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Posted by ブクログ
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漱石日記、日記というより一日一日ツイッターのつぶやき並みに短い文章なんだけどw漱石今生きてたらツイッター廃人だと思う。
1.ロンドン留学日記(明治33年9月~34年11月)
2.『それから』日記(明治42年5月~8月)
3.満韓紀行日記(明治42年9月~10月)
4.修善寺大患日記(明治43年8月~10月)
5.明治の終焉日記(明治45年6月~大正元年8月)
6.大正三年家庭日記(大正3年10月~12月)
7.大正五年最終日記(大正5年4月~7月)
五月九日(木)
TootingCommon に行く。読書。夜、池田氏と英文学の話をなす。同氏はすこぶる多読の人なり。
九月九日(木) 晴。民政署より電話。旅順へ何時来るかという。 朝食の後、読書室にて橋本氏と談話。 十二時散歩。一時午餐。俣野と出づ。
この『それから』日記を見てもわかることだが、漱石の接触する 人間の多さには驚くばかりである。家族・門下生・知友・編集者は 言うまでもなく、見知らぬ人からもよく来信・訪問・贈品等があ り、明治三十九年十月ごろから木曜午後三時からを面会日と定めた
Posted by ブクログ
多分もう1年以上前に買って、他の本を読む合間合間に繋ぎとしてちびちび読んでいた。日記文学はこう言うところが良い。
初っ端から「夜、下痢す。」である。ロンドン留学へ船で旅立って2日目、1ページ目から、だ。いきなり面白い。下痢と、食べ物のことと、お金のこと。
ヴィクトリア女王が亡くなった際ちょうどロンドンにいたので、葬式見物に行くが人混みが凄すぎて見えない。ハイドパークの「園内の樹木皆人の実を結ぶ。」ほどで、下宿先の「宿の主人、余を肩車に乗せてくれたり。」に笑える。
修善寺での日記は痛ましい。ついに「吐血五百ガラム」の後、「皆朝までもたぬ者と思う。」と、奥さんが代筆した。ただ、その後回復していくにつれ、また食べ物のこと。
明治天皇に対する不満。天子重体の報により次々と催し事や営業の自粛が相次ぐ。まだ死んでもいないのに、営業が天子の病気に害をなすわけでもないのに、と。
妻への不満。かなり口の悪い書き振り。「ベラ棒め、」おお!江戸っ子の口上だ!「癪に障る」とか、「断じて許さない」とか「糞でも食らえという気で」とか。下女に対する不満とか。現代なら絶対に書けない差別用語とか。
神経質で気が強いのか弱いのか、不平不満に満ちあふれた日記はとても人間みがあって楽しかった。
発表当時は問題もあったようなことが解説に書かれていたが、この日記に登場する人物が全てもうこの世にいない今となっては、1000円札の文豪の普段着の生活が読み取れるのは楽しい時間だった。
Posted by ブクログ
漱石は作品のほかに膨大な日記・その断片を残している。ロンドン留学時の日記・「それから」連載中の日記・修善寺大患時の日記・明治の終焉時の日記など、七篇の日記を収録。
日記ってそもそも誰かに読まれることを想定されて書かれているものじゃないと思うので、いざ読もうと思っても結構難しかった。特に最初は文語文体っぽいもので書かれているので一苦労。倫敦の日記が一番読みものとしては面白いかも。満韓紀行記はよくわかんなくてほとんどスルーする感じで読んでしまいましたワ。すみません。
修善寺の日記は「思い出すこと」の補完的な要素もある感じがした。いやしかし文章にしてみると相当漱石弱ってたんだなあとしみじみしました。ひどかったのね、よくぞ生き返ってくれた。
しっかし大正三年の家庭日記は鏡子夫人や下女への文句が辛辣過ぎてかなり鬱になりましたはい。でもこれらの漱石の負の面を小宮たちが隠してたのはもっと嫌。そりゃ小宮からすれば偉大な先生だったんだろうし病的な部分全部隠して讃えたかったんだろうど、本当のことを伝えるのも大事だと思う。だから私は鏡子夫人の言葉や次男の伸六氏の言葉の方を信じます。
大正五年の晩年日記は最後の方は植物の描写に終始してて何となくわびしい感じがしました。これで日記が終わるっていうのが何とももの悲しいです。
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