこがあるような気がするのだがどうだろう。